子子子子子子子、子子子子子子子
(nekonoko koneko , shishinoko kojishi)




  《1》

 大通りの南端に軽快な爆音が轟き、ひょろりと背の高い青年は一瞬その滑らかだった歩調を乱した。軽い音をたてて、夜の風に短いマントの裾が翻る。
「あああっ、やぁっと来たっ!! こっち、こっちだよ、こっち!」
「……帰っていいか?」
「おぉい、寝ぼけてんなよ。こっち、早く、ほらっ!」
 ボーイソプラノが、雑な台詞をまくしたてている。
 真正面から正しく彼に向かって全力疾走して来た小柄な少年は、ごく幼いと言った方がずっと似合いな顔立ちに、助かったと言わんばかりの表情を浮かべ、どう見ても気乗り薄な青年の二の腕をがっしと掴むや否や、有無を言わせず走り出す。
「……それで、どのくらい飲んでるんだ、あいつは?」
「僕が店から出た時には、……えっと、ジョッキは四杯目だった。たぶん」
 目を合わせもせずに言われ、彼は肩の力がごっそり抜けるような気がした。
「念のために尋くけどよ、ジョッキ以外は、何杯飲んでた?」
「ははは……。ちょっと目を離した隙に、小さいグラスが三杯、空だった、かな……?」
「…………なあ。帰っていいか?」
「だめ。ほら、もっと気合入れて走れよ」
「へぇいへい……」
 足を速めた少年に引きずられるまま、彼はおとなしくその後に従った。
 同じ仕立てのマントをなびかせるように全速力で駆け抜けて行く彼らを、周囲の人々はある人は物珍しそうに、或いは笑いながら道を開けて通した。止めようとする者が一人もいないのは、単に、これが初めてのことではないからであろう。その事実に、彼は更なる脱力感を覚える。
 じきに、二度目の爆音が先刻よりも近く大きく響き、前方で鮮やかな緑色の煙がぶわんっと路面をなでる様子が目に入った。とりあえず、破壊音ではない。
「あー…。まあ、前回よりはマシかねえ」
「……」
 呟いた彼に応じる声はなく、ただ引きずる速度がまた上がった。いまさら急いだところでなあ、との投げやりな思考も、口にはしなかったので伝わらない。目的の場所は、もう目の前だった。


 間口の大きいその店の扉は、通りに向けて大きく開いていた。眩しく光をこぼすそれの普段の役割は、通りを行く人々を客として招き入れるためであろうが、今現在に限って言えば、店内に居合わせた客を無事に外に逃がすためとしか考えられなかった。扉の外側では、数人の男たちが這うような姿勢のまま、見てる方が苦しくなりそうな勢いで咳をくり返している。
 ぼんっ
 軽い破裂音とともに再び戸口から煙が噴き出した。店先で咳き込んでいた男たちが、更に慌てて少しでも店から遠ざかろうとじたばたのたうちまわる。見物しているいかにもやじ馬といった人々は遠巻きに、しかし誰も近づいて助けようとはしなかった。
 確かに。
 思わず、その薄情さを嘆くよりも先に納得する。緑色で、さらにところどころ薄い紅色が斑にまじった煙は直撃を受けるまでもなくひどく粉っぽく、いがらっぽかった。同情はしても、誰もこんなけったいな色合いの煙の中に好き好んで突入したくはないだろう。
 彼は右ポケットから手のひら半分ほどの大きさのカードを一枚取り出すと、小声でごく短い呪文を唱えた。すぐさま風が吹き、路上に残っていた煙は瞬く間に上空へ吹き飛ばされる。周囲から、思わずといったどよめきと歓声、拍手が上がった。
「おぉ、見事!」
「……どうも」
 使用済みのカードは左ポケットに突っ込み、彼は見物人と同じ調子で拍手しつつ感想をもらした少年にそっけなく応えると、顎をしゃくった。
「ここだな?」
「うん。右手の、ちょっと奥に入ってった席だよ」
「外の人たちの手当ては、おまえがやっておけよ」
「はーい」
 お気楽な返事は適当に放って、彼は扉の位置でまず叫ぶ。問題の人物の名前を。
「リオン!」
「おーう、クリスじゃないかあ。さっさと入って来いよお!!」
 ひっじょーうにごきげんな声を返され、彼はほどよく目眩を感じた。このまま回れ右で帰りたいのはやまやまではあったがそうもいかず、こめかみを指で押さえつつ、煙の残滓が漂う店内へと足を踏み入れた。
 店内にはたくさんの円形のテーブルが配置されていたけれど、ちゃんと席に座って陽気に酔っ払っているのは現在のところ一組。しかもそのうちのただ一人だけが絶好調に笑っているという状態で。残りは、あれである。
 阿鼻叫喚。
 死屍累々。
 どうやら店外に転がっていたのは、戸口に近い席にいて逃げ出すことのできた、比較的運のよい客だったらしい。こちらの人は椅子から転げ落ちたのだろうか、あちらではテーブルごとひっくりかえって、皆なげほげほやっている。
 それは絶好調の隣にいる人間も例外ではなかった。
 普段はおっとり顔のアルフレドも、始終落ち着きなく教官に注意ばかりされているランディも、酸欠で顔が真っ赤になるほど激しく咳き込みながら、床の上に転がっている。スタインは位置的に見て、どうやら直撃を受けたらしい。ものの見事に白目をむいて痙攣しつつ気絶していた。
「……」
 毎度毎度、どうしてこうも騒ぎにしてくれるのだろうかと、自業自得の連中には目もくれず、彼はひたすら笑い続けている頭痛の種の目の前に立つや否や、見た目だけは美しい輝く黄金色の頭を、ばこん、と殴った。
「いったーいっ! 何すんだよ、クリス!!」
「何すんだよも何もないだろ、このっおばかがっ! 周りに迷惑かけんじゃないっ!」
「えーっ? なんだよ、迷惑って? ボクは花束を出そうとしただけだよ。隣のテーブルのおじさんが、娘さん自慢してたからあ、お土産にしてもらおうと思ってねーえ」
「だーかーらーなーーーぁっ! 何度言ったらわかるんだ、ってーかっ、いい加減に覚えろ、こぉーんのヒヨドリ頭!! 酒飲んだら魔法は使うなって、これで、いったい、何度目だと、思ってんだよっ!?」
「ヒヨドリ頭ってひどくない? ねぇ、クリスってばひどいこと言うよー」
「言われたことを端からさっさと忘れてく代物なんざ、ヒヨドリ頭で十分だ。ほら、帰るぞ」
「えーーーーーーっ! せっかくの外出日なんだから、もっと飲みたぁーい。それにまだ花束出してないよ、花束。お土産にあげるんだからあ」
 詠唱のためだろう、ためらいなく口を開くのを目の端に見るや、いつの間にか準備よく右手で取り出したカードをリオニスの額に叩きつける。
「いいからおまえは黙っとけ」
 問答無用とばかりに彼は鋭い声で一言唱える。と、ふらっと視線を泳がせたかと思うや、少年はいきなり眠ってしまった。
 くったりと脱力した身体をテーブルに伏せて置き、とりあえず足元に転がっていたアルフレドに回復魔法をかけて残りの二人と店内の客を任せ、クリストファ自身はカウンターに向かった。
 恐らくはそこで悶絶しているであろう店主を回復させて、事情説明を行うために。



  《2》

「あれ、クリトファ先輩。お休みだったのに、なんだかすごく疲れてませんか?」
「…………休みだったから、疲れてるんだよ」
 顔見知りの下級生に声をかけられ、取り繕った笑みを向けながらクリストファは手にしていた夕食のトレイを雑に置いた。
 ピークを過ぎた食堂はほどよくすいていて、座席を選ぶ苦労はない。友人連中の顔を見つけてそのテーブルに席を決め、ともかくまず皿の上のものを片付けることに専念する。下級生の疑問には友人どもが答えていた。
「外出日恒例、リオニスの後始末だったんだってよ。今回は、建物とかは吹き飛ばさなかったらしいけど」
「けど?」
「煙がすごかったって。なんでも、居合わせた人たちみんな、息が止まりそうなほどひどい咳でのたうちまわってたって話」
「うん、それほんと。もう、死ぬかと思ったよぉ」
「おまえのは自業自得」
 しみじみとした台詞を、ごくあっさりとクリストファが切って捨てる。周囲の笑いにもめげず、おっとりとアルフレドは笑った。
「それにしてもクリストファって、ほんとに口がうまいよねぇ。店主さん、最初はなんだかもう話を聞く耳なんてぜぇんぜんないみたいだったのに、最後にはちゃあんと君の言うことに納得してくれてたよぉ」
「……あのな。こう毎回毎回毎ッ回、後始末にかつぎ出されてりゃ、説得も言い訳も泣き落としだって上達しない方がおかしいだろ」
 成長期の食欲ですっきり食べ終わったクリストファが断言する。その隣で、疑問顔の下級生が非常に基本的な質問を発した。
「でも、どうしていつもクリストファ先輩がひっぱり出されるんですか? 他の先輩方も、《睡眠》や《沈黙》の呪文は履修されてるんですから、誰かがそれでリオニス先輩を止めればいいだけじゃないんですか?」
 その瞬間。全員がそろって口をつぐむと顔を見合わせ、微妙な表情をして見せた。一人クリストファの表情は、苦虫をかみつぶしたかのようだ。
「効かないのよ」
「え?」
 一人がそう言い、な? と皆なが顔を合わせて頷きあった。
「やっぱり同じこと考えたんだよね、暴走し始めたら眠らせればいいって。それでその時も外で飲んでて、リオニスがそりゃもういーい感じで酔っ払っちゃって、適当に呪文唱えたかと思うと、どーんと景気よく店の壁を吹き飛ばしたんだ。で、慌てて一緒にいた連中が呪文唱えて眠らせようとしたんだけど、眠らないの、あいつ」
「全然ってわけでもなかったんだ、一瞬は気を失ったから。でもすぐ目を覚ましたかと思うや否や、ほいっと……大爆発」
「あいつ、もともと魔法が効きにくいらしいんだな。魔法的な素質に優れてるせいで、耐性があるっていうか」
「けどさ、どういうわけかクリストファのは、ちゃんと効くんだよ。な? しかもリオニスの酔いが醒めるまでは、絶対に、解除されない。いやあ、魔法のカード化じゃ、おまえがここでは一番だろうな」
 魔法のカード化とは、彼らが実技で初期に習得する技術のひとつである。基本的に、魔法は詠唱することによって発現するが、如何なる場合にも呪文をすべて詠唱しきる時間があるとは限らない。難易度の高い魔法呪文は当然詠唱自体も複雑かつ長いものが多いし、一言でも唱え損なった時点でそれは失敗なのだ。
 そこで考案されたのが魔法カードである。これは用いる魔法の種類によってその発現を補助する宝石等を埋め込み、魔法語を書き込んだ上で、必要とする呪文をあらかじめ途中まで詠唱してカードに封じ込めたものである。こうすることによって、必要なときに最後のキーワードとなる短い呪文を唱えるだけで魔法を発現させることができるのだ。
 もちろん、同じように作っても出来の善し悪しがある。せっかく作成したカードも、作り方に不備があれば不発に終わる。もしくは期待したほどの効果が出ない。またどんな魔法が必要となるのかをきちんと推察できなければ、役に立たないカードをポケット一杯に詰めて歩くだけになってしまう。もっとも学生の間は、許可無く魔法カードを持ち歩くことは禁止されているのだが。
 その点、クリストファの作成するカードは不発がほとんどない上に効果は抜群。また、作成したカードの八割を的確に使いきっている。許可を受けた、外出日における使用に限ってではあるけれど、その効率の良さは教授陣のお墨付きである。
 が。
「……あんまり嬉しくないのは、どうしてかねぇ?」
 尊敬する先輩の顔に浮かんだぬるい笑みをまともに目撃してしまった下級生は、思わず小さく乾いた笑いをもらした。
「あ、あの、それじゃ、最初から問題を起こさないように、一緒に行動したらいいんじゃないかと、思うん、です、けど…?」
 おずおずと尋ねた下級生は、さらにぬるうい笑顔を見せられ、ばきばきに顔を引きつらせる。
「そんな『代物』と一緒に、いつ暴走するか見張りながら飲んで、楽しいと思うか?」
「……いいえ。すみません、先輩。愚問でした」
「気を使ってもらえるのは嬉しいよ。……他の奴らはおもしろがるばっかりなんでね」
 口々に適当なことを言っている仲間たちを斜めに見やりながらの深い深ぁいため息。もはやかける言葉すら思いつかず、少年は顔を伏せた。



  《3》

「あ、いた、クリス。学院長が呼んでたよ」
 唐突に食堂の入り口で明るい声が叫んだ。部屋中の人間たちの視線を一気にあびても一切気にとめず、小走りに近づいてくる。
 輝く光のような黄金色の髪をゆらして駆け寄る少年は、年頃の少女であれば一目で恋に落ちそうなほど整った顔に屈託のない笑みを浮かべていた。
「よう。説教は終わったのか?」
「嫌だなぁ、その言い方」
 むっと口を尖らせてクリストファの隣に座った彼こそが、学院きっての天才の名で呼ばれ、また酒癖の悪さで学院一を誇る(?)リオニスである。
「みんなで何の話してたの?」
「おまえの武勇談、最新版」
「うわ。やめようよ、その話は」
「これを話題にしないでどうするよ。で、どこまで覚えてんのさ?」
「えっとね。一通り注文したもの食べて、追加で頼んだお酒飲んでたら、ランディが隣で飲んでたおじさんと意気投合して盛り上がりはじめたのは覚えてる」
「それ、けっこう最初の方」
 同席していたアルフレドが短く口を挟む。
「で、その後は?」
「目が覚めたら、アルとアビーが店先で客寄せに芸してた。ボクはクリスの説明聞いてお店のご主人にごめんなさいって謝ってから、帰るまでずっと裏で洗い物」
「ランディとスタインも一緒だったんだろ? あいつらは?」
「スタインは直撃受けたせいか、ちょっとダメージ大きかったみたいでねぇ。一足先にランディに宿舎に運ばれてったんだ。ランディは戻って来て、店内で給仕してたよ」
 アルフレドの説明で、どうりでスタインの姿を見ないわけだと皆なが頷く。ついでにランディの姿も見えないのは、大柄なスタインを運んだことによる激しい筋肉痛が原因だとか。
「しかし、何で爆発するんだか」
「ほんと。不思議だよねぇ」
「おまえが言うな、おまえが」
 口々につっこまれてリオニスが身を竦める。リオニス自身にも原因がわからないのだから、本音と言えば本音なのだったが。
「まったく。これでよく外出禁止にならないよ」
「そりゃ、クリストファのフォローの賜だろ。でなけりゃ、いくら将来性を買われてるからって、とっくに下山禁止にされてるって」
「確かにね」
「月に一回だって足りないくらいなのに、長期休暇以外は街に降りられないなんてことになったら、うんざりするぜ、きっと」
 リオニスは隣に座るクリストファの渋面を見上げ、軽やかに感謝の言葉を口にする。
「ほんと、いつもいつもご苦労様でーす」
「ふーん。どの口でそれを言う?」
「……この口、かな?」
 頭の上の方で妙な声がした。顔を上げると、手がパクパクと開閉している。
「…………リオーン」
 ぶに。
 両側から頬を引っ張られ、せっかくの美形も台なしである。さらにゆっさゆっさ前後にゆすられてから解放されたリオニスは、赤くなった頬を両手で押さえた。
「クリスって、だんだん乱暴になってきてないか? 頭もごんごん叩くし」
「わたしも、おまえがおとなしくしてるんなら、乱暴になんかせずにすむんだよな。反省の色も見えない騒動の種に、遠慮なんかしてられるか」
「だって、おぼえてないし。……って、ほらまたぁ」
 言うや否やばこんと叩かれて口を尖らせる。が、クリストファのすっかり据わってる目を見て、表情を整えた。
「……怒ってるのか?」
「いいや。単に、呆れてるだけだ」
 怒鳴るも何も、いまさらである。これは今始まったことではないし、おそらく最後でもないだろう。
 リオニスは、たぶんそれなりに自分のしでかしたことに対して反省はしているのだろう。一応は。しかし、ある程度以上に酔いが回った後、リオニスの記憶はきれいさっぱり消えるのだ。一見、泥酔しているとはとても思えない軽快な口調で喋る陽気な酔っ払いは、だがその間に喋ったことも起こったことも、見聞きした全てを翌日には忘れている。
 だから、反省はあってもいっかな改善されない。
 素面の時に説明はしてあるし、何度も破壊直後の『現場』を見せられているから理解していないワケではない、と思う。しかし、いささか調子に乗りやすい彼は、級友たちに誘われるとつい一杯、と手を伸ばし、後はそのままノリで行ってしまうのだ。
 そう。周りの連中も悪い。
 というか、周りの連中が特に悪い。
 初期の騒動は、リオニスの酒癖が知られていなかったことが一番の原因だった。
 現在、彼の酒癖は学院内に広く知れ渡っている。にもかかわらず、月に一度の外出日にほぼ必ずリオニスが酔っ払ってどこかで爆破騒動を起こしているというのは、確信犯である周囲の連中が原因なのである。
 だいたい巻き添えを食う可能性を承知していながら一緒に飲むなどという愚行をくり返すのだ、連中に同情の余地はない。同情すべきはそんな連中に飲みに来られた店の主人と居合わせた一般の客である。
 そして毎回その後始末に奔走する、クリストファ自身。最近の彼は、我が身を振り返ると微妙に泣けてくる。
 最初に手助けしたのがそもそもの間違いだったと、後悔しても後の祭りである。
「…………学院長のとこに行ってくるわ」
「おー。行ってこい」
「がんばってねー」
 ばこん。
 やはり他人事のような口ぶりのリオニスの頭を殴りつけ、クリストファは食堂を後にした。



  《4》

「あら、クリストファじゃない。あなた、また大変だったんですって?」
「……カッツェ先輩。もう先輩たちのところまで広まってるんですか?」
「当たり前でしょ、食堂で大騒ぎしてたもの。近くのお店で飲んでた連中もいたしね。大笑いしてたわよ、店先の客寄せ芸」
「……勘弁してくださいよ」
「ふふ。そのうち飲みに行きましょう、彼抜きでね」
「はい。あいつがいないときがあれば、喜んで」
 長い黒髪をゆらし、楽しそうに笑いながら去ってゆく酒豪で有名な先輩の背中を見送りながら、ついつい呟く。
「けど、そんな機会があるんでしょうかねぇ……」
 学院長室にたどり着くまでに、更に数人の先輩方から通りすがりにお声がかかった。皆な一様に彼をねぎらい、酒席に誘ってくれる。さほど付き合いのない後輩なんかの顔をよく覚えてるよなと思ったものの、その内の何人かはリオニスに酒を飲ませたことがある人たちであった。覚えていて当然であろうし、他人事なら楽しかろう。
 クリストファだとて、当事者でなければ面白がったに違いない。
「……貧乏くじ、引いたよな」
 そうこう考えつつ、やがて現れた扉を無造作に押していた。


 机に向かい仕事中であった美人は、扉の陰から現れた相手を確かめるとにっこりと笑って迎え入れた。
「あら、クリストファくん、いらっしゃい」
「……いつもどうも。学院長先生は……」
「あちらでお待ちかねよ。報告書はリオニスくんが来る前に読んでいらしたわ」
 くすくすと笑いが止まらないらしい彼女に促され、学院長秘書に名指しで気楽に声をかけられてるってのに、相手が美人な分なお侘しい気分になるってのはどうよ、などと心中激しくつっこみつつ、もうすっかり見慣れてしまった分厚い扉を多少ならずなげやりな気分でノックする。
「学院長先生。クリストファです」
「入りなさい」
 疲労が窺える声に、理由がわかっている彼はこのまま戻りたい気分になった。
 外来の客、中でも学院の性質上、国政を預かる高官を迎えもてなすことも多い学院長室は、学び舎の中であることを考慮しつつも充分に豪奢かつ重厚である。慣れぬ人間ならば、その雰囲気につい怯んでしまうこともあるだろう。足音を吸い込む分厚い絨毯を踏み締めながら向かう先には、大きく取られた窓を背にどっしりとした机の前に腰を下ろし、何やら書類に目を通している学院長の姿があった。
 クリストファも初めてここに通されたときには、緊張のあまりさすがに背中に冷や汗を感じたものだった。ここに来るのが何度目なのかわからなくなってしまった今となっては、ここに立っていることさえもの悲しく感じられる。
 加えて、学院長が目にしている書類が今朝方提出した自分の報告書であり、机の上に置かれているのがリオニスの反省文であることに気づくと、いつものこととは言え、一層気が重くなった。
「報告書は読んだよ。今回もご苦労だったね」
「いいえ」
 大変は大変だったが、前回よりはましだったからまったくの嘘ではない。
「ついさっき、宿舎のマースンからの報告も届いたのでね。疲れているだろうが、教えておこうと思ったんだよ」
 月に一度の外出日とはいえ、当然のことながら生徒たちを完全に野放しにするわけにはいかない。街には学院の所有する宿舎があり、家族や親戚の家に泊まることを申請した者以外は、門限までに宿舎へ戻るように定められている。マースンはそこの管理人であり責任者である。生徒たちが街にいる間は、学院長に代わって彼がすべての権限を委ねられているのだ。
 簡単に言えば、お守り係である。
 そして最近の彼の外出日の仕事のほとんどは、リオニスの後始末であった。
「君の説得と手配が行き届いていたお陰で、特に大きな問題はなさそうだということだ。被害にあった人たちとの交渉も滞りなくすんだそうだ」
 ほっと胸をなでおろす。いくらクリストファがリオニスの後始末係としてある程度の権限を委譲されているとはいえ、時間になれば山奥の学院に戻らねばならず、またしょせんは学生の身である。結局のところマースンが最終的に事態を収拾することになるのだ。極力事態の悪化は防ぐよう努力しているが、面倒をかけることには変わりない。まったく、頭が上がらないとはこのことである。
「いっそ外出禁止にするというのは、だめなんですか?」
「うむ。確かにそれが一番手っ取り早いのだがね。ほどよく息抜きをさせないことには、精神的疲労の問題も出てくる。彼の才能から言って、このまま順調に育てばおそらく政府の要職に就くことになるだろうから、あまり世間離れしすぎるのも問題でな。自覚を持って自制するようになってくれることを願っているのだが……」
「申し訳ありませんが、その点については今のところ望みは薄そうです」
「……どうにかならんかね?」
「どうにかできるものでしたら、とっくにやってます」
「そりゃ、そうだろうなぁ……」
 しかし、と、いつもながらクリストファは首をひねる。気の早い話かもしれないが、将来国政に携わることになったとして、公的なパーティーに参加することともなれば、飲酒は完全に避けられるものではないのではなかろうか。
 素面の時にはいいとしても、有り余るほどの才能があってさえ、あの酒癖が直らないまま学院から出してしまったら、世間様に申し訳がたたないような気がする。
 だが。
「まあそれに今のところ、君には申し訳ないのだが、君のフォローがあるから彼の外出禁止措置が出されずにいるという面もあってね」
 いっそ面目立たない事態になってしまえと、一瞬彼は本気で思った。


「おお、そうだ。忘れるところだった」
 話も終わろうかというころ、ふいに学院長が手を打った。
「エクセン教授が、実際に彼が酔っ払った状態で詠唱するのに立ち合いたいと言っておったのでな。用意が整ったら、まず君に連絡して助言をもらうように指示してある」
「わかりました。ですが、それはつまり理論面での分析は、まだ目処がたたないということでしょうか?」
「おそらくそうだろう。大体、記憶がなくなるほど酔っ払った状態で呪文を詠唱して、それが成立するというのがなんとも理解しがたいのだよ。正直に言えば、私らだとて若いころは君たちのように羽目を外して騒いだりもしたがね。そんなときにそう簡単にまともな詠唱ができるものではなかった。しかも、唱え損なった呪文が、失効するのではなく、すべて爆発系の呪文として発動するなどという話は、聞いたこともなかったよ」
「わたしも毎回信じがたい気分になります」
 クリストファは答えた。
 そうなのである。酔っている状態のリオニスの話から推察する限り、彼はごく適当に呪文を選択し、いつも通りに詠唱しているつもりらしい。だが、何故か酔っている彼の詠唱する呪文はすべて、正常に発動しない。
 不発ならばまだいい。
 彼の場合、すべてが爆発系の呪文として発動するのである。
 そう、いかなる呪文も、である。それが水を出そうとしたり風を吹かせようとしたりケガを治すためのものであったり、また今回のように花束を出そうというものでも、どういうわけか皆な爆発するのである。
 詠唱された呪文同士に特に共通項が見つけられず、いったいどこをどう変えたらそんな呪文になるのか皆目見当がつかない、とこの件の原因解明を依頼されたエクセン教授が目を白黒させたと聞いている。以来、進展は無いらしい。
「直接ご覧になれば、教授もそんな気分になるのではないでしょうか」
「かもしれぬな。何にせよ、原因がはっきりつかめれば、根本的な対策も立てられようというものだ。そうなれば、君の負担も軽減されよう」
「ありがとうございます」
「君には毎回非常に迷惑をかけるが、あれが解決されるまではよろしく頼むよ。こちらで出来る限りのフォローはするが……」
「はい。わたしも出来る限り当人の自覚を促すとともに、周囲の者たちに無茶をさせぬよう注意しておきます」
 おきまりのねぎらいの言葉を最後に部屋を後にする際、どうもリオニスが酒を覚えて以来、めっきり薄くなったように思われる学院長の頭部にそれとなく視線を流し、卒業までもつかどうか、他人事ながら心配になってしまった。
 いや、本当に他人事ですむだろうか。
 彼の手は思わず自分の頭を撫でていた。



  《5》

 学院長室を出ると、周囲はひどく静まり返っていた。
 当然だろう。外出日は終わり、明日からはいつも通り講義が行われる。浮かれた気分を残しながら、そろそろ皆な明日の準備に取り掛かっている頃合いである。
 そう。学生生活はそれなりに忙しい。日々の講義の予習復習、課題は山ほどあるし自己鍛練も欠かせない。だからといって友人たちとのつきあいを疎かにしてもいられない。その上で自分自身で興味を持ったことに積極的に取り組んでいこうと思えば、いつまでもぐれていたところで仕方がない。
「……よしっ」
 気合を入れて気分を切り換える。
 というか。切り換えでもしないとやってらんない。
 やらなければならないこともやりたいことも、彼にはたくさんある。全部を一気に片付けるわけにはいかないが、だからこそ時間が惜しい。少なくとも、終わったことをいつまでも振り返ってぐちぐち考えたところでどうもならない。前を向いて次を考えるのだ、次を。そうすれば、何か新たな手段が見つかるかもしれない。……もしかしたら、だが。
「とりあえず、次の外出日は一カ月後だしな」
 ささやかに過ぎるその事実を慰めに、クリストファは寮への道を取った。


 そして恒例の一日が終了する。


 外出日。
 それは、山奥に半隔離状態に置かれている魔法使いの卵たちが心待ちにする、月に一度のお楽しみである。
 外出日。
 それは、クリストファにとってはもはや、特別任務と同意語である。


「ああぁっ! クリストファ、やぁっと来たぁっ!!」
「……たまにはゆっくり酒が飲みたいよなぁ…………」
 無視されることを承知で、深い深いため息とともにクリストファは呟いた。
 彼のささやかな願いが適うのはいつのことか。


 今夜も街に爆音が(……以下省略)




《了》




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