O p e n !




 《1》

「なあ、クリストファ、リオニス。どうしても、ダメか?」
「うーん、あの罰則はなぁ……」
 背の高い少年が困ったように眉を顰め、
「さすがに、あれはね」
 彼の隣に並んで座る、めったにいないような綺麗な少年が見事な黄金色の髪をふるわせてそう答える。二人を取り巻いていた十人ほどの少年たちは、申し合わせたようにがっくりと肩を落とした。
「あーあっ! なぁんで宿題なんかあるんだよー!!」
 張り上げられた少年の甲高い声に思いを代弁され、皆なはうんうんと、甲斐のないままそろって大きく頷いた。


 西大陸きっての大国であるティルディナ王国の首都、西都。その北に高く聳えるパルナ山の中腹に、この歴史ある学院はある。
 王立の魔法使い養成校、パルナ学院である。
 ティルディナ王国の創始と期を同じくして創設されたこの学院では、大陸中から魔法使いの才能を持つ人間が集められ、魔法を使うために必要となる膨大な量の知識はもちろんのこと、それ以外にも教養と呼ばれる全ての知識を身につけるために、日夜学び続けている。
 大都市に居住する貴族などの、魔法使いが常に身近にいる環境にある人々にとっては、幼いうちに魔法使いとしての素質を判定し入学を決めることは常識である。また、ある程度成長してからであれ、その才能ありとして入学を勧められる者もおり、将来国政に携わる可能性の高い魔法使い候補として見いだされるのは、どの土地でもおおむね喜ばれることであった。そのこともあって、通常は十才前後から入学することが多いが、在学者の年齢の幅は五、六才から三十代とかなり広い。もちろん、終生を研究に捧げることに決めた人間は除いての場合だ。
 それはともかく。
 高山の中腹という学院の位置環境のために、家族から離れて寮生活を送る学生たちが、年に二回の長期休暇を目前に控えて心躍らせているのはよく見る光景であったし、また同時に休暇中の課題として出された宿題に頭悩まされて叫んでいるのも、毎回変わらぬ光景であった。
 ここで、冒頭で少年たちが叫んでいた理由がわかろう。
 彼らはめでたくも冬休みを目前に控えて、休暇中の宿題を教師に言い渡されたばかりの集団である。入学して一年と半年、魔法語の基礎過程は終盤、呪文構築の基礎理論や魔法陣の読み取り、詠唱の実技の授業などが増えてくる頃である。
 つまり、よくも悪くも学院に馴染み、気が緩んでくる頃、なのである。


 話は、ちょうど半日前にさかのぼる。
 冬休み前の最後の授業の朝。彼らは実技の際に使用される習練場に集合していた。担当はシーダー先生。普段からにやにや笑っているので、いつでも機嫌が良いのだか悪いのだかがわかりにくい先生だ。
 今まで使ったことのない下りの通路を抜けた先には、人が十人も入れば狭苦しく感じられる程度の広さの部屋があった。中には何もなかった。壁のひとつに、魔法陣の描かれた大きな扉がひとつある他は。
「これが」
 と、シーダー先生は扉を示して言った。
「今回の休暇中の課題だ。この扉の魔法陣を読み解き、休暇明けの最初の授業で呪文を完璧に詠唱すること」
 瞬間、ほぼ全員が絶句した。扉に描かれた魔法陣は、彼らがこれまで授業で扱ってきたものとは比べものにならないぐらい緻密に入り組んだ、かなり複雑なものだったからだ。少なくとも一日二日で済ませられるものではない。それはつまり、教科書や副読本を実家に持ち帰らなければならない、ということなのである。
 せっかくの長期休暇に!
 驚愕と落胆の空気には委細かまわず、実際どう思ったかはわからないが、シーダー先生はにやにや笑いながら説明を続けた。
「見てのとおり、今まで扱ったものよりもずっと複雑で、使用されている呪文の量も多いが、別にそんなに嘆くことはないぞ。使用されているのはどれも授業で触れたことのあるものばかりだ。これまでまじめに学んでいれば、休暇を全て潰すことにはならないはずだ。まあ、こうでもしないとおまえら、休暇明けには覚えたはずのことをすっかり忘れて戻ってくるからな。これまでの復習も兼ねて、きっちり勉強しろ」
「……えーーー…」
 抗議の声に力は無い。先生の口にしたことは確かに正しかったからだ。個々の呪文そのものは皆なそれなりに見覚えがあった。ただ、量がひたすら膨大なのだ。全体を見るとそれだけでうんざりしてしまう。しかも、読み解くだけでなく、それをもとに呪文を構築して詠唱しなければならないのだ。いったいどれだけ長く複雑な呪文になることか。この規模ならば呪文を構築するだけではすまず、詠唱の練習が必須である。
 それならば……、とその時、同じ部屋に居合わせたほとんど全員が同じことを考えたと気づいたのか、あらかじめそんなことは予測済みだったのか。それから、とシーダー先生はあまりな言葉を追加した。
「ああ、それからリオニス、クリストファ。おまえたちは課題のことで他の連中に入れ知恵するのは禁止だからな」
「えーーーーーっ!!」
 今度は抑える間もなく一斉に抗議の声が上がる。名指しされたリオニスとクリストファも、声は上げないまでもどういうことだという表情でシーダー先生の顔を見上げた。
「おまえらなぁ。どうもこうもあるか。最初から人に頼る気でいるんじゃない。リオニスとクリストファの二人は、この程度なら今すぐにでも詠唱できるだけの力がついてるからな。二人の課題は休暇明け初日の課題実技の時の模範解答と、まあ、おまえらの実技中に万が一暴走した場合の抑止役だ。それと、本番前にここで練習したい者は、無いとは思うが危険回避のために二人のどちらかに同席してもらうこと。二人も、こいつらにこっそり解答を教えるなんてまねはするなよ。教えたら罰則、外壁の水掃除だからな」
「……それはヤだ」
「うん、ヤだね」
 リオニスは言い、クリストファが頷く。冬真っ最中の水掃除、しかも外壁掃除は誰もが嫌がるものだ。二人の様子を見て手助けの道が閉ざされたことを知り、級友たちは非難も露にシーダー先生のにやにや顔を睨みつけていた。そんなことをしても課題は楽にはならないのだが。
「以上だ。各自で魔法陣を書き写すように。リオニス、クリストファ」
「はーい」
「わかってまーす」
「えぇーっ、それもぉっ!?」
「あたりまえだろ。書き写すところからが課題だ。写したものも提出させるからな」
「……はーい」
「よし。ではよい休暇をすごせよ」
「…………はーぁい」
 こんな課題を出しておいてよい休暇もなにもあるかいっ、という生徒たちの声無き叫びが聞こえてるんだか無視してるんだか、シーダー先生は相変わらずのにやにや顔のまま部屋を出ていった。
 少年たちは呆然と課題として与えられた魔法陣を前に立ちすくんでいたが、やがて一人が気を取り直したように言った。
「……やるか」
「そうだな。立ってたって、終わらないしな」
「うん」
 長期休暇を前に浮かれていた空気はすっかり消え失せて、とにかく書き写すことに専念した彼らは、全て写し終えた頃にはさらに憔悴して、食堂に集まっていた。

 で、冒頭の叫びになるわけである。



 《2》

「ねえ、クリス。君が帰るのって、今日? 明日?」
 いつもより少し遅い時間の食堂で朝食をとりながら、リオニスが尋く。それが何の目的があってのことかとは特に考えるでもなくクリストファは答えた。
「明日。兄貴が迎えに来るって言ってた。おまえは?」
「ボクも同じ。父さんの任地に行くからって、今頃母さんたちが家でいろいろ準備してるはずだけど」
「ああ、そっか。新年祭に出ないといけないんだな。あ、もしかしてリオンも何かやるのか?」
「そうみたい。せっかく宿題なしみたいなものなのに、結局いろいろ覚えないといけないことがあるんだよね、ボク」
「そりゃ、面倒だな」
 言いながら、まあそれも仕方ないんだろうなと、クリストファは心の中で思った。
 魔法使いとしての才能の有無を問うまでもなく、リオニスの姿形は感動的なほどに整っている。美人と噂に高い母親によく似ているという繊細な顔立ちは、父親似であるらしいやわらかな黄金色の髪で覆われていて、あまりの愛らしさに攫われそうになったことが何度かあるのだというこの少年に会ったことのある人間ならば、新年の、若々しく甦る太陽神の化身を演じるのに誰よりふさわしいと口をそろえて断言することだろう。
 性格は、もちろんそこらのガキと変わるところなど無いのだが。そうでなかったらクリストファも、同級というだけで仲良くすることなどなかっただろう。
「でも、クリスも明日帰るんなら、ちょうどいいや」
「なんだよ?」
「あれだよ。宿題の魔法陣。あれ、今からやってみない?」
「えぇ?」
「実際にどんなふうなのか、興味無い?」
「……無いわけじゃないけど」
「先生だって、ボクか君のどちらかがその場にいればいい、って言ってたんだから、ボクたち二人でもいいってことだろ? ね。やってみようよ」
 誘われて、確かに興味が無くもなかったクリストファは戸惑いがちながらも同意し、にっこりと笑って手をひっぱるリオニスにせかされながら朝食を食べ終えると、足取り軽く走りだした彼の後に従った。


「紅玉、青玉、黄玉に、これは金剛石か。ぜーたくな宿題」
 扉は左右二枚の両開きらしい。当たり前のことだが、手をかける穴も取っ手も無い。この扉を開くためには、表面にびっしりと施された魔法陣から呪文を読み解き、呪文を構築して詠唱しなければならないのである。そしてこの魔法陣から推測するに、使用する魔法語や呪文自体は基礎課程のもので足りるが、それゆえに量が、半端ではない。今回これを宿題として与えられた少年たちの授業進度から考えるならば、複雑に組み合わされた長い長い呪文を憶え一語の間違いもなく詠唱しきるには、かなりの練習が必要になるだろう。リオニスやクリストファといった例外を除けば。
「とりあえず、俺からやっていいか?」
「うん」
 リオニスは頷いて邪魔にならぬ位置にさがった。それを確かめるとクリストファはおもむろに両手を扉に触れるか触れぬかという位置まで突き出して、表面をなぞるように動かしながら詠唱を始めた。
 声変わりを迎えていない少年の声が、金属音めいた独特の響きでもって室内に反響する。正確に発音された一語一語が連なり、絡み、残された語尾が重なりあうにつれて、変化が、生じた。
 息を飲む音を、意識の端で聞き取りながら、クリストファは限界まで集中して魔法陣から読み取りつつ構築した呪文の詠唱を続ける。半ばを過ぎた時点で全身から力が抜ける感覚を覚えたものの、あくまでも詠唱のリズムは変えない。
 そして。
 紅玉が光を抱き。
 青玉が光を湛え。
 黄玉が光を放ち。
 金剛石に集約された光が色合いを変えながら魔法陣を巡った。きれいだと、素直に思って彼は最後の三語を丁寧に唱えた。疲労で膝をがくがくと震わせながらも。
「……で、どうだった?」
「なんかね、すごく、整ってた」
 魔法陣を巡った淡い光が消え失せたころに発せられたクリストファの問いに、リオニスは目を輝かせながらそんな答えを返した。
「ぴったりと、影がクリスの身体全体を薄膜で包み込むようにしていてね。うん。無駄が無いって感じだった」
「そっか」
「じゃ、次。ボクがやるから、ちゃんと見ててね」
 言って、ひょいとリオニスが扉の前に立つ。ひとつ大きく呼吸して、彼は外見からは予測できないほどはっきりとした調子の、硝子を弾くような透き通った声で、詠唱をし始めた。
 クリストファの詠唱も決して拙いものではなかったけれど、彼の詠唱は格段に滑らかであり、完璧な抑揚は耳を奪われそうなほど音楽的でさえあった。
 紅玉は戦き。
 青玉は震え。
 黄玉は戦慄き。
 それらを受けとめた金剛石から迸り出た光は魔法陣を駆け、その鋭い光で一瞬にすべての紋様を満たす。少年の姿をゆらすかのような閃光の激しさにも怯むことなく、リオニスはおしまいの三語をきっぱりと発音する。
「……いっつも思うけど、ほんと、余裕って感じだよな、おまえの詠唱って」
「そうかな?」
 くるりと向き直ったリオニスには、先程のクリストファとは違い疲労の気配は見えなかった。学院創始以来の天才と密かに囁かれる実力の一端が、かいまみえる。
「それで、どうだったかな?」
「姿が見えなくなるくらいだった」
 床に座り込んだまま、呆れかえった声でクリストファは目にした現象を告げた。
「光の強さに対応するみたいにものすごく濃い色の影が、ぶわぶわって、おまえを包み込んでた。オレからは中にいるはずのおまえが、ちょっとの間、見えなかった。力がありあまってるって感じ。びっくりだ」
「へえ。それってすごいってこと?」
「すごいんだろ。でもな、なぁんか危なっかしかったんだよな」
「危なっかしいって、どういうこと?」
「力がある分、制御に隙があるのかも。ちょっとだけなんだけどさ。先生たちはわかってるのかも知んないけど、おまえも自分で気をつけたら?」
「そうだね。クリスが言うんなら、気をつけたほうがいいのかも。うん。気にしとく」
 リオニスは素直に頷いた。勢いよく立ち上がるクリストファを待ち、今は光を失った扉をじっくりと眺める。
 ぴったりと閉ざされた背の高い扉。
「みんなはどんなふうなのかな?」
「ちょっと、楽しみだよな」
 顔を見合わせて、二人で笑った。
 お楽しみは、一カ月後。



 《3》

「じゃあ、次。アルフレド」
「はい」
 普段はおっとりとしている顔が、気負ったふうに強ばっている。数日前から戻って来ていた仲間たちとの最後の追い込みに交ざっていた彼の目の下には、うっすらと隈が浮いていた。
「……でも疲れてると、成功率って落ちるよね」
「仕方ないだろ。あいつも帰省中に全部終わらせられなかったって言ってたし」
 リオニスとクリストファは、実技中のアルフレドを見守りながら、ぼそぼそと言葉を交わしあう。
 そろって三日前に学院に戻って来た二人は、目をうるうる潤ませた級友たちの、無言の助けてくれ攻撃にすっかり辟易していた。さらには課題の扉がある部屋で練習に同席している間中、薄情者攻撃をも躱さなければならなかった。
 とはいえ正解を教えたことがばれれば、彼らにも罰則が待っている。心を鬼にしてひっきりなしの精神攻撃に耐え続け、ようやく実技当日を迎えたのである。
 幸い、出来の善し悪しはあったが失敗して暴走する者はいなかった。そして、彼ら二人が楽しみにしていたように、扉を走る光、現れる影もそれなりに様々で、彼らの目を楽しませていた。
 まるで点滅信号のような、今にも止まるのではないかと思わせる光や、床の上にだらだら広がっていく妙にだるげな影だとか。或いは扉にはめ込まれた宝石の三色をまだらに抱え込んだ色の薄い影もあったし、魔法陣の上を走るうちに落ち着きなく次々に色を変える光もあった。
 しかし、目の前にどっしりと据え付けられてあるものは明らかに扉の形をしているのに、誰ひとりとして開けるどころかほんの少しでも動かした者はいなかった。生徒たちは皆などことなくほっとしているような、落ち着かなげな表情をしている。
 順番が最後であったアルフレドの詠唱が終わり、やっと解放されたと言わんばかりの表情で彼が級友たちの間に座り込むと、それまで生徒の名前を呼ぶだけで一切何も口にしなかったシーダー先生がのっそりと皆なの前に立った。
「正解者は無しだ。正しく呪文を詠唱した場合には、ちゃんとこの扉は開くことになっているからな」
 うわぁっと声にならない動揺が走る。だが叱り付けているわけではない声の調子にすぐおとなしくなった少年たちへ向けて、シーダー先生はやはりにやにや顔で言った。
「だが、それなりに必死にやってきたことはわかったから……どう見ても一夜漬けの連中もいるようだが、今日の実技に基づいて評価をつけることとする。ま、おまえたちにしてはがんばったな」
 一斉に安堵のため息がもれた。そしてそれがそのまま雑談に移るより早く、シーダー先生は今日の実技に参加していなかった二人の名を呼んだ。
「さて、クリストファ、リオニス。この課題の正解を、こいつらに説明してやれ」
 呼ばれた二人は互いに押し付けあい、結局、クリストファが扉の前に歩み出た。
「ここを見るとわかるんだけど」
 と、おもむろにクリストファは扉の下部に書かれた対応する一対の魔法語を示した。幾何学模様に紛れて見落としたとしても全くおかしくないほど、小さく見つけにくいもので。少年たちは思わず息を止め、目を細めてそれを凝視する。
 重々しく、クリストファは、それを告げた。
「これ、二人同時詠唱の魔法陣なんだ」
「えーーーーーーーっ!!」
 耳元で叫ばれとっさに両手で耳を塞いで飛びすさったクリストファに代わり、リオニスが説明を引き取る。
「……だから、一人ずつだと、どうやったって開かないんだって」
「マジ?」
「まじ」
 じゃあこの冬休み中の自分たちの努力はなんだったんだい、とは言葉にならず、皆なは相変わらずのにやにや笑いを浮かべたシーダー先生を恨めしげにじっとりと睨んだ。
「正解だ。一人で詠唱した場合にも対応して作ってある。詠唱された呪文を受けた宝石が放った光によって、個々人の魔法力を行使した時の状態が影という目に見える形で表されるようにな。不安定だったり、偏っていたり、過不足があるとか。それぞれ自覚があるんじゃないか? 今後のためにも自分の状態についてはしっかりと覚えておけよ」
 先生の説明に納得しつつも収まりが悪い。それも気にしもせずに、シーダー先生はクリストファとリオニスを手招いた。
「さ。模範解答の実演だ。おまえらも、ちゃんと見ておくんだぞ。ちゃんとな」



 《4》

 シーダー先生の指示で扉に向かって半円形に並んだ級友たちの前に、二人は距離をとって立った。
 せーの、とクリストファがかけた小さな声を合図に、二人の声がきれいに重なり詠唱を始める。複雑な呪文を、わずかのずれも狂いもなく詠唱してゆく彼らの声は、不思議に調和の取れた深みのある響きを生み出した。
 やがて宝石が光を帯びた。
 それは先程までとはまったく違い、まさに宝石の内側から生じた淡い光であった。紅玉、青玉、黄玉、そして金剛石が、各々で限界まで光を抱え。
 そして、一気に魔法陣を疾走した。
 鮮やかな赤色の、深い青色の、暖かな黄色の、そして澄みきった白金色の光が、それぞれの軌跡を描き、それぞれに紋様を重ね、そして一色の淡い光となって。
「…………あ」
 いつの間にか詠唱は完了していた。
 それに気がついた次の瞬間、扉は軋み、開き始めていた。
 表面に描かれた魔法陣が淡く発光し続けている扉の隙間から、更に眩い光があふれる。迸る輝きは質量を感じさせるほど濃密に周囲を圧してゆく。
「すごい……」
 誰のものかわからぬ声が、皆なの気持ちを代弁していた。
 扉はゆっくりと開いてゆく。輝きの中に、ぼんやりと何かが浮かび上がってくることに、最初に気がついたのは誰であったか。ともかくも、すぐに皆ながそれに気づいた。
「あれ、は…………!?」
「え、でも、まさか……っ?」
 ふいに、リオニスが爆笑した。それまで我慢していたものをもう堪えきれないと諦めたかのように、細い体を二つ折りにして激しく、美少年を台なしにする勢いで荒々しく、両腕で腹を抱えて笑い続けた。
 傍らではクリストファが呆れ顔で脱力していた。まさかこんなものがと、そんな顔でシーダー先生の方を見る。
 シーダー先生はいつもよりもなお面白げに、クリストファに向かってにやりと笑むと、残りの生徒たちに視線を戻した。
 皆な驚愕のあまり瞳孔が開ききり、がっくりと床に膝をついて、今目にしたものを信じたくないと言わんばかりの表情をしている。
 やがて完全に開いた扉が、そのまま開いたときと同じくらい悠然と閉じてゆく。
「シーダー先生」
 クリストファは、相変わらずリオニスの笑い声だけが響いている中で口を開いた。
「もしかして、『あれ』は、次の長期休暇の時の宿題ですか?」
「おお、よくわかったな」
 まるで明日の天気について話しているかのような気楽さに、クリストファは苦笑した。背後でばたばたと人の倒れる音が聞こえたが、まあそれも仕方ないだろうと思う。そこにあったのは、少なくとも、冬期休暇中散々悩まされたであろう彼らが目にするには、いささか冗談が過ぎる代物だったからだ。何も無かったなら、もしかしてまだましだったかもしれない。
 リオニスとクリストファが開けた扉の向こうに、彼らが目にしたもの。
 それは、扉、だった。
 ご丁寧にも表面一杯に複雑な魔法陣が描かれ五色の宝石が配置された、紛れもない、扉、であったのだ。
「せ、先生っ、もしかして、その先も……っ?」
 収まらぬ笑いに声をひきつらせながらリオニスが問う。まさか、という周囲の視線も完全に無視して、シーダー先生は、肯定した。
「その通りだ。在学中の最高記録は、四年前の十七枚目だったはずだが、記録更新に挑戦してみるか、リオニス?」
「……じゅ、十七枚っ、ですかっ……? す、すごい記録で、すねぇ……」
 感心してるんだか呆れてるんだか面白がってるんだかわからない。やれやれとため息をつきながら、クリストファは詳しい説明を先生に求めた。
「全部で何枚あるのか、最終的にどこに繋がってるのかは、学院長だけが御存じのはずだ。力試しを兼ねて挑戦するのはいいが、見てのとおり、一定の時間が過ぎると扉は自然に閉まるから、戻るときにも裏側に描かれた魔法陣から呪文を詠唱する必要がある。しかも呪文は行きと帰りではまた別になっている。リオニスならともかく、クリストファは魔法力を補助する道具をいかに利用するかが攻略の要点になるだろうな」
「ちなみに、シーダー先生は何枚目まで行ったことがあるんですか?」
「私か? この前、試した時には二十九枚目で時間切れになった。今回のである程度わかったと思うが、先の扉にも一人では無理なのが混ざってるし、相性もある。完全攻略するのはなかなかに難しいなぁ」
 しみじみとした口調でシーダー先生は答え、そしていつもより照れくさげな笑みを浮かべた。
 自分たちから見て遥か彼方の高みにいるような先生でさえできないのだと。
 果てしなく遥かな道程を、今まさに目の前に差し出され、魔法使いの卵たちは自分たちが足を踏み入れた道の遠さ長さに、いまさらながらではあったが呆然とせずにはいられなかった。
 だが。
「おもしろそうだね」
 目尻に笑いすぎの涙を滲ませたリオニスが、満面の笑顔で言った。
 肩に手をかけられたクリストファは、その言葉にやれやれと笑い。
「オレは同感だけど、おまえはもう少し周りを見てそういうことを言えって」
「?」
 見回せば、心底から楽しげに口にされたリオニスのその言葉にがっくりと打ちのめされた級友たちが、完全に力つきた様子でべったり床になついていた。


 彼らの魔法使いとしての旅は始まったばかり。
 これから何枚の扉を開けるのか、彼ら自身にさえわからないけれど。
「やっぱり楽しそうだと思うけど」
「まあな」
 もしかしたら、ただこんなふうに軽々とくぐっていけばいいだけなのかもしれない。
 とりあえず、最初の扉は開かれた。



《了》




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