鬼 市 <ki-shi>




 《1》

 雨上がりの空には、ちょうど真ん丸に太りきった月が明るく輝いていた。
 長時間勢いの強い雨を降らせていた雲は、山の向こう側にすっかり移動し終えたようである。地上はそうでもなかったが、雲の動きから推測するに上空では風がかなり早いらしい。磨かれたような星々はちかちかと忙しなく瞬いている。
 木陰から道の上に出ると、空の様子はなおわかりやすかった。一面に広がっていた暗い雲は文字通りひとかけらも無くなり、先刻までの暗さのせいか、今は月の光が眩しいほどだ。白い砂利石が雑に撒き敷かれた道は濡れて光を弾き、前後に人影は無かった。
 ぐっしょり濡れたマントのフードを跳ね上げると、やれやれといったふうにロウは背伸びした。荷物の上から被った旅仕様のマントは十分に雨を防いでくれたものの、雨水を含んだ分だけ、重い。
 気温が下がったうえに、どうしても背中の荷をかばう姿勢になるからだろう、身体全体が大分こわばってしまっていた。地面は当然びしょびしょに濡れており、まだ荷を下ろすわけにはいかない。それでもフードを脱ぐと、多少気分が楽になった。
 ここはランザールの北部、国境近くの中都市ジールドへ向かう山間の道だった。国で管理を保証している街道を少しはずれた所だ。近隣の町や村の人間が頻繁に使用するために、年に数回持ち回りで手入れする、といった程度の道であろう。整備が行き届いているとは言えないが、通行に不都合なほど荒れてもいない。
 前の町を出るときには、これほど強い雨が降るような気配はなかった。もっとも、町の者も天候の変化を特に注意しなかったのだから、読みちがえを悔やむよりは、運が悪かったのだと諦めた方が良さそうである。雨を避けられるような屋根のある小屋か何かがあれば問題なかったのだろうが、まあそう都合よくはいかなかった。
「さてと。…………明るいしな」
 ロウはマントを脱ぐと力いっぱいに絞った。水が抜けていくらか軽くなったそれを四つ折りにして荷物の一番上に引っかけ、次の目的地の方向へ足を向ける。とりあえずは徹夜の覚悟。途中で荷を置いて休めるような乾いた場所が見つかればそこで寝ることに決めると、疲れは無視して歩き始めた。


 ロウは旅商人である。基本的には一人で歩き商売をする。各地に固定客もいるが、季節毎に同じ地域を巡るのではなく、気の向くままにいくつかの国々を渡り歩いて、主に宝石を扱っていた。そのため彼の顧客には貴族や、金持ち、そして魔法使いが多かった。
 魔法使いが多いのは、宝石のいくつかが魔力を持つことが理由だ。力のある宝石は、魔法を使ううえで非常に助けになる。魔法使いたちは腕の善し悪しを問わず上質の宝石を常に求めており、ロウはその求めによく応じることのできる商人の一人なのである。
 歩きながらこの先の旅程やら宿や商売の手配の段取りなどをぼんやり考えていたロウがふと心づくと、いつの間にかその進む道の色合いが先程までと微妙に異なっていた。彼は改めて目を凝らし、同時に折よく吹いた微風が巻き上げた甘い香りに気が付く。
 足元には、道を埋め尽くす白い花、花、花びら。
 先程までの雨のお陰だろう、それらはまだ十分に瑞々しかった。
「花、……サランの花だな。葬式があったのか」
 この地方では、どの家でも庭に必ずサランの木を植えている。一年を通してその枝には白い花が絶えない。冬でさえ薄くやわらかな花びらを七重八重に重ねて咲く大きな花は、死者を送る時に用いられる特別な花である。
 誰かが亡くなると、その家族はもちろんのこと、親類縁者や親しい友人、隣人たちは皆なそれぞれの家の庭のサランの木から花々を摘み取り、死者の柩を花で満たし、墓地までの道に花びらを撒き散らす。
 その花の香は死者を魔物から守り、その花の色は逝く先を仄かに照らして迷いなく死の国へたどり着けるように道を示すのだという。
 だから、残された人々は死んでしまった大事な人の為にサランの花を摘み、サランの花を撒くのだ。
 ロウの頬に微かに笑みが浮かぶ。
 道は、踏まずには歩けないほどの花びらで覆われていた。送られたのはとても愛されていた人物であろう。そう、周囲の者たちに愛された人間は、想いに比例する溢れんばかりの花を手向けられる。
 彼にも悼んでくれる人は確かにいるけれど、これは旅に旅を連ねる彼には得られない最期だった。羨ましさと微笑ましさを共に胸に抱きつつ進めていた足が、花びらの積もる十字路に差しかかって、止まった。
「まいったなぁ……」
 町を出る前に、当然のことながら宿の主人に確かめたのだが、どうも事情が違う。ロウはため息をついた。
 困ったことに、標識も何も無いのだ。
 通り慣れた道なら、或いは少なくとも一度通ったことでもあれば問題ないが、この地域を旅したことはあっても、この道を使うのはまったく初めてである。それでも日のあるうちなら適当に進むところだが、満月とはいえまだ夜の半ば。不確かな情報を頼ってでは進めるわけがない。
 先刻までの雨といい、今回はついてないなと思いつつぐるり辺りを見回す。と、ふっと一帯がわずかに陰ったような印象とともに、右手側、ぽつりと小さく明かりが見えた。夜空をくりぬくほどに黒々と、さほど高くない山があったが、その中腹だろうか。見たところ移動している様子は無く、ここからさほど遠くもなさそうだ。
 屋根のある場所で休めるかもしれない。
 荷を担ぎなおして、ロウは右手の道を選んだ。



 《2》

 さわさわさわ……
 道は途中から白砂利もまばらな山道に変わった。両脇からかぶさる木の枝に頭上を覆われて暗く、また枝葉に溜まった雨粒が時折身じろぎするように落ちてくることもあって、やはりどうにも歩きにくい。しかし今更灯火を準備するのも面倒に感じられ、手をふさがれるのも嫌って、ロウは足を取られぬように十分気をつけながら先を窺った。
 さわさわさわ……
 しばらく行くと、前方で木々が途切れているのが見て取れた。灯火になるものがあるのだろう、隧道の出口のようにそこだけが仄明るい。ようやく落ち着いて休めるかと、力を振り絞って進めばすぐに、ぽかりと開けた場所に出た。
 さわさわさわ……
 一瞬。ロウは己が目と正気を真剣に疑った。
 ぼんやりとした淡い明るさに覆われた広場には簡単な造りの屋台がぎっしりと立ち並び、それらの間を埋めるように多くの人影が行き来していた。だがその数にもかかわらず、辺りはひっそりと静か。葉ずれの音より大きな音は聞こえない。
「うわやべ……、まずった…………」
 彼はごくごく小さく呟き、思わず暗い天を仰いだ。
 鬼市(きし)だった。
 所謂、日の当たるところでは開くことのできない、非合法の市場である。
 鬼市が定期的に同じ場所に立つことは無い。だが、それを必要としている者たちは密かに市の開かれる日時を伝えあい、どこからともなく集まってくる。大抵は深夜、人里離れた山間の一角、ほんの一時前まで何もなかった空間は瞬く間に数多の布屋根の屋台で埋もれる。都市の市場の盛況にも劣らぬ品揃えと人の数。違うのは訪れる人間、扱われる商品の種類と、沈黙。
 鬼市に喧噪は無い。青白く薄暗い灯火は数も少なく、どれも皆な手元をカバーする程度のごく小さなものばかりだ。そこを訪れるのは法に外れた生き方を選んだ者、犯罪者、善き神々の加護を捨てた者。故に詮索は何よりの禁忌である。売り手も買い手もフードを深く被って顔を隠し、決して大声を立てず、ほとんど手指の合図だけで取引を進める。時に『沈黙の市』と称せられる所以だ。
 鬼市で手に入れられない物はめったに無い。ここでは普段の生活に必要な日用品、衣服や食料はもちろん、一般の市場では決して出回らない品物も扱われている。
 例えば盗品、密輸品、精巧な模造品。毒薬や麻薬、人の生きた赤ん坊やその内臓を加工したもの、罪人の手から作り上げられる栄光の手。許可が必要な幻獣の皮革や角、場合によっては幻獣そのもの。真偽は定かならぬものながら国王の署名の入った正式な体裁の書状や、明らかに厳重な封印を施された禁呪の魔法書といったものさえ、無造作にかしこに積み重ねられている。
 ロウ自身は今まで関わりあいになったことはなかったが、時に必要に迫られた普通の商人が、最後の手段として鬼市を訪れることもあると聞く。万が一、禁忌を破れば生きて帰ることさえ難しく、辛うじて逃げ出せたとしても心安らかな一生は得られない。国々の闇を歩く人々の繋がりは、昼の平穏に慣れた人間には理解できぬほどに密やかかつ緊密である。半端な欲に駆られた愚かな商人が迎えた無残な最後の話は、戒めとして商人の間に広く伝わっている。よほどの大国であっても、鬼市にだけは干渉しないのが暗黙の了解となっているほどである。
 こんな偶然でもなければ二度と遭遇しないかもしれない。
 本当ならば即刻踵を返して立ち去るべきだとわかってはいた。だが、ロウは好奇心に負けた。気が付けば彼はついふらふらと市場に踏み込んでいた。


 市場の雰囲気は、その静かさを除けば通常の市とさほど変わらない。噂に違わず珍しい品々が並ぶので、あまり周囲の注意を引かないように気をつけながらも、結構気楽に店を巡る。普段から力ある宝石を見慣れているために、何としてでも欲しいと思う品物が無いことも気楽さの理由であったろう。彼にしてみればまったく物見遊山の気分であった。
 だが、そんな気分も初めのうちだけであった。
 暗闇の中ですれ違う人々、もちろん品物を広げている店の奥にいる人間もであるが、その装いが、奇妙なのである。はっきりと指摘しづらい違和感。そう、何と言えばよいのだろう、広く各地に旅を続けているロウをして見慣れないと、或いはどことなく古臭いと感じさせる。色の組み合わせや模様、或いはすれ違った瞬間に手に触れたマントの生地の触り心地、ちらりと目に留まる袖口の形……。
 すっきりしない気分のままに、そろそろ切り上げるべきかと考えていた彼は、ふっと何かに引き留められるように足を止めた。
 わずかに甘い香を感じて目をやった先、店と木の隙間に埋もれるように隠れ、行き交う者たちの様子を伺っている人影を彼は見つけた。怯えた気配をまとって身を縮めて、どうやら商品というわけではなさそうだが、この場に不似合いなことこの上ない。
 不審に思い、同じほどに興味を引かれ、ロウはそれとなく周囲をうかがってからそっと店々の裏手に回った。
 わずかな灯火でも有ると無いとでは大違いで、店の裏側はひどく暗かった。手探りで進むのさえ怖々と、音を立てぬようにこっそり見当をつけた位置まで近づく。やがて見えてきた隙間、仄かな明かりに浮き上がる後ろ姿から、十才をいくつか越えているだろうか、まだ幼い少年であることが見てわかった。いったいどういうわけでこんなところにいるのか。
 そっと距離を詰める。警戒の気配は強いが、前方にしか注意が向いていないのだろう、ロウに気づく様子はない。頼むから暴れるなよと、思いつつ彼は一気に少年の体と口に手をあてがって拘束した。
 突然のことに驚愕した少年が大きく息をのむ音がした。その一方、驚きが過ぎたのか身体自体はすっかり硬直し、思ったより手間無くロウは少年を引きずり出すことができた。暴れる前にとそのまま森の方へ引っ張り、一際密に茂った低木の陰にしゃがみこむ。
「静かに。絶対に大きな声は出すな。気づかれるからな。いいか?」
 耳元で息だけで話すロウの言葉に、ガクガクと人形のようなこわばった動きで少年は頷いた。少し間を置いてからロウはまず身体を押さえ込んでいた手を放し、ゆっくりと口を塞いでいた手を外した。
「オレはロウ。旅商人だ。明かりを見つけて、人がいるのかと思ってここまで来たら、鬼市が、泥棒市が開かれているのを見つけた。おまえは? こんなところにいる齢じゃないだろ?」
 少年はしばらく声も出せぬままガタガタと震えていたが、慎重に宥めるように肩を撫で続けるロウの手に、その温かさに少しは安心したのか次第に呼吸も整い、囁きよりも微かな声で彼の問いに答えた。
「ぼ、ボクは、ブラウン。さっき、気が付いたら、この、市の、外れの方にいたんだ。人がいる方にと思って、ち、近づ、い、いたら……」
 いくら暗さに目が慣れても、光がほとんど無い場所では顔色をうかがうことはできない。それでも、幼い声の中にたとえようもない恐怖を明確に感じ取り、ロウは眉を顰めた。いくら泥棒やお尋ね者たちがうろついているとはいえ、一見しただけですぐにそれと知れるような者は案外少ない。店先に並べられている特殊な『商品』に怯えているのかとも思ったが、だとしても動揺が激しすぎる気がした。
「なあ。何を見た?」
 尋かれた途端、再び少年は激しく震え始めた。
「だ、だって、あれ、……あ、あんなの、あれっ、人間じゃ、なかった……っ!」
 涙声の悲鳴を自分の手のひらで辛うじて抑え込んだ少年を目の前に、ロウは嫌な展開になりそうだと表情を引きつらせた。
「本当に、人間じゃ、なかったのか?」
 声をひそめ、間違いの無いように重ねて尋ねるとぶんぶんと体ごと頷き、少年は彼に訴えた。
「顔とか手とかが、骨の人とか、赤とか青とか、……蛆が、虫が這いまわってるのを、そのまんま、歩いてるのとか、あと、なんか、動物みたいなのとかも、…………変なの、ばっかりっ!!」
 興奮している少年の肩をそっと抱え込んで宥めながら、ロウは先刻以上にまずいことになったと、内心で思いきり頭を抱え込んでいた。
 ゆっくりと天を振り仰ぐ。そこに先程まで確かに皓々と輝いていたはずの月が今は無いことを、彼は知った。
 先に十字路に立っていたとき、ふいに辺りが陰ったことを思い出す。恐らくは月蝕。ちょうど月の欠け始めた瞬間に、全く偶然に道と道の交わるところに立った彼は、入り込んでしまったのだ、人ならざるもの、呼吸せぬものたちの集う場所に。
 もう一つの《鬼市》。
 死者の市に。



 《3》

「鬼市というのは」
 少年を落ち着かせるのも兼ねて、ロウはひそひそ声で説明する。
「普通だと泥棒とかが開く市場のことを指すんだが、他にもね、死者の市のこともその名で呼ぶんだ。死にながら死んだことを認めなかったもの、死を逃れようとして禁忌を犯したもの、神々に逆らい罰を受けたもの。そういった、かつては人であった、もはや人ならざるもの、影持たざるものたちが人里離れた場所に集まり、月も星も無い永遠の夜の中で開く市のことを。……話には聞いたことがあったが、まさか実際に迷い込むことになろうとはね」
 装いが古臭いのも道理である。人が現れて以来、永劫彷徨い続けているものたちの市なのだ。そこにはあらゆる品が揃っている。太陽の下では決して手に入れられないものを手に入れることも適うであろう。けれど伝説は警告する、その取引が常に危険に満ちたものであることを。人として生きたいならば、決して関わるべきではないと。
「あのっ、……ここから、出られるの?」
「もちろん。そうだ、ぼうず、ここの物を何か食べたか?」
「ううん」
 少年の返事ににこりと笑い、
「なら、大丈夫。月が戻り日が昇る前に、ここを抜け出そう。その代わり、一つだけ守らないとならないことがある」
「なに?」
「市から抜け出すまでは絶対に声を出さないこと。声を出すと、生きた人間だとばれる。死者たちは、生命を、欲しがるんだ。生命にしがみついたが為に彷徨い続けている存在だからな。ばれて捕まったらあいつらの仲間にされちまう。気をつけろよ」
「う、うんっ……」
 脅すつもりはなかったが少年は震え上がっている。怖がるのは仕方ないだろう。しかしこれでは怯えるあまり、ちょっとしたことで悲鳴の一つもあげてしまいそうである。
「うーん、そうだなぁ。……ぼうず、これを、首にかけとけ」
 思案の末、ロウは自分の首にかけていたそれを外すと少年に手渡した。おずおずと手を伸ばしたブラウンは、革紐の先にくくりつけられた仄かに光を含んでいる黄色い宝石をじっと見つめ、それから問うようにロウを見上げた。
「黄玉だよ。暗いところで光るんだ。太陽の光を含み魔を払う力があるって言われる宝石で、お守り。オレの友人特製の魔力のある石だから、少しは役にたつだろう」
「え、でも、これロウさんの……」
「ぼうずよりは慣れてるからな。それはおまえが持ってた方がいいだろ。大丈夫。とっととここから逃げような」
「…………うん」
 少年は小さく、しっかりと頷いた。


 ロウは少年を促して市の中に戻った。鬼市から出るには、その出入り口からでなければならない。店の裏手から抜け出そうとしても、散々歩き回った末に同じ場所に出ることになるという。
 わずかだが市の中は光があるので、随分と歩きやすかった。行き交うものたちは彼らを些かも気にせず、時折何かの弾みでフードの内側を覗き込んでしまうのでない限り、それが死者であることには気づくこともなさそうである。ブラウンが死者の正体に気づいたのは、内側が見えやすい背丈の子供であったことが理由なのだろう。
 実際、光の中で見ると一層、ブラウンが小さな子供であることがわかった。濃い茶色の髪が被さる頬は子供らしくふっくらしていたけれどひどく青白く、大きな薄茶色の瞳でしばしばロウを見上げては、縋るように胸に下げた黄玉を握り締めた。
 力づけるように少年の肩を支えて、最初に迷い込んだ市の端へ向かいながら、ロウはこの少年が何故こんな夜中にこんな場所で迷子になっていたのか尋きそびれていたなあと、ぼんやり考えてさえいた。
 出口はもうすぐそこで、ここまで来れば何も問題は起こらぬように思われたからだ。
 ところが。
 市の一番端、左手の店を過ぎようとした瞬間、誰かが身を乗り出した。足元に広げられた荷物を避けようとしたのだろうか、ふいに態勢を崩し、その手が支えを探して。
 少年の肩を、掴んだ。
 一瞬だった。ロウはすぐに彼を引き戻したし、何事もなかったかのように歩き去るはずであった。
 地面に倒れ込んだそれが、ぐじゃりと潰れて粘液を散らしたりなどしなければ。
「う、ゃあああああああーっ!」
 少年の口から抑えられなかった悲鳴がほとばしる。ロウは舌打ちし、小さな背中を押して叫んだ。
「走れっ!!」
 途端、ざわりと背後の気配が一斉に変化した。
 狂おしく何かを求めるように。


 転げ落ちんばかりの勢いで、二人は山道を駆け降りた。足元の悪さも暗さも気にする余裕などなく、ただ前へ前へと足を運ぶ。何も考えられなかった。ただただ転びそうになる少年を腕を掴んで引きずり立たせ、背中を押しやり、とにかく後ろから追いかけてくる死者たちに追いつかれないようにと必死で。
 すぐに山道は終わり、白砂利の敷かれた平らな道に出た。暗がりに浮き上がる白さが今は頼りで、鬼市に迷い込むはめになった十字路へ向かって疾駆する。
 遮るものが無い道で砂利を踏む音にちらりと振り返り、その数と勢いを知ってぞっと胆が冷えた。追っ手の足の速さが人並みであることに心底感謝する。
 ふわりと鼻先を甘い香がかすめたような気がした。促されるように見上げた空に、月が、在った。鬼市ではかけらも見えなかった月が、八割方姿を戻した月が。
 月が、眩しく。
 なんという安堵感だろう。ロウは大きく息を吸い、十字路が目の前に迫っていることを確認する。
 だがまだ背後には死者たちがいた。白い道に影も落とさず、ぎらぎらと狂おしいほどの執着をあらわに、失った何かを求めて追いすがってくる。
「あぁあぁ、ああもうっ、なんだったかなっ、うーっとあーっと、ああっ、出てこねえよちくしょうっ!」
 突然叫び声を上げるとロウは少年の腕を手放し、勢いよく左足を軸に反転して、バランスを崩しながら握りこぶしほどの小石を手に取った。思いきり左から右へ、その石で道にざんっと太く真っすぐな線を引く。
 思わず足の止まった少年の背を押すように再び全速力で走りつつ、ロウはぶつぶつと口の中で何事かを呟いては却下をくり返す。
「くっそ、もういいっ適当でっ! だいたい本気でこんなの遭遇するなんて、だぁれが信じるかよっ! 何考えてたんだ、うちのオヤジはっ!?」
 少年の背中を今一度ぐいと先へと押しやり、ロウは再び振り返ると人差し指で彼らに追いすがっていたものたちを指さした。自棄の大声で、だが躊躇も不安も無い声で。
「ここよりは、月の領分、我の許しの無くば去れ。
 ここよりは、光の領分、我の許しの無くば去れ。
 生命無くして我を追うもの、ここよりは決して入る無し!」


 まるで魔法のようだった。
 凄まじい勢いで彼らを追っていたものたちが、先刻ロウが引いた線の手前でぴたりと足を止めたのだ。そこで道が途切れてしまったかのように、追っていたはずのものをいきなり見失ってしまったかのように、右往左往している。
 死者たちの足が完全に止まり、追って来ないことに確信を持つと、やっとロウは胸を撫で下ろし、先に行った少年が待つ十字路へと文字通り転がり込んだ。
「……今の、なんだったの? 魔法?」
「いや、まじない。むっかし、まだ、おまえさんよりも、ガキのころに、オヤジに、教わったんだ。ちょっと、違ってっかも、知んないが、意味は、大体、一緒だから、多分、いいんだろ」
 大荷物を背負ったままでよくも走り通したものだった。さすがに乱れた呼吸はなかなか落ち着かなかった。両足を投げ出し、ロウは傍らに立った少年の問いに答えた。脱力した足の先からは黒々とした影が伸びている。月はだいぶもとに戻っているのだろう。月蝕が終わり、月がすっかりともとの形を取り戻せば、鬼市への、異界への道は閉ざされる。
「ま。しょーじき、どっちのまじないが効いたんだかは知らねえよ。助かったけどな」



 《4》

 やがて月が完全に元の形を取り戻すと、うろついていた死者たちの姿がかき消すように見えなくなった。道が閉じたのだろう。同じ道を行っても、もうそこに鬼市は無い。
「あ、これ、お守り。返すね。ありがとう」
 ずっと握り締めていた黄玉の首飾りを外して、ブラウンがロウに渡そうとした。だがロウは差し出された手を押し返し、首を横に振った。
「それは、おまえにやるよ。行かなきゃならない場所に、ちゃんと行けるように。お守りのかわりだ」
「え……?」
「おまえには、これから行くべき場所が、あるだろう?」
 ひどく穏やかな、泣きたくなるほどやさしい声で言われて、少年は大きく目を見張った。彼を凝視した瞳は、そしてじわりと滲んだ涙をすっかり受け止めることはできず、夜の川面のようにゆらゆらゆれた。
「…………いつ、気づいたの?」
「ごめんな。さっき、見ちまったんだ」
 ロウが視線でそれを示す。
 二人の足元には、再び姿を現した月の光が生んだ影が伸びていた。
 ちょうど、一人分だけ。
 大きさの不揃いな白い砂利も、撒き散らされて雨に濡れた純白の花びらでさえも、月明かりに影を落としていたけれど、どんなに目を凝らしても、ブラウンの足元に影は見えない。生まれない。黒々と濃い影は、ロウの足元にだけ伸びている。
「ううん、いいんだ。僕も、わかってた。鬼市で、僕の声は無視されたから。……これは仕方ないことなんだよね。僕はもう、死んでるんだ」
 気が付いたら市の外れにいた、と。
 影の無い少年の足元を目にした瞬間に、ロウは最初に聞いたそれを思い出し、知ったのだ、人気の無い山奥で、こんな子供が一人、迷子になっていたことの意味を。
 そう、よりによって鬼市の外れで目覚めたことの意味を。
「死んだことに気づいてなくて、気づきたくなかったから、僕は鬼市に来ちゃったんだね。まだ死にたくなかったから。僕は生きていたかったから。会いたい人たちがいるこの世界を離れたくなかったから。でも……」
 少年の手のひらの上で、黄色の宝石が輝いた。闇の中でそれは内から仄かに光を放つ。まるで太陽のかけらがそこに在るかのように。
「鬼市には、夜しか無いんだよね。どんなに願っても、むりやり生命にしがみついても、星も月も無い夜にしか鬼市は存在しない。我がままかなぁ、僕は、それだけじゃ、嫌なんだ」
 ぐいと、小さな拳で勢いよく涙を拭うと、少年は笑顔になった。精一杯の空元気なのはすぐにわかったけれど、幼い彼の潔さに胸がじんと熱くなる。
「ありがとう。僕を市から連れ出してくれて。ありがとう。大事なお守りをゆずってくれて。ありがとう。ちゃんと、……ちゃんと、言ってくれて。うん、行くよ、ちゃんと。もう迷子にはならない。行かなきゃならないところに行く。母さんや父さんを、これ以上悲しませたくないからね。ちゃんと、……そしたらまた還って来れるよね? いつか、今のことは忘れてしまっても、父さんのことも母さんのことも全部忘れてしまっても、また生まれるんだよね、ここに。太陽が、生まれてくるみたいに」
「ああ、きっとな。太陽のかけらと一緒に生まれてくればいい。今度こそ、いろんな人たちと会って、いろんなことを経験して、楽しんで、飽きるくらい長生きすればいいさ」
「そしたらロウさんにも会えるかな? 会えると、いいな」
「会えるさ。おまえだってわからなくたって、オレはおまえに会いたいし、会えると信じる。きっと会える」
「うん」
 くしゃりと頬を歪めて、それでも必死で笑って、少年は頷いた。
「うん、また会おうね」
 いつしか、山の端がうっすらと明るみを帯び始めていた。山と空との区別もつかなかった夜が終わろうとしている。
 しんと静まり返った、一日の始まりの瞬間。
 少年の姿がうっすらと透けてゆく。
「ああ、太陽が昇るね……」
 夜が明ける。促されて目にした見慣れたはずの光景が、ひどく美しい。
『またね』
「おう」
 振り向くともう少年の姿はどこにも無かった。ただ名残のように黄色い石が、真っ白な花びらに抱かれるように、彼のいた場所に転がっていた。
 輝きは少年とともに旅だったのだろうか。拾い上げた黄玉は、魅力的な光を失っていたけれど、ロウはどことなく嬉しげな表情でそれを見つめていた。
「またな、ブラウン」



 《5》

「そんなわけで、おまえのくれたお守りは、こんなふうになったのさ」
 机の上には輝きを失った黄色い石。語り終えたロウはうんっと背伸びをして、友人に笑いかけた。
 いつものように予告なしで帰って来たロウを、当たり前のように出迎えたペトゥロは、やはりいつもの通りに酒を酌み交わしながら彼の土産話を聞いていた。話が終わるとその色あせた石を取り上げ、灯火に透かして見つめる。
「そうか」
「さすが、おまえの磨いた石だけあったよ。鬼市ではちょっと効果が強すぎたけど」
 友人の表情が満足げなものであることを楽しみながら、自分の杯に酒を注ぎ足し、ロウは別にもう一つ準備しておいた土産を机の上に置く。花びらの形に削った月石を填め込んで造られた繊細な細工のブローチは、サランの花をモチーフにしたものだ。石そのものにしか興味が無いようなペトゥロへの土産としてはあまり適当ではないが、土産話のおまけについ買ってしまった。まあペトゥロには無用でも、ティナなら似合うだろうからと考えて、ふと先刻出迎えてもらったときに聞きそびれた質問を口にする。
「それで、いつ頃生まれそうなわけ?」
「え? ああ、多分、春の終わりになるだろうという話だ」
 ティナは、この山を離れられないペトゥロのもとへ自分から望んで嫁いできただけあって、娯楽になるもののほとんど無いようなこの土地で、結構楽しげに暮らしている。それでもたまに装飾品の一つも身につけるのは気分が変わっていいだろう。知らなかったが出産祝いとして渡すのにちょうどよかったと思う。
「ところでこの石は、ここに置いておいてもかまわないか?」
「ああ。気に入ったのか?」
「すこぶる。光は失っているが、とてもよい感触だ。うちの子に、いつかおまえの土産話と一緒に渡してやろう。相性が良ければ、光も戻るかもしれない」
「それは、予言か?」
「まさか。私に判るのは、石のことだけだ」
 ペトゥロは目をすがめ、
「だが、人は光を握り締めて生まれてくるものだからな」
 ロウはその言葉に思わず、微笑んでいた。


 窓を開ければ、雲の無い空に星が瞬いていた。月は見えないけれど、あの夜と同じように美しい。
 声もなく見入る彼の胸に、少年の面影が甦る。
 この世界には、どれほど願ったところで適わないことはいくつもある。たとえばあの子の生命が、どれほど惜しんでも生き返ることが適わないように。
 けれど心からの願いが全く適わないことも無いのだろうと、同じほどに彼は思う。何故なら、ロウはペトゥロに、ペトゥロはロウに、確かに何よりも欲していた友人に、出会うことができたのだから。
 そう。いつか彼は出会うだろう、夜明けの道の上で二人で望んだ通りに、祈ったままに。再び出会えたことにさえ気づけなくとも、それでもきっと、願いは適うのだ。
 人は皆な太陽のかけらとともに生まれてくるのだから。




《了》




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