Baroque




 《 Prologue 》


「ジョンに渡して」
 女はどことなく舌足らずな、あどけない口調で頼んだ。
「ミオからだって言ってね。おねがい」



 《1》


 日がカンカンに照りつけ、剥き出しの地面を遠慮なく焼いていた。田舎の街道は乾ききっていてほこりっぽく、道沿いの木々も木陰とは言えぬ貧弱な影を投げかけるだけだ。
「あーもーやだ」
 だらだらと荷物を引きずるかのように自分の足を引きずって歩きながら、彼は何度目になるのかとっくに数えるのも飽きた愚痴を口にした。口にしたところで暑さが引くわけでも日差しが弱くなるわけでも、ましてや気持ちのよい風が吹く密生した木陰が出現するわけでもない。かえって疲れも増しそうだが、彼の意見は違うらしい。とぎれとぎれではあるが、愚痴は尽きない。
「あーぁ。街に着いたら、もーそっこーで飲むぞーぉ。冷えたジョッキーぃ。水浴びしてーぇ。あと果物ー、リンディーが時期だよなーぁ、食うぞー……」
 緩いながらもまさしくだらだらとひたすら続く上り坂につくづくうんざりしていると言わんばかりの割に、その足取りは一定で、決して早くなったり遅くなったりという揺れがない。見ればツバの広い帽子にせよ、陽を避けて同時に熱をためにくい造りのマントにせよ、旅慣れた人間であるらしいことは確かだ。だらだら引きずる足を包んでいるのも、底は厚く全体に軽い足にぴったりした長靴だった。
「リーチー水にーぃ、ビジクの実ぃー、タジャの実ぃーも、いーよなーぁ……」
 ふと思いついたように懐に手をつっこむ。取り出したのは拳半分ほどの大きさの果実、奇跡のようにとても瑞々しい。彼は情けなさそうな表情でしみじみとそれを見つめ、端の方を少しだけ噛もうとして、ふいに動きを止めた。
「あれ?」
 ようやく上り切った坂のてっぺんの少し先。里程標の代わりらしい、道端の小さな石壁にもたれ掛かるというより倒れかかるように、人が座っていた。日陰に動くだけの余力もないらしい。どうやら坂を上り切ったところで力つきて、そのまま倒れ込んだようだ。
「あーりゃ、生きてるかねぇ」
 見てしまったものは仕方がない。旅を続ける限り、いつか同じ様をさらすことにならないとは言えない。旅人の仁義で、彼はその人影へと歩み寄った。
 それは十五、六歳ほどの少年だった。荷は少ないものの、旅支度をしているということは近辺の人間ではないのだろう。靴も上着も小さな荷物も土埃まみれだ。
 身動きしないように見えたが、息はあった。この日差しと気温、それに少年の水袋が空だということから、この馬鹿みたいな暑さにやられたのだとわかったので、とりあえず残り少ない手持ちの水を含ませ、顔にもかけてやる。
 ぶるり、と小さく身を震わせて、じきに少年はうっすらと目を開けた。だるそうな動きで顔を日差しから背け、奇特にも足を止めた恩人を目にする。
 青みがかった黒い瞳が印象的だった。
「…………あ、の?」
「もう少し飲むかい?」
「はい、…すみません。ありがとう、ございます」
 今度は自力で水袋に口をつけ喉を鳴らすと、大きく満足の息をついた。顔を上げて恩人に礼を言う。
「ありがとうございます。助かりました」
「いやいや、明日は我が身ってね。水はどうしたんだい?」
「二つ前の里程標の脇に、水場があるんです。そこを当てにしてたのに、この天気で干上がってて」
「ありゃ」
「この時期に、こっち側に来たことなかったから……。ほんと、死ぬかと思いましたよ。ありがとうございます」
 三度頭を下げられて、かえって恐縮してしまう。彼は軽く笑った。
「いいって。じゃあ、やっぱりここらに住んでるのか。街まで、後どのくらいかわかるかい?」
「ここからだと、そんなに距離はないですよ。こっちはあんまり使われてない道なんで、単純に里程標が少ないんです」
「なるほど。ああ、これも何かの縁だ。街まで一緒に行ってくれないか。オレは、この街には初めてなんだ。ここらに詳しい人間がいると、ひじょうに心強いんだが」
「ボクでよければ。時間があるんだったら、街も案内しますよ」
「助かる! なによりまず冷たい物を!!」
 拳を握っての力説に軽やかに笑い、少年は勢いをつけて起き上がると、先ほどまで意識が無かったとは思えないほどしっかりと立った。つやのある黒髪が顎の下あたりでさらりと音をたてる。見上げる視線で手を差し出され、彼は握手に答えた。意外に大きな手、成長期が楽しみに思われた。
「そういや、自己紹介がまだだったな。オレはロウ、旅商人をやってる」
「ボクはユウ。この近くの村を足場に、何でも屋をやってます」


「それで、何でも屋って、何やってんの?」
 道連れを得た途端、先刻までの様子がまるで嘘のように彼の足も口も軽くなった。少年も、臆することなく愛想よく答える。初対面の人間と話すことには慣れているようだ。
「普段は『運び屋さん』って呼ばれてます。ボク、足が速いんですよ、自慢なんですけど。それで、手紙とか小さい荷物なんかを運ぶんです。頼まれればその日のうちにってのが、売りです。重宝がられてますよ、馬を走らせるよりはさすがに遅いですけど、普通の人が走るよりはずっと早いし。何より田舎だから、手紙を専門に運んでくれる人達もそんなに頻繁に来てくれるわけじゃないので」
「馬よりはって、もしかして、それすごいんじゃないか」
「だから自慢だって言いましたよ、ボク。足が勝負だから大きな荷物とかは引き受けられないので、主に手紙ですね、一通でも運びますよ」
「悪いけど、食っていけるの?」
「自慢の足で数をこなしてます。固定客がいるし、周りの村や町を定期的に回るから、けっこう途切れないですね。行ったついでに細かい仕事を頼まれたり、時々は、今回みたいな遠出もしますよ」
 気を悪くするでもなくユウは答えた。荷物と言えばよく使い込んだふうな小ぶりなリュックひとつの姿とリズミカルな足取りが、少年の言葉が嘘ではないことを告げていた。今はどうやらちゃんと彼にあわせてくれていたらしい。ロウはそれに気づいてつい笑みをこぼした。
 すると今度は逆にユウの方がロウの頭から足元までをじっと見て、
「旅商人って言うわりに、荷物少ないですよね。馬とかの姿もないし、後から誰かくるんですか? 仕入れに行くんですか? 何を扱ってるんですか?」
 ひとまとめに尋ねられて彼はちょっと肩を竦めた。確かに身一つで運べる荷の量で商人というのも珍しい。それが仕入れのためならば、現在の荷の少なさも納得できる。
「ああ、一人で歩くのが好きなんで、大きな商品はあんまりやらないんだ。今は主に石を商ってる」
「石というと、宝飾品ですか?」
「それもやるけど、宝石そのものの方が多いな。物が物だけに、そこそこ重くなるのはどうしようもないけど、あまりかさ張らず、値が張るから、オレみたいな性分の奴にはちょうどいい商品だ」
 目を丸くする少年の表情がおかしくて、彼は朗らかに続けた。
「今は、そうだな、最高級の紅玉に碧玉、翠緑玉、黄玉、星入りの藍玉、金剛石、夜石、水海石、月長石の青いやつ。孔雀石に石榴石、琥珀、オパールの黒いのもあるぞ。ターコイーズは色の深いやつ、水晶は色とりどり揃えてるし、ちょっと変わり種の水入りや煙水晶。翡翠、珊瑚、血玉髄、橄欖石、青金石、昼と夜で色の変わる石なんてのもある。猫目のも、珍しいからか人気があるな」
「真珠は?」
「ん?」
「珊瑚はあったのに、真珠は言わなかったでしょう。扱わないんですか?」
 ふいの質問に遮られ、次いでもっともな疑問を受けて、息を整えるように胸を押さえると、ロウは苦笑しながらなぜか照れたような口調で答えた。
「あー。オレなぁ、真珠は扱わねえんだわ」
「なんで? 真珠って、女の人にかなり人気あるでしょう?」
「そーなんだけどなぁ。……なあ、真珠ってどうやってできるか知ってるか?」
 唐突な問いにユウは言葉に詰まり、答えを待たずに彼は続けた。
「あれな、貝の中に異物、例えば砂とか貝殻のかけらだとかそういうものな、そういうのが入り込むと、まあ、貝も痛いわけだ。だから直接触れないように、痛くならないように、異物の周りに膜を被せてって、そうしてできあがるんだそうだ。貝の苦痛の結晶、なんて言い方をしてたな。そういう話を聞いてから、どーも真珠を見ると、女がシクシク泣いてるみたいに妙に痛々しく見えて、ダメなんだよなあ。売れるのはわかってっけど、滅入るからさ、止めた」
「ふーん」
「それに、石そのものを削ったり加工したりして綺麗にしてやるって方が、どちらかと言えばオレは好きでね。幸い腕のいい友人がいるから、出た先でいい原石なんかを見つければ、仕入れて帰ってそいつに頼む、そんでそいつが加工してすっかり綺麗にした石を、オレが扱うってことにしてんだ、基本的に」
 どこか自慢げな表情につられて、ユウはさらに問を重ねた。
「真珠の話は、その人から聞いたんですか?」
「いいや。それは前に海辺の方に行ったとき、そこの人に聞いた話。海に潜って取って来た大きな貝の殻をこじ開けて、その中から真珠が出てくる様子ってのは、見事ではあったね」
 そのまま流れるようにロウは旅の道中で見聞きしたあれこれを語り続けた。ユウは楽しんであいづちを打ち、また大袈裟に驚いたりし、そうこうしている間に目的地が見えて来た。
 ちらほらと次第に人家が増えてきたかと思うやその向こう、ぐるりと取り囲むように高い石壁が巡らされているのが目に入る。
 落日には辛うじて早い時間、門は大きく開け放たれて旅人を迎え入れる。石壁の上に、誇るように風にたなびく鮮やかな色の国旗や街の旗などが、林立していた。
 門の向こうには、華やかに飾り立てられた街なみと、人の波。
 街の名は、グン・イルプーズ。
「そっか……」
 ユウが今の今まで忘れていたという調子で呟いた。
「祭だったんだ」



 《2》


 街は普段の五割増の人間を抱え込み、輝くような熱気と喧噪に包まれていた。
 大通り沿いの窓々にはすべて溢れんばかりの花が飾られ、花と花の隙間を埋めるように色とりどりの布が幾重にも張り渡されている。さらには金属の細工や木製の飾り物をぶら下げ、あるいは美しい縁取りや房飾りを加え、思い思いに華やかさを競い合う。
 道端にはぎっしりと露店が並び、中央の広場に近づくに従って、その規模も品の量や質も大きく、高くなってゆく。晴れ着で着飾った人々は連れ立って、あるいは一人で店々を覗き込み、あるいは通りの角々に置かれたふるまい酒で喉を湿らせ、炙り肉に舌鼓を打っていた。子供たちは大人たちの足元をくぐり抜けて駆け回り、できたての焼き菓子を頬ばりながら、大道芸に夢中になって、わっと歓声をあげる。
「うーん。オレって、すっげーついてるのかも」
 やわらかに波打つ金茶色の髪が夕暮れの光を含んで輝いていた。ロウは眼下の光景を二階の窓から眺め下ろしつつ、手にした大きなリンディーの実に勢いよくかぶりつくと、しみじみと言って、一通り埃を拭ってさっぱりとしたユウに笑いかけた。
「この賑わいだと、君がいなかったら、ギルドの事務所にたどり着く頃には真夜中だったかも知れない。しかも寝る場所をそれから探すはめになったかも。いやあ、本当に助かった」
「いえ、ボクこそ運がよかったんですよ」
 少年も微笑んで首を振る。
 道端で意識なく倒れていたのが嘘であったかのように、少年の行動は身軽だった。
 門を入った所で、彼は一旦ロウを待たせて、商人ギルドの事務所の場所を確認に行ったのだ。そうして露店の菓子がすっかりふくれて焼き上がる前に戻ってくると、比較的人の少ない道を選んで案内をしてくれた。実際にロウが歩くと、片道だったというのにユウが行き来した時間の優に三倍はかかり、ユウの普段の仕事にこれで納得がいった。
 さらに事務所で手続きしている間に、宿まで確保してきたのには驚かされた。
 祭の最中に浮かれきっている街で宿を探すのは、普通ならば困難どころかほぼ不可能なことだ。
 二人にとって幸いだったのは、ユウが以前に仕事で知りあった食堂の女主人が、彼をひどく気に入っていたことだ。その際にユウの運んだ手紙が、初恋の人からの十数年ぶりのラブレターだったという、ごく単純な理由ではあったのだが、彼らの事情を聞いて、物置を片付けた程度の部屋と言いつつも融通してくれたのだ。
 ギルドの事務所で手続きを済ませて荷物を預け、すっかり身軽になった上、念願のよく冷えたリーチー水と極めて旨い食事にありついたロウは、彼女の厚意にとびっきりの人なつこい笑顔と、魔法のように取り出した小さいながらも美しい石榴石のついた髪飾りで感謝を伝え、おかげで籠いっぱいの果物まで差し入れにもらっていた。
「そういえば……」
 立派ではないが清潔でこざっぱりした寝台に、ぱったりと倒れ込みながら、彼はふいに尋ねた。
「ユウ、君の今回の仕事って、何なんだい?」
「手紙を届けるんですよ」
 窓辺にもたれ掛かり、少年は隠すでもなく答えた。夜の色を帯び始めた空を背に、つやつやした髪が幾分青みがかって見える。さらりさらりと髪をゆらしながら荷物ではなく胸元を示し、
「多分この街にいるはずなんです、人が多いのはちょっと辛いですけど」
「いるはず? 探すのかい?」
「ええ。でも、いつものことですし、居そうな場所の見当もついてるんで、今回は以前より楽です。それより、あなたこそ祭目当てで来たわけではないんですか?」
「石だけじゃ、こういう祭ではあんまり売れないって。せめて飾り物の形にしておかないとさ。言っただろ、この辺りは初めてなんだ。今回はまったく別口。オレの用件も人探しみたいなもんだよ。もっともギルドの許可は取ったから、ついでに商売してってもかまわないけどね」
「今日はどうしますか? 明日、街を少し案内しようかと思ってるんですけど……」
 ちらりと人込みに視線を落とし、少年はため息をついた。
 そろそろ灯される明かりが数を増し始めていた。音楽は次々に弾き手を変えて街に満ち、誘われるように踊りの輪が生まれては消えてゆく。人波は途切れる気配も無く、夜を徹して行われる祭はこれからが本番とも言える。そして、多少乱暴な人間がうろつき始めるのも、このくらいの時間からだ。
 物騒さをも十分楽しむには、旅で疲れている身体では心もとない。
「君は、疲れてないの?」
「もう十分回復しました」
「うーん、そうだなあ……」
 強がりでもないらしい声音にロウは考え込むそぶりを見せ、だがすぐに起き上がって少年に提案した。
「じゃあこれから、君の案内で、軽くそこらを眺めることにしよう。オレは明日以降のために中心街の道路配置を確認して、ついでに、君もちょっとだけ人捜しをすればいい」
 ぽかんと、一瞬何を言われたのかよくわからない表情になり、だが次の瞬間、ユウは派手に苦笑していた。
「わかりました。とりあえず今夜のところは、中心街を案内しますよ」



 《3》


 街を縦横に走る二本の大通りが交差する、そこが街の中央広場になっていた。
 眩しいほどに明かりの集められた、かなり大きく取られた広場の中心には、街の生活を支え、また街の名の由来でもある泉が、石垣できれいに囲まれてある。当然、花々を初めとするあらゆる美しいもので飾りたてられていた。
 さすがに腕のいい楽隊が美しい音色で弾むような舞曲を奏で、きれいな模様を描く石畳を舞台に、老若を問わず男女が手を取り合って軽快に踊っていた。
「『大きな泉』というのが、街の名の由来なんですよ」
 大通りに沿って置かれた街の主な施設を案内しながら、ユウは教えた。
「けっこう大きい街だよな。もしかして、魔法使いが常駐してるんじゃないか?」
「あれ、どうしてわかるんですか?」
「火の無い灯火があちこちにあるだろ。特にここの広場には多かったな。話を聞いたときには、ここまで大きな街だとは思わなかった。来てみるもんだなぁ」
 感心したふうに言い、また店頭に並べられた商品を商人らしい口調で品定めするロウの傍らで、にこにこと案内をしながら時折、ユウは何かを探ろうとするかのような様子で目を飛ばしていた。
 そうして何度目だっただろうか。ふっと、何かを嗅ぎ付けたような、気をとられた表情をして、唐突に足を止めた。少しの間、周囲を確かめるように見渡し、それから確かな足取りで小路の一本に向かう。
 促されるままついて歩いていたロウは、しかし少年が足を向けた小路のあるのが、多少なりともいかがわしいとされる種類の店が集まっている区画だと気づいて、おいと声をかけた。
「一応、年長者としては、止めておきたいんだけど」
「あ、すいません。でも、あっちの店に、手紙を渡す相手がいるんですよ」
 ここまで歩いている間に何を確かめたわけでも、誰かに尋ねたわけでもないことは一緒に歩いていたロウにはわかっている。にもかかわらず妙に確信を持った口調を、彼もさすがに不審に思い、聞くつもりのなかったことを確かめたくなった。
「なんで、それがわかるのか、聞いてもいいかい?」
「後にしてもらってはダメですか?」
 ユウはわずかに首を傾げて彼を見上げ、青みを帯びた瞳で微笑んだ。
「ついてるなぁって、つくづく思います。あなたのおかげですよ」
 まじまじと少年の表情を探り、とうとうロウはため息をついた。
「ここまで来たし、最後まで付き合うよ。そのかわり、説明してくれよなぁ。わけわかんないのが、一番やなのよね、オレ」
「はい」
 はっきりと頷いて、ユウは酒場らしい店の扉を押した。
 街路よりも暗い店内を窺いながら、二人は辛うじて空いていた席を見つけて腰を下ろす。飲み物を頼みつつ、しばらく彼が店内を探る気配を感じていたロウは、やがてその動きが止まったのを見て取った。
「……あ。あれだ」
 視線を追うと、店の奥の一角を占領するかのように集まって騒いでいる集団にぶつかった。その中心辺りで、人目を引くタイプの男が笑っている。
 座っているせいではっきりとはわからないが、多分、背は高く体つきは逞しい。決してよく整っているとは言えない、微妙にバランスの悪い顔立ちは、かえって女の気をそそるような男の色気を醸し出している。それもどちらかと言えばたちの悪い、崩れた色気という類だ。ひどく堂々とした、傲慢ともとれるふてぶてしい態度が魅力的にさえ見える、そんな男だ。
 一見して遊び慣れたふうだった。世間ずれしていない若い女などは、一発で引っ掛かりそうである。
 実際今も、店員らしき女が遠回りになるにもかかわらず、男の座るテーブルの近くを通るように酒を運んでいたし、それをわかった上でやっているのだろう、男は時折、気を引くように流し目をくれていた。
 どうやらそれが件の手紙を渡すべき相手らしい。
 理由はやはりわからぬながらユウは確信したらしい。しかも、いとも無造作に近づこうとしてロウを慌てさせた。
「おい、ちょっと相手がまずいんじゃないか? 止めておいた方が……」
「仕事ですよ。それに、大丈夫です、慣れてますから」
「慣れてるって……」
 止める間もなく、ユウは奥のテーブルに向かう。
 年若さが浮く場所柄である。場にそぐわぬ少年の接近に、彼らはすぐに気が付いた。半分が口を閉じてじっと様子を窺うようにユウを見ていた。
「失礼します」
 周囲の柄の悪い男たちの視線に臆する様子をまるで見せず、ユウは中心に座っていた男の真正面に立った。居心地悪いだろう空気の中で、しっかりと目を合わせ、胸元にしまっていた封筒を取り出す。
「手紙です。『ミオ』から、『ジョン』に渡すようにと。あなたですね?」
 初対面のはずでありながら、いったい何によって確信したのか、名乗ってもいない男に手紙を差し出す彼にためらいは無かった。つられたように手を出していた男に、真ん中が少し膨らんだ薄緑色の封筒を手渡すと、唐突ににっこりと笑った。
「確かにお渡ししました」
 言うやいなやあっさりと踵を返す。からむ隙を与えない、見事な引き方だった。
 胸に手を当てて、かたずを呑んで見守っていたロウはほっと安堵のため息をついて、戻ってくるユウの為に新しい飲み物を頼んだ。
「おみごと」
「いえいえ」
 軽く返した少年の背後では、押さえようともしない喧噪が上がっていた。


「なあ、ミオってなぁ、誰だよ」
「いつそんなのひっかけたんだ、おまえよぉ」
「っつーか、おまえの名前、いつからジョンになったんかねぇ?」
 少年がテーブルを離れるのさえ待たない、冷やかす仲間たちの声高な問いに、男はにやにやと笑いながら、
「ここから南西の方にちょっと行ったとこにある小さな村の、すぐ近くの海にいた女だよ。信じるかどうかは知んねえけどよ……」
 男は一旦、気を持たせるように言葉を切り、軽く小突いて催促する仲間たちに、声を潜めて、教えた。
「あのな、その女、人魚なんだよ」
「うっそだろ」
 どっ、と笑い声がわき上がる。あっさり否定されても男はにやにや笑いを浮かべたままで、冗談だと笑っていた仲間たちも、やがて半信半疑の表情になる。それを確かめて、男は再び口を開いた。
「行ってみろよ、岩場の辺りを探せば見つかるぜ。なんか、頭の軽い女だったけどよ。顔と身体は、まあまあよかったな。しっかし、『毎日会いに来てね、約束』だとさ。んなもの、ふつー、正直に守るとか考えるか? バカじゃねえの?」
 同意の哄笑があがった。
「あ、んじゃ、ちょっと前におまえが売っぱらってた真珠って……」
「おう。その女が持ってきたのさ。すげえ大きかったし、最高級。高く売れたぜ」
「もしかして、この手紙もか?」
 おおっ、と声を上げる仲間たちの前で男はもったいぶって封筒を取り上げ、手触りを確認するとそれを肯定した。
「らしいな」
「開けろよ。ここはおまえのおごりだな」
「おうよ。かわいそうに、こんな男に惚れちまってなぁ」
 決して同情ではない、ひっかかった女をバカにしきった口調に、一斉に笑声がわく。同調しながら、ジョンと名乗っていた男は雑に封を切り、手のひらに中身を空けた。
 水滴のように転がり現れたのは彼らが予想した通り、真珠だった。それも、めったに見ないほど大粒の、淡い白色の真珠。
 ひゅうと口笛が吹き鳴らされた。口々に、いかにして高値で売り払うかの算段をし始めた、彼らは。
 気づかなかった。
 それが起こってしまうまで。
「う、ぅあぁぁぁーっ!!!」
 居合わせた人々は皆なぎょっと驚いて、絶叫の元に視線を注いだ。
 叫んでいたのは、集団の真ん中で笑っていた男。目一杯に広げた自分の左の手のひらを、そこにある物を、信じられないものでも目にしたかのように、睨みつけ。
 男の仲間たちは、げっと蛙のようにつぶれた声を上げて遠巻きに、逃げ腰になって男を囲んで騒ぎ立てた。
「なんだ?」
「近づかないで」
 少年が落ち着いた押さえた声で、しかし断固とした口調で立ち上がりかけたロウを止めた。目を合わせると、微かに頭を横に振った。
「すぐにでも、外に出られるようにしておいてください」
「何が起こってるのか、全部わかってるんだな」
「ええ。……説明は、後でまとめてしますから」
 きっぱりとそれ以上の問いかけを阻むと、彼はロウを促した。向けた視線の先では、目にしていてさえ信じがたい光景。
「…………ほんとかよ……?」
 ふいに冷たくなった胸元を握りこむように押さえながら、ロウは呟いていた。
 男の手が鈍い光を放っている。いや、男の手自体ではない。その上にある真珠だ、それがほろりと砕けるような光を発している。それと同時に、
「あれ、どっかで……」
 不思議と記憶にある匂いが強く店内に香った。懐が次第次第に冷たさを増してゆく。
 振り払おうと、男は手のひらを、腕を乱暴に振り回した。しかし真珠は離れない。それどころか、光をにじませてどんどん、溶けて、いく。
 溶けて…………
「な、なん、っなんっだよ、これはぁーっ!!」
 倣岸さも不遜な態度もどこにいったものか、そこにいるのはただおたおたとうろたえて、己の許容範囲を超えた事態に、振り回されている男。周囲にいたはずの仲間たちの姿も、もう無い。
 手のひらが光っていた。今度は男の手自体が光を放っていた。いや、次には腕が、胴体が、足や頭の先までも蕩けた光で満ちてゆく。
 満ちて、満ちて、満ちて。
 眩しくはない。明るくもない。薄暗い地下にふさわしく、光はあれどそれは明るく照らす光ではなく。
 心安らぐ灯火ではなく。
 ただ、満ちて。
 溶けて。
 蕩けて。
 一瞬、男が汗をかいているのだと見えた。
 すぐにそれは違うと知れた。
 そうして思い当たる、先刻の匂いの記憶。胸元を片手で押さえて彼は呟く。
 潮の匂いだ、と、その間にも。
 男が溶けてゆく。

 溶けて。

 人の形が無くなるころには光もまた失われていて、店の汚れた床の上には、潮の匂いの液体が水溜りを作っていた。
 中央に残ったのはひどく形の歪んだ、奇妙に気味の悪い色合いの、真珠。



 《4》


「人魚の涙だったんですよ、あの真珠」
 真新しい薄緑色の封筒に拾い上げた真珠をしまいこむと、ユウはそそくさと店を後にした。もっとも今見たばかりの光景に心を奪われていて、居合わせた誰も彼らのことなど気にとめてはいないだろうけれど。
 二人は祭見物もそこそこに宿に戻った。
「あー、なんだったんだか……」
 ロウは疲れたように言って、山盛りの籠から果物を取りあげ、勢いよくむしゃぶりついた。食べ頃のタジャの実の真っ赤な皮はぷつりと音をたてて破れ、酸味のある甘い果汁をこぼす。
 人心地ついた彼は寝台に腰を下ろしてユウに目をやり、諸々の説明を促した。
 第一声が、それだった。
「へ?」
「今回、ボクに依頼したのが、顔なじみの人魚なんです」
 彼は彼でビジクの実の金色の分厚い皮を剥き、大きな一房を口に入れるや満足そうな顔になる。
「惚れっぽくてね。美人というか、かわいいから男によく言い寄られるんだけど、みんな、結局は村を出て街に行ってしまうし、外から来た人間だと戻って来なくて」
 胸元に入れていた封筒を寝台脇の小卓の上に置くと、困ったような表情で指さして、続けた。
「誰も約束を守らないから、彼女は泣いて、それでボクが呼び出されるんです、『運び屋さん』のお仕事ですよって」
「本当に、人魚の涙が真珠になるのか。昔話みたいだな」
「ええ、本当です。でも、やさしい昔話とは、かーなーり、違います」
「あれを見りゃ、ねぇ」
 ため息に、まったくとユウは頷いた。
「人魚の涙は、その感情そのものです。嫉妬や憎悪、捨てられた恨み、忘れられたことへの怒り、交わした約束を守ってもらえないことへの悲しみ……。そんなもろもろの重苦しく狂おしい感情を、美しい宝珠に凝らして、自分の中から切り捨ててしまう。だからいつでも常に、純粋な笑顔でいられるんです」
 言いながら思い出したのか。
「ここに来る途中で聞かせてくれた真珠の話、あれと同じです。まるで貝が自分の中に入ってきた自分を傷つける異物を、そっと包み込んで美しい真珠に変えてしまうように。心の中に生じた、『苦痛をもたらす感情』という自分を傷つける異物を、自分にとって害の無い形に変えて捨ててしまう。いいえ、ずっとたちが悪いですね。それは裏切った男を滅ぼすものになるんですから」
「あれ、対象限定なのかい?」
「ええ、基本的には。それに相手に嘘が無ければ、害は無いんです。でも、……かけらも嘘の無い人間なんて、いるわけないでしょう。人間なら嘘や傷と折り合って生きてゆく。でも、人ではない彼女に、それはできないんです。だから本当は人魚との約束なんて、よほどの覚悟がないとやっちゃいけないことなんですよ。まして、遊びで手を出すなんて真似は」
「はあ。それにしても、派手派手しい復讐だねぇ」
「ロウ、あなた、手元に水海石を持ってるでしょう。それも魔力の強いやつ」
 唐突に断定されて思わず胸元を押さえ込み、彼は目を白黒させた。
「……へ、何だって……」
「今回、ボクが運がいいって言った理由ですよ、それ。水を切らして倒れたときはどうしようかと思いましたけど、力の強い水海石の近くで行動できたおかげで回復も早かったし、人探しも簡単でした」
「あ、そーだ、どうやって探してたんだ?」
「匂いです。海の、潮の匂い」
「もしかして……」
 あの店の中で感じたあれが。
「人魚と、約束で繋がった相手からはごくわずかですけど海の匂いがするので、それを追いかけるんです。それにしても、今回はその石のおかげでいろいろ派手でしたよ、こんなお土産まで……」
「いつもこうなんじゃないの?」
「いつもは涙で溶けて水になるだけです。見届けておしまい。石のせいですよ。腕のいいご友人ですね。この街に来たのは、魔法使いのご指名ですか?」
 こればかりは事務所に預けず、果物の中に隠して肌身離さず持ち歩いていたそれを服の上から握り締めながら、ロウはため息をつくことで答え、それから心底不思議そうに、尋いた。
「……人魚に仕事を頼まれるような知り合いがいたり、水海石に影響を受けたり…………、君は、何者なんだい?」
「とびきり足の速い何でも屋、ですよ」
 さらに深々とため息をつくと、ロウはしみじみと言ったものだった。
「真珠を扱おうなんて、オレはもう一生思わないだろうよ」



 《 Epilogue 》


 形も色も歪んだ真珠を、封筒に入れたままで彼女に渡しながら、いつものように彼は文句を言った。
「ミオ・セイ・レーネ。いいかげんにしろよな。いつもいつも面倒な仕事ばっかり」
「でも、明るい表情ね。楽しかった?」
「……まあ、祭だったから」
 連れがよかったから仕事も楽に終わったしね、とは心の中でだけ付け加えた。
「でも、この時期にあの街まで行くの、もうやだ。水場が干上がってて、ボクの足でも辛いよ。ミオ、バカみたいにしょっちゅう人間に惚れるの、止めてよね」
 はいはいと、女は笑う。美しい姿形とやさしい眼差し。口調はどこかあどけなく。
「また、おねがいね」
「…………ね。ボクの話、聞いてた?」
 聞き返すころには、人魚の姿は波の向こう。
 彼の声が聞こえたかどうかは、彼女にしかわからない。



《了》




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