花や今宵の




 《1》


「いつまでも四の五の文句を言うなよ」
 男の声が呆れ返った様子で断じる。
「そもそもはおまえが『できる限り早い方がいい』って言うから、こうして近道を教えた上に、わざわざ先導までしてやってるんだろうが」
「そうは言うけどさぁ」
 ぐずぐずと、別の声が諦めがたいふうに答えた。
「せっかく果物で有名なとこに来てるのに、なぁんで晩飯に干し肉齧らなきゃならないんだかなぁ。土地の名物食うのが唯一の楽しみなのに……」
「だったら《移動》や《飛行》で行けば?」
「……やるわけにいかないことわかってて、そういうこと言うんだからなぁ……」
 そこはかとなく恨めしげな口調を受け流してその男、ロウは笑って先を示した。
「まあいいじゃないか。ほら、こんなきれいな夕焼けは、そうそう見れないぜ?」
「わたしは食べ物の方がいいね」
 見晴らしのよい場所にさしかかり、ひと雨ごとに色濃くなってゆく緑深い森が、傾きかけた太陽の光を浴びて鮮やかな橙色へと染まってゆくさまを目の当たりにしながら、ものの見事に色気のない意見を吐いて、クリスはいかにもわざとらしくうなだれた。
「紅玉色のタジャの実、小粒で甘酸っぱいリルベリー、目も覚めるようなギギアンの香り、淡い瑠璃色のサザム、……そうだよ、特にサザムだよ、今ちょうど旬じゃないか。ここの採りたてのサザム以上のサザムなんて、大陸中のどこを探したってありっこないだろ?」
「もしかしなくても、仕事にかこつけていつもそんなことばっかり狙ってるのか」
「別に、そのくらいの楽しみがあったっていいだろ、あっちこっち容赦なく飛ばされまくってるんだから」
「そういう文句は上司に言っとけ、上司に」
「おう、喜々としてあちらこちら飛ばしてくれるだろうよ、そんなことしたら」
「相変わらずいい上司だな」
「…………伝えとくよ」
 勢いよく笑い飛ばされ、クリスは今度こそ本気で肩を落とした。


 遠回りになるとはいってもかなり整備が行き届き、また適度な間隔でいくつかの町が並んでいる東の街道は、旧道の利用者を激減させた一番の理由だろう。勾配がきつく使いづらさを感じさせる箇所の多い旧道の利用者が減ったことと、旧道沿いに並んでいた宿屋の減少と、どちらが先に始まったのかはわからないが、さびれた旧道を利用するのは最近ではとにかく時間の惜しい人間に限られている。
 或いは人目を避ける理由のある者や、ロウのように物好きにも興味をひかれた人間だろうか。それにしても馬を快適に走らせるには荒れ過ぎてしまった現状に、己の足に自信があることが第一の条件とはなる。
 実際、整備が疎かにされた旧道は、草々の萌え出る季節の激しさも手伝って左右から森にのまれ、一層狭まる気配を見せ始めていた。このまま利用する者が減り続ければ、いずれ些かの痕跡を残すばかりとなり、やがて消え失せるのだろう。
 次の仕事に急ぐクリストファのつきあいでこの道を先導していたロウは、通るたびにさびれてゆくその様子に多少の感傷を覚えながら、今はとにかく先を急いだ。……急ぐ理由であるはずの魔法使いは、足取りは確かながらもやはりぐずぐずと愚痴をこぼし続けるのに余念がなかったが。
「そろそろ寝場所を決めないか? 陽が完全に落ちてからだと面倒」
「わかってるよ。この少し先に、以前まで宿屋があったんだ。屋根はもう無いにしても、井戸はまだ使えると思うんだが……」
 安心して飲むことのできる水の確保は、旅をするうえで一番の課題である。慣れてはいても野宿続きでは身体がつらいのは当然だが、水の心配がなければ行程ははるかに楽になる。いざとなればクリストファの魔法という手段があるとはいえ、仕事を控えた魔法使いに余計な力を使わせるのは極力避けたい。とくれば、この選択はロウにとっては当然のものであった。
「なんだ。なら、ちょっと急ぐか。しかし、やっぱりおまえと一緒だと、何かと楽だよなぁ」
「割増料金で」
「友達価格にしとけよ」
「しけてるな。泥酔上司の破壊行為で修繕費用が嵩んでるのか?」
「……っ、あいつから離れてるときくらい、忘れさせろっ」
 思わず躓きそうになったクリストファの抗議の声を背に、ロウは手をかざして森の切れる辺りをしげしげと眺めた。
「どうした?」
「誰かいるようだ」
 珍しい、と言ったその口調にひっかかりを覚えたクリストファが何かを問うまでもなく、先を促されて足取りが早まる。既に日が落ちた森の道は唐突に翳りを増し、足元を頼りない闇に落とす。
「……あれ? 廃業したんじゃ……」
 近づくにつれて次第に明らかになるその様子に、クリストファが訝しげに眉を顰めた。ロウは小さく頷き、呟く。
「宿主のじいさんは、残念だけどもう宿は閉めるって言っていた。客は減る一方で後継ぎもいないからってさ。……クリス、用意はあるよな?」
「そりゃ魔法使いの嗜みですよ。ちゃんと準備してるさ」
「んじゃ、とりあえず行ってみるか」
 聞いた限りではもはや人の住んでいないはずの建物が、木々の陰から徐々にその姿を現す。
 けれどその戸口には明々と灯火が灯され、満開の花樹の姿が刻まれた宿屋の看板が、遠目にもやけに鮮やかに見えていた。



 《2》


「みなさん、どうかしたんですか?」
 着いてみれば、三人の人間が中に入るでもなく宿屋の前で所在無げに立っていた。ロウたちが近づいていることにすでに気づいていたのか、クリスの声に驚いた顔をしたのは、そのうちの一人だけだった。
「はあ、それが……何回も声をかけたんですけど、誰も応えないんです、この宿」
 困惑しているとあからさまに表情に出した中年の男は早口に言って、同意を求めるように傍らに立った男性に視線を向けた。見たところ商人とその護衛らしく互いに見知った様子で、その通りと頷いた体格のいい男性は困ったもんでと小さく苦笑いして説明した。
「日が落ちてきたところでここが目に入って、こりゃ丁度良いってんで寄ったんですがね。この通り明かりはついてるし、扉も開くってのに、まるっきり静かで人のいる気配ってもんが無い、声をかけても応えは無く人も出て来ず、で」
「建物の中には入りましたか?」
「とんでもない!」
 叫んだのは中年男で、護衛らしい方は幾分苦笑を深くして、まだですと答える。
「そちらの方はどうです?」
「……いや。さっき着いたばかりなので」
 そう答えた残る一人は連れのない小柄な男で、猫背気味の背中に少ない荷物を背負ってぼそぼそ呟くように喋った。気弱げにちらちら定まらぬ視線を、宿の入り口と周囲の人間に忙しなく走らせている。
 いつのまにか、周囲はすっかり夜闇に落ちていた。看板の下に据えられた灯火の投げかける明かりは誘うようにやわらかく、それぞれに距離をおいて立つ五人の姿を包みこんでいる。目を向ければ宿の窓からも、暖かな色がうっすらとこぼれ落ちていた。
「……さーてと。まずどうしたものかな……」
 だが考え込むクリスをよそに、ふらりと動いたロウが扉に手をかけ、いきなり無造作に押し開けた。唐突に鳴り響いた呼鈴の音と眩しい光に驚きぎょっと目を見張った四人にはまったく頓着せず、悠然と室内を見渡す。
「……中も前のまんまだな。おーい、イニールじいさん!」
「なっ、おい、ロウッ!?」
「落ち着けよ、クリス。確かめてるだけだ」
 声を上げたクリスを、あっさりといなし。
「荒らされてる形跡は無いな。掃除も手入れも行き届いてるし、……どうやら食事の準備も済んでるようだ。いい匂いがする」
「…………いつも思うんだけどさ。おまえ、図太すぎだろ……」
 旅慣れているという問題ではない気がする、と大きなため息をついたクリスは、軽く肩を竦めるばかりのロウを、頼むからまだ入るなよと引き止める。
「第一、こういう場合こそ、わたしの仕事領域だと思うんだけどねえ?」
「ああ確かに、働き者なおまえに任せるところだが。……オレとしても、ひっかかるところがあるんだよ」
「ええ?」
「ちょっとな。それに、ここの宿主のじいさんとは、そこそこ顔見知りだったから……。さてと」
「こら、ロウッ!!」
 結局、そのままさっさと屋内に入っていってしまったロウを追いかけようとして、他の人間がいたことを思い出してちらとふり向く。すると、声をかける暇がないまま様子を伺っていた三人の視線が、しっかりクリスに向けられていた。
 いきなり皆なを無視したロウとのやりとりのせいか。いかにも不審そうな表情を見出して、やれやれと向き直る。これも仕事のうちかと半ば諦めていた彼に、ようやく声をかけてきたのは、商人らしい中年男だった。
「さっきっからがたがた騒いでますけど、あんたたちはいったい何者なんです?」
「え? ああ、名乗ってませんでしたね。わたしはクリストファ、西都の魔法使いです。あれは…」
「西都の魔法使い!? なんでそんなお偉い人がこんなとこ……」
「……偉くなんかありませんよ。仕事で移動中なんです」
 思わず表情の選択に困ったクリスには取り合わず、さりげなく雇い主を後方に置いた護衛が念のためと証拠を求めてきた。
「すみませんね。ここらも最近は物騒なもので」
「かまいません、用心するのは当然ですから。ええっと、こう……。わかりますか?」
「……ほう。はいはい、了解しました」
 クリスが見せた銀色のマント留めは、実は魔法使いの身分証明になっている。埋め込まれている宝石は、たとえ盗まれても魔法使いを詐称できないよう、登録された当人にしか反応しないのだ。この登録の手順も無意味なまでにやたら面倒で、気軽に改変や偽造はできない代物だった。
 護衛はマント留めの形態と色の変化を確認すると納得の表情になり、それとなく示していた警戒を緩めた。他の二人もそれで、確かに彼が魔法使いであることを信じたようだ。更には西都の所属であることが効いたのだろう。
 ここにいたって初めてお互いに名乗りあった。
 商人はキリアを本拠地にしているというフレスタ・バラス、急用があってこの道を使うことになったらしい。その商人と目的地に着くまでの契約を交わしているのだという護衛はガドウ。小柄な残り一人はデレクと名乗った。近在の村の者とのことだったが旧道を使ったのは今回が初めてなので、この宿のことで参考になりそうなことは何も知らないという。
「それじゃあ、ここが営業中なのか、すでに廃業してるのかは、今のところわからないってことですね」
 残念だとこっそり落胆したものの、そこは職業がら身についた穏やかな笑顔で覆い隠す。そして宿が目の前にあるのに入るに入れずにいる三人に向かい、ここで少し待っているようにと告げた。
「ともかく、まず中を確認してきますよ。危険が無さそうなら、中で休めますからね」
「お願いします」
「あの、気をつけて」
 かけられた言葉ににっこりと安心させるように笑うと身をひるがえし、クリスもまた、すでに一足どころでなくロウに遅れてではあったが、宿の入り口をくぐったのだった。



 《3》


 建物に入ったクリスがまず最初に探したのは、当然のことながら先に行ったロウだった。だがすでに目に届く範囲にその姿は無い。
 扉からすぐ右手が小さなカウンターになっていて、その奥に小部屋があった。宿の主人が使っていた場所だろうかと覗いてみれば、寝台の他には何も無かった。カウンターの上には宿帳の新しい頁が開かれている。
 待合室を兼ねているのだろう、その先は食堂だった。今は火が入っていない暖炉の前に、楕円形の大きめのテーブルが二つとその周囲を囲むように椅子が整然と並んでいる。
 奇妙なことに、テーブルの片方に食事の用意が整えられていた。中央に籠盛りの果物、それぞれの椅子の前には香ばしい匂いをさせたパンと、大皿にたっぷり盛り付けられた野菜と肉のシチュー、酢漬けの野菜の小皿。おかわりできるようにピッチャーごと置かれたリーチー水。
 どれもこれもまさに今、用意されたばかりといった様子に見えた。
 だが、確認のために覗いた奥の調理場には人影ひとつ無く、また材料らしきものも全く見当たらない。そもそも火の気が無いのだからおかしい。
 首を捻りながら食堂に戻ると、ちょうどロウが階段を下りてくるところに出くわした。客室になっている二階を見てきたらしい。
「上はどうだった?」
「寝台は使えるように準備が済んでるし、湯浴み用のお湯も各室にたっぷり汲んであった。至れりつくせりだな」
「…………そこかよ、問題は……」
 頭を抱えたクリスを笑い、それで、と聞き返す。
「そんで、おまえの方は、どう見てる?」
「魔法って点からじゃ、何か仕掛けられてる気配は特に見られないな。……ちょっと魔法力の偏りが見られるかってなとこはあるけど、この程度なら別に珍しくはないし。この食事だって、魔法の影響ってのは感じられない。いったいどっから持ってきたのかはわからないけどな。……何してんの?」
 説明を聞く一方でロウが探っていたのは、暖炉の反対側にある大きな窓だった。建物の造りから言っても、大きさがつりあわない印象を与える。開かないように固定されていたのだろう、あちらこちらを確かめるように押したり引いたりしていたロウの手が、ふいに止まった。
「あ、と。ここだ」
 床からすぐに始まっている、不思議に大きなその扉をロウが横に一気にずらし開ける、と。
 ほんの微かに甘い風が吹き込んだ。
 そして。
「う、わあ……」
 思わず、クリスの口から嘆声が零れる。
「こりゃ、すげぇ……」
 花が。
 二人の眼前に、花が、在った。
 夜闇の内からぶわりと迫る勢いで仄白く、咲いていた。
 それはまさに樹全体を幾重にも包み込む。決して大きくはない花だけが寄り合い、開き、重たげに枝をしならせていた。梢の先の先まで薄紅色の花弁が咲きふるえている。ほとんど風の吹かぬ静かな夜にはらり、はらりと花弁それ自身の儚い重さに耐えかねて枝を離れ、ひそひそと地表に横たわる。
 そこでは天も地も、またその間までもが花色に埋め尽くされていた。
「……イニールじいさんの、自慢の桜の樹さ。宿の看板、見ただろ?」
「あ、なるほど確かに。そうかそうか、それであの看板か」
 灯火にぼんやり浮かび見えた吊り看板は、確かに満開の花樹の姿を描いてあった。なるほど、この樹を見れば誰しもが納得するだろう。宿の主はむしろこの樹の方なのではないかとさえ思える。それほどに古く美しい樹だった。
「前に頼まれた品物を届けた時に、ここを閉めると聞いて、この樹がどうなるのか気がかりだったんだが……弱ってはいないな。麓より少し遅い、ちょうど、満開だ」
 囁いたロウに、クリスもぼんやり頷いた。
 入り口から見えなかったのは、樹の丈が思ったより高くないからなのだろう。中庭状になった場所に老いた樹が、宿の建物に添うように枝を伸ばしているのだ。二階の部屋の窓からなら、薄紅色で塗り上げたように見えるだろうか。
 一度これを目にしたならば、或いは多少の困難は無視して桜の花を見に来る気になる者もいるのかもしれない。
 例えば今こうして中庭に降りて根元から樹を見上げている、この男のように。
 うっとりと見惚れ、だが次の瞬間、はっとクリスは我に返った。
「いやいや、そんなことは今はまずいいんだよ。それよりこの宿、本当に人気が無いぞ?」
「ああ。それに、客をもてなすためのもの以外、何もなくなってるな」
「もしかして、宿主の部屋のことか?」
「調理場は見たんだろ?」
「見た。確かに、火種さえ無いってのはおかしい。……だからといって、危険な感じは全く感じられないんだよなぁ……」
 念のために確認はするが、そうでなくても身にじっとり馴染みきった魔法の気配は感じられず、まじないらしきものの残滓も無い。よほど巧妙に偽装されているなら別だが、こんな辺鄙な山奥でそんなことをしてどうなるというのが実際のところ。
「ま、もてなしたいだけだと思うぜ?」
「……なにそれ?」
 思わせぶりな台詞にクリスが眉を顰めても、どこ吹く風。もう必要なものは十分確認し終えたという様子でロウは屋内に戻って来た。
「ロウ?」
「危険じゃないってこと。簡単なことだろ、食事をして、ゆっくり部屋で休んで、明日出発すればいいのさ」
「わたし一人ならともかく、そうあっさり片付けられるか」
「なら、気の済むまで調べればいい。オレは食って寝る」
「あ、食い物と飲み物は、毒の有無の確認だけはするから……」
 こんな奴だよと脱力しつつふり向けばしかし。
「もう食ってるって、おまえ……」
「美味いぜ?」
「…………いいけどね」
 やれやれとため息をつきつつも、まるで動じていないロウに倣い、さほどためらわずにクリスは飲み物に口をつけた。あり得ぬほどよく冷えていて、確かに美味い。
 改めて数えてみればそこに準備されている食事はちょうど、五人分。今夜この宿を訪れている人間の数と同じ。
「にしても余裕だな。この件でおまえ、いったい何を知ってるわけ?」
「聞きたいか?」
「……妙に悔しいわな、全部おまえに教わるってのも」
 腐っても魔法使いの自覚があるクリスには、そんじょそこらの人間に知識量では負けぬ自信があるが、目の前にいる相手はそれこそ大陸中を縦横無尽に旅してまわっている男である。経験に基づく確信にはなかなか勝てないと、ずいぶん前から承知していた。
 だがこんなふうに余裕の態度を見せられると、それほど負けず嫌いというわけではないものの、魔法使いのプライドが疼いて素直に答えを聞くことを拒んだ。
「だったらもう少し自分で考えてみれば? この宿のこと自体はホント、危険でもなんでもないのは保証する」
「そりゃどーも」
 まるでクリスの愚痴を聞いていたかのように、テーブルの中央で大きな籠に山盛りになっているのは、念願の新鮮なサザムの実。どれをとっても完熟していて、瑞々しく張りつめた淡緑の果皮が見るからにおいしそうである。
「じゃ、まず自分で調べてみるかな」
「おう。荷は預かってやるよ。オレは休んでるから」
 早々に食事を腹に収めてしまい、階段の上を指さしているロウに、クリスは小さく苦笑した。
「おまえって……。なんかやっぱ、さすがだわ」
 悠々とリーチー水を飲み干し、ロウはただ笑って一言、
「……ああ、一応。その樹から、あんまり目を離すなよ」
「樹?」
 忠告につられてちらと中庭に向けた目を戻した時にはすでに、ロウの姿は食堂から消えてしまっていた。



 《4》


 結局、クリスは改めて建物全体を探索した上で、外に残していた三人を呼びに出た。
 用を足しに、とその場を離れていたデレクが戻るのをしばらく待って、宿の建物に入ることを勧めた。
 凍えるほどの季節は過ぎたけれど、夜はまだ寒く、すぐそこに屋根があるのに野宿するのは正直言って馬鹿馬鹿しい。安全が確保されるのならば、ではあるが。
 宿全体をすっかり見て回り、危険な兆候は一切見られなかったことをクリスが断言すると、いささか不安げな表情は残しながらも魔法使いの言葉を信用してだろう、三人は建物の中で夜を明かすことを選んだ。


 で。
 中庭に出られる大きな窓を開け放ったままサザムの実を頬張り、クリスは食堂にいるのであった。
「湯浴みのお湯、とてもいい香りでしたね」
 にこにこと、大分くつろいだ様子でバラスが二階から下りてきた。食事には、クリスが問題ないと安全を保証したものの、三人とも手をつけようとはしなかったのだが、どうやらお湯は使う気になったらしい。まあ、こんな寂れた旧道沿いの宿で、たっぷりと湯を使う機会に遭遇できるのは非常に珍しく、贅沢なことであるのは確かだ。
「何か入浴剤でも使ってるんでしょうか。こんな山奥の割に、洒落てますな。あまりきつすぎない香りですし、この辺りで作られている品なのでしょうかね」
「どうでしょう。わたしはここは初めてですので」
「そういえば、同行されてた方がいましたね。あの方も魔法使いですか?」
「あれはわたしの友人で、旅商人ですよ。急ぎの仕事があるので、近道を案内してもらってるところなんです」
「え、そうだったんですか」
 微風の通る位置に座りこみ、どこか驚いたようにそう言う。表情の動きをかいま見て、クリスはそっと苦笑を隠した。
 実は、ロウと同行していると、クリスが魔法使い、それも西都の所属であると知れた後にはよくこんな訝しそうな視線に出会うのだ。魔法使いは力のある石を購入するために商人と顔見知りであるのは珍しくないが、ふらふら一人歩きしているロウのような旅商人と親しくつき合いがあるというのが、腑に落ちないらしい。
 勿論そんなものは、ロウの扱っている品物を目にすればあっという間に納得されることなのだが、いちいちそんな説明をする男ではないのである、ロウという人間は。
 そしてまた初対面であろうと、ちゃんと見る目のある人間は何を基準にしてなのかわからないのだが、きちんとその真価を見通してロウに相対することも何度か目にしているクリスは、……このバラスという商人の評価をあっさり低く見積もった。そしてまた、それなりの都市に店を構えている商人というのは、どうしてこう旅商人というものを見下しがちなのだろうかとちらりと思う。
 そんなことにはまるで気づいていないのだろう、バラスはクリスの手の中の食べかけのサザムの実とテーブルの籠いっぱいのそれを交互に見やって、信じがたそうに眉を顰めた。
「そこのを食べてらっしゃるんですか?」
「安全は確認してあります。大丈夫、とてもおいしいですよ。一ついかがですか?」
「あー、その、遠慮します。えっと、……あ、桜、凄いですね」
「確かに、これだけ立派な樹は、なかなか見られないでしょう。開花の時期で幸運でした」
「あー、まあそうですね。野宿のはずが香りのいい湯が使えて、屋根もあって、満開の花も楽しめるとは、正直嬉しいですな。まあそれも、ここがちゃんと営業している宿だったらなお安心できたのですが……」
 おざなりに桜に向けていた視線を逸らし、本音をもらして困ったようにクリスに向き直った。どうやらようやく食堂に下りてきた理由を口にすることにしたらしい。
「クリスさんは、今夜はどちらのお部屋でお休みになられるのでしょうか?」
「念のため、このまま食堂にいるつもりですよ。何も無いとは思いますが、ここに居合わせた方々の安全に対して責任がありますから」
「あー、ではあの、お邪魔かとは思うのですが、私もこちらにいてかまわないでしょうか?」
「それはまあ、わたしはかまいませんけれど……二階の客室の方がゆっくりお休みになれると思いますよ。護衛なら、ガドウさんがいらっしゃるんですよね」
「あー、それはその、そうなんですが……」
 もごもごと口ごもり、実は、と切り出した。
「そのガドウに勧められたんです」
「何故でしょう?」
「彼が言うには、人間についての危険は自分の専門だが、それ以外の危険については魔法使いのあなたの方がずっと的確に対応されるだろうからと……」
 やれやれ、と顔には出さなかったもののクリスはうんざりと納得した。雇い主なのだから護衛の提言を退けることもできたのに、あっさりそれにのるとは。護衛に依存しているような言動がちらちら見えていたが、まあ当人もそう思っていたのだろう。魔法使いが保証しただけでは完全に安心するには足りぬらしい。それでいて頼ってくるのだから。
 一人で花を楽しめると思っていたのだが、諦めなければならないようだ。それもまた、魔法使いの仕事の一部だから仕方がないのだろうけれど。
(もしかして、ロウの遭遇体質のせいか、この件って……)
 急いでいたのは確かだったとはいえ、少々選択を誤ったかとクリスはいささか後悔した。


 暖炉でパチンと薪の弾ける音。暖を取るためにすぐ傍らで毛布に包まり横になった人影がごそっと身じろぎしては、また落ち着いた寝息をたてる。
 明かりの落ちた室内には暖炉の火がちらちらとひらめき、おぼろげな影がゆれる。
 本来ならば寒さを防ぐために窓を閉めるべきなのだが、ロウの言葉に逆らう気になれず、あえて窓を開けたまま座り込み、ぼんやり眺めるでもなく花が仄白く咲き散る様子を眺めていた。
 廃業したはずなのに、この宿は客をもてなす手際がよかった。ふと目を逸らした隙にテーブルの上の食事は片付けられ、いつ手にとってもよく冷えている飲み物と温かい飲み物が並べ置かれていた。この分では客室の湯の処分も済んでいるだろう。落ち着かない様子であったバラスがそれでもようやく眠りについた時点で、食堂近辺の明かりが弱められたのも、或いは騒ぎ立てる人間を見定めてのことかもしれない。
(もてなしたいだけだと思うぜ?)
 妙にはっきりと口にされたロウの言葉。ではもてなしたいのはいったい誰なのかと、それからずっと考えていた。そうして、宿の明かりが落ちた時点でそのことに気がついた。桜の樹そのものが、仄かに発光していると。
 ロウと見たときには、食堂の明かりも二階の窓からの明かりも眩しかったので気づかなかったのか。空に月は無く、近くに建物が無い、つまりは光源となるものが無い状態で、あれほど花がよく見えていたことに、しかし気づかなかったというのもおかしなものだった。今にして思えばそれなりに動転していたということなのだろう。
 最初に感知した魔法力の偏りも、ぼんやりとではあるが樹の方から感じとれる。ロウの言葉もあって、おそらく原因はあの桜の樹なのだろうと知れた。
 ただ、これだけのことが行なわれているにしては、感じられる魔法力がさして強くない。直ちにあれのせいと、断言できないでいるのはそのためだった。
 害意や悪意がまるで感じられないので、このまま放っておいて明日出発しても、実のところ自分としては一向にかまわないのだが。そう思いつつもクリスの口からは小さくため息が漏れた。
 全面的にロウに種明かしをされるのは、やはりちょっと癪に障るのだ。異変は上に報告する義務があるし、原因がわかるならばそれも報告しなければならない。独力での調査究明がかなわなければ、……この場合はロウに聞くしかない。何しろ相手は答えを知っているらしい上に、クリスは次の仕事へ向けての移動中でじっくり調べる時間が無いのだから。
 やはりもう一度ちゃんと近くで見てみるか。そう思って身体を動かそうとした、ちょうどその時。
「……すみません、ちょっとよろしいですかね?」
 その巨躯を縮め小声でガドウがクリスを呼んだ。
「何か?」
「えっと、起こすと悪いので、中庭で……」
 暖炉辺りを見遣る彼に頷き、音をたてぬようにそっと窓から中庭に下りた。もっとも、壁にはりつくように位置取ってであったが。
「実は、ですね」
 やはり声をひそめたままガドウが申し訳無さそうにクリスを見た。
「俺、護衛が本職ではないんです」
「……バラスさんは、そのことは?」
「知りません。ちょうどいい道を通るようだったので、利用させてもらおうと、ちょっと前の町から同行してたんです。実は最近この旧道を通る商人を狙っての強盗被害が出てましてね、それで……」
「内緒で囮に? ちょっと、それは……」
「こんな虚言でもってふりまわしてしまって、悪いとは思ってるんですけどね。どうもね、こちらで仕立てた偽の商人だとどういうわけか見破られてしまって、出てこないんすよ。で、囮になってくださいとお願いしてもなかなか了承してもらえないし、……了解してくれても逆に挙動不審になってばれてしまうらしくて。手間取ってる間に被害は増えるで、痺れきらしちまって、つい……」
 やり方のまずさは承知してのことらしい。やれやれと天を仰ぎ、続きを促した。
「で、ですね。さっきここの前で一緒になった男、デレクって名乗ってましたが、怪しいんですよ。あ、その強盗ってどれも一人での犯行なんです、それで身を隠すのが楽なんでしょうがね。幸いに生きて帰れた被害者に聞き取りした人相と、そっくりでして。宿に入る前も、用足しにって言ってましたけど、それにしてはかなり長い時間だったんですよ、離れてたのは。いったいこんな場所で何をしていたものか。で、様子ずっと伺ってたんですけど、今、部屋にいないんすよ。戸に鍵かけて、窓から出てきました」
「……それは確かに挙動不審ですね」
「不審どころじゃないですって。だいたい、本当に言ってた通りただのここらの村の人間だったら、こんなへんてこな宿で、あっさり一人で部屋で寝てられますかね? あなたに保証してもらっても、……まあバラスさんほどではないにせよ、俺だって一人になるのはちょっと嫌ですよ」
 情けないですけどと苦笑して。
「あなたのお連れさんの部屋に向ったんじゃないようですがね。そうするとどうする気でいるのかちょいとわからなくって。どちらにせよ、あなたには事情をお知らせしておいた方がいいかと思いまして」
「事情は了解しました。言ってもらえてよかったですよ、何も起こらないにしても、準備してあるにこしたことはないですから」
「すみません、お騒がせして」
 ぺこり、とガドウが頭を下げた。さて中に戻ろうかと足を踏み出そうとした瞬間。
 視界の端に何かが動いた。散り舞う花弁以外の、何かが。
「……噂をすれば影、ですね」
 囁くクリスに指し示されて、ガドウが目を細めた。
 建物の壁伝いに、周囲を伺いながら樹に向かう男の姿があった。



 《5》


 暗がりにまぎれた男の動きからは、宿の前で出会ってから見せていた気弱げな雰囲気が全く失せていた。周囲を伺う様子は非常に用心深く、猫背がちだった背中はすっかり伸びている。
「樹、に向かってますよね。あそこに何かあるんでしょうか……?」
「或いは。ちょっと教えてもらいたいんですけど、被害にあった品物って、もしかして宝石類とか多かったんじゃないですか? 中でも、魔法力のある類の物とかが……」
「……なんでわかったんですかぁ!?」
「なるほどね。《探知》できる物を持ってるな……」
 クリスはこっそりと頷いた。それならば、ロウの部屋に足を向けなかったのもわかる。ロウの荷物に関しては、クリスが《障壁》で中味を感知できないようにしてあるのだ。
 おそらく人気のごく少ない旧道に行く者を、旧道口近くの宿や食堂で聞き探るのだ。その上で《探知》によって魔法力を持つ宝石を持っているか否かを確認して狙いを定め、後をつけるのだろう。ガドウたちが偽の商人を仕立てた際には、おそらく形だけの荷物に何も入れなかったろうから、標的に選ばれなかったに違いない。
 旧道は人気が少ないから邪魔が入る可能性は低い。その分、獲物になる者も少ないが、狙った者の後をつけていく方法をとれば、来るか来ないかわからない相手をただ待ち伏せするより、はるかに無駄なく獲物を得られるというわけだ。
 声を殺してざっとそれらを説明する。ガドウはなるほど頷いた。
「それで、どうします?」
「多分、あの樹に何かあるんですよ。魔法力を持っている石だと思いますが。……とりあえず、その何かを手にしたら取り押さえましょう。わたしが、動けないように《捕縛》をかけますから」
「わかりました」
 ふっと思い出した。二人が先に建物に入り、まさにこの中庭の花を見ていたときに、デレクと名乗ったあの男はどこからか見ていたのだ。そしてロウが見上げていた先に何かがあると気づいたのだろう。
 ではロウは気づいていたのだろうか。樹から目を離さぬようにと言ったのは、このことを示しているようには思われないのだが。
(まあ、とっ捕まえればわかるか)
 多少乱暴なようだが、眠れぬ状況に陥ったことで実はクリスも結構イラついていたのだ。悠長に現場を捉える必要が無ければ、今すぐさっさと《昏倒》を使ってしまうのだが。
 逸る気持ちを抑えて見ていると、とうとう男は樹の幹に足をかけて伸びをするように高い場所に手を伸ばし、すっと探るように左右に動かした。こちらに背中を向けたのを確かめて、ガドウがそっと身をかがめながら男の後ろに忍び寄ってゆく。
 しばらく迷っているようだった男の手が動きを止めた。更にぐっと腕を持ち上げると力をこめ、何かを引っ張り出す。

 ぶわん、と樹が身じろぎした。
 少なくとも、クリスにはそう感じられた。それまでただ穏やかだった空気が一変していた。梢の先端まで、ふいに何かが満ち満ちたような。
 弾け散る寸前まで、一息に張り詰めたような。
「止めろ、クリス!」
 いきなりバタンと激しく窓の開く音がしたかと思うと、そこからロウが上半身を突き出して叫んでいた。
「何だって、ロウッ!?」
「止めろって言ってんだ、それはその樹の物だ、盗るなっ!!」
 はっとふり返るとそこでは逃げようとしたデレクにガドウが飛び掛っていた。その小柄で弱々しげだった風体からは全く想像もしなかった鋭い蹴りを、ガドウは辛うじて避けると、懐に入りこんで横殴りに殴りつけた。互いに蹴り上げ、両手で鷲掴みにした何かを取り合い、もみ合う。
「やば、っと、よしこれだ!!」
 ちょうど腹部を膝でしたたか蹴り上げられたガドウが、身を折って倒れたところだった。取り出した魔法カードを額にかざし、クリスは鋭く呪文を発する。
 目の前で、即座に硬直してばったりと倒れ伏した男の、その手から。
 拳二つほどの大きさの、先の細くなった筒状の何かがころころと転がり。
 それは。
 ぱかり、と中央から。
 割れた。

「まずいっ……」
 ロウの舌打ちが聞こえた気がした。
 次の瞬間、轟、と耳のすぐそこを風が。
 突風が吹きぬけた。
 大きく身じろぎした枝からぶはりと花が振り落とされ、地に積もっていた花弁が巻き上げられた。それは一瞬にして天地の境を奪い、視界を花色で埋めつくし。
 あまりの音の大きさ鋭さに耳を覆い、風の激しさに目をかばった。まっすぐに立っていることさえ困難な強風に、思わず膝をついて耐える。
 嵐。
 花の嵐だ。

 よくもまあ、元凶らしいこれを拾い上げられたとクリスは自分で感心した。
 手の中には木で作られたらしい置物のような物。さっきまでぼんやりと感じられていた力が、薄皮一枚剥いだように感触が近くなる。やはりこの中に何か力あるものが入っているのは間違いない。
 元のように入れ戻さなければと思うものの、外を覆っていた器の片割れが風に飛ばされたか、花弁に埋もれてしまったのかどこにも見つからないのだ。とにかくこの風が暴れ回り、何とか動こうとする彼を邪魔をする。
 そうしてもがいているうちに、どうにか二階から下りてきたのだろう、すぐ後ろでロウが風に負けぬ大声で叫んだ。
「クリスッ、それ開けろ!」
「ええ!?」
「ここまできたらどうしようもない、いいから開けちまえっ、全部だっ!!」
 これが開いたせいでこうなったのではなかったのか。きっぱりと叫ばれた内容はあんまりで流石にクリスも躊躇いはした、けれどもう。
 花嵐に霞む、叫んだばかりのロウの姿が。
 倒れこんだガドウの巨躯が。
 建物から飛び出した狼狽しきったバラスの顔が。
 べたり伏したデレクの身体が。
 天が地が、宿の建物が、いや花をつけた樹そのものの姿が。
 霞んで、消えて行く。何もかもが塗りつぶされて消え失せる。
 音とも知れぬ音をたて、風の形の花色に。
「……チッ!」
 舌打ちしながらクリスは開けた。
 結局はロウの言った通り、手にしていた木彫の置物を捻り開けた。
 だが開けても開けてもその中にまた、一回り小さい同じ形の物が入っている。開けるほどに、障壁を減らした力が近く彼の手を刺激した。焦るクリスの視界はとっくに眩んで、花風に巻き込まれて自分自身の手すら見えていない。手探りで開けたその中から取り出された物を、捻ればまた動く。まだ次がある。
「いい加減にしろってんだよ! それ以前にこれ開けて何がどうなるんだよ、おい!」
 叫んだ瞬間、つるりと手が滑った。胡桃ほどの小さいそれを取り落としかけ、背筋を一気に寒気が走る。咄嗟に手の内に握り取り、がくがく足が震えていることに気づいてひきつり笑った。
 落としたらもうおしまいだ。きっと二度と見つけられずに自分も彼らも何もかもが、この花色に。
 塗りつぶされて。
「……消えて、たまるか、よ!!」
 きし。
 用心深く、しっかりと力を入れた指先がさっきまでとは異なる手応えを感じ、目を見張った。僅かに増した抵抗感に、音が。
 きし、きしし、し……

 その瞬間に何もかもがふっと静止した、はず。

 手の中の器が二つに割れ開き、一気に全てがほどけた。張り詰めた糸がぷつりと切れたかのように、ぼやり霞んでいた視界が色を、形を戻し。
 周囲を塗り潰していた花色が、花弁の形に切り分けられ。
 ぶわり、花が膨らみ。
 手の中から飛び出した。
 ひらり。
 蝶が。

 ひらり。


『おまえの次の花も、お客さんと一緒に見たかったんだがねぇ』
 痩せた小さな老人が、古びごつごつとした樹皮を撫でていた。さみしそうに、愛しそうに。
『ここにいるには、歳をとりすぎたようだよ。ああ、本当に残念だねぇ』
 そっと、手にしていた何かを樹の高い位置にある洞に、落ちぬように入れてやる。
『おまえに贈り物だ。他には何もしてやれないが…』
 さらさらと緑の梢が鳴る。どこか哀しげに。まるで老人の言葉を理解しているかのように、やさしげに。
『どうかこれからもここで、きれいな花を咲かせておくれよなぁ……』


 蝶が目の前を過ぎった一瞬の、それは幻だろうか。
 記憶の欠片だろうか。


 ひらりひらりと、片手の平ほどの大きさの羽を広げた蝶が、クリスの手に纏わりつくように飛んでいた。
 固く握り締めていた拳に気づき、開くと中に。
 桜色が。
 手にしていたのは淡紅色の薔薇水晶。それを何重にも覆っていた木彫の器の細工と同じ、一塊の桜の花房を模っていて。
 唐突に現れた蝶は、姿を見せた造り物の花にふわり、羽を休めた。
 いつの間にか、彼らは元の通りに満開の花の下にいて。
 樹は静かに花を散らし続けており。
 だがそこに。
 宿の建物は、影も形もありはしなかった。


「やれやれ。なんとか収まったな」
 何がどうしてこうなったのか一切実感が湧かぬまま立ち尽くしていたクリスは、脱力したくなるほど暢気な声にばっとふり向いた。
 花弁まみれのロウが、端然と佇む花樹を見上げて微笑んでいた。
「……いったい、何がどうなってんだよ……?」
 ぱらぱら髪についた花弁を払いながら寄ってきたロウは、すっと手を伸ばしてクリスの手にあった石を取り上げ、蝶を自分の手の甲にとまらせた。蝶も逃げるでもなくすんなり移ると、ふわらふわら羽を動かす。
「おまえの足元に転がってるそれ、オレが宿主のイニールじいさんに頼まれて届けた品物なんだわ。大陸北部の国の名産で、本来は人形になってるんだ、何重かの入れ子のね。以前に嵐で折れたこの樹の枝を使って、名人って人に特別に頼んで作ってもらった」
「へ?」
「この石も、ペトゥロに依頼して削ってもらった物さ」
「……それのせいか、魔法力の偏りがあったのは」
 納得したクリスに、ああ、と頷き。
「花や木の名のついた石は大概、花木との相性が良いものだから、この樹のためにってことでね。更に力が拡散しないように、何重かの入れ子の器に入れて」
 ばらばらに放り出されたそれらを、クリスは拾い上げて重ねていった。ロウが調達しただけあって、派手ではないが繊細緻密な花房を彫りあげた、素晴らしい出来の物だった。中に何か良いものが入っているかもしれないと、期待させもするだろう。
 なるほど、デレクの食指が動いたのもわからなくはなかった。
「まあ、これが出てきちまったのが誤算というか……」
 小さなため息と共にロウが示したのは、手の甲に大人しくとまっている蝶。
「ってことはつまるところ、その蝶、が原因だってわけか?」
「いや、蝶じゃないんだ、これは。こんなふうに蝶によく似た姿形をしているんだが、歴とした幻獣だよ、夢虫っていう」
「へえ。名前は知ってたが、実物は初めて見たな……」
「おまえでも見たことなかったのか。まあ、確かにこいつは人里には珍しいからな。夢に潜り、夢を呼ぶ。ほとんどの場合、宿主にさえ気づかれることなく、密かに夢の内に棲む幻獣だ」
 ロウは穏やかに言った。ゆるく開閉する羽の上には繊細な模様が描かれており、動くつどそれは水面の花弁のように移ろって印象を変えた。
「けど、夢虫自身は夢を見ないから。夢を見ていたのは、この樹だろうな」
「樹が夢?」
「ああ。夢虫はこの樹の夢に棲み、樹の夢を映したのさ。この宿が建てられた、宿主のじいさんが生まれた時からここにあった樹だ、大切に大切にされて、この宿と宿を大事にしていたじいさんを見守ってきたんだ。たくさんの客をもてなしてきたじいさんを、な。そうして抱いた想いが強かったのと力を持った石があった分、触れられるほどに強く映されたと、つまりそれだけのことだ」
「それだけって……」
「薔薇水晶は、そもそも夢虫が好む石だ。この石に惹かれて夢虫は眠り、この樹の枝材から造られた器の中で、樹の夢を織り重ねていった……客をもてなす宿を夢見たんだ」
 視線の先には、古木が悠然とそびえている。樹皮は古びてひびを生じているものの、枝を撓らせるほどに数多の花を咲かせて。
 今は光を放ってはいないけれど。それでも。
 微風を受けて、花弁は降り。空間を染め、大地を隙間なく覆ってゆく。花色で、幾重にも。
「なんかやけに詳しいな。もしかして、他でもこんなことがあったのか、おまえ?」
 はたと思い当たったようにクリスが問えば、笑って。
「ああ。薔薇水晶はけっこう扱うことが多い石だし。しょっちゅうってわけじゃないが、人のほとんど通らないような山や森では、時々出会うこともあるな。美しくて、やさしい夢を見る。絡んで解れぬ人の夢より、大抵ははるかに心地いいね」
 ひょいと高く差し伸べた手の先で、夢虫がゆるやかに羽を広げた。指の先にふるりと震え、夜風に誘われるようについっと飛びたつ。
 ちらちらと変化し続ける紋様は、やわらかな花風に紛れて見失われ。
 後には、しんと深い辺境の夜。



 《 Epilogue 》


「……い、いいいいいーったいどういうことなんですかぁっ!?」
 甲高い声が問答無用で魔法使いの背中を叩いた。いったいいつ正気に戻ったものか。やれやれとクリスは空を見上げた。一、二の三で表情を整えふり返り。
「騒ぐ必要はなんにもありませんよ。危険はもう全く無いんですから……」
「危険がない!? だって、だってそこにあった建物が消えたんですよ!? そこで倒れてる二人はなんなんですかっ!? いきなり、こんなことになったっていうのに、いったいなんでそんなふうにあっさり言えるんですかっ、あなたの言うとおりにして何か起こったら、ちゃんと責任とってもらえるんですか!?」
 振り向いた途端ぎゃあぎゃあと、どんな宥めも耳に入らぬらしく延々くり返される苦情申し立てに辟易とするクリスをよそに、ロウは古樹の根元に具合よい場所を見つけ出し、いつの間にかちゃっかり探し出した自分の荷を改めてそこに置いた。
 助けてくれよと、目で訴えてくるクリスにやる気なく手を振り。
「せっかくの花のもてなしなんだ。野暮はほどほどにしといたらどうだ?」
 呆れた口調でそう言って、分厚く仕立てられた花弁のしとねに悠々とその身を横たえたのだった。




《了》




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