雪狼は笑う




<氷石に全ての涙を注ぎ、求める相手の名前を呼び続ける。
 涙が全て凍りつけば、求める相手はあなたを迎えに来る>

  《1》

 ウォ…ォゥ………
 高い場所から、細く引きずるような遠吠えが聞こえる。
 ドウン、と低く唸るような白い風が吹いた。いや、前も後ろも、右も左も、天も地も、どこに目を向けても、白い。
 ざん、ざん、ざく、ざく、と踏み締める足元の音も、風の音にかき消されて耳まで届くことはない。吐く息が、端から凍りついて地に落ちてゆきそうな寒さ、いやその前に風に吹き飛ばされてしまうだろうか。息どころか、自分自身の身体が飛んでゆかぬか案じられる激しさ。木も山肌も区別なく雪に埋もれ、空も地も別ちなく白一色に塗りつぶされている。いいや、風が、空気そのものが白いのだ。
 表面を吹きならされた白い地面に張り付くかのようにゆっくりと動いている二塊の黒っぽい影は、ともすれば雪に紛れてしまいそうだった。山裾に広がる森林部を抜けた、風を遮る障害物がまばらになるこの一帯では、生きた何かがいて風に逆らい動くことの方が、いっそ不遜な行いとさえ感じられる。


「……これが、この春からもうずっとなんだってんだからさぁ。たまんないよね」
 陽性の声が言った。張り上げているわけではないのに、強風の中でもやけにくっきりと通る声はしかも、へろりと形容したいような軽い調子だ。
「これまでは、こんなこと一度もなかったんだって。雪解けは、山の中だけあってちょっとばかり平地よりは遅いけど、まあ、毎年そんなに極端に変わるものでもないし。それがこの春は、いつまでたっても雪が止まなかったんだってさ。それも夏が近づいても全然、雪解けどころかますます激しい吹雪が続いて、雪も降り積もるばかりとなるとね。困るし、さすがにおかしいって中央に連絡が回ったものの、お役人にどうもこうもできるわけじゃないし。それで、結局は俺にお鉢がまわってきたってことなんだけどさあ。まったく、使いっ走りは辛いやね。ほらあっちへ行け、さあこっちへ来い、じゃあ向こうまでおつかいって、ゆっくり落ち着いて土地の名物を楽しむ余裕もないんだから」
 話しかけられている方にはふり返る気配も無く、またちゃんと聞いているかどうかすら定かではない。歩調は一切緩めず、きっちりと全身にマントを巻き付けて歩く丸めた背中に向かって、気にしたふうもなく軽い口調で話は続く。
「ここらってさあ、ほんとなら今の季節、すげえおいしいキノコが採れるんだよなぁ。肉厚なのを山鳥とか兎なんかと一緒に煮込んでシチューにしてさ。寒い日の夕食に、熱いのをたっぷりと、……ってのが美味いんだよなぁ。食ったことあるだろ?」
 秋ともなれば毎年、ヒルディア山脈に名を連ねる山々はいずれも頂から順に目に鮮やかな赤や金、緋色黄色と色を変えた木々に彩られ、見事な錦絵を描き出す。或いは色合いは地味であれ、地に近く、また高い梢に一年の実りを抱えて、重たげに枝をしならせている。その恵みに支えられて、山に住む生き物たちは、来るべき冬の寒さと飢えに備えを怠らない。
 そしてまた山里に暮らす者たちも、皆な連れ立って山の内に入り、節度をもって山の恵みを享受する。それは年々、大地と人との間にくり返されてきた、これから幾度もくり返されるであろう営みのひとつだ。
 そう。いつもの秋であれば。
 雪とともに真横から吹く風は、前を歩く背中との隙間にさえ間断なく吹き込み、黒っぽい姿を白く霞ませる。ともすれば、腕を伸ばした分ほどしか離れてはいない事実すら疑わせる、どことなく薄暗い白一色の景色に交ざり込むと見える不安定な距離感を、しかしまったく気にした気配無い声は、ひたすら愚痴なのか思いつきなのかを語り続けた後、ようやく本筋に戻る。
「村でいろいろ事情を聞いてさ、とりあえず、春より前にこの辺りで変わった事がなかったか調べたんだわ。そしたら案の定ね。珍しいことじゃないけど、冬山に狩りに出た鍛治の村の男が一人、雪崩で死んだらしいんだが、そのことを知らされた恋人がまさしく着の身着のままで山に登ってって、そのまま行方不明になってるんだってさ。で、その後、死んだはずの男と女の姿が目撃されてるんだよ」
 村からだいぶ山に入った所だってことなんだけど、と言って少しだけ足を止め、小さく纏められた荷物をかけ声をかけて具合よく背負い直し、男はまた先を行く背中に説明を続ける。
「ああ、それに雪狼が、いつもの年よりもずっとたくさん、山の下の方まで姿を見せてるってことも、終わらない冬が原因だろうけど、やっぱり気になるかな。上にそれらの事情をまとめて報告したらば、まあ当然のことながら調査続行、なるべくさっさと解決しろって指令が返ってきたんで、まずは元凶らしいこの山に入ることに決めたんだけどね。いやぁ、しっかし、おまえがこっちに来てて助かったよ。ここらの地理に全く不案内だからさ、わたしは。道案内に最適な人間に、こうもタイミングよく行きあうだなんて、つくづく日頃の行いがいいんだろうなぁ」
「……クリス」
 ふいに、今までお喋りを完全に無視して黙々と前を歩いていた背中が振り向いた。深々と被ったフードとマフラーの隙間から、風に紛れるほどの声でごくごく低くぼそりと男の名を呼ぶ。
「おまえの事情は、わかった」
「おう」
「だがな」
 極力寒さを避けるために、僅かにも風が入らぬよう口元をマフラーでしっかりと覆ったまま、彼は詰め寄った。
「だからって、何で、オレなわけ?」
「だってやっぱさ、素人を巻き込むのって極力避けたいし」
 男は当たり前だと言わんばかりに。
「おまえ、物好きだし」
 わざわざ顔を覗き込んで、笑った。



  《2》

「だいたいさぁ。確かにわたしは事情をよくは説明しなかったけど、行き先がヒルディアの方だってことだけでとりあえず承知したの、おまえの方じゃなかったか、ロウ。氷石の原石の採れる洞窟まで案内してくれるかって頼んだら、二つ返事でいいよって言っただろ。いくらわたしだって、尋かれたらその場で説明したよ。今さら文句言われても、責任は持てませんねぇ」
 当初からの予定通り、村人が山に入る際に利用している山小屋代わりの洞窟にたどり着き休憩に入った彼らは、風の吹き込まぬようになった奥の方で備蓄された薪を用いて火を起こし、遅い昼食を取った。
 吹雪の中にあっても口の動きの軽やかであった長身の男は、食事の最中も全くペースを落とすことなく喋り続けた。
 男の名はクリストファ。西都の魔法使いの一人であり、同行している旅商人のロウにとっては得意客の一人である。ひょろりと背が高いわりに普段はさほど目立つ方ではない。目立つのは身長によってよりもむしろ、その多すぎる口のせいでだ。魔法使いらしくはっきりと通る声は、今も天井の低い洞窟に心地よく響いていた。
 厳重に巻いていたマフラーを外して、ようやく顔を外気にさらしたロウは、ため息をもらしてクリスの言葉を聞き流すそぶりをしてみせた。さすがに彼のお喋りに付き合う気分ではない。
 あらかじめクリスの用意した魔法カードを身につけているので、普通の防寒具のみで山に入るより遥かに寒さを凌ぎやすいのは確かなのだが、強風対策までされていたわけではなく、雪深い山道をここまで歩くのにも苦労は尽きなかった。これまで訪れた村人たちの備え付けていった備品や、忘れ物であろう手袋、腕輪、数本の矢など棚の上に置かれた様々な小物類を見回し、パチパチと音を立てて快適に燃える炎に安堵しつつ、今さらの呟きをもらす。
「いくら物好きでもなぁ……」
「このまま吹雪が止まずに、来年も再来年もこの山に入れないなんてことになったら、おまえだって困るんだろ? 氷石の産地は他にもあるけど、おまえ、ここで採れるのは気に入ってよく仕入れてるらしいじゃないか」
「うーん。いや、確かに全体的に質のいいのは多い。何より加工する当のペトゥロが、ここの石を気に入ってるんだよな」
「だったら、つきあえって。それで、目的地はここからどのくらい先になんの?」
「距離はさほどでもない。ここまで上がって来たよりはずっと近いはずだ。ただ、入り口がちょっとわかりづらくてな。目印を探しながら行くことになるが」
 初めて訪れたときから付き合いがあり、今では特に懇意にしている村人が、以前何度か彼を洞窟まで案内してくれたことがある。いいのかと聞くと、本当に上質な石はよほど慣れた人間でないと絶対に取れない状態にあるからかまわないのだと、磊落に笑ったものだ。今回顔をあわせたときには、さすがの彼も困り切った表情を隠さなかった。山に入れぬために村の暮らしにいくつもの不便が出ていると。
「雪で真っ白だけど?」
「だったら帰るか」
「冗談! って、おまえ、本気で言ったな?」
「言った。寒いのは、どちらかというと苦手なんだよ」
「ならなおさら、ここまで来たんだ、歩き損にすることもないだろ。カード、取り替えるか? ちょっとは気分も変わるかもよ」
 気を変えてくれるとは思っていなかったものの、あまりの軽やかな返答に多少は肩を落として、ロウは盛大にため息をついた。
「…………お好きなように。で、クリス。おまえ、原因は何だと見てるわけ?」
「うーん、おそらく、だけどね。わたしが思うに、まじない、なんじゃないかと」
「まじない? でも、まじないなんかで、ここまで凄いことになるのか?」
「それなりの条件さえ揃えばね。結局、まじないは、想いの力が全てだからさ」
 新しいカードをロウに渡しながらクリスは言う。
「魔法とまじないの違いってのは、つまるところ、魔法には規則が有るけど、まじないにはそれが無いってことなんだよね。魔法は一定の規則に則って発動する。用いられる古代語、つまり『失われし大陸』で用いられていたという言葉を、魔法を扱う才能のあるものが、正しく組み合わせて正確な発音で詠唱すれば、期待された通りの結果が常に導き出される。もちろん、呪文がほんの一音違っていても求める結果は決して得られないけど、強い願いや想いは必要ない」
 手渡されたカードの表面には、ロウにはまるで読めない文字が幾何学的に配置され、ごく小さな紅玉が埋め込まれていた。何度か目にしたことがある魔法カードの、基本的な形態である。
「まじないには、魔法の才能とか古代語なんてものは無縁だ。唱えた呪文が必ず実現するとは限らない。その代わり、強い祈りや想いによって、呪文がどれほど曖昧だろうが適当だろうが、効果が現れることがある。……そうだな、例えばこれとか」
 ひょいっと手を伸ばし、頭の上の方にくくりつけられた棚の上から小さな物をひとつ取り上げ、ロウの前に差し出した。片手で握り隠すこともできそうなそれは、腕輪だった。受け取ってよく見ると、布に明るい栗色の髪と癖のある金髪とが炎を象った紋様に縫い込まれてあった。
 このような互いの髪を縫い込んだ布の腕輪やリボンの類は、家族や恋人が相手の安全を祈ってお守りとして作り、身につける物だ。特に漁師や狩人、傭兵や長旅をする者たちなどは、描かれる模様は違っても似たものをよく身につけている。
「一針ごとにひとつの祈り。それこそ、大陸中のどこでも似たような物を見ることができるだろ。地域によって呪文はばらばらで、でもどれだって複雑でもなんでもないものだよ。そのくせ、想いの強さが助からぬほどの生命を救ったり、時に魔法では決してかなわないほどの結果を生んだりする。手順守って魔法使いやってるのが、いやになるほどね」
 そうしてパンの最後のひとかけを口に放りこみ、屈託なく笑った。


「……まあ、まじないだろうが魔法だろうが、おまえを洞窟まで案内して解決するんなら、どっちでもいいけどね。とりあえずこの風、吹雪だよ。どうにかならないのか?」
「さっきも言ったけど、雪狼が大量に徘徊してるからねえ。聞こえるだろ?」
 口を閉ざして顎をしゃくる。遠吠えの声が遠く、近くいくつも聞こえた。
「あいつらが騒ぎまくってる所為か、なお吹雪が激しくなるんだろうね。狩りのためにちょっと山に入るのさえ難しいって、くどいほど訴えられたよ」
「だったらまず連れてくるべきは、オレより幻獣使いの方じゃないか」
「あ、そりゃ無理。今、大陸中のある程度力のある幻獣使いは、残らず西都に集まってるから」
「ん? ああ、そういや、代替わりだったな」
「おやまあ。相変わらずの早耳で」
 感心したと笑いながらクリスが言うと、ロウはやれやれとわざとらしいほどの呆れ顔になった。
「通信用水晶球のおかげだって言わせたいのか? あんなに大々的に集合かけておいて、耳に入らないわけがないだろ」
「まあ、そういう事情なんで、魔法使いのわたしが動いてるのさ。いよいよ手に負えないとなったら、無理でも幻獣使いを派遣してもらうよ」
 そうしてお茶を飲み干すとカップをひっくりかえし、中身をすっかり空にする。
「さあて、行こうか」
 勢いよく立ち上がったクリスの背中を見上げ、心地よくゆれる炎に名残惜しげに目を向けたロウは、大きなため息をついて薪をばらばらに引き抜き、纏わり付く炎にたっぷりと灰をかぶせた。
 明かりを失った洞窟に、雪狼の遠吠えが寒々しく、届いた。



  《3》

 洞窟を出るやいなや吹き付けてきた横殴りの風は、いささか暖まった身体には一層冷たく感じられた。
 吹きすさぶ強風の間をついて、雪狼の引きつったような遠吠えが耳に届く。それは、さほどの距離を行かぬ内に徐々に近づいて来るように思われたが、それらの飛び交う姿を目にするよりも先に現れたものに気が付き、二人は呆気に取られて足を止めてしまった。
 ここは雪山のかなり奥の方である。しかもあちらにこちらに雪狼が飛び交い、遠吠えを交わしている吹雪の真っ只中である。
 にもかかわらず、彼らの目の前を横切ったのは、山麓の村の女性がごく普通に身につけているものと何ら変わりない、ごく普通のスカートを着ただけの姿で歩いている若い女性であった。
 肌は雪に負けぬほどに白く、栗色の長い髪は風になびいている。頬には血の気無く、けれど寒さに震える気配は見られず、髪は凍りつきさえしていない。
 彼女は激しくもさわやかな春一番に髪を乱されている、とでも言わんばかりの風情で頬にかかる髪を押さえ、間違いなく微笑んでいた。
「あなた、ゲルダさん?」
 先に我に返ったのはクリスだった。小高い雪丘の上を通り過ぎようとした彼女に声をかけた。通りのよい声は吹雪の中でも役目を果たし、彼女は足を止めると二人の方に頭を向け、澄んだ声で唐突な問いに答えた。
「ええ、そうよ。でも、あなたと会ったこと、あったかしら?」
「下の村で聞いたんですよ、あなたのこと。春の雪崩で恋人を亡くしたって話で……」
「まあまあ、違う、違う、違うわ」
 言葉の終わるのを待たず、弾かれたように女は笑った。満面の笑みで。
「それは嘘よ。あの人がもういないなんて。誰が言ったの、そんな嘘。嘘よ、嘘、約束したの、帰って来たら、今度の狩りから帰って来たら、私と暮らすって、一緒になるから、待ってろって。言ったの、約束をしたのよ、約束したの、ねえそれなのにあの人が、死ぬはずがないでしょう? 死ぬはずないの、だって一度も約束は破らなかったわ、約束を必ず守ってくれたわ。ああばかな嘘ね、嘘よ、あの人が死んだなんて嘘、ほんと、誰が言い出したのかしら。ねえ、ばかなこと言わないでよ。信じるわけないでしょう、だって、いるもの、帰って来たのよ。これからも私と暮らすの、ずっとずっとずっと……」
 くすくす笑いと交ざりあった言葉が次々唇からあふれた。おそらくは本気で信じ込んでいるのだろう。そして、それを信じ込ませているもの、それは。
 ざく、ざく、ざん、ざん……
 集まり始めた数多の雪狼の叫びたてる猛吹雪の中で、そんな足音が本当に聞こえたのかはわからない。ただ、笑うゲルダの背後から、彼女を抱き締める腕は確かに現れた。
「ねえ、あなた、大事な人。この人たちがおかしなことを言うの。あなたが死んだだなんて、ほんと、変な嘘ね。あなた、ここにいるのに」
 鍛治を生業とし、また狩りに優れた男の逞しい腕が彼女のほっそりした身体を抱き締める。心の底からの幸せな笑顔で見上げた彼女の頭上で、黄金色の髪が雪まじりの風に吹き上げられ、若く誠実そうな顔が現れた。
 全く表情のない、真っ白な青年の顔が。


「実のところ、どうなわけ?」
「……あー、死んだ者はムリ。生き返らんよ」
 青年の顔を凝視したまま向けられたロウの問いに、クリスは顔を顰めながらはっきりと言い切る。
「ぎりぎり死にかけなら、助けようもあるけどね。魂が、身体から離れたらもうダメ。魔法は万能じゃない。特に、生命にかかわることには制約が多くて、とても気安く使えたもんじゃない。それに蘇生術が禁忌なのは、一応理由もあってさ」
「どんな?」
「一度死んだ身体は、結局は腐る、たとえ再び魂を入れても。生きながら腐る」
「じゃあ、目の前のこれは? いったいどんなまじないで?」
「雪狼だよ。あれは空の身体に入るんだ」
 あっさりと与えられた答えに目を見開き、ロウはさすがに聞き返した。
「聞いた事はあったけど、本当なのか?」
「特殊なのは確かだな。幻獣でも、どっちかといったら精霊に近いからかな。雪山で凍え死んだ身体に入って、動かすことがあるのさ。それが元で、生き返ったと勘違いされて蘇生のまじないとして伝わったってのは、まあ、あり得るね。凍ってる間は腐らないわけだし。彼女は信じたんだろ。っていうか、信じたかったんだな」
「しかも、当然、氷石の洞窟でそれをやったんだろうな。それで、やたらと強力な吹雪と長すぎる冬ってわけか。で、雪狼は能力全開?」
「たぶん。条件が揃ったんだねぇ」
「おまえ、これを何とかできるのか、本当に?」
「仕事だし、やってみるしかないっしょ。んでね、お願いがあるわけさ」
「…………聞きたくねえな」
「まあそう言わず。ちゃんと時間稼ぐから。どうせここまで来ちゃったことだし、最後までつきあえよ」
「………………やっぱり来るんじゃなかったよ………………」
 ばしばし勢いよく肩を叩かれ、もう何度目になるだろう、深い深いため息を凍らせながら、ロウは頭を抱えた。
「色々持ってきてるんだろ?」
「商品だ。ちゃんと支払えよ?」
「必要経費で、リオンに回してくれ」
「却下されたら、給料から天引きしてもらうよう提案しておく」
「ぐぇ」
 わざとらしい苦鳴はあっさり無視してその場を任せ、ロウは踵を返した。
 慎重に、足早に、行き先は、氷石の洞窟。
「……さあて」
 そして、クリスは改めて、微笑む女に向き直った。
 女と、雪狼に。



  《4》

 足場に気をつけながら、クリスはゆっくりと雪丘を登った。少しでも近い位置にいた方が、何を仕掛けるにも都合がいい。ただ、雪狼の数がやたらと多いのがやはり困りものだった。寒さ対策の成果か、直接纏わりついたりはしてこないが、右、左、と耳元を掠めるようにすれ違う度に氷で引っ掻かれるのに似た感触に襲われ、さすがに足がふらついた。
「そいつが、あんたの恋人のカイって奴?」
「彼の名前まで聞いてきたの? 暇な人ね、あなたって」
「まあね。それで、あんたは二人でこの山にいるのかい、これからもずっと?」
「ええ、そうよ」
「こんな寒い雪山で、雪狼に囲まれて暮らすのかい?」
「ええ、そうよ。二人で暮らすの」
 男の腕を抱き寄せる細い腕は霜のように白く、手首に巻かれたリボンの鮮やかな色が映えて、一層白く冷たく見えた。
「村には帰らないのか? あんたのこと、心配していたけど。いいのか?」
「この人と二人きりでいたいわ。それにこの人も、この山にいるのが好きなのよ。一緒に歩くわ、雪の中も吹雪の中も、昼も夜もとてもきれいよ。二人で歩くの、ずっと一緒にいるの。とてもしあわせ。ね?」
 女の言葉に深く頷きながら、男の表情はぴくりとも動かない。それでも女は気づかないのか、それとも気づいていて無視しているのか、曇りなく幸福な笑顔を男に向けた。
 丘を登りきると、さっきいた位置からは見えなかった切り立った崖が、二人の向こうにあるのが見えた。底から吹き上げる風に乗って、雪狼が何頭も飛び出して来ては、二人の周囲を駆け、時折その足元にじゃれついていた。
「あなたは何をしに来たの?」
「冬が終わらない原因を探してる。何か知らない?」
 視線は二人に向けたまま、雪に埋もれている足を片方ずつ持ち上げ、徐々に足場を整える。踏み締める音は、風にのまれてかき消された。
「知らないわ」
 あっさりとゲルダは首を振った。
「あんたなら知ってると思ったんだけどね」
「どうして? 知らないわ。それに、冬が終わらないって、なあに? 春にはまだ早いでしょう?」
 不思議そうに問われて、クリスは苦笑をもらした。彼女の中では、時間も季節も流れていないらしい。きっと、恋人の死を知ったときから。
「いや、春なんかとっくに終わっていていい時期だよ。長すぎるほど冬が続いて、麓の村の人たちが困ってる」
「嘘でしょう? まだ全然寒いわ。春なんて、ずっとずっと先よ」
「本当だよ。このまま冬が続くようだと色々支障があるから、やっぱり何とかして終わらせないとね」
「どうやって?」
 彼女は微かに首を傾げた。
「……そういえば、さっきいた人は、どこに行ったの?」
「どこだと思う?」
 小さな熱が胸元に燃えていた。手のひらで押さえながらクリスは小さく笑う。やっぱり、ロウをつきあわせたのは正解だったんだろうな、と。


 氷石は、魔法力を持つ物ならば冷却系の魔法を用いる際に利用されるし、気温の高い地域では食物の保存や快適な室温を保つために用いられることもある。
 ただやはり質の良い物はそうそう数が出るわけではない。また産地が、当然と言えば当然のことなのだが寒冷な地域、多くは万年雪の消えぬ高峰の奥や大陸北部の豪雪地帯にかたまっているため、環境に邪魔されて産出量が少なめであるのも確かだ。
 特に力のある物は、寒冷な地帯で採れる物に多いこともあり、装飾品としてはともかく、魔法使いたちが欲する場合は産地が指定されるのが普通だ。
 ここヒルディア山脈で採掘される物は、数こそ少ないながら安定して上質な物が出るので、ロウも今回つい足を延ばす気になったのである。が、
「それでこんなことに巻き込まれてるんじゃ、世話ないなぁ……」
 一つ目の目印は、印である木の表面だけが風ですっかり雪が吹き飛ばされていて、探すまでもなかった。
 さらに先に進んだ目の前で、頭上の枝から落下した雪に巻き込まれ幹の着雪がそっくり落ちた、その樹皮の上に刻みを確かめて、思わず呟く。またもあっさり見つかった二つ目の目印から洞窟の入り口に見当をつけて踏み込んだ足が、膝丈を越える積雪にめりこむと知れば、ついつい愚痴もこぼれるというものだ。
「どうせだ。手持ちの一番高い石を使ってやる」
 腹いせの一言とともに、幸い楽に通れる程度に隙間の開いていた入口をくぐった。しばらく背の低い通路が延び、曲がった先でぐっと洞窟は広くなる。その入ってすぐの壁に掛けてある明かりを手探りで灯した。
 視界に満ちる光景に、こんなときであってもやはり感嘆の思いは抑えられなかった。
 ここは雪でできた洞窟ではない。
 ここは氷を穿った洞窟ではない。
 けれど目の前にあるのは、氷雪と見間違えずにはいられぬ岩壁。
 光を受けた岩肌は、いたるところから微細な輝きを返した。陰のような青みを帯びた輝きで洞窟を満たす。
 氷石が、岩壁に細かく交じり混んでいるのだ。
 白く、だがどことなく透けたような石だ。質の良いものほど透明感があり、なおかつうっすらと青みを帯びている。
 それは長い冬に降り積もった雪が抱えるやわらかな影に似ている。或いは大陸の北の端、山脈の上に積もり氷と化した雪の含む色、北海に浮かぶ氷山の色である。
「……この先、の方か」
 はたと我に返ってロウは幾つかある通路のひとつに足を向けた。どこが目的の場所なのかを彼は知らなかったけれど、何故かためらいは無く。


 案の定、それはあった。
 平らな地面には、涙形の大きめの石を囲むように小さな氷石がちょうど十二個、円を描いていた。中央の涙型の石はうっすらと透明な膜のようなもので覆われ、彼にさえ明らかに何らかの力を放っているとわかる。
 まさに涙であった。恋人の死を伝えられたゲルダが、悲しみのあまり流した全ての涙。凍りついてしまった涙。
 氷石を用いた魔法なら、解除する最も単純で効果的な手段は逆の属性、つまり熱や炎を用いることだろう。それも普通の炎では駄目だ。氷石の力を抑制し得るのは当然、魔法力の関わる炎。
 言うまでもなく、ロウにそんな力は無い。彼に期待されているのは、クリスが考えている何らかの事態を補佐するための、準備。
「…………さて。紅玉と、火炎石とがあるけど……。高い方にするか」
 商売道具の出番である。
「ところで。あんたはどうしたいんだ?」
 誰もいないはずの洞窟で、黙々と荷をほどいていたロウは振り向かずに問いかけた。さわりと、雪狼の吠え声の届かず風も吹き込まないその場所に、だが問われた瞬間に震えた影があった。
 気づかれたことに戸惑ったように、ためらうように影はゆれ、やがてぼんやりと指らしきものを伸ばして、ロウの胸元を示した。
「……これ、あんたのか」
 すっかり忘れていた。クリスがまじないについて説明したときに手渡された布の腕輪が、胸元に収まっていた。あの洞窟を出るときに、ついしまい込んでしまったのだろう。
「これを?」
 肯定するように影がゆれる。
 促されるまま、ロウはそれで中央の石を囲んだ。
 すると彼の手が離れるのを待って、影が屈み込んだ。それはまるで涙に口づけるよう。想いを注ぐよう。
「これでいいのか?」
 問われ、頭を下げたようだった。礼のつもりか。そして、ふるりと微細な輝きに満たされた暗がりに紛れ、輪郭を失い消えた。
「後は、クリス待ちだな」
 一人残されたロウは荷物をまとめ直して背負い、最後にクリスの魔法カードを胸元から取り出した。



  《5》

 懐に手を入れる。胸の真上に入れておいたそれを取り出すと、ゲルダは不思議そうな顔をした。
「あなた、何をしに来たの?」
 ゲルダは再び尋ねた。しっかりと恋人の腕に腕をからめたまま。
「何をしに来たと思う?」
 クリスは問で返した。にっこりと寒さでこわばった頬で笑って。
 円形に踏み固めた足場の中央、しっかりと足を踏み締める。
 吹き荒れるのは風か、それとも遠吠えか。周囲を雪狼が取り囲んでいる。白く鋭い風に乗って数え切れぬほど、近づくかと思えば遠のき、また駆け寄り、彼を囲んで幾重にも円を描きながら、からかうように吠え声をあげていた。予め対策をとっているのでなければ、とっくに凍死している。今でさえ、震え上がるほどに寒いのだ。
 正念場。
「さあ。気付けよ、ロウ」
 カードを口元に添え、短く、唱える。


 手の中で。
「きたか」
 カードが、中央の紅玉が、熱を発していた。
 すかさずロウは腕輪に触れる位置に紅玉を並べ、紅玉と氷石の両方に触れるようにカードを乗せた。
 二つの紅玉から放射状に広がる力が視覚化されて輝く。


「今のは、何?」
 異変を感じ取って彼女が問う。しっかりと男の腕を握りながら。


 抱き締めるように氷石を包んでいた腕輪が淡く光を放つ。ゆらゆらと、炎をあげて。
 ピン。
 甲高い音。小さな氷石がひとつ、弾けて割れる。
 キン。ピキ…ン
 もうひとつ。さらに、ひとつ。
 十二個の石は次々に割れてゆく。
 ピィ………ン。
 最後のひとつが、割れた。
 と。
 ぶわり、ぶわり、ぶわり、ぶわりっ
 紅玉は赤々と輝き、腕輪に描かれた紋様が燃え上がる。
 涙が、うっすらと石を覆っていた涙がじわりと溶けて、地面を濡らした。
 濡らした。
 ピキ、ン………ッ
 涙の形の氷石が炎の中、粉々に、砕けた。


 突然、ゲルダの左手首から炎があがった。
「なに? これはなにっ? なにをしたのっ?」
 頬は美しく笑みを乗せたまま。
 悲鳴だけが唇からほとばしる。
「あなた……っ!」
 ゲルダの目の前で、一瞬にして炎は男の身体に移るや、瞬く間に全身を包んだ。赤々と激しく燃え上がった真紅の透き通る炎、純白の世界の中にただひとつ鮮やかな色彩。
 ウォ…ォゥ………
 オォォ…ォォゥ…
 雪狼が吠え猛り、火炎の中心から白い風となって吹き出す。
 まじないが解けたのだ。
 雪狼の支配を失い脱力した青年の身体はがくりと膝を崩し、前方に倒れて落ちる。
「ああ、だめ、カイッ、あなた……っ!」
 その瞬間。
 守りたいと、彼女を包み込んだやさしい想い。実体を持たない儚い腕は確かにあったけれど。
 引き留めることはできなくて。
 気づかなかった。彼女は自分が今本当に愛していた男の、彼女を愛している青年の腕が今彼女を抱き締めていることに、彼が自分のすぐ傍らにいることに、気づくことができなかった。
 彼女にわかったのは、目に見えるもの。先刻まで自分を抱き締めていてくれた、冷たいけれど自分の手で抱き締めることのできたもの。
 とっさに伸ばした手は服の裾を捕らえ、しかし不安定な足元に彼女もバランスを崩す。クリスの立つ位置は遠く、とっさのことに詠唱は間に合わず。
 激しく雪煙を巻き上げながら、男の脱け殻と女が落ちて行く。彼らを追うように雪の塊も次々に崩れ落ち。
 崖は深く。
 深く。


 ウォ…オゥ………ォゥ………


 いつか、雪は止んでいた。
 風はまだ激しく、雪狼の声を乗せて吹く。
 どこか哄笑に似た遠吠えがあちらこちらに響いた。
 人の憂いなど気にもせずに。



  《6》

「しかし、すぐまた冬なんだよな」
「こればっかりは仕方ない。でも吹雪は止むし、次はちゃんと春が来るからね」
「……結局、彼女も、死んだのか」
 ロウが、ぽつりと言った。
 空はこの春以来の快晴、風も穏やかである。空気は温み、雪原に反射した太陽の光で世界は目が潰れんばかりに眩しい。
「雪狼、だよ」
 耳触りのよい魔法使いの声が、そう応えた。
「彼女の魂は、雪狼になるのさ」
「え?」
「特殊だと言っただろ」
 ゆるい下りの道を慎重に歩きながら、ゆっくりとクリスは言う。
「そもそも、生きた人間が、あんな格好で半年も吹雪の中にいられると思うか? 魔法使いでもないのに。彼女の身体はとっくに死んでいたよ。死んだ身体を、想いだけが動かしていた」
 防寒着で着膨れしたひょろりと背の高い背中を見つめながら、ロウもゆっくりと後ろを歩く。
「全ての悲しみ、全ての涙、全ての想いを氷石に注ぎ尽くして、まじないをかけたけど。そのまじないが解けて、人としての想いも全て失って、……本物のカイの手を、最後に取れていたらまた違っただろうけどね。でも、もうどこにも行けない。この山で、雪狼になる。吹雪の中で……」
 山にはまた冬が訪れ、幾度も雪は降り、激しい吹雪が吹き荒れるだろう。
 白い嵐の中を、雪狼たちは駆ける。甲高く、遠吠えをくり返しながら。
 哄笑に似た遠吠えをくり返しながら。
「いつかは……」
 どちらともなく言いかけて止めた。それを口にしたところで、彼らには彼女を救うに足りる想いは無いのだ。二人はこのことについて、もはや口にすることはなかった。
 ただ、山を下りてしまうまで幾度もふり返った。
 濃い青空に山が白く浮かび上がる。
 そこでは、生まれたばかりの雪狼が真っ白な嵐を待っている。
 ひそやかに笑いながら。




《了》




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