花 の 影






「おはようございます、お師さま」
 長い間病みつき臥せっている師が深い眠りから覚めたのは四日ぶりのことで、一昨日はまだ蕾ばかりだった庭の枝垂れ桜の枝の半ばがすでに花に飾られてい た。
 或いはもう目覚めぬかもしれないと疑っていたのだけれど、声をかけると師はここしばらくなかったほどはっきりと力のある眼差しをボクに向け、おはようと 応えてくれた。
「桜は、咲いてしまったかね」
「やっと半分ほど。これからです」
 喉が渇いているせいだろうか、師の声は日向の土塊のようにひび割れていた。かつての深い響きはどこにもない。だが師は気にしたふうもなく、そうかと頷い た。
 喉湿しの湯冷ましをお持ちして一匙、二匙と口元に運ぶ間を埋めるように、沈黙が落ちた。
 心地よい午後だった。寝台の脇の窓もすっかり開けており、その窓からは桜の木がよく見えた。自力で頭を持ち上げることさえできぬほどに弱った師には、少 し難しかったけれど。
 迷いながらも、なるべく負担にならぬように起こしてさしあげようかとボクが口を開きかけたちょうどその時、師の掠れた声が聞こえた。
「さて、手を貸してもらおうか」



 物を運ぶための魔法を習ったのは、師の下で学び始めたごく最初の頃だったと思う。
 それは初歩の魔法だとか習得が簡単だという理由からではなく、もっと単純に日々の生活の中で最も必要だったからだろう。何しろ人里を離れての二人住まい で、薪を集めるにも水を汲んでくるにも人手は二人きり、しかもその頃のボクは今の自分から見ても幼く非力だったし、師はすでに老齢にさしかかっていた。
 自分の手や身体を使ってできることには極力魔法を使わないのが師の方針だが、さすがに生活に支障が出かねなかったため、手にした物を軽く運びやすくする 魔法に関してはボクが充分育つまで日々の利用を許してくれたのだ。
 お陰で今こうして師を外に運び出すにも、勿論気を使いはするがさほど不安を感じることなく使いこなすことができる。
 手を貸すというのが身体を起すことではなく外に出ることだと知った瞬間は、思わず絶句した。珍しく調子が良さそうなのは確かだけれど、それはここしばら くと比較しての話であって、決して回復したわけではないのだ。むしろこの数日昏睡状態にあったことで身体機能はかなり衰えているのは間違いない。
 ボクはうろたえながら何とか言葉を費やして説得しようとしたものの、師の沈黙の雄弁さには結局かなわなかった。
 寝台は窓から出すにも戸口から出すにも大きすぎた。ボクは師の身体を敷布ごとかかえこんで呪文を唱えると、絶対に負担が掛からぬよう注意をはらいながら 抱き上げた。
 腰をかがめて扉をくぐる。外に出ると春の陽と風がボクたちをやわらかに包んだ。ゆっくりと桜の木に向かって歩きながら、腕の中の身体のあまりの軽さに涙 が出そうになった。魔法を使わなくとも楽に運べてしまったに違いない、そんな軽さに。
 木の下には根が張り出してでこぼこしていた。ぐるりと幹の周りを一周して土のやわらかな場所をさがし、そっと師を下ろした。木の幹があつらえたような形 で師の背中を受けとめ、花枝が陽射しをほどよく遮る。師は伏せていた瞼をゆるりと上げ、地に触れそうなほど垂れた枝に咲いた花を見つめると、ほうっとため 息をついた。
「……よい香りだ……」
 師の指がほんの少し動いた。本当は腕を持ち上げて花に触れたかったのだろう。もうそれだけの力も無いのかと思うと、もどかしくてしかたなかった。
「お師さま、どうしていけないのですか?」
「なんだい?」
「命を延ばす魔法を教えてくださいっ。すぐにおぼえます、もっと何度も桜を見ることができます!」
 ボクの懇願を受け止める師の眼差しには、静謐さのみがあった。くしゃりとボクは顔を歪めた。イヤだ。
「……ならぬ」
「お師さま!!」
 ずっとこうだった。
 師の病が快復の見込めぬ死病だとわかった時から、ボクは師に延命の呪文を教えて欲しいと何度訴えただろう。けれど師はそれだけは決して教えてくれなかっ た。ボク自身自力で書斎に詰めこまれた膨大な呪文書を手当たり次第に調べたけれど、そこにも求めるものはなかった。
 延命の呪文にほんの少しでも関わりがありそうな部分はどれも破りとられ、しかもそれはずっと昔に行われたことのようだった。
「…………どうして……っ」
 今はもう遠く去ったあの日、ボクは死んだ両親の傍らで泣くことしかできずにいた。そんな子どもを拾い上げ、戦の絶えない故国から連れ出し、弟子として魔 法を教えてくれた。
 だのにまだボクはこうして手をこまねいているしかないのだ。
 師であり、家族だった。失いたくないたった一人の家族なのに、死を遠ざける手立てが在るはずなのに、何故教えてもらえないのか。
 言葉を見失い、ぎゅうとやわらかに伸び始めたばかりの草を握り締めて俯いたボクは、その声を聞きそこなうところだった。
「……むかぁし。内戦続きの、荒れた国だった」
 掠れてしまった師の声が、語る。見れば、細められた目が桜を、その枝の透き間から見える空を見つめている。
「街の隅に投げ捨てられた私は、貴族の邸宅から逃げ出す途中の師匠に、たまたま気づいてもらって、命拾いしたのさ。旅をした、しつこく頼んで弟子入りし て、一人前だと認められた後も、師匠の後を追っかけて。楽しかったなあ」
 やわらかなため息、そして少しの沈黙。次に語りだした時、その声は翳っていた。
「今は無くなった国で、高い報酬で雇われ、口封じに命を狙われた。よくあることだったが、……運悪く師匠が深手を負った。ようやく逃げきった時には、手の 施しようがなかった」
 思わず息を止めた。
「冷たくなっていくのが、耐えられなかった。命を呼び戻そうと、禁じられていた呪文を口にして……師匠の身体は消え失せ、桜が枝を広げていた」
「……桜?」
 花枝がゆれた、風もないのに。ボクの疑問に応えたように桜は、朝からの好天に促されて次々に花開きながら、師の上にゆれた。
「多くの国を巡り、ありったけの文献を調べた。だが、解呪すれば命失われた師の姿を見るのではないかと思い、或いは命あっても長く人ならぬ姿に縛りつけら れた苦しみを知らされるかと、……詠唱すらできず、もう離れることも、近づくこともできぬまま……これほどに、老いた」
 皺に埋もれた師の目から涙が零れた。ひとつ、またひとつと涙が頬をすべり落ちてゆく。
「おまえは、こんな後悔など、せずともよい」
「………………はい」
 言葉にならぬものも一緒に飲みこんで、ボクは頷いた。これまでボクが請うほどに、師は昔の自分をそこに見ていたに違いない。どれだけ自分自身を責めただ ろう。
 ふわりと師の頬の近くで花がゆれ、涙に濡れた。まるで悲しみごと拭い取ろうとしているかのよう。薄紅色の袖で包み抱きしめるかのよう。
 気づけば陽はぐっと傾いていた。桜は一際色を深めて枝を花で飾ってゆく。懐に師を抱えたまま。
「お師さま、お聞きしてもいいですか?」
 花の外でボクは口を開いた。
「ああ、かまわぬよ」
「もしも、お師さまが桜の木になって、この先の私のことをずっと見てゆくことになったとしたら、お師さまはどう思うのでしょう」
 師は目を瞠った。花の外にいるボクを見つめ、それから花を見上げ、またボクを見やり、皺だらけの頬へさらに深く皺を刻んだ。
 やさしい微笑みだった。
「…………おまえは良い子だな。幸せだな、私は……」
 囁くように師は言い、また瞼を伏せた。陽は更に傾き、花は次々にほころんでゆく。
「お師さま。…………お師さま」
 返事は返らない。
 師は眠っていた。
 花枝の向こうに垣間見えたのは、とてもとても穏やかな寝顔だった。




《了》



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