043 : 遠浅



「ねえ。もう、戻ろう?」
 私がそう声をかけると彼は足を止めてちらりとふり返り、もう少し、と微笑むように言って再び歩き出した。
 もう何回目だろう。
 どこまで行っても膝より深くならない遠浅の海には私たちしかおらず、時折膝上を撫でられて思い出す穏やかすぎる波の存在に、不安は少しずつ募ってゆく。
 今から岸に戻るのさえ、かなりの距離を歩くことになるのに。どこにも座って休める場所はなくて、もちろんこの浅い海に座り込めばよいだけのことかもしれないけれど、寒くないからといっても、服をすっかり濡らしてしまうというのは、嫌で。
 立ち止まった私に彼は気づこうとせず、いったい何が気に入ったのか気になるのか、遠浅の海を沖に向って歩いている。
 何も、海と空の他には見えないのに。
 俯き見た、信じがたいほど透き通った水の中にはまだ、貝や魚の姿ひとつありはせず。ただいかにもさらさらとした砂の感触が、踏み歩く素足に心地よくはあった。
 決して冷たくない海水は、どこか浸された足を抱きこむかのようで。代わり映えせぬ風景やどこまでも単調にくり返す波とあいまって、逆らいがたくまどろみを誘う。
 疲れた、と思い切って身を横たえるには、それでもいささか深く。ふわふわと彷徨いがちな意識と同様に、身の置き所が定まらない。
 ほんの少し足を速めて、遠くなってしまった彼の背中を追った。
 進むほどに水が足に縋りつき、少しずつ疲れを溜めるような気がするのに、前を行く人にそれは何の影響も無いように見えて。わずかも緩まぬその足どりが羨ましいような、悲しいような。
 ようやく追いついたところで彼は足を止めることもなく、ふり向くこともせずまっすぐに、空と海とを分かって緩やかに弧を描いている沖へ歩き続けるだけだった。そういえば初め海に入る時には、手を引いてくれたのではなかったか。いったい何時、放してしまったのだろう。
 どうして私は背中を追いかけるだけで、もう一度、彼の手を掴もうとしないのだろう。
「ねえ。戻ろう?」
 私がそう声をかけるとようやく彼は足を止めてちらりとふり返り、もう少しだけ、と滲むような微笑を浮かべて、再び歩き出す。
 この遠浅の海はいったい何処まで続くのだろうか。


 ああでも。
 空を仰ぎ見て思う。
 そもそもここはいったい何処なのだろう。
 私たちはいつからこうして歩いているのだったろう。
 雲ひとつ浮かばぬ翳りない空はぺったりと青の一色。
 太陽は。
 一度も姿を現してはいないのだ。


(2003.3.29)






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