Butterfly





 《Prologue》

 蜜色の陽光が森の一角を満たしていた。
 木々の梢は、高いと低いとを問わず幾重にも葉に葉を重ね、ざわりざわりと細かくゆれていた。
 膝丈に茂る下草はどれも花を開き、ゆらりゆらりとゆれていた。
 風ひとつ無い真昼の森は、まるで生き物のようにゆらいでいた。
(ごらん)
 示されたそれは蝶だった。
 蝶が群れているのだった。
 木の葉と見えたものは皆な。
 花々と見えたものは皆な。
 蝶の羽がひらひらと開閉しているのだった。
 木々の表を埋めつくし、花びらを隠すほどに集い、森をひとつの生き物のように震わせているのだった。
 感動よりも驚嘆よりも、ただ呆然とその光景を見つめた。
(あれらは、北へ向かっているんだよ)
 声に促されて見上げると、背の高い男が震える森を指さしていた。
(この大陸の南の端から北の端へ、そしてまた北から南へ、群れとなって移動し続ける。鳥のような強い翼を持つわけでもないのに、……時には海さえ渡ってゆく生き物だ)
 逆光の所為で顔はよくわからないけれど、表情はたぶんやわらかい。
(どこまで行くのかな?)
(……どこまででも)
 幼い問いに答え、男は彼を見下ろして言った。
(どこまででも行くんだよ。望む場所に。それがどんなに遠い場所でも)



 《1》

「ありゃあ、変わりもんだ」
 宿屋のおやじは間髪入れず言い切った。
「あの人がここの山に来たのは、……さて何年前になるかね。それから一遍だってこの辺りまでも下りてきたことがないんだ。まだ若いってのに、とんだ変わりもんだよ」
「食い物とか服とかはどうしてるんだい、それなら?」
「ここの村の雑貨屋に頼んで、鳩を何羽か飼ってるんだとよ。急な用件のときはそいつに手紙をつけて飛ばして寄越すのさ。普段は、まあ十日に一遍ぐらいってとこかね、その雑貨屋が入り用な物をまとめて持ってく約束になってっから、普通に暮らすには特に困らねえんだな」
「ふうん……」
「そんで若いの。あんたは、あの人に何の用なんだね?」
「ああ、オレ、旅商人なんだ。ついこないだ仲間に、腕のいい宝石加工の職人がいるって話を教えてもらったんで。ちょっと扱いの難しそうな原石を手に入れたところだったから、そいつを何とかしてもらえるかなと思ってさ」
「へえ。そんなに腕がいいのかね、あの人?」
「知らない?」
「ここらじゃ、宝石なんか持ってる人間は数えるほどさ。お貴族さまや魔法使いなんかとは違うからな。それにご当人は山の上に居っぱなしで顔を合わせることもないだろ。たまぁに、あんたみたいな商人が仕入れに来るんで、こうして宿もやってるがね。それだってひっきりなしにってわけでもないし。正直、どれだけの腕前なのかなんてのは、おれらにゃわっかんねえなあ」
 そういやぁ、一カ月くらい前にも都の人間らしいのが来てたかなあ、などと言いながらおやじは台所から運ばれて来た大皿を受け取った。湯気が食欲をそそるようにゆらゆらゆれている。
「ほい、これで足りるかね?」
「足りなかったら困るなあ。今、あんまり懐があったかくないから、追加でこんな美味そうなもの、そうそう頼めないよ」
 人好きのする顔で笑って山盛りにされた肉と野菜の炒め煮を受け取ると、相手も笑ってリーチー水を机に置いた。実のところ、既に運ばれていた籠いっぱいのパンとあわせれば、いくら食べ盛りの若いのでも余裕で満足しそうな量だ。
「ちょっと他の仕事があるんで、悪いが、食い終わったら呼んでくれや」
「わかった」
 片手を挙げて去って行く背中に頷きながら、青年は勢いよく肉の塊に歯をたてた。


 まだ少年の気配を残すこの青年 ― ロウは旅商人である。見たとおりごく年若いながら、旅をしてきた年数は実はもうすでにけっこうなものである。つい先日までは同じく旅商人である父親と共に行動していたが、今は一人で旅路にあった。
 何を専門に扱う、ということを彼はまだ特に決めてはいない。何より身近であり一番の手本であった父親が何でも扱う人であった所為もある。今後どんな品を主に商うにせよ、全く手が出せないことは無い程度には基本を叩きこまれていた。後は自分の好みと相性だろう。
 ただすでに、大人数の隊商は組まないだろうということだけは、彼自身にも薄々自覚があった。また、決まった道程をくり返し行き来し、同じ日同じ場所に店を出す、それも彼の望む生き方ではない。
 見たことのない景色、行ったことのない土地、訪れたことのない場所。彼が求めているのはそんなものだった。商売はそのついで。上手くいくに越したことはないが、それだけを目的にするつもりはない。
 今回の旅も、彼のそうした性分が発端であった。
 二十日ほど前、彼は西都で訳有りの品を手に入れていた。未加工の原石である。大きさは拳大。状態が良ければかなりの高値がつくそれを、タダも同然で譲り受けた。
 ちょうど同じ頃、商人仲間からある宝石加工職人の噂を聞いた。土地の者も好んで奥まで立ち入ろうとしない山の奥に一人で住み、自分の気に入った原石だけを加工するという、風変わりな職人がいるというものだ。どんなに手間賃を積んでも気に入らなければ扱わず、またどんなに指定しても彼自身が望む形にしか加工しないらしい。そもそもめったに客に会おうともしないのだ。
 但し、彼が気に入って仕上げた品は非のつけどころがひとつも無い、王族相手に扱われる品に比べても遜色無いほどの、まさしく完璧な仕上がりであるという。
 別にわざわざ僻地山奥まで足を延ばさずとも、西都にだとて腕の良い職人はたくさんおり、ロウもその何人かと懇意にしていた。彼らに頼んだところでなんら差し障りはない。だが、何かが彼の心に囁いた、これはおもしろいんじゃないか、と。
 翌日には早々と旅の空の下にいた彼の道中は、だが彼の予想していた以上に変化に富んだものとなった。原因ははっきりしていた。訳有りの原石、それである。



 《2》

「…………まずい、かな……?」
 唐突に、誰に言い聞かせるでもなくロウは呟く。ほぼ同時に、宿を後にしてからそれまで、平らだろうが急な登りだろうが全く変わらなかった歩調が急に乱れた。
 まるで自分の意志ではどうにもならぬかのように、両腕が周囲に掴まる物を探して大きく空をかき、進路は左右に大きく振れた。今いる道の左手は切り立った崖が高く聳えている。右手側は抉ったように急な斜面で、大人の背丈以上の深さがあった。足は、明らかに右手側に向かおうとしていた。まるで、無理やり引きずられているかのように。
「おい、……ここで、そりゃ、やばいって、よ」
 ロウの額に冷や汗が浮いた。一見、酔っ払いめいた動きが、彼の自主的なものではないことが知れる。必死に細めた目の上をこすり、傍目には滑稽にしか見えぬ行動をくり返す。
「くそっ…!!」
 次第に息は荒くなり、ままならぬ自分の身体を頻りに罵る言葉が口から迸る。だが、進路はうまく矯正されない。かえって勢いよく左右に振れるばかりで。
「う…………、うあぁぁぁぁぁっ!」
 叫び声とともに、踏ん張り切れなかった足がついにがくりと膝から崩れる。激しい音を立てて、道沿いに張り付くように茂っていた潅木に頭から突っ込み、ロウの身体は急な坂を勢いよく転げ落ちていった。


「…………あー、イテー……、ちくしょー……」
 ほんの一瞬だろうが、意識が途切れていたかもしれない。
 そう思いながら、落下したままの手足を投げ出した状態で、ロウはとりあえずぼやいた。全身草や細かい枯れ枝にまみれ、髪はぼさぼさ、手や顔は傷だらけである。が、幸いと言っていいのだろう、大きな怪我らしいものは無さそうである。
 しかし、まずい状態であることには変わりなかった。ほとんど人が通らない場所で、しかももうじき日暮れである。このまま夜を迎えるのは、まったくまずい。
「雨が降る様子はないったってなぁ……」
 幾重にも枝葉の重なる空にちらちらと蝶が行き交うのを見上げながら、零れるのはやはりため息で。ともかくも、ゆっくりと身体の具合を確かめながら、まず周囲を窺う。
 すぐに、彼は身じろぎを止めた。静まり返っていた森に、かすかにではあったが規則的な音が紛れている。それは少しずつ彼の転がっている場所に向かっており、人の足音であるとはっきり聞き分けがつく頃、頭上の、先程彼が転がり落ちた道のあるらしい位置でぴたりと止まった。
「……やけに山が騒ぐと思えば……」
 ひどく落ち着いた口調で発せられた、それは若い男の声であった。
 すぐに繁みをかきわけて斜面を降りてくるらしい音がした。さほど間を置かず、濃い緑の陰から声の主が姿を現す。声から推察した通りに若い、そう、ロウと同じほどに年若い青年の姿が。
「どうしたんですか?」
「見ての通り。そこから落ちたんだ」
「動けぬほど、怪我を?」
「いや、さほどでも」
 ロウは大仰に苦笑して見せた。
「オレはロウ。旅商人だ。あんたが、山に住んでるっていう宝石職人の人か?」
「この山に住んでいる人間は、私だけですね」
 声にも表情にもさほど愛想のあるでもない青年は、若い顔立ちに似合わぬ淡々とした口調で答えた。
「いつまでもそうやって地面に寝転がってることもないでしょう。どうせ横になるなら、寝台の方がずっといい」
「賛成だね。ついでに、手を貸してもらえると嬉しいんだけど」
「怪我はないと言いませんでしたか?」
「ああ。単に身体が痛くて動けないだけ」
「……妙に落ち着いてますね」
「そりゃまあ、ここに来るまで川に四回、このくらいの高さの場所からなら五回くらい飛び落ちてるし。いいかげん、慣れもするんじゃないかねぇ」
 他人事のような口ぶりでおおいに表情を歪める彼の手首を掴んだ青年は、万一を慮ってだろう、ごくゆっくりと上半身を引き起こしてやった。水から上がった犬のように数回頭を振ったロウが目眩から回復するのをせかすでもなく待ち、さらに荷を下ろして立ち上がるのに手を貸す。
「助かった」
 痩せているためだろうか。見上げているときには背の高い印象があったが、こうして立ち上がると目の位置がちょうど同じほどにあった。年齢も恐らくさほど違わない。つまり、熟練の腕を持つ職人という噂を裏切るかのように、ごく若かった。少年と呼んでもよいほどだ。
 礼を言って軽く握手した彼は、だがその手が思ったよりもずっと大きく、手の皮が厚くざらざらしていることに気づいた。指の長い整った外見に惑わされそうになるが、実態は確かに熟練の職人であるらしい。
「あちらの方が上りやすくなっています。……一人で歩けそうですか?」
「ゆっくりなら、まあ」
 無言で頷くとロウの荷をかつぎ上げ、その重さに不意をつかれたようにいささか眉を顰めながらも、目的地を承知している確かな歩調で歩き出した。


 後に従ってほどなくして着いたのは、山中に有るにしては田舎屋とは見るからに異なる二階建の家だった。並ぶように廏らしい小屋もある。中は空ではあったが。
「あんた、一人暮らしだって聞いたけど」
「ええ。ただ時々、両親が様子を見に来るので、その用意はあります」
 青年に促されるままに入ったすぐの場所が作業場らしく、手入れの行き届いた道具が整然と揃えられた広い空間になっているのをちらりと目にして、ロウは少しばかり納得の表情を浮かべた。
「腕がいいってのも、噂通りらしいな」
「仕上げた品を見てもいないのに?」
「道具の扱いを見れば、大凡の技量が測れるってのが、オレの父親の言い分でね」
 勧められるまま椅子に腰を下ろし、大きく息をついて言う。
「少なくとも、むやみに雑に扱う人間よりは信用できるとオレも思う」
「なるほど」
 初めて、青年の表情が動いた。
 とりあえず、と出されたお茶はとても良い香りで、ありがたく胸いっぱいに立ちのぼる芳香を吸い込むと、全身の強ばりがほぐれる。口に含むと、ほのかな甘味を感じた。
 ロウが一息つくのを見計らっていたのだろう。器が半ば空いたころ、青年は静かに口を開いた。
「それで私に会いに来たというのは、懐に入れた石の件ですか?」
「……オレ、かばってたか?」
「いいえ」
 彼はゆっくりと一言で否定した。
「なるほど。確かに変わり者だ」
 いきなり言い当てられてうろたえたもののすぐに気を取り直したロウは、理由を語らぬ彼に微かに目許で笑み、素直に懐から一塊の布包みを取り出して机の上に置いた。ほどかれた布の間から姿を現したのは、拳大の石。何の変哲もないと見えたが、何カ所か色のついた部分からその中身が窺えた。
 見事な大きさの琥珀の原石。
「こいつを加工して貰えるか、それを尋きにきた」
「何故、わざわざここまで頼みに来たのですか?」
 そのように問う眼差しにはわずかのゆらぎもなく、なんとなくロウがここまで来た理由についても、既に見当がついているのではないかと思われたけれど、敢えて尋ねた彼に応じてロウも答えた。
「訳有りの石でな。持ち主に、奇妙なことが起こるんだよ」



 《3》

 初めは、夢。

「調べのつくだけ元の持ち主に尋いてまずわかったのは、みんながみんなそろって同じ夢を見ていたってことだった。ひどく暗い、蜜色の場所を飛ぶ夢を毎晩のように見るのが、この石を手に入れてから起こる最初の徴候」
 とん、と指先で石を軽く叩く。
「もちろん、オレも見た。これがね、どろっとした何かに体中を包まれてるみたいで、思うように動けない、まったく自分の自由にならないで、ひたすらもがく夢なんだ。それでいてなんだかふわふわ飛んでる感じは始終しているんだが。まあでも、それだけならただ悪夢ってことで終わりだ」
 次が、幻。
「ところが、それが現実、つまり目が覚めて起きてる間にも同じように感じられるようになってくるんだな。これが、たちが悪い」
 大仰に表情を歪めて、ロウは説明する。
「急に何の前兆もなく目の前が蜂蜜色というか、……ああこれだ、琥珀色、それもやたらと暗い琥珀色に覆われる。濁った琥珀色の水に突き落とされたような感じって言えば、一番近いかね。足元が粘ついたように不自由に感じられて、だからといって力を込めると今度は反対にふわっと浮き上がるように不安定になって、全く自分の思うように身体が動かない。更にはあちらこちらと強引に引きずられるんだよ、目に見えない何かに。
「で、はたと視界が戻るとまったく知らない場所を歩いていた、なんてことになる。それがだんだん頻繁に起こるようになるんだが、自由のきかない間に、どうも高い場所に向かって引きずられる傾向があってなあ。とうとう死にそうな目にあう者が出た。そいつは家の二階の窓から落ちたらしい。幸いと言っていいのかはわからんが、両足の骨を折りはしたけれど命はとりとめたそうだ。
「そんなこんなで、この石を手に入れてもすぐに手放し、ということが続いたらしい。魔法使いに依頼しようと考えた者も当然いたらしいんだが、到着するまで待てなかったって話だ。次々に人の手を渡り続けて、だれも長期間所持することがなかった。売ろうとしても、来歴が知れると引き取り手が二の足を踏む、来歴を隠しても、結局は怪異が起こるから自然と噂が広まる。最後に押し付けられたその人は、オレの父の知り合いだったんだけどな、困り果ててちょうど街に戻っていたオレに声をかけてきたんだ、何とかならないかってね」
 それで、引き受けたのだ、とロウは続けた。怪異が起こることは承知の上で。
「あなた、物好きだと言われませんか?」
「時々な。全く反論のしようがないんだが、つい。おもしろそうだと思ったんだ。それにちょうど、『山奥に住む宝石加工職人』の噂を耳にした頃だったってのもある。実際に、そうして聞き回った通りの怪異にあっても、手放そうとは思わなかった。いや、今もそうだな」
 言いながら、ロウは自分自身を笑うような仕草をしてみせた。どこか、自分でも実は不思議でならないのだ、とそう言いたげな表情で。そっと石の表面を撫でながら囁くように打ち明ける。
「手放したいとは、思えないんだ。ここに来る途中みたいなことになっても、それがこの石の所為だってわかっていても、どうも…。どうしてなんだか説明できないんだよ。説明はできないんだが、これを放り捨てるってのは、嫌なんだ。この石の以前の所有者たちは、誰ひとりそんなふうに言ったりしなかったってのに、なんでなんだか……」
「手放せない?」
「ああ。変なもんさ。言っちまえば、こんなのは単なる石だ。魔法使いじゃないからさ、オレは、石に特別な力があろうが無かろうが、さして問題じゃない。商売物としての価値を別にすれば、石は石だ。しかもこいつはまだ研磨されてもいない。琥珀だってことだけは確かだが、質については全くわかっちゃいない。たぶん大きいだろうけど、売り物になるほどのものかどうか知れたもんじゃない。けど、そんなのは些細なことさ。価値とかじゃない。そう、……そうだな。こう、言うなら、そう、……惹かれる、うん、惹かれてるんだな、この石に。単純にな」
 ぱちぱちと暖炉で薪の弾ける小さな音。薪の表面を這うような炎の動きにつれて影は音もなく踊る。
「相性がよいのでしょうね」
 ペトゥロは手を延ばし、何かを確かめるように、親指の腹で石のざらりとした表面を撫でた。
「この石は、あなたととても相性がいい。とても、似ている。だから、あなたはこの石をとても手放しがたく思うのでしょう」
「……そんなことがわかるのか?」
「うん、私はね」
 ほんのわずかに頭をゆらして、肯定する。
「私は、わかります。石のことならば、私の領分だから」
 両手の指を広げ、包み込むように、石に触れたままで。
「石に力があっても無くても、石と石、人、場所、それぞれに多かれ少なかれ相性はあります。影響が弱ければ問題はありません。似合わないとか色合いが冴えない、映えない、そんなことですみます。けれど時に、そんな程度では事が収まらない場合もあります。人の生き死にに、或いは土地の、国の存亡といったものに影響を与えることが」
「こんな代物が原因で、そんなことが、あり得るのか?」
「ありますよ。確かに、そこまで到ることは、稀ではあるけれど。気づく者さえ、ほとんどおらずとも」
 訝しげに向けられた問いにさらりと返し、愛しむようにそっと撫でていた石から手を離すと、ロウへと視線を向けた。
「そうした出会いは、あるのです。そう……この石のように」
「ん? まさか、オレと?」
「あなたと」
「そりゃ、……とんだ災難だな」
「さあ。今はどうとも言えませんね」
「おいおい、こんな目にあってるっていうのに?」
 否定されて、眉根を寄せる。感じたままに疑問を口にしたロウに、青年もまた自分の感じるところを告げた。
「うん。断言できない理由のひとつが、これが今、とても半端な状態にあるということです。もはや地中に埋もれているのではなく、かといって磨きあげられているのでもない。とても、不安定で。浅い眠りの中で、夢と現とを行き来しているような状態です」
「あんた、まるでこれを生きているもののように言うんだな」
「或いは、その言い方が正しいのかもしれません」
「どういう意味だ、それは?」
「先刻から様子を窺っていたのですけれど、これにはうっすらと別な何かの気配があります。石そのものとすっかりまじりあって区別が難しいほどほとんど同化して、ごくわずかに石との差異を抱えている何か。石よりは、まだ何らかの意識を持った、何か……」


「あなたが良ければ、ですけれど」
 しばらく黙り込んでいたペトゥロは、やがて心を決めたように数度瞬きして、それを切り出した。
「私にそれを任せてもらえないでしょうか?」
「それって、つまり……」
「うん。磨いてみたいんです。ああ、装飾品としてすぐ使えるように、という所まではやりませんよ。原石を加工して、その最も望む姿にするだけですから。ただ、そうすれば恐らくは今よりも安定するのは確かです。あなたへの影響の善し悪しも、はっきりするでしょうね。今のように生命を危うくするような形ではなくなるかもしれません。まあ、それは実際に研磨してみなければ断言できませんが。正直に言えば、逆に事態が更に悪化する可能性もあります」
「だがともかく、事態が変わるってのが確かなら……。あ、加工の手間賃はいくらになるんだ? 相場だと……」
「いりません」
「いらない!?」
「うん。私が知りたいんです。この石は魅力的です、あなたが惹かれる気持ちがよくわかります。私をさえ、動かしてしまいそうです。だから知りたい。何を抱いているのか、何がそうさせているのか、私はこの目で確かめたい」
 言い切り、ペトゥロは微笑んだ。一見、至極穏やかに見えるそれを、眼差しの眩しさが鮮やかに裏切っていた。
 ロウは、自分の抱いた第一印象が誤っていたことを知った。この青年は、別に達観しきった隠者などではないのだ。落ち着き払い、冷静に、淡々と物事を理解し受け入れているのではない。
 彼の中には情熱があった。理性による完全な制御など決して受容せぬ激しい情熱が、消えることのない炎があった。
 火の山だ。表には深い緑を茂らせ、澄んだ豊かな清流を抱き、だが同時に地の奥に深々とたぎる熱を抱えて、天を焦がさんばかりの噴火をもたらし一帯を焼き尽くすことさえある、微睡みの火山。
 じっと、輝く瞳を覗きこみながら、思う。
(どうして、オレは、わざわざここまで来たんだ?)
 ふいにロウは自覚した。不安定なのは、この石だけではない。だからきっとこれほどに惹かれてやまないのではないだろうか。いみじくも彼が言ったではないか、『似ている』と。
 改めて原石を手の内に握りこんだ。大きさから予想するほどには重くない、片手に収まりきらぬそれが、幻だろうか、少し、ほんの少しだけ、熱を持っているように感じられた。あるかどうかも知れぬ曖昧な、不安感を形にしたような、心に働きかける熱。
「…………頼むわ」
 そのままペトゥロの手に置いた。石を挟み込む形で、彼らは一瞬、手を取り合った。
「ありがとうございます。明日の朝から作業に入りますので、あなたは自由にしていてください」
「了解した。できれば、オレがまた崖に飛び込んじまう前に、なんとかしてくれると助かる」
 苦笑しながら口にされたそれは、かなり本音だった。



 《4》

 鳥の声が聞こえる。森をゆらすかと思われるほどに激しい。空は青く晴れ渡り、雲はひとつも無い。風は多少強く、だが心地よい。
「……おはようございます」
「おはよう。いい天気だな」
「ええ、本当に。ところで、我が家の寝台はそんなに狭かったでしょうか?」
 その問いにロウは大きく左右に頭を振り、盛大な苦笑いを浮かべた。
「まさか」
「なるほど」
 ロウは軽い掛け声とともに上半身を起こし、目の前に立っている宿主に提案した。
「あのさ。昨日言い忘れてたんだけど、敬語やめてもらえないかな。歳もそんなに違わなそうだし、第一、こんな状況にそんなふうな口調で感想をもらうと、さすがにがっくりくるわ」
 間近で鳥が鳴いていた。軽やかで、笑っているように聞こえなくもない。
 彼らが言葉を交わしているのは、昨夜ロウが泊まった部屋の窓の下、青々と茂った草の上。つまり、外である。間違いなく寝台の上で眠りについたロウは、落下した衝撃で目覚めた。寝台からではなく、窓から。
「一階の部屋を貸して正解だったか」
「ああ。そういえば昨日も今日も、よくオレがいる場所がわかったな。理由を尋いてもいいか?」
 打てば響く素早い変化を知って、ロウは嬉しげな表情で頷き、まるで彼が窓の外に転がっていることを知っていたかのように姿を現したことについて尋ねると、ペトゥロは隠すでもなく答えた。
「山が騒ぐのでわかる。昨夜も言った通り、石は私の領分だから」
「石は山の一部かい。まあ、助かったよ。あそこで夜明かしすることになるかと、覚悟しかけたさ、さすがに」
 ばさばさと髪についた草の切れ端を払い落とし、笑い顔で。
「それと、もう一つ尋きたいんだけど?」
「他に、何を?」
「あんたの名前」
「……言ってなかったか?」
「ああ」
 青年は深く深くため息をついた。そして、ロウに手を貸して答えた。
「ペトゥロだ。よろしく」
「よろしく」
「では、朝食にしよう」


 パンとスープの簡単な食事だった。味付けも単純極まりない。普段から料理をしているのかと尋けば、気が向いたときにはそれなりにとペトゥロが答える。少しばかり薄味ではあったが悪くはないなと、落としきれず髪にからんだままだった草が時に落ちてくるのを取り除きながら、ロウは勢いよく空腹を満たしていった。
「昨日の夜、久しぶりに昔の夢を見たんだ。途中で、石の悪夢になったけど」
 皿の底までパンで拭ってきれいに食べつくし、ロウは話した。
「……あれって、いつだったんだろ。場所もよくわかんないんだけど、父親に連れられて見たことがある。蝶が、すげえたくさんの蝶がいる森」
 窓の外を見やりながら、ぽそり、こんな天気の日だったと。
「本当にたくさん。木の葉だって思ったものがみんな蝶だったくらい。なんかさ、単純にすげえと思ったよ。そんなに大きな蝶じゃないのに、そいつらがこの大陸を南北の端から端まで飛んで行くって、海も越えるんだって教わって。……こいつら、こんな小さななりでそんなにしてまでどこに行くんだろう、どこに行きたいんだろうって思ったのを、今でも覚えてる」
「いつから旅を?」
「父親に連れられて初めての旅に出たのは、七歳の時だった。誕生日のすぐ後だったから、これは確かだな」
「そんな頃に、もう?」
 驚愕に軽く頷いた。生まれた瞬間から旅の中にある旅団の一員でもない限り、そのような年齢で長い旅に出る者は確かに珍しいから、驚く気持ちはわからなくはない。
「ああ。たぶん、蝶の森を見たのは、その少し後くらいだったんじゃないかな。最初の一年くらいは、旅に慣れてなかった所為もあって、回った場所とかあまり正確な記憶がないんだ」
「生まれ故郷は?」
「わからない」
 目を閉じたまま彼は笑った。
「初めての旅に出て、実はそのまま一度も戻ってない。七歳の子どもの記憶じゃ、村の名前はかろうじて覚えてても、その村のある地域や国の名前までは残ってないよ。必要ないからな。おかげで、どこが生まれ故郷なのか、自分でももうわからない。尋けば、父は教えてくれたとは思うけどね」
「尋かなかったのか」
「ああ。帰りたいと思ったことがないから」
 白湯で口をゆすぎながら、なんでもないことだとロウは語った。
「それからずっと、旅ばかりだ。蝶の森みたいな美しいものや、凄いもの、そんなのを目にするたびに、父が会いに来てくれたことを心から感謝した」
「いつから一人で?」
「つい最近。ずっと見習い扱いで父親にくっついてたけど、そろそろ独り立ちしてもいい頃だって、西都に立ち寄った時に商人ギルドで登録した。……あっちもどっかの旅の途中だろうな。オレも落ち着きないけどね」


「ところで、あんたは? ここにはどっか別のとこから来たって麓の食堂のおやじが言ってたけど、あんたもあちこち見てきたわけ?」
「いや」
 とん、と小さな音を立てて器を置くと、ペトゥロは首を横に振った。
「ここに移ってきたのは二年ほど前だが、それまで住んでいた街から出たことはほとんどない」
「ふうん。なんでまたこんなへんぴな場所に一人で住むことにしたわけ? 仕事の都合かなんか?」
「……呼ばれたから」
 囁きのように微かな声だった。
 思いもしなかった答えにロウは大きく瞬きで返し、続きを促す。沈黙はいささか長く続いた。
「……時に、石と人との出会いがあることを、きのう、話したが」
 ゆっくりと、一言一言を確かめるように、ペトゥロは口にした。
「私にも、それがあった。…石、というよりも、それらすべてを含んだ、大地、に近いもの。とても、とても大きな力が、私を呼んだ。在るべき場所へ来るようにと。生まれた場所は、私の存在を支えられず、ここに来る前の私は、信じられぬほど病弱だった。……たぶん今も、この山を離れれば同じことになる。もっとも、もう二度と山を降りることはできないだろうが」
「できない?」
「ああ。私は、石のことならわかる。その、力の代償だろう」
「そんなことが、あり得るのか?」
「ある」
 昨夜放たれたものと同じ問いに、同じように彼は答える。
「時に、この世界に在る大きな力に近しい人間がいる。自覚することもある。自覚せずに生きることも、ある。私は、そう生まれついた。たぶん、あなたも」
「……オレが?」
「たぶん。決して止まらぬ、そのようなものとして」
 言いながら、彼は窓の外に視線を向けた。緑が軋んでいた。
「私は、そうだと思う」
 だから、こんなことまで話したのだと、そんな口ぶりだった。



 《5》

 一人で取った昼食の後、ロウは倒れた。外に出ようとした途端に意識が失せ、玄関先の階段を転がり落ちたのだ。
 ひどく派手な音をたてたのだろう、作業場にいたペトゥロが即座に異変に気づき、寝台まで運んだ。
「……意識がなくなるなんてのは、初めてだ」
 ほどなくして意識を取り戻したものの、さすがに顔色は青白く、表情も強ばりぎみであった。息を押し出すように呟く。
「朝もそうだったが、本格的に削り出したからだろう。だが、……やはりおかしいな」
 応えて、しかしと首を傾げたペトゥロを、いささか不安げに、問うように眉を顰めながら彼は見上げた。
「見てみるといい」
 言って、ペトゥロはそれを横たわるロウの目の前に差し出した。あまりに近くに持ち出されたために、一瞬、様子をとらえかねたが、焦点が定まるや否や目を大きく見開いて上体をゆるりと起こした。
 周囲を覆っていた岩石の部分はすべて取り除かれ、今は中央にあった琥珀そのものが剥き出しになっていた。予測していたよりも、若干大きい。きちんと研磨されていない、まだ刻み跡のついたままのそれは滑らかに透き通ってるとは言えない。だがそれでも光に透かして見れば、濃色のそれの中心には。
「……ほんとだ。何か、入ってる」
「この通り、ここまで削り出せば、状態はかなりはっきりと知れる。……だが、これは本来ならばもっと澄んでいるべき石だ。はっきりと中身が見えるほどに。私が思うに、これは変化を拒んでいる。外に出たい、このままここにいたい。目覚めたい、目覚めたくない。選ぶことができずに、ゆらいでいる」
「拒絶反応ってとこか。……どうしていいかわからない、か。けど、それでオレがぶっ倒れるって、……理不尽じゃねえか」
「仕方ない。あなたは否応無くこの石と引き合ってしまっている。だがね、影響は、片方が一方的に与えるばかりとは限らないんだよ」
「どういう意味だ?」
「私から言えるのはここまでだ。教えたところで意味が無い。あなたが自分自身で気づかない限りは」
 ぴたりと合った挑むような眼差しに、ロウが笑む。
「やってみろってか?」
「やれるかい? ここまで強い反応が出るのだ、危険が無いわけではない」
「気にくわねぇ言い方するよな」
 ばたんと勢いよく後ろに倒れ、頭を具合よく枕に収める。見下ろすペトゥロに向けて日に焼けた左手を差し伸べ、告げた。
「やってやろうじゃないか。その代わり、完っ璧に研磨しろよ」
「わかった。健闘を祈る」
 互いの左手を叩くように合わせ、ペトゥロは心からの激励の言葉を贈った。



 《6》

 見渡すことのできない暗く霞んだ視界。ぬるく曖昧な風。粘つく足元の感触が気持ち悪い。無意識に縋るものを探したけれど、延ばした手には何も触れず、どことなく重く、実感が無い。
 空振りするたびに、ひどい不安感が後から後から湧き上がってくる。
 更には上ずったようなこの絶え間無い雑音。いらいらする。
(行かないと)
 けれど、どこへ行けというのか。どこを目指せというのか。視界は半端に塞がれ、行き先も目的も知れぬまま、身じろぎするたびにしきりと意識されるゆるやかな拘束感が苛立ちを煽りたてる。
(行かなければ)
 だが、何処へ? 尋ねようとしても声が出ない。喉の奥にやわらかな布を押し込まれているかのようだ。そもそも誰にそれを問えばいい? 目に入るものはどこまでも濁った琥珀色の闇。
(行きたくない)
 誰もいない、誰も。何処にも行けない、何処にも。
 行くべき場所など知りはしない。行くべき場所を教える人は、もういない。
(……もう?)
 唐突に、淀んでいた意識が澄む。また意識がぼやけぬうちにと、ロウは自分が意識したその言葉にしがみつき、声にせぬままくり返した。
(もういない、もう、いない、…………誰が?)
 ぱちり。
 目が開く。ロウは自分が目を開いたことを意識した。
 手を持ち上げてみる。在るはずだ、と目を凝らす。両手が見えた、はっきりと。
 これは夢だ。彼は認識した。これは、夢、自分以外の何かの夢。
 多分、琥珀かその中にいるものの見ている夢。
 閉じ込められていたものの夢。
 閉じこもっているものの、夢。
 もう準備はできている。目覚めればそれでいい。夢の終わりを告げれば、すべては解決するはず。
(出られない、出たくない)
 何かが呟いている、不安げに。叫んでいる、恐ろしげに。
(出たい、出たい、出たくない)
 目覚めろと、口にしようとしてロウは気がついた。
 声が出ない。
 そしてまた同時に思う。どうして出たくないのだろうか。
(さみしい、こわい、こわい、もう、いない、だれも、もう、だれも)
 彼の思考に反響するように、微かなそれがさざ波めいた気配を伝えた。不安。恐怖。期待。孤独。切望。諦観。
 見知らぬ扉を開けることへの不安。出会ったことのないものに出会うことへの不安。先にあるものを教えてくれる誰かがいないことへの不安。行き着けぬかもしれないことへの不安。ここにいる限り、そんなものには出会わずにすむのだという消極的な安堵。同時に、何も見えない場所に囚われているという恐怖。
 伝わってくるそれらに、ふとロウは考え込んだ。これは、自分の中に潜んでいたもの。皆な、彼にとっても身に馴染んだもの。普段はさほど意識せぬままに、だが確かにそれらは胸に棲んでいた。常に。
 ペトゥロの言った通り、確かに似ている。けれど、……この不安は、本当に石の中に在ったものか?
 違和感が、一気に彼の記憶を浚った。琥珀はくり返し何をしようとしていただろう。所有者を、高い場所へ連れて行こうとした。何故か?
 簡単だ。飛びたかったからだ。飛び立とうとしたからだ。望んでいたのは、空を飛ぶこと。ひたすらに、ただそれだけ。
 外へ出て行くことへの不安が入り込む余地など無い。

(影響は、片方が一方的に与えるばかりとは限らないんだよ)

 笑いたくなった。同時に、少しだけ泣きたくなった。
 つまり、巻き添えをくっていたのは、自分だけではなかったのだ。
 明確に自覚していなかったけれど、こんなに不安だったのか。ずっと怖かったのか。
 もうかなり長い間、父親とあちらこちらと旅し続けて、すっかり慣れたと思っていた。見知らぬ土地へ行き、見知らぬ相手と語り、そんな生活が自分にとって一番似合っているのだと思っていた。
 まだこんなにも不安や恐れがあったのか。微睡んでいた琥珀の夢を、引きずってしまうほどに。
 迷っていた。迷い、恐れていた、不安だった。
 多分、自覚したところで、それがすっかり消えてしまうわけではない。
 それでも、別の答えもまた自分は知っているのだ。
 初めて目にする扉。その向こうには、恐ろしいものがあるのかもしれない。けれど、開けなければそこに何があるのかを知ることはできない。
 歩いたことの無い道。そこを行けば、帰ってくることはできないのかもしれない。けれど、行かなければそこに何があるのかを目にすることはできない。
 恐怖はある。そこに何があるのかを教えてくれる誰かがいなければ、それを確かめるのも見つけるのも、或いはそれに脅かされるのも自分自身でしか在り得ない。
 だが、それは怖いだけのことだろうか。
 いや。彼は即座に否定した。それは同時に胸を躍らせるものだ。誰かが予めそこにあるものを教えてくれれば、確かに危険は減るだろう。だが、見知らぬものに出くわしたときの、思いがけぬことを目にしたときの、高揚感は薄れてしまう。
 予め用意された道を行く。それは確かに安全だろう。だが、新しいものを目にすることは、新しいことに出会うことは、そこではほとんど期待できない。
 それならば。
 ぐずぐずと、足踏みしていてどうする。うずくまっていてどうする。
 訪れた好機に、どうして気づかないふりをする。
 何故、誰かが方角を指し示すのをいちいち待っているのだ。行くべき場所など知らないけれど、行きたい場所を決めるのは、結局は自分自身ではないか。
「そうだ」
 掠れたけれど、声が出た。そのことに力づけられ、彼はまた呟いた。
「行きたいなら、行けばいい。それがどんなに困難に見えたって、不安でも恐ろしくても、一歩を踏み出さなければ始まらないし、歩きだせば道は見えてくる。オレは、……オレは、それを教わった」
 ふらつく頭を押さえながら、ロウは自分自身に言い聞かせるよう、確かめるように一言一言をゆっくりと口にする。
「ああ、そうだ。それだけのことだった。オレはもうとっくに、そのことを教えられていたんだ。知ってたんだ。オレは、迷う必要なんか、無かったんだよな。簡単なことだったんだ。歩き方は、もう習ってた。だからオヤジは手を放したんだよな。なんだ、そんなことだったんじゃないか……」
 いつからか、彼は笑っていた。腹の底からひどく愉快そうに、何かをふっきったかのように勢いよく、思い切り、笑っていた。
「バカか、オレは。こんなに簡単なことを忘れて、変に迷ってふらふら、ふらふら。いつまでも、オヤジの背中に頼ってどうするよ」
 今はもうすっかり自分の両足で立ち、涙が滲むほどの大笑いをようよう収めながら、ロウはもう迷わないと決めた。いや、迷うことを恐れないと。
 昂然と胸を張り、宣言する。高らかに。
「行けるさ、どこにだって。望む場所にオレは行く。道標は、いつだって自分の中にある。進むも戻るも留まるも、決めるのはオレ自身なんだ。ああ、もう忘れるもんか。全部、そうさ全部、楽しんじまえばいい、それだけのことなんだよな!」
 ゆらぎ閉じていた世界が、徐々に手触りを取り戻す。仄暗く不透明であった視界が晴れ渡ってゆく。鮮やかに。
 ふわり。
 見上げると、たくさんの色鮮やかな蝶が飛んでいるのが見えた。捕らわれるものなど何も無いかのように、ただ軽やかに、ふわり、ふわりと。
 今まで見えなかったのか、目を閉ざしていただけなのか。もうどちらであっても構わなかった。
 今は、美しい世界が見える。広大な世界が目の前に広がる。知らない土地がある、行きたい場所がある。彼の訪れていない場所の方が明らかに多いのだ。こんなところで迷っている場合ではない。
 彼はただ思い出せばよかったのだ。
 あの日、父親は無理にロウの手を引いたのではなかった。母親は無理にロウの背を押したのではなかった。
 行きたいと、望んだのは彼自身。世界を見たいと一歩を踏み出した幼い自分の方が、もしかしたらずっと本当のことをわかっていたのかもしれない。
 既に一度選んでいた。ならば次の一歩を踏み出せないわけがない。
 風にただ運ばれて行くのではない。自分で選んでそこに行くのだ。
(どこまで行くのかな?)
(どこまででも行くんだよ。望む場所に。それがどんなに遠い場所でも)
 あの幼い日に見た、心震わされる場所へ。
 まだ目にしていない、世界へ。


「ロウ?」
 返事を待たずに扉を開けたペトゥロは、窓にもたれ掛かるように座り気を失っているロウを目にして、やれやれとため息をついた。気を失っていてさえ、その顔が窓の外を、世界を見ようとしているかのようであったからだ。
「……こんな姿勢では、体が痛いだろうに」
 抑えた掛け声とともにロウの軽くはない体を寝台に押し上げた。一度は窓を閉めたものの思い直して全開にし、ロウには毛布をかける。
 去り際、意識のない顔が微笑んでいるのを目の端に確かめ、ふわりと彼も笑んだ。
「いい夢を、見てるのかな」
 目が覚めたら、きっと話してくれるに違いない。



 《7》

「起きていたのか」
「ん? ああ」
 開け放った窓辺に腰掛けていたロウに、そう声をかけると、ロウは視線だけで振り向き、応えた。血色を取り戻した顔はすこぶる健康そうで、倒れる前よりもどこか生き生きとして見えた。
「すっかり良さそうだな」
「あんたにゃ、とっくにわかってただろうけど」
 言いながら目許に笑みをにじませ、大きく伸びをする。
「いい風だ。こんな日には、部屋ん中にいるよりも、見晴らしのいい道を歩いてる方がずっといい」
「……ほんと、おまえは、蝶々と同じだね」
 ペトゥロは手の中に包み込むように握りしめていた石を、机の上にそっと置いた。半球形に磨き上げられた琥珀は見違えるほどに美しく澄み、その内に抱くものを誇るかのようであった。
 蜜色の琥珀の中、羽を広げた見慣れぬ紋様の蝶は、今、飛び立とうとする気配。
「風や水に属するものを、一カ所に止めておくのは相応しいことではない。動き続けなければ淀み、濁り、朽ちてしまう。おまえには、その心の赴くままに世界を旅し続けることこそが、きっと最も相応しい」
「じゃあ、あんたは? あんたはここを出て、外へ出ていきたいとは思わないのか? 一度も試さなかったのか?」
 ロウが問うと、もちろんと、肯定が返った。
「思うよ。何度か、試したこともある。でもやっぱり、出来なかった。私は大地に属している。力を委ねられている。それゆえに私を支えられる場所は限られているんだ。幼い頃にはその代償のために苦しんだこともあったし、その束縛を苦々しく思うことがままあるけれど、今は、少し受け入れられるようにもなってきた」
 にこりと笑む。
「ちょっと、いいかな」
 促されてロウは部屋を出る彼の後に従った。連れて行かれたのは、二階の一室。ペトゥロの部屋のちょうど真向かいに位置している。
 窓が大きく取られ、心地よく風が抜けてゆく。
「おまえの部屋だ」
「え!?」
「私は、たぶん二度とこの土地を離れることは出来ないだろう。この家は、私がここにいいる限り、変わることなく在り続ける。たとえ今後おまえが二度とここに来ることがなくても、私がここにいる限り、おまえの部屋はここに在る。帰ることなどなくとも、おまえの故郷はここに在るのだと、覚えていてほしい」
「故郷? 会ったばかりの人間のために? 二度と来ないかもしれない人間のために、そんなことをしようだなんて、あんた、いったい何を考えてんだよ?」
「これが私のためでもあるから」
 言いながら、寝台脇の小卓に、いつの間に手にしていたのか先刻の琥珀を置いた。
「おまえが帰る場所だと思えば、ここを動くことのできない自分にも、十分な意味があると思えるだろう。たとえそれが十年、二十年後であっても、或いは二度とおまえが来ることがなかったとしても、この部屋を目にする度にきっと、私はこの土地に居る意味を手に入れることができる。これは私の自己満足だ。おまえに義務を押しつけるためのものじゃない。ただ、旅の途中で帰る場所が欲しくなったときに、思い出してくれれば。それが一生に一度きりであったとしても、十分、この部屋が存在する意味があるんだよ」


 まっすぐに視線を合わせていたロウが、沈黙の間にふと問う。
「……おまえ、言ったよな。石と人とに、特別な出会いってのがあるって」
「ええ」
「人と人にも、あるのかい?」
「それはあるだろうね。私にわかるのは、石のことだけだけれど」
「そういや、それも言ってたな。ま、いいさ。どっちにしろ、自分が了解してればいい話だしな」
「ロウ?」
「ディオルト、だ」
「え?」
「ディオルトってんだ、生まれた所に置いてきた名前。どこだかわかんなくなっちまったから、そのまま置きっ放しにしてた」
 驚きのあまり妙に幼げな表情をさらすペトゥロに、ロウは勢いよく破顔して見せた。まだ少年の気配の残る顔で。
「ここに置いてって、いいんだろ?」
「……ああ」
 おずおずと頷き、そしてふっと彼も笑った。
 開け放たれた窓から風が吹き過ぎてゆく。ロウと、ペトゥロと、磨き上げられた琥珀の上を。
 ひらり、ひらりと。



 《Epilogue》

「おんや、久しぶりだねえ。元気かい?」
「おやじさんこそ、変わりないかい?」
「ここらじゃ、そうそう変わったことなんぞ起こらんよ。あんたは、また山の、ペトゥロさんとこに行くのかね?」
「ああ。何か変わったことでもあった?」
「いんや、相変わらずの変わり者でさあ。ただ、前よりもまたちょこちょこ来る客が増えたかね。もっとも、なかなか相手にされないって連中が大部分だが」
「はは……。えり好みが激しいからなあ」
 よく冷えたリーチー水で喉を潤しながら、おもしろそうにロウは笑った。客が増えたのは、彼が扱うペトゥロの加工した品の質が極めて良いために、そこそこ名が知れるようになったからだろう。だが出回る品は、今もロウが扱う分以外ほとんど無い。原石のえり好みもそうだが、ペトゥロの気に入らぬ類いの客は、どういうわけか家にさえたどり着くことができないのだ。そしてたどり着く客は、今もさほど多くない。
 しつこく交渉を続けようとする諦めの悪い客の大部分が、村で一件きりのこの宿屋に泊まるからなのか、変わり者と言いつつも特に悪く思っていないことは、宿のおやじの表情から見て取れた。
 ひとしきり世間話などして店を出たが、まだ十分に日は高かった。
 ゆったりとした足取りで山中へ向かう勾配のついた道を歩いて行く。通り慣れたこの道はいつでも彼を歓迎してくれる。
 ふわりと、目の前を何かが横切った。
「……ああ」
 彼は微笑み、そっと手を伸ばす。それはからかうように指先をかわして、道の脇の繁みの中に姿を消した。珍しいものではない、この大陸のどこにでもよく姿を見せる蝶々。彼の好きな、小さいけれど、案外に強い生き物。
「さて。夕飯時にゃ間に合うかなあ」
 茂みの中に消えたその姿をしばらく見送って、ロウは再び迷いの無い足取りで歩き出した。
 この道の先ではいつでも、友人が待っていてくれる。
 決して裏切られることのないそれを思い、ロウは穏やかな笑みを浮かべていた。



《了》




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