Paradise Bird






 ―― さくり。
 足もとで雪が潰れる。さく、さく、……さく。
 一足ごとに、靴につけた幅の広い雪用装具が微かな音をたてて軋み、深く積もった雪に足が沈むのをかろうじて防ぎ、支えてくれる。
 通い慣れた道だった。雪があろうがなかろうがその事実は変わらない。単純に歩きにくいだけで、今さら迷うことはない。葉の落ちた木々は色を失い、時折の 風に身震いしては梢から氷を揺すり落とす。積雪で他の季節とは様相のまるで違ったその上り坂を、男は慎重な足取りで淡々と、進んでいた。
 風が急に強くなり、男は高く立った吹き山に身体を寄せて足を止めた。見上げた空は重く、無数の薄片が時に激しく、或いはまばらになりながら絶えもせずは らりはらりと風に流れて世界を満たしてゆく。
 暗い。
 目に見えるもののほとんどが白一色で覆われているのに、眩しいほどなのにどこまでも暗く、色が無い世界だ。
 両手で口元を庇いながら吐かれた男の息も、たちまち雪片に紛れた。その行方を追うでもなく男は空に向けた視線をおろし、再び濃淡に乏しい雪の中を歩き始 めた。

* * *


 この冬は、おかしなほどに雪が早くまた多かった。
 だが半年村を離れていた男が帰り着いた時に、村が文字通り雪に埋もれていたのは、そのせいだけではなかった。
(まだ雪が、降る前に帰った時なぁ)
 奇妙なことがあったのだと、不在の間の村のことを教えてくれたのは、隣村に嫁いでいた知り合いの女性だ。
(夜にいきなり出て行く人が、おったんよ。声が聞こえる、て)
 同時に同じ声が聞こえた者も、すぐ隣にいて聞こえぬ者もいたという。ただ誘われるように外に出て、後になってみればどうして自分がそうしたかの理由を答 えられた者はいなかった。大人に子ども、男も女も問わずにそんな奇妙な事が続いていたため、特に夜には戸や窓を閉めきるように心がけていたのだという話 に、彼は静かに耳を傾け、問い返した。
(帰ってこなかったのも、いたか?)
(……後になって、捜索に出たって話があったよ。けど雪が降ってしばらくの頃からぱたっと、誰もこっちの村に顔を出さんようになったん)
 確かに、雪が降れば村から出る機会は減る。雪の積もった道を歩くのは面倒だし、危険でもある。けれど全く連絡が途絶えるのもやはりおかしい。冬篭りの間 に不足するものは少なからずあるのだから、特に雪の降り始めには、足りなくなりそうなものを補おうと却って互いに行き来が激しくなるのが例年のことなの だ。
 ここまで雪が多くなければ様子を見に行く者もあったろう。だがこの冬はおかしなほどに雪が早く、また困惑するほどに多かった。日々自分たちの生活の不便 を解消するのが精一杯で、他の村の様子まで窺う余裕は無く。
 だから、半年ぶりに戻った男の疑問に答えを与えられる者は、いなかったのだ。


 村へ帰ろうとした男が目にしたのは、一筋の踏み跡もない、村境からの道だった。道を外れぬよう道の縁を示すために毎年のように準備されていた多くの木杭 が一本も、有るべき場所に据えられていない、平らかな雪面が広がっていた。毎年の雪に慣れたこの地方の村としてはありえない事態だ。
 そして通常の倍も時間をかけてたどり着いた村は、完全に雪に埋もれていた。
 屋根の雪は積もるがまま、しかもすでにかなりの量が屋根から落ち、積み重なり、それ以上は滑り落ちることさえできない有様だ。遠くからでは、雪の丘がい くつも並んでいるようにしか見えなかった。
 何よりも異変を、この村に起きた怪事の存在を示していたのは、それら雪に埋もれた家々のいくつかの入り口だった。
 開いているのだ。扉が。
 この真冬に、例年に倍する雪の中に、開け放たれたままに放り置かれていたのだ。
 いったいどれほど前にそれは起こったのか、雪は扉の内に雪崩れ落ち、また吹き込んで屋内までもすっかりと満たしていた。
 家の戸が入り口として使えるよう雪を除けてある家は無かった。ただの一軒でさえ、煙突から煙を出している家はなかった。声を張り上げて呼んだところで、 人の姿は現れなかった。
 その夜。何とか自宅に這い込み、やはり両親の姿がない冷え切った室内に火を焚いて彼は一人、待っていた。
 何かが、起こることを。
 そして。

* * *


 ―― さくり。
 ささやかであれ、勾配がつけば雪道はいきなり歩きにくくなる。躓き倒れ込むように転び、雪まみれになって起き上がるということを何度もくり返し、目的の 場所にすぐそことまで近づいたのは、昼をかなり過ぎた頃あいか。太陽は雲の向こうに隠れており、時刻の見当をつけることさえままならず、陽が暮れる前に着 くことができてよかったとだけ思う。
 立ち止まるとたちまち汗が冷えた。舌打ちしながらゆっくりと足を進め、やがて緩やかな丘の頂上にたどり着く。
 先は、穴だ。
 緩やかな下りの斜面の先に、この冬の豪雪にも埋もれることなく、村の広場ほども広さがある大きな穴が地面の底を抜いたようにぽっかりと口を開けていた。
 彼はそこで足を止めた。さすがに穴の縁まで雪で埋もれている。頻繁にとはとてもいかなかったが、雪の降る季節に訪れたことは一度ならずあった。しかし、 これほどに深く積もった時期に来たことはさすがにないのだ。
 降り口はある。内側の広さに比べて口がすぼまったひどく中に降りにくい形状の穴の周囲に一か所だけ、土砂崩れか何かで崩落したのか、他よりはまだ都合の いい状態の場所がある。だが。
 白い溜息を吐いて、彼はいくらか距離をとりつつ穴の周囲を歩き、記憶を頼りにその場所を探した。
 雪が無くとも慣れぬ人間の目にはわかりづらい。何しろ意図的に隠してもいたのだが、常から丈の高い草に隠れている上に、かろうじて階段のような足場を刻 んだだけのものだから。それさえもともとは子どもの時分に彼自身が踏みつけるように作ったのだ。手直しを加えたところで、当然のことながら小さく、浅い。
 どれほどの厚みがあることか、この雪の中ではなおさら他の場所との区別もつかない。
 だがそれでも、通いなれた場所であった。ほんの僅かばかりの違いを彼の眼は捉え、間違わなかった。
 足場を固めながら、雪をかき分けて近づく。
 身を乗り出し覗きこめば底に、濃い緑と淡い桃色が、ゆらいで、見えた。


 穴に降りる直前で靴から装具を外した。ほんの少しだけ迷って、入り口近くの雪溜まりに突き刺す。
 穴の内側に入ると、雪はすぐにまばらになった。壁を削り木の板などを刺して作った足場も、やはりむき出しのままだ。
 穴の上にも雪は降る。
 降りはしても、底にまで届くことはない。穴の口を過ぎるころには上ってくる熱気に温められて、雪はほろりと形を失ってしまう。
 温かいどころではない。底に近づくほどに、空気はむわっと熱くなる。
 地熱が高いのだろうか、理由ははっきりとわからない。山の他の場所に湯が湧いたことがあったとも聞かない。もしかしたら幻獣や精霊の類が何らかの影響を 与えているのではないかとも思うが、魔法使いでもない彼には知りようもなかった。
 ただ間違いなくこの場所は、一年を通して夏と同じほどに熱いのだった。
 唐突に季節を違えた気温に汗が流れたが、底に至った今となっては身体が冷える心配はもう無い。思わずもらした溜息も、ついさっきまでとは変わって目に白 く見えることはない。
 彼は分厚い上着を脱ぎ落とすとようやく、穴の中央に目を向けた。
 穴の上部から淡い光が、暗がりの真ん中に凍えた滝のように流れこんでいる。
 そこは。
 碧に堅く、波打つことを知らぬ水面。
 水面から大きな広い葉が濃い緑色を重ね、視界を遮るほどに繁っている。
 葉群の合間にいくつもの、こちらもやはり大きな桃色の花が、凛と、咲き開いている。
 そこは、花園だった。
 大輪のリェンの花が熱気にふるえつつ咲き続ける、季節知らずの花園だった。
 男は見慣れたその花群をしばらく黙ったまま見つめ、やがて意を決したように青色の水を湛えた沼に近づいていった。
 風が吹かない場所だ。男の歩みによって僅かに空気が動き、まるで誘われるように背丈よりも高く伸びた葉がゆれた。
 水面を撫でるように波紋が広がり、収まる。
 男のもたらすものの他には何の音もしない場所で、足音が、止んだ。
 彼は、上を向いた。大きく息を飲み、天を見上げ、白く暗い空を遮るように瞼を閉じた。
 それは長い時間だった。
 それはほんの一瞬だった。
 声も無く立ち竦んでいた男の耳に。
 囀りが。


 それまでの静寂が幻のように、騒々しく葉群をかきわけ近づいてくる音がした。沼を渡ってきているはずなのに、不思議なことに水音はない。
 だが男は近づいてくるものをよく知っていた。水音をさせることなく、遊び戯れるように花や葉の茎をゆらしながらやってくるもののことを。
 堅く閉じていた目を開け、男は岸辺に立ったまま音のする方に視線を向けた。間をおかず、それは葉と葉の間から顔を出し、花のように麗しい顔で輝くばかり に笑った。
「ビンガ」
 静かな彼の呼ぶ声に、それは待ちかねたのだと朗らかに囀るや高く飛び、男の首に細い腕を回し抱きついた。歌のようであり、鳥の声のようであり、男がこれ まで聞いたことのあるどんなものよりも美しい声。それがすぐ耳元で歌う、ただ彼だけのために歌う。
「放してくれ。苦しい」
 男が二度くり返し訴えるとしぶしぶ力をゆるめ、だが抱擁は解かぬまま彼の腕に膝を乗せ、その頬に頬をすりよせた。
 魅力的な女の姿をしているそれの背丈はしかし、成人の半分にも足りなかった。不健康には感じられぬ程度にほっそりとした裸身を恥ずかしげもなくさらし、 背中に翼を負っている。鳥と同じ翼、沼に咲く花々と同じ色彩の翼が大きく開かれていた。
 人の姿ではありながら、人の言葉は話さない。こちらの言うことはおおよそ伝わっているようだが、それでも中身はおそらく鳥なのだ。
 妙なる声で歌う、鳥。
 籠の鳥。


 初めから。
 彼女は一羽の鳥だった。


 あの時、彼は子どもだった。
 得体の知れない穴の底に降りてみようと考え、実行してしまうほどに子どもだった。
 山の奥、唐突にぼっかりと口を開けた穴の底に夏開く花であるリェンの花が一年中咲いているのが見える。穴の奇妙な形態やそのものの大きさのこともあっ て、男の住む村の子の中でここを知る者は別に珍しいわけでもなかった。
 同時に、降りたことのある者の話も、聞いたことはなかった。
 壷のような、中が広く口がすぼまった形は、昇り降りにいかにも不適当だったし、子どもの遊びでは降りることへの興味はあっても、それに費やす労力と実行 後の家族からの叱責を考えれば誰もが二の足を踏んだ。そしてある程度の大人になれば、危険と要する時間を考えてやはりそんなお遊びに手を出す者もいない。
 彼が穴の縁の崩落を見つけたのは、連れ立ってきた友人たちと偶々離れて一人でいた時だった。だが彼はそれを仲間たちには知らせずに、わざわざ別の日を選 んで降りたのだ。
 やはり止めておけばよかったと、途中で思いながらようやく辿りついた穴の底は、春まだ早く肌寒かった表とはうってかわって、早すぎる盛夏の真昼のように むしむしと熱かった。目の前には、ほんの少し前までは見下ろしていたリェンが真っ青な沼に覆いかぶさるように咲き繁っていた。
 しん、と。
 信じられぬほど静かな場所だった。
 一片の風も。
 虫の声も、飛ぶ音も。
 水場につきものの蛙の声ひとつ響いてはこない。
 頭上高くに開いた穴から注ぐ光を受け止めたリェンの葉や花は微動だにせず、精巧な作り物のようで。
 閉じこめられたあまりの静けさに居たたまれず踵を返そうとした、その時だった。
 囀りが聞こえたのは。
 一度も耳にしたことのない鳥の鳴き声。
 滑らかな水面に一滴落とされた宝石のようなその声は、静寂を壊すことなく広がり、満ちた。長い長いひと呼吸の後に、ほんの少し高低を変えた調べがくり返 され、消える。
 彼は帰ろうとしていたことなどすっかり忘れ、声がしたとおぼしい沼の方へと急いだ。
 沼に繁るリェンは少し前と同じく、触れても動かぬのではないだろうかと思わせる様子で繁っていた。近づくと遠目で感じていた以上にその葉も茎も大きかっ た。彼が知っている普通のリェンより二回りほども、違う。
 だが迫力に飲まれるように息を止めた彼の耳に、また。
 さっきよりは随分と近く。
 声が。
 囀り、歌う。
 目を凝らして声の主を探していた彼は、驚きのあまり目を瞠った。
 ただでさえ大ぶりな花が多いのに、また他よりもずいぶん大きな花が咲いているのだと思った。
 花だと思った、それが。
 歌っていた。
 花ではなかった。
 それは鳥だった。
 花の上にとまる、異形の鳥だった。
 翼は付根から先端に向かって透明感のある白が桃色へと徐々に変わってゆく、リェンの花と同じ色合いで。
 たたまれた翼の内側に両膝を抱えるように座り、真上に広がる穴のさらに上、天空に喉を晒して歌っていて。
 その様がまるで一個の大きな花に見えていたのだ。
 彼の接近に気づいたのか、唐突に歌が止んだ。彼はまだ夢の中にいるように沼の縁に立っていた。鳥はゆっくりと閉じていた目を開け、彼を見下ろし翼を開い た。
 それは異形の鳥だった。
 翼の下から現れたのは、形だけは人の姿と寸分変わらぬ、人よりも随分と小さな身体。顔もまた整った女性の顔で、ただその目は虹彩も白目も無いまるで磨い た石かガラス玉のような、漆黒。
 彼女はその瞳にどれほどの感情の変化も見せずにいたが、やがて僅かに首を傾げて、リルルゥ……と鳴いた。
 問いかけるように短く歌った。


 その姿形に惑わされるけれど、彼女は人の姿をした、鳥だった。穴を抜けるほど高く飛ぶことはできなかったけれど、それでも人ではない、鳥だった。
 二度、三度と訪れるうちに彼はその思いを強くした。
 何度話しかけても、彼女の口から囀り以外の答えは結局返ってこない。一方で、こちらの話はおおよそが伝わっていると見えたが、細かい意味まで正確にわ かっているのでもないようなのだった。
 来訪を重ねるにつれて彼に馴染んだか、或いは彼の見せる表情を手本にしてか、彼女もその顔に表情を表わすようにもなった。ごく単純な喜怒哀楽を示す程度 の、まだ言葉を使いこなせない幼児のようなあどけないものでしかなかったし、そして行動はといえば、村でも飼っている犬の示すものとさほど変わりなく。
 それでも彼女は美しかった。彼の知っているどんな女性より飛びぬけて美しかった。
 姿より何より、声が。
 心を奪われそうなほど。
 遠出を苦に感じぬほど。
 離れている間、幾度も思い出さずにいられぬほどに。
 素晴らしかった。
 そう。
 だから、彼は。

* * *


「ビンガ」
 甘えすり寄せられた小さな頭をそっと撫で、彼は震えを抑えて名を呼んだ。
 彼がつけた名だった。昔話で聞いたことがある、鳥の羽根を持つ美声の天女と同じ名前。
 呼びかけるのに名なしでは不便だからと、その歌う声の素晴らしさに感動して、思いついたままに与えた名だった。
「ビンガ」
 声に応え、濡れたように光る漆黒の瞳が、男を見つめる。
「この前に俺が来た後で、誰か、ここに来たか?」
 問われたビンガは小さく首を傾げて考えこみ、それからこくんと頷いた。
「何人いた?」
 両手を大きく広げる。たくさん、と。
「どこから?」
 指は頭上を示した。真上、穴の口。
「……どうやって?」
 上を指していた指がそのまますとんと、沼の上に落ちる。
 青く澄んだ沼。リェンの他には何ひとつ生えていない、生き物の姿や気配が全く無い場所。
 その沼底は白かった。
 棒状の物体が、湖底が見えないほど重なりあい沈んでいる。そのどれもこれも色を抜かれたように、白かったから。
「…………皆……?」
 こくん、と。
 彼の声が何故掠れているのかがわからぬのだろう、それでも衝撃を受けていることには気づいて、彼女は小さな掌で彼の濡れた頬を擦った。心配そうな表情で 顔を覗きこみ、歌う。大丈夫かと問うように。
 掌は温かかった。
 いっそう痛みを感じる目の奥の熱を堪えて、男は声を絞りだした。
 ぼんやりと滲んだ涙に歪む、美しい姿をした鳥に向かって。
「ビンガ。……おまえ、ずっと俺を、呼んでいたのか?」
 ええ、もちろん。
 言葉ではなかった、けれど、彼女の声はそう言った。
 真っ直ぐ彼を見つめて頷きながら。


 男は長く村を離れ、当然ここには来られなかった。
 長い長い不在だった。
 ビンガには、わからなかったのだ。どうしてこんなにも長い間、男が姿を見せないのかが。最後に来た時に男が説明していた半年は来られないという、その長 さが実際にはわかっていなかったのだ。
 だから呼んだ。力の足りぬ翼では自力で外に出られず、できたのはただ呼ぶことだけ。
 とりわけ夜の澄んだ空気に乗って、歌声は遠くまで届いた。
 遠く、男の住んでいた村まで。
 届いた歌声は、ただただ思いを尽くした慕い呼ぶ声だった。
 それが本来彼女の持っていた声だったなら、何の問題も生じなかったのに。


 そう。
 彼が彼女に力ある声を与えたのだ。
 名をつけることの意味も知らず、思いつきで美声の天女と同じ名を与えた。
 本来名を持たないものに名を与えることの危うさを、知らぬまま、彼は与えてしまったのだ。
 あらゆるものを魅了する天上の声を、彼女に。
 それだけではない。
 男が訪れるまで、ビンガは自分が一人であることなど知らなかった。
 誰かと一緒に過ごす楽しさを知らなかった。
 明るく開いた空の上に別の場所があることも、そこに行けないことも知らなかった。
 他のものが訪れるのを待つ寂しさも知らなかった。
 知らぬことばかりだった彼女に、様々なことを教え。
 けれど。
 男は自分の名前だけは教えていなかった。わざとではない。単純に、呼ぶ言葉をもたぬからと。
 だから彼女は歌うことしかできなかった。
 手当たり次第に、ここに来てと歌うしかなかった。
 だって、彼一人を呼びたくても、男の名前を知らなかったのだから。


 男はがっくりと膝をつき、細波ひとつたたない水面を見つめた。沢山の白骨が、皮も肉も何もかも溶け失せて元の姿のよすがも無いまま、ひそやかに、水の底 に横たわり眠っている。
 父がいるだろう。母も。友人も、恋人であった人も、彼が生まれてからこのかた一緒に暮らしてきた、同じ村に生きていた全ての人が。ここに。
 この小さな沼の、花の下に。
 どのくらいの時間が過ぎていたのか。ふいに、小さな身体に抱き締められて我に返った。
「ビンガ」
 この小さな鳥の歌声が、誘惑の声が彼の村を滅ぼしたのだとはっきりわかっても、男には彼女を憎むことはできなかった。悪かったのは彼自身、この異形の鳥 が、ただの鳥ではなく幻獣の一種であると薄々気づいていながら、迂闊にも無造作に関わりすぎた自分のせいだったのだから。
 それでももう彼女に笑いかけることはできそうにない。彼女自身に悪意も何もないとわかりきっていて、それでもなおその歌声が、家族を仲間を死に誘ったの は事実だったから。
「名前を、教えておけばよかったか。ビンガ、でも、これからはずっとここに、いるからな」
 どこか不安げだったビンガの顔が、ぱっと笑み崩れた。
 男は目を細めてそれを見つめると、首に回されたままの細い腕をそうっとほどいて小さな身体を抱えなおすと立ち上がり、沼に踏み込んだ。
 沼は、意外に深かった。どうやらその澄んだ水のせいで、浅く見えていたらしい。膝を優に越える深さの水はやはり冷たくはない。
 ただ水に触れたあらゆる場所が、ちりちりと痛かった。
 足の下で踏んでしまった骨が砕け、ぱきりっと、音ではなく衝撃で伝わる。避けようにも水底はどこも白く覆われている。男はためらわずぱきぱきと踏み折り ながら、沼の中央へ向かった。
 次第に、足の感覚が失せてゆく。
 沼のほぼ中央にも、ちょうどリェンの大きな花が咲いていた。男は頭上よりも高い位置にあるその花の上にビンガの身体を座らせて、数本束になって伸びてい る葉の茎にもたれかかるよう腰を下ろした。肩まで水につかり、微かだが絶え間ない痛みが上半身までも包んだ。
 じきに皮膚は溶けるだろうか。岸からこれだけ離れれば、痛みのあまり逃げ出したくなっても、逃げずにすむに違いない。
 見上げると、丸く抜けた穴の向こうの真白な空を背に、ビンガが彼を見下ろしていた。
 彼は目の端をほんの少しやわらげる。
「何か歌ってくれないかな、ビンガ」
 彼女は幸せそうに微笑むと顔を上げた。初めて会ったときのように膝を抱え、細い喉をそらせて歌い出す。
 彼女の歌声を邪魔するものは存在しない。この鳥籠に静寂しかないのは、美しい囀りを妨げないためではないか。
 ぼんやりとそんなことを思いながら男が目を閉じた、その刹那。
 ポンッ
 やわらかく何か弾ける音がした。
 はっと目を開けばまた何処か、今度はもう少し近くで。
 また少し離れて。
 ポンッ
 ……ポンッ
 ポンッ
 背を持ち上げながらぐるりと見回していると、頭上で歌っていたビンガの声に寄り添うように異なる囀りが聞こえてきた。
 ひとつ、またひとつ。
 ふっと近くの蕾に視線を奪われた。ふくらみきっていたその蕾は、彼の目の前で身震いするかのように震えると、ポンッと音を立てて花開いた。
 その中に。
 一羽の鳥が。
 リェンの花と同じ色彩の翼を持つ、異形の、鳥が。
 小さな身体を起こして。
 歌を。
 鳥たちの歌声は重なりあい、いよいよ深みを増して穴の内に幾重にも反響する。
 男は全身から力を抜き、元の通りに茎に持たれて目を閉じた。
 彼の鳥の声は、生まれたての仲間の声より一際澄んで聞こえる。
 ビンガ。
 声にはせず、男は囁いた。
 これでもう誰も呼ばずにすむんだな、と。
 それが安堵であったのか落胆であったのかはわからない。
 男は華やかな歌声の降り注ぐ中、底の無い暗闇に吸い込まれるように、意識を失っていた。



【 End 】



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