紅の花




< ゆく末は 誰が肌に触れん べにの花 >
 


  《1》

(ヨォーイサノマカッショー、エェーンヤコラマァーカセェー…)
 船頭の唄声がのびやかに川面に響く。
 波頭に砕ける舟唄は、巧みに操られる棹の動きにあわせて、ゆったりと土地の言葉で風物を綴ってゆく。
 意味がよくわからぬ部分は少なくない。いや、ほとんどがそうだ。普段の会話程度ならば慣れと見当で何とかならぬこともないが、唄となると語尾を引く独特の抑揚に言葉はよく聞き取れなかった。
 けれど不思議と耳に心地よい。
(ヨォーイサノマカッショー、エェーンヤコラマァーカセェー…)
 波音が唄声に唱和する。
 日差しは夏のもの、さすがにきついが、川面を渡る風は涼しい。
 流れが穏やかな箇所であることもあって、彼はいつしか微睡んでいた。


 ズイシャン川は、この地方の村や町を繋いでいる。その名がそのままこの地方一帯を称するほどに、この長い川は土地の生活や流通に密接に関わっている。
 川を南に遡上する喫水の浅い舟は、船頭の巧みな棹捌きで、穏やかなばかりでもない流れを器用にくぐり抜けてゆく。
 積まれた荷は主に、生活に要り用であるものの少しだけ身近に手に入りにくい物だが、時には東都から運ばれて来た品も、河口の街アタカスを経由して載せられてくる。周囲を高い山に囲まれたここらでは馬や荷馬車を使っての運送は少々難しく、大きな荷は自然、船に載せて運ばれることになる。逆にここから積み出されてゆく荷もまた、舟に載せて河口の街まで運ばれてゆく。東端の港は多くの荷を受け取り、また積み出すのだ。
 波音をくぐりぬけるように、川上から別の唄声が聞こえてきた。声が近づくのにあわせ、棹を操り舟の進路を変える。山に沿ってゆるく曲がった流れの向こうから、やがて同じような大きさの舟が下ってくる様子が目に入ってきた。余裕をもってすれ違いながら、船頭たちは互いに棹を掲げてあいさつを交わす。
「……舟唄って、こういう役にもたってるのか」
「なんだ、起きてましたかね?」
 ロウはゆっくりと上半身を起こし、下ってゆく舟を見送りながら伸びをした。
「ん。今まで寝てた。あとどのくらいかかりそうかな?」
「日、落ちる前には着くんで。ここんとこの流れは、穏やかなもんですからな」
「おかげで気持ちよくて、船頭さんには悪いけど、眠りこんじまうよ」
「はっはぁ、ちゃんと日陰にいましたかね?」
「まあ、かろうじてね」
 反射光で色濃く日焼けした船頭の顔を見上げ、気遣いにそう答えた。
 男の言った通り、それからも流れは穏やかだった。上流で雨が続くと、かなり早くて扱いづらい川らしいが、この数日は晴天続きなのだそうだ。船旅にはもってこいである。
 それからもまた時折うとうとと微睡みながら行くうちに、日は傾き始め、そしてようやく待ちかねた声が到着を告げた。
「ほぉれ、そこだ」
 舟は船頭に導かれ、川に突き出した小さな桟橋にゆったりと寄り添ってゆく。よいしょとひとつ大きな掛け声をかけてぴたりと舟を止めた船頭は、ひゅうと賛嘆の口笛を吹いたロウに笠の下から笑った。
「こっから道なりに行けば、誰かに会うから。ま、迷わねだろ」
「いろいろと、ありがとう。気をつけて」
「はっはぁ。あんたもなぁ」
 ただ一人の乗客であったロウを岸に下ろして、舟はまた川を上ってゆく。遠ざかってゆく舟唄をしばらく聞いていたが、日がだいぶ傾いたことに気づいて彼は荷を背負った。
 長時間の船旅で、岸に上がったものの足元がまだゆれているように感じられ、おぼつかなさに苦笑をもらしながら。

 ハベイ村までは、あと少し。



  《2》

「なあなあ。お兄ちゃん、どっから来たの?」
 ふいに、小道の左右の茂みから、わらわらと子どもたちが数人飛び出してきた。皆な同じ年頃のようで、おそらくは七、八才。どう見ても十才より上ということはなさそうである。黒い髪をあごの辺りで切り揃え、ハイシャンシ特有の着物と呼ばれる衣服を身につけている。裾は膝がようやく隠れるほどだったが、揃いのきれいな橙色を帯びた黄色の着物だった。
「なあ、お兄ちゃん。なに持ってる?」
「なに持ってきた?」
 にこにこと子どもたちは笑いながらロウを取り囲むと、口々にそう問いかけた。
「いろいろね」
「いろいろ?」
「あれ、持ってきてるかな?」
「持ってるよな、あれ」
「うん、うん」
「まにあうな」
「まにあった」
 わけのわからぬ言葉にロウは首を傾げた。するとその仕草がおかしかったのだろうか、子どもたちはわっと大きく笑い、姿を見せた時と同じほど唐突に四方に散った。
 ただ一人居残った女の子が、戸惑うロウを見上げて愛らしく笑い、
「あっちだよ」
「君たちは、ハベイ村の子かい?」
「待ってるからね」
 問いにはただにこりと。そしてその子も他の子らと同じように丈高い葦原に小さな姿を消してしまった。
 ぽつり。
 何がなんだかわからぬままに立ちすくんだロウは、やがてはたと我に返り、とりあえず少女が指さした方に向かうことにした。
 何にせよ、日暮れは近い。


 少し行くと葦原は途切れた。そこから見はるかす左右には、水稲が緑鮮やかに風にゆれていた。どこまでも尽きぬような水田地帯。
 ハイシャンシのほぼ全域で主食として食べられている米は、国の北部が主要な産地であり、ハベイ村もそこに含まれている。秋になれば、この一面の緑が黄金色にゆれる。そして収穫された米も舟に積まれて川を下り、河口の街からハイシャンシ全土へと運ばれてゆくのだ。
 来る実りに思いを馳せながら、ゆったりと山に沿って左に道を曲がる。と。
「わ……」
 陽はすでに大きく傾き、空は夕暮れの色に染まり始めている。
 目前に現れた花の原はさらに鮮やかな橙色にゆれていた。
 一面の、目の及ぶ限りに広がる花の原。茎は濃い緑で腰丈を越えるほどに伸び、その先端にアザミに似た花をいくつもつけている。花の色は橙色、中に色濃く赤みを帯びているものが混じり、緑の中の無数の灯火のようだ。
「……これが、もしかして紅花(ベニバナ)、か?」
「はい、そうですよ、西の人」
 背中から声をかけられ驚いてふりむくと、若い女性が彼の勢いに思わずといったふうに笑っていた。
「こちらには、初めての方ですよねぇ? 花も、初めてご覧に?」
「あ、ええ。オレはロウ。見ての通り西の方から来た旅商人で、主に石を扱ってる」
「リンファです。ここの、ハベイの者です」
「……それにしても、この花から口紅を作るし、紅花って名前だしで、てっきり赤い花なんだとばっかり思ってたが、真っ赤な花じゃないんだな」
「ええ。花そのものは、どちらかって言えば橙色ですねぇ。花に、ある程度赤みがあがったら摘み頃で。ちょうど今が花の時期なんですよぉ。摘んだ花びらは、そのまんま乾かしても使いますけど、ここらでは大抵『花餅』にして出荷するんですよ」
「あれ、じゃあ今は一番忙しい時期ってことか」
「花摘みは、朝の仕事ですから。一番忙しいのは朝のうちですねぇ」
 畑仕事をしていたのだろう、日除けとしてなのだろうか頭を包むように布を被った姿のその女性は、おっとりと微笑みながら教えてくれた。
「よければ、明日にでも作業をご覧になりますか? 多分、この花が紅花って呼ばれるわけが、よっくわかりますよ」
「おじゃまにならないんなら、喜んで。ところで、この村に宿屋はあるかな?」
 にこやかな女性につられてロウも笑顔になり、ついでとばかりに今夜の寝床の調達に入った。
「宿屋は無いですけど、買い付けの人たちなんかはみんな、村長さんのとこで面倒みてますから。言えば泊めてくれますよ」
「じゃあ、村長さんの家を教えてもらえるかな」
「今から行くところですから、一緒においでなさいな」
 あちらですよと、示された先には小さな集落があり、夕餉の支度の煙が幾筋も空へとたちのぼっていた。



  《3》

 夏の朝は早いが、花の村とも呼ばれるハベイ村の朝はさらに早い。
 夏至を間近に控えた頃から紅花は花をつけ始め、花は日ごとにその赤みを強めてゆく。色づき具合を確かめながら、花摘みが行なわれる。
 畑そのものは各々の家のものであっても、そこから採れる紅花は同時に村の特産品でもある。田植えや稲刈りと同様に、最盛期には数戸毎に人手を出し合い、共同で花摘みが行なわれる。
 作業の中心となるのは主に女たちである。この時期、稲や他の作物の世話やその他の農作業は男たちが、紅花の収穫は女たちがそれぞれ分担して行う。
 小さな籠を腰にくくりつけ、先端に開く細かな花弁をひと掴みずつ摘み取る。紅みが増した強い橙色の花びらで、籠は少しずつ満たされてゆく。
 紅花の茎や葉は、堅い刺を持っている。普通に素手で掴んでいては、とても長い時間はもたずに手を傷つけ指を腫らすことになる。
 だから、花を摘むのは早朝、太陽の昇るよりも早い、朝露がおりてまだ刺が柔らかい時間に行われるのだ。
 ハベイ村周辺の地域が紅花の産地である理由も、実はここにあった。ズイシャン川に沿ったこの辺りは川からの水気で朝露がおりやすく、そのため花の収穫作業のしやすさという点において他の地域よりも有利だった。
 ゆっくりと明けてゆく夏の空の下、畑のあちらこちらに花を摘む人影。
(紅の花ぁ 何故紅くなる
 指に滲んだ血の色よ
 あの子の血ぃで紅くなる)
 掠れぎみの声はゆったりと歌った。一節歌うと別の声が後を引き継ぐ。若い声、老いた声。畑の端から端へ歌が渡ってゆく。


「こうやって、摘んだ花は、ごみを取り除いて水に浸けて、踏んでやるんですよ」
 太陽がすっかりあがる頃、集められた花びらは次々に大きな浅い木の桶に放りこまれ、そこに少量の水が注がれる。
 村の外の人間に見られていることが恥ずかしいのか、若い娘たちはくすくすと小さな笑いをたやさぬまま着物の裾を持ち上げて、裸足で各々の桶の花を踏み始めた。
 年かさの女性たちは娘たちより落ち着いたふうで、それでも多少照れ臭げにまんべんなく花を踏んでゆく。
(お山の神様 花が好き
 一番お好きな花はと尋けば
 紅の花の種まいた
 おかげでズイシャン花だらけ)
 一番年かさの女性から順々に歌われてゆく調子の良い歌にあわせて、花を踏む足を動かす。
「こうして踏んだ花を絞ると、……ほら、こうなるんですよ」
 頃合いを見て布袋につめられた花弁の水気が絞られると、絞り出された水はすっかり黄色に染まっており、花びらはと見れば赤みがぐっと強くなっているのが一目で知れた。
「花から黄色が抜けて、赤い色だけ残るんです。この黄色でも布を染めます」
 花の水気がすっかり抜けたところで、今度は臼と杵が持ち出され、花びらを餅のようにつき始めた。
「ついた花びらを小さな餅状にまとめて、筵に並べた上に別の筵をかぶせて数日置いておくと、色がさらに濃くなって、真っ赤になるんですよ。『花餅』と呼ぶんですけど、こうして乾かしたものを出荷するんです」
「へえ。確かにここまでくると真っ赤だね。ところで、これを出荷するってことは、ここでは紅まではつくらないのかい?」
「ええ。東都の職人が、紅の製法を秘伝にしてますから。染めることならこちらでもできますけど、それにもやっぱり何か秘訣があるらしくて、東都の品ほどきれいに紅くは染まらないんですよねぇ」
「同じくらいきれいに染められたら、今日の嫁入り衣装に使えるのにねぇ」
 説明していたリンファに横あいから声がかかる。囃し立てる周囲に照れた様子でリンファも応じた。
「でも、とてもきれいに染めてもらいましたよぉ。あんなきれいな着物を着られるなんて。どきどきしてるのに、からかわないでくださいな」
「あれ、今日、嫁入り? 働き者だなあ。嫁入りの朝まで仕事してるのかい」
「田植え、稲刈りと花摘みの時期は、花嫁だろうと赤ん坊だろうと、働ける者はみんな働くよ」
「そうそう。夜に赤ん坊産んだ母親も、朝早くから花摘んで」
「産まれて最初に見たものが、母親じゃなくって花だったってねぇ」
 誰のことなのか、よく口にされる話題なのだろう、皆などっと笑った。
「ああ、でもそうだね。そろそろ準備を始めないとねぇ。リンファ。こっちはもういいから、家にお戻り」
「でも……」
「ほらほら、婿さん、しびれきらして迎えに来るって」
 口々にからかわれ、勧められてすっかり顔を真っ赤にしたリンファは、それじゃあ後でと、ようやくその場を後にした。
「……これで父親が戻ってくれば、万々歳なんだけどねぇ」
 彼女の背中を見送る声に、そんな言葉が交じった。
 いつの間にやら花餅を丸める作業に参加していたロウは、声の方に向かって尋ねた。
「今、いないんですか?」
「村の外に仕事に出て、丸二年になるわね」
 落ち着いた雰囲気の中年の婦人が事情を教えてくれた。
「あの娘の父親が出稼ぎに出た年は、その前に二年続けてひどい不作でねぇ。紅花のおかげでいくらかの蓄えはあっても、他所から運ばれてくる品はどうしたって値が張るし、あの娘もそろそろ年頃だったからね。嫁入りにいろいろ揃えてやりたいって、息子に後を任せて働きに出てったんだよ。まあ、折々便りも寄越してたんで、大きな心配は無かったんだけれども。嫁入りの日取りが決まって、その日まで帰るって便りがあってからもうだいぶ過ぎたのに、どうしたわけかまだ帰って来てないのさ。嫁入りの日を楽しみにしてるのに、父親が心配なんだろうね。ときどきふっとふさぎこんじまうんだよ」
「ほんっと、早く帰ってきてくんないと、かわいそうでねえ」
「心配事は、もうひとつあるしなぁ」
「ああ、あれかい」
「なんです?」
「あの娘のところの花が、なかなか赤くならなくってねぇ。今年はまだ一回も摘んでないんだよ」
 これまた困ったという表情で、婦人は続ける。手はしっかりと作業していたが。
「嫁入りのある家の畑は、種を採る分を多くするんだけどね。もちろん花は摘むし、あの娘の畑はいい花が採れるんだよ。だから、このまま赤くならないのは、村としても困るんだけどねぇ」
 そうそうと、あちこちから同意の声が上がり、だが次第に話題は別のものに移っていった。
 しばらくそのまま作業に交じっていたロウは、タイミングを見計らって手を引き、泊めてもらっている村長の家に戻った。
 何事か、考え込む様子で。


 村長に教えてもらった道を行くと、すぐに紅花畑に出た。生き生きと丈高く成長し、花はたくさんついていたが、花びらの色は黄色が強く、村に来て最初に見た花々とは比べものにならぬほど、赤色が見られなかった。今朝花摘みのあった畑に比べても同様だ。先ほど話に出ていたリンファの家の畑がここなのだろう。
 素人目にも、手入れが行き届いているとわかるだけに、原因がわからないと皆なが首をひねるのも道理だろう。
「まあ、これはオレにはどうしようもないからなあ」
 呟きながらも足はゆるめない。目的地はリンファの家だ。花嫁一行の出発前に着かないと意味が無い。
 だが焦るまでもなくその家は見えて来た。小さな家の前に、色とりどりに飾り立てられた馬が一頭つながれており、周囲を村の人々が囲んでいる。或いは花嫁の親戚だろうか。この馬に乗せられて花嫁は嫁ぎ先に向かうのだろう。間に合ったようである。
 人込みをかきわけて戸の前に立つと、内側でがやがやと人の声がした。今にも出発というところであったらしい。
「すまないけど……」
 大きく声をかけて、ロウはがらりと扉を引き開けた。



  《4》

「花嫁さんの出発、ちょっと待ってもらえないかな?」
「ロウさん?」
 ふいに現れて、いきなりそんなことを言い出した西の人に、周囲の人間は皆な訝しげな表情を向けたが、ロウは委細かまわず美しく装った花嫁の前に歩みを進めた。
「いや、最初に名前を聞いたときに渡してもかまわなかったんだけど、大事なものだからちゃんと確認しとこうと思ってね。……これ、頼まれもの」
 手にした粗末な布袋を花嫁の目の前に差し出して言った。
「お父さんから、大事な娘さんに」
「お、お父さんから!?」
「あんた、リーインさんの知り合いなのかいっ?」
 いっせいに尋ねられ、その勢いに押されながらもロウは笑みを崩さず、アタカス近くの町で知り合ったのだと告げた。
「ちょうど同じ宿だったんだよ。話してるうちに、不注意で怪我をしたために、生命にかかわるようなものじゃないんだが、せっかくの娘の嫁入りの日に間に合うようには戻れそうにないという事情を、涙ながらに語るのを一晩中聞かされてね。もともとはアタカスに用事があったんだけど、この時期のこの土地は一度訪ねてみたかったからね。ついでに足を延ばすことにしたんだ」
「そうだったの、お父さんってば……」
「まさかいきなり当人に会うとは思わなかったし。今朝も普通に働いてるんで、さっきまで確信が持てなくってね。渡すのが遅くなって、悪かった」
 リンファはいいえと小さく首を振り、両手で布袋を受け取った。中には小さな堅いものとそれを包むやわらかなものが入っているとわかった。周囲に促されて袋を開け、中身を取り出せば、それは。
 まず出て来たのは、むらなく染めあげられた紅色の布だった。東都で染められた紅花染めの布。着物を一着仕立てられるほどはなかったけれど、花嫁のヴェールとして用いるには十分な長さがあった。
 そして、さらにそれに包まれていたものは、貝の形をした小さな器だった。器の外側には黄、赤、橙色の宝石で紅花が模してあり、器だけでも美しかった。二枚貝の形をしたそれを開けると、内側には目を奪う、滴るような紅色が満たされていた。
 東都の口紅だった。
「…………きれい」
 花嫁はほうっとため息をついた。そっと薬指で触れれば指先は紅色に色づき、ためらいながら二度三度と色を重ねられるごと、唇は紅色に染まり、さらに七彩の光沢を得た。
「不思議な色合いだねえ」
「本当に。ああ、これは何よりの嫁入り道具だ……」
 口々に誉めそやされ、また父親の思いを感じて花嫁はすっかり涙ぐんでいた。けれど、その様さえとてもとても美しいものだった。花々さえも及ばぬほどに。
「オレの見たところ、じきに戻れそうだったから、お父さんにも晴れ姿、見せてやりなよ。残念がってたから、きっと、とても喜ぶよ」
「…………はい……」
 それからは慌ただしかった。もう一度、丁寧に口紅を塗り、紅花染めのヴェールをまとって装いを整えなおすと、花嫁行列の出発である。
 父親代理の弟に手を引かれ、リンファはややうつむきがちに生まれ育った家を出る。用意された馬の背に乗せられ、祝い歌に囲まれながら、花婿の待つ新しい家に向かう。
 進む道の左右には紅花の原。咲き群れる花々もどこか誇らしげにゆれ。
 ゆらゆらと、花嫁を見送り。
「……えっ、ちょっと、もしかして…………?」
 驚きの声につられて顔を上げた花嫁は、馬の背からその光景を見ることになった。
 広い畑いっぱいに、花々がゆれていた。ずっと黄色のままであった花びらは、ひとゆれごとに色を変え、深く濃く紅色を帯び、まるで花嫁の門出を祝うかのよう。
「すごぉい。お花もおめでとうって言ってるみたい」
 幼い声がそう言った時には、花嫁はすっかり泣き崩れていた。
 あまりに、幸せで。
「…………こりゃ、明日の花摘みが大変だぁ」
 そうして朗らかな笑い声が、どこまでも花嫁行列を包み込んでゆく。



  《5》

「お兄ちゃん、ありがとね」
 大きくもない桟橋に立ち、下りの舟を待っていたロウが唐突に脇から服を引かれてそちらを見ると、そこには鮮やかな赤い色、袖の長い着物を身につけた、十才を越えたほどの少女が彼を見上げてにこにこと笑っていた。あごの下で切り揃えられた黒髪がさらさらとゆれている。
 見覚えのない相手に声をかけられ首を傾げる彼を見て、口元を両手で覆いながらくすくすと愛らしい笑いをこぼした。
「花嫁さん、ずっとずっと待ってたんよ。わたしらみんな、間に合うか心配してた。ありがとねぇ、お兄ちゃん」
「…………まさか……?」
 赤い着物は花の色。川岸の葦原があちらこちら、ざわざわゆれた。まるで誰かが隠れているかのように。
 隠れて笑っているかのように。
「あぁ、舟、来たよ。お兄ちゃん、また会おうなぁ」
 細い手を高く振り、少女の姿はするり葦原の中へ消えた。
 ズイシャン川の上流からは、のびやかな唄声が近づいてくる。
 今日も、夏らしいよい天気である。




《了》




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