人喰いの海




 《 0 》


 林を抜ける瞬間はいつも、鼻先をかすめ吹き抜ける強い潮の香りで、すぐに知れる。
 風と砂を防ぐために長い年月をかけて植樹がくり返され、やがてここまでの広さを持つようになったという林は、今なお抜かりなくその役目を果たしていた。林という緩衝材を後にして受け止める海からの風は、わずかでも気を抜けば後ずさりしてしまいそうなほどに、強い。
 好天ならばまた違う。今日は、だがあまりに天候が悪すぎた。
 空は陰り海も鈍く、水底からかき回されてでもいるかのように、濁っていた。砕け散る波飛沫だけが不似合いに白く浮き上がって見える。

 こんな天気の日に浜へ出るものなどいない。漁を生業とするものたちは、そこらの知識ばかりつめこんだ魔法使いなどよりも遥かに勝って鋭敏な、肌に染みついた経験を頼りに、大事な船を波に持ってゆかれぬよう早々に浜の奥へと引き上げている。海の上に出られずとも、やるべきことは山ほどある。網を繕いなどしつつ、じっと次の晴れを待つのだ。
 嵐の海を求める酔狂は、普段海そのものに近づくことの稀な、町のものにしかありえなかった。浜の漁師たちの中にもやむにやまれぬ事情で船を出すことが全く無くはないのだろうが、今は誰の姿も無い。
 まして夜では。


 やがて、暗い昏い海の沖、空と海とが触れ合っている辺りに、それが現われた。
 ぼう、とまず、ひとつ。
 そしてそれに並ぶようにまた、ひとつ。
 さらに。
 ぼう。
 ぼう。
 ぼう。
 ぼう…。
 それは見る間に増え、すぐに数えることなどできなくなった。
 風荒く波を蹴立てるその先に、普通であればとても見えるとは思われない、淡く白い光が灯ってゆく。
 どれだけ数が増えようとも、眩しさは欠片も持たない。この風の中にゆれることもない。近づきも遠ざかりもせずに、灯り続ける。
 今夜、船を出しているものは一人もいない。とてもまともに舵取りできる状態ではない荒れた夜の海に、いったい誰が出るものか。だからあれは船の明かりでもない。
 では、あれは何と呼べばよいのだろうか。


 嵐の夜、海に群れ灯る漁火は、死人の魂の吐息なのだと言う。
 この海は、人を喰うのだ。




 《 1 》


 あくびをひとつ。
 堪えもせずに思い切り大きく口を開けて吐き出した後の濡れた目が、いつもと違う光景を捉えた。
 先生の家の前に人だかりができている。
 普段なら家の朝仕事を済ませた生徒たちがあらかた集まって、先生の授業を聞いてる頃合だ。けれど、当然中にいるべき連中の大半が窓の外にいるということは、今日の授業は無くなったのだろうか。
 珍しい。
 テアは思わずそう呟いていた。いつのまにか眠気は消えていた。
 先生――ラーオ先生はよほどのことがなければ、予定した授業を休むことはしない。彼自身も先生に学んだ生徒の一人だったから、よく知っている。生徒たちが休むことはあっても、先生本人は滅多に、それこそ熱で立てないなんてことでもなければ、教室を閉めることは考えようとさえしない人なのだ。
 昨日、魚を届けた時には変わった様子はみられなかった。それにこの窓から中を覗き込もうとしている集団の顔に浮ぶ表情は、緊急事態を予測させるものは全くない。むしろ、物見高い野次馬そのもの。
 考えるうちに足が止まっていた彼を、人ごみの中でも窓に近い絶好の場所に位置していた少年が気づいて、勢いよく手招いた。促されるままテアは足を進め、今日の獲物の入った篭を日陰に置いて、皆なに混ざった。
 頭を寄せ合って、小声で問う。
「何してんだよ、おまえら、今日の授業は?」
「先生にお客が来たんだ。それで休み」
「……お客くらいで?」
「だって先生が、もう準備も終わってた俺たちに、急で悪いけどって言って中止にしたんだぜ? あれ、この辺の人間じゃないぜ。祭でも、一度も見たことない」
「あ、おれ聞いてた。あの人、西都から来たんだって」
「西都? なんでこんな田舎に?」
「知らないよ、そんなの」
「やれ、うるさいねえ、おまえたちは」
 唐突に、ため息が頭上から降ってきた。
 ばっと全員が揃って顔を上げると、そこにはラーオ先生のいかにも穏和な顔が苦笑を刻んで、彼らを見下ろしていた。どうやら彼らの存在はすっかりばれていたらしい。
「珍しい客人に興味があるのは、よくよくわかるのだけれど。こんな風に覗き見するのは、いかにもはしたない行動だと思うのだが。……ん? なんだ、テアまで」
 いきなり名指しされ、バツが悪いようにテアは頬を歪めた。すると先生はやわらかに目元の皺を深めると、ちょうどよいところに来た、と彼一人を手招いた。
「海から戻ってきたところなのだろう? 来客に振舞う魚を何尾か用意しようと思っていたんだが。よい物はあるかねえ」
 他の皆なは明日な、と先生に手をふって言われてしまえば、いくら興味があってもばれた覗きを続けるのは難しい。大きな声で挨拶をすると、しぶしぶと帰っていった。
 テアは後から来た自分だけが残ることになってしまったことで、多少申し訳ない気分になりながら、日陰に置いておいた魚篭を入り口脇まで運んだ。入れ物を取ってくると再び中に戻った先生の背中を追った視線が、部屋の奥に座る見知らぬ横顔と床に置かれた大きな荷物を捉える。
 いったい何者なのだろうか。先生の客と言うには、少し若すぎる印象を覚えた。




 《 2 》


 慣れた道をテアはぼんやり歩いていた。別に複雑な道のりでもないので、しばしば考え事をするうちに家にたどり着いていたりする。先生の所に通っていた頃は、出された課題を暗唱しながら歩いたものだ。今でも時々口をついて出てくることがあるくらいだ。

 結局、テアの抱えた篭の中味は半分になった。ということは、あの客はしばらく滞在するのだろうか。
 珍しいことだった。
 もっとも、先生への来客そのものは珍しくもなんともない。村の人間や近隣の者以外が訪れるのは稀だが、もしかすると村長への来客と同じくらいいるだろう。
 普段は皆なただ先生と呼んでいるけれど、ラーオ先生は実際にはこの近隣の村で唯一の魔法使いだ。だから時には村長をはじめ、村の肩書きを持つ面々に助言を与えたりもするし、遠方の村や町との連絡を請け負いもする。
 とはいえ彼ら村の人間にとっては、魔法使いというより読み書きや計算を教えてくれる先生としてのつきあいが主で。だから結局呼び名は先生、ラーオ先生だ。
 かくいう彼自身も先生に学んだ一人だったから、今でも魔法使いとしての先生にはあまりなじみがない。
 大きな魔法を見せてもらったことがないからだろうか、そうテアは思い当たり、そしてどうして今になってそんなことが気になったか気づいた。
 あの客が、西都から来たらしいと聞いたからだ。
 西都のすぐ近くに魔法使いが学ぶパルナ学院があるのは常識だし、政治の中枢で活躍する者でも辺境の村で子どもに教える者でも、魔法使いならば必ずそこで学んでいることは誰もが知っている。
 ラーオ先生もやはりそこで学んでいたのだ。
 先生はそもそもこの村の出身で、やはりここで子供たちに読み書きを教えていた先代の魔法使いに魔法の才能を見出されて、パルナ学院に進学した。
 ここのような田舎の小さな村では、一度外に出た人間は帰ってこないことが多い。西都という大陸の政治の中心でもある大都市で学んだとなればなおさら、ラーオ先生が戻って来るとは誰も思わなかったに違いない。
 それなのにラーオ先生は、卒業すると同時に真っ直ぐ村に帰ってきた。ひどく驚かれたと笑っていたけれど、当然だとテアは思う。先生の両親は先生がここを離れるずいぶん前に海で亡くなり、兄弟も近い親戚もいなかったそうだ。それなのに迷わず帰ってきて、それから一度も長く村を離れたことは無い。髪が半ば以上白く染まった今に至るまでずっとだ。
 いつだったかは忘れたが、後悔したことはないのかと聞いたことがある。子ども心にもこんな海しかない小さな村よりも大きな都市の方が何倍も楽しそうだと思えたからだ。だが先生は、学院で知り合った友人たちとあまり会えないのは残念かな、とだけ答えて笑った。
 彼にはよくわからない。
 いつの間にか家が見え、ふっと足が止まった。
 小さな家。母親と弟妹が待っている、彼が生まれ育ち、多分これからも暮らす家。
 嫌いではないと思う。けれど、時折無性に出て行きたくなることがある。
 テアを取り囲むのは、大きくて小さな世界。
 海に支配されている。




 《 3 》


「海へ行くには、この道でいいのかな?」
 横合いから突然声をかけられ、驚いてふり向いた。そこに立っていた男に向かって、あんたは、と呼びそうになったテアは慌てて自分の言葉を飲み込む。
「っと、あなたは先生んとこで……」
「先生? あ、ラーオさんのことか。そうそう、昨日から彼のとこに泊めてもらってる、ロウっていうんだ。よろしくな」
「え、あ、はい。俺って、あ、私はテアです」
「かしこまらなくていいって。それより、海に出るにはこの道でいいのかい?」
「うん、そうだけど……」
 ロウと名乗ったその男は、なんとなく人好きのする笑顔のせいか、テアに警戒心を持たせなかった。いくら相手がそうするよう言ったにしても、初対面の年上の人間で、しかも先生のお客に、するっといつもの口調で答えていたことには、テア自身が驚いていた。
 男の方は、こんな応対はいつものことなのか全く気にする様子はなく、示された先を見てため息をついていた。
「一応、ラーオさんに聞いてきたんだけどな。林は切れないし、だんだん道も細くなるしで、本当にこのまま進んでもいいのか、ちょっと不安になってたとこだったんだよ。海岸線に沿って歩いてるんじゃないかってね」
「ここは、たぶん今は俺しか使ってないから、わかりにくいんだと思う」
 テアは答え、それからつい申し出ていた。
「もし、よかったら海まで案内する?」
「え、いいの? 仕事あるんじゃないかい?」
「急ぎの仕事とかじゃないし、それに……」
 なんだか言い訳めいていると思いつつ、テアはなんとなくロウともう少し話してみたくて、言葉を続けた。
「お客さん用にって、先生が昨日たくさん魚買ってくれて、市に持って行かなくてすんだから。だから、その、必要ないんならいいけど」
「いや、助かる」
 あっさりとロウは言い切って、にっこりと笑った。
「道に迷って夕食の時間に間に合わないなんてことになったら、恥ずかしいからさ」


 道すがら聞いたところによるとロウは旅商人ということで、なるほど人当たりがいいのはそれでなのかとテアは納得した。
 それにしてもどうしてわざわざこんな辺鄙な土地まで来たのか、疑問が消えず尋ねてみたところ。
「知人に頼まれた」
 隠すことではないからと、ロウは説明してくれた。魔法使いである友人から連絡があって、足を伸ばしたんだ、と。
「オレは、主に石を扱ってるんだがね。特に力を持ってる石の品揃えは、半端な街の店よりも充実してる自信があるぜ。お陰で魔法使いの客が多いんだよ」
「それって、先生がその石を必要としてるってことですか?」
 なんで石をと聞いて、魔法力を補助するためにそういう石が使われるのだと、だから魔法使いはみんな、時期をみて折々補充する必要があるのだと、テアは初めて知った。
 考えてみれば、先生に直接勉強を見てもらっていた時期にも、どんなふうに魔法を使うのか聞いたことが一度もなかった。おそらくは補助が必要なほど大きな魔法を使うことがなかったのだ。
「ラーオさんは、けっこう以前から中央に要望を出してたらしい。が、なかなかここまで品を売りに来るっていう商人が見つからなかったんだと。近くに商品の買い手になりそうな人や街がないってんでね、っと失礼な言い方だったな、悪い。そんでまあ、預けて届けさせるには品物に価値がありすぎて人選の問題もあるし、大体そういう信用の置ける人間ってのはとっくに重要な仕事を任せられてて、時間なんて取れたもんじゃない。悩んでたとこに仕事帰りで顔を出したオレの友人が、オレを名指ししたらしい」
「なんで断らなかったの?」
「オレは、あちこち歩くのが好きなのさ」
 ロウは屈託無く笑って、そう言った。


「あれ? 匂いが変わった、かな?」
「わかる?」
「ああ、潮の匂いだろ」
 坂を上りきったところでロウは足を止めた。テアは一瞬、並ぶのをためらった。
 金茶色の少し伸びた髪を潮風になびかせる様が、見るからに心地よさそうだったからだ。
 テアにとっては珍しくもなんともないことだったが、ロウの無言の感動が乗り移ったかのように、その瞬間彼もまた全身で潮風を感じ取っていた。
 やがてゆっくりと砂浜へ向けて坂を下りていくロウの後を、少し遅れてテアは追った。晴れ上がった今日の海は眩しく青く、きらきらと輝いて彼らを迎えてくれた。
「海、珍しい?」
「え? いや、そういうわけじゃないんだが……」
 海に目を向けたままロウは首をふった。
「しばらく、内陸ばかり歩いてたのは確かだな。それにやっぱり、土地によって匂いまでちょっと違うような気がする」
「……同じ海でも?」
「ああ」
 ふいに強烈な羨望がテアの胸を焼いた。彼の知っているのはこの海だけで、他の海とどう違うのかなど知りようもない。一生知ることができないかもしれない。
 そして同時に、海岸で感じるのと船で沖に出た時に感じる匂いとでは、確かに同じ海でも違っていたと、今初めて意識した。
 ずっとこの海で暮らしてきたのに、初めて。
 それがひどく不思議で、もどかしく、感動でもあったことに、驚いた。


「不知火ってのは、ここらで見られるのかい?」
 いきなりロウが尋ねてきた。聞き覚えのない言葉に首を傾げる。
「不知火?」
「この辺りで、夜、船も出てないのに灯りが見えるっていう話を聞いてきたんだが」
「……そんなふうに呼んだことはないけど、その灯りのことなら知ってる。嵐の夜に漁火が灯るんだ。たくさん」
「嵐の夜、か」
「海で死んだ人の魂が吐く息が、海の底から浮かび上がって光るんだって言われてる」
「信じてるかい?」
「……わかんない。でも、嵐の夜に沢山の灯りがあの向こうに並ぶのは、見た。本当に言い伝えられてる通りなら……」
「なら?」
「あそこに、あの海の底に、父さんが今もいるのかなって、時々思う」
「……いつ?」
「三年前」
 嵐の後のよく晴れた日のこと。どれだけ探しても、遺体は上がらなかった。
 この一帯の海では、何故かよくあることだった。
 漁火が灯った次の日には、よく起ることだった。
 だから村の者は皆な言う。この海は人を喰うのだと。
 喰われた者の魂が、嵐の夜にこぼした吐息が、海の上に灯るのだと。
 だからテアは時折、母の目を盗んで夜の海を見に行くのだ。海原を埋める漁火を見るために。
「話に聞いて、どんなものなのか見てみたかったんだがなあ」
 しばらくしてロウが小さく呟いた。いかにも残念そうな口調につられて、彼は言った。
「見れるよ」
「え?」
「今夜。たぶん、荒れる」
「こんなに晴れてるのにか?」
 確かに今は海は静かだし、空は晴れ渡っている。風も微風程度でしかないので、とてもこれから荒れるとは想像できないだろう。だが、彼は海の天気を読むのは得意なのだ。
「空、風早いし、夕方には雲が出ると思う」
「この場所から見れるか?」
「見えるよ。……案内しようか」
「君の家族が心配するだろ」
「海に出るわけじゃないなら、大丈夫だよ。心配ない」
 一人で見たいなら遠慮するけど。そう言うと、いや助かると笑顔で返された。
 帰り道では、先生の話題になった。ロウが宝石を届けることになった知って、直接の依頼主だけでなく先生の友人だという人まで出てきて、届ける宝石を厳選したのだという。
「オレの友人の上司の一人が、ラーオさんの学院での同級だったんだそうだ。君たちの先生は随分優秀な人だったらしいぞ。届ける石を決めるまでの間、延々と自慢されたよ。熱心に引きとめたっていうから」
「え、でも……」
「ああ。故郷に帰ると一蹴されたって聞いてるよ。最初から、学院にも西都にも残るつもりは無かったらしいな」
「そう、だったんだ……」
「昨日少し話したが、同じこと言ってたよ。こっちでやりたいことがあるんだそうだ」
「やりたいこと、って?」
「それは自分で聞いてみたらいい。君の先生だろ?」
 西都の中央で活躍してる人が、先生のことを自慢していると聞かされて、テアはやけに嬉しくなった。それにしても今までどうして、先生が戻ってきた理由を聞こうと思わなかったのだろう。今度時間があったら、そう思うとなんだかわくわくした。




 《 4 》


 夕食を終えて弟たちが寝床につくと、父の死以来いつでも不安そうな表情の消えることのない母に、しっかりと笑顔を向けて、テアは家を出た。
 陽が落ちる頃から吹き始めた風は次第に強まり、雲はぐんぐん厚みを増しながら空を奔り、覆っていた。星ひとつ見えず、月の欠片も探れない。
 辛うじて雨は降っていなかったが、空気は湿り気を帯びていた。いつ降り出してもおかしくはない。
 風に強いカンテラをそれでもかばいながら、テアが待ち合わせ場所に指定した林の入り口まで行くと、ロウはすでにそこで待っていた。空を見上げる姿はしっかりと丈夫なマントに包まれ、風にも乱れぬその姿勢が旅慣れた人なのだと彼に教えた。
「よう。悪いな」
「別に。俺から言ったんだし」
 そのまま昼にも通った道をテアが先導した。
 道があるとは言っても、夜の林は気軽に喋りながら歩くには向かない。風も強く声を攫う。お互い足下に注意を払いながら黙々と進むうちに、風の音ではない音が足下から伝わり始めた。一歩ごとに轟きは近づき、低く激しく、世界をゆさぶった。
 唐突に、林が途切れた。
 強い風がみしみしと周囲の木々を幹からゆらし、軋ませる。ぱらりと最初の数滴の後は桶からぶちまけたような雨がいたるところを叩き濡らし、それら全ての音を圧倒して、海は鳴り続けていた。
 まるで天地が諍いあっているような光景だった。怯む気持ちに、テアは思わず喉を鳴らしてしり込みしかけた。
「嘘みたいに、荒れたな」
 隣で妙に落ち着いた声が聞こえた。彼の存在を忘れていたこともそうだが、たった一声を耳にしただけで安心してしまったのにも驚いた。
 見上げればロウは雨が顔を叩くのに閉口しているようではあったが、それ以上動揺した様子は無く、浮き足だっていたテアもそれにつられるように落ち着いてきた。
「あ、あそこ……」
 声は届かなかったかもしれない。だが、テアが指差した先にロウの視線は誘われた。
 暗い昏い海の沖、空と海とがぶつかりあっている辺り。
 ぼう、と、ひとつ。
 また、ひとつ。
 さらに。
 ぼう。
 ぼう。
 ぼう。
 ぼう……。
 風荒く高波が逆巻くその先に、淡く白い光が無数に灯ってゆく。
 どれだけ数が増えようとも、いささかの眩しさも感じさせない。
 この風の中に荒波の上に、ゆらぎ消えることもない。
 隙無く降りしきる雨にさえ遮られず、海面を主のいない漁火が埋めてゆく。


「……あ、れ…………?」


 ひとつだけ。
 たったひとつだけ、色の違う灯火があった。
 それだけが橙色の、暖かさを感じさせる色を帯びて、沖に向けて動いていた。
 たったひとつだけ、高波の動きに伴って上下しながら、漁火の群れへと近づいていた。
 ひとつだけ。


「ラ、ラーオ先生っ!? なんであんなところに先生がっ!?」


 信じられないものを目にして、テアは絶叫した。
 橙色の球体の内側に、しゃんと伸びた背中が見えた。白髪も魔法使いの正装らしき装いも、ちらと風を受けることなく、波の上をゆっくりと進んでいた。
「そういうことか! なんてこと考えやがったんだ、あの人は!」
「え、な、何で!? ロウ!?」
「説明は後だ。あれが戻るまでもてばいいんだが、念のためだ。綱を何か、命綱になるものはないか!?」
 思いもよらぬ事態に混乱し固まったテアの肩を、ロウの大きな手が掴み、ゆさぶった。はっと顔を上げるとまた強く肩を叩かれ、途端に周囲の音が戻った。質問の意味が頭に届く。
「……ある! 取ってくる!!」
「急げっ!」
 何故、とそればかりが思考を支配していたが、身体はロウの指示を受けて彼の道具小屋に全速力で向かっていた。まとめられた長い綱を二束掴むと、一瞬も足を止めることなくロウのいる場所に駆け戻った。
 テアが戻るまで、ロウは時間を無駄にはしなかった。カンテラを手に波打ち際を走り、綱を結びつけるのに使えそうな大きな流木を探し出すと、さらに他の流木を楔のように差し込んで動かぬように固定していた。
 指示されるまでもなく、テアはテアで抱えてきた綱を二本ともそこにしっかりと縛りつけると、荒れた海原に目を向けた。
 橙色の光は白い漁火に飲み込まれそうに見えた。
「さっき、出掛けに見かけたんだ」
「な……」
「夜に外に出るんだ、宿主に一言断るべきかと思ってな。そしたら、彼が先に家を出て行った。あん時、声をかけりゃよかったな」
 自分の腰に綱を結びつけながら、ロウが舌打ちした。
「なんで先生、こんなこと……!?」
「あの、灯りだろ。人を喰うっていう海の謎を、あの灯りが握ってると考えて、調べようってんだろ」
「こんな嵐の!?」
「嵐ん時にしか、あれが現われないなら、そうするしかないさ」
 じっと、球体の動きを睨みつけながら、ロウは呟いた。
「あれを直接調べに行くために、あの人はどうしても、宝石が必要だったんだ」


 いよいよ勢いを増す風も雨も、まったく意識の外にあった。
 テアはただひたすらじりじりと待っていた。苛立つほどにゆっくりと先生を包む球体は沖を漂い、そして海岸に戻ってきた。
 光の点のようだったそれが徐々に、中に包まれた人の形がわかるほどに近づく。だが岸に近づくほどに、波風の煽りを受けて大きくゆれ始めた。見えぬ力に引きとめられているかのように、動きが鈍ってゆく。
「も、もしかして、先生……」
「ああ。いいか、オレが合図したら、引くんだぞ。どんなに焦っても、おまえは絶対に海には入るな」
「う、ん」
 球体を成していた橙色の光が、頼りなく薄れ明滅していた。あと少しでたどり着く、それなのに拳を握り見つめるテアの前で、それは。
 とうとう握りつぶされたかのように。
 シュン、と。
 間髪おかず嵐の海に飛び込んだロウを繋ぎとめる命綱を握り締め、目を凝らして合図を待った。
 悪夢のような時間を、必死で待った。
 無数の漁火は沖に白く灯り、波は荒く打ち寄せ、砕ける。
 やっと。漆黒の波間にはっきり掲げられた腕が見え、同時に強く手元の綱が引かれた。流木に足をかけ、無我夢中で綱を引いた。
 いつの間にか、目の前に立っていたロウによくやったと肩を叩かれるまで、テアは全力で綱を引き続けていた。




 《 5 》


「まったく。いい歳してなんて無茶するんだ、あんたは」
「歳は関係ないだろう?」
「いいや、関係あるね。歳をとれば、それなりに分別ってものがつくものだ。ましてや、あんたはここいらの子どもたちにものを教える先生じゃないか。こんな様じゃ、説教のひとつもできないだろ」
「耳が痛いねぇ……」
 ラーオ先生は小さく咳き込みながら、苦笑いした。


 三人は、テアの道具小屋の中にいた。さすがに狭いが雨風は避けられるし、濡れた身体を乾かすぐらいのことはできた。壁と屋根一枚のことで、外の嵐が別の世界のことのようだ。
 なんとか順調に燃え出した焚火を前にして、テアはようやく人心地ついた気分だった。ついさっきまで意識が朦朧としていたラーオ先生も、今はちゃんとロウに言葉を返している。喉が掠れているのは、いくらか海水を飲んでしまったからだろうが、その程度ならじきに治るだろう。
 ほうっと大きくため息をつく。なんだかまだ現実味が足りなかった。
 漁の道具にもたれかかっている先生は、昨日会った時よりも数段老けこんだように見える。溺れかけたからか、大きな魔法を使ったことによる疲労か。髪までまっ白に色を失ったようだ。
 もう少しで先生は死ぬところだったのだと、テアは実感した。
 ロウが漁火を見たいと言わなかったら、誰にも気づかれることなく海にのまれていたのだと、想像するだけで彼は全身が恐怖で震えるのを感じた。


「私はずっと不思議だったんだよ。どうしてこの海は、これほど人の生命を欲しがるのだろうと」
 そう語り出した先生の声は、静かだった。
 静かだけれど、重かった。
「荒れた海に出て波にのまれるならばわかる。不幸なことではあるけれど、原因があることだから。けれどこの海ではあまりにもしばしば、荒れてもいない沖よりもずっと手前の、海岸からすっかり見ることができるような位置で、船から人が消えるのだよ。消えたまま、遺体ひとつ見つけることができない。これはどういうことだろう。私にはそれがあまりに不思議で、受け入れることができなかった」
 まるで自分の口が発するかのような内容を、先生の口が語っている。
 村人の多くが同じ思いを抱えているだろう。テア自身、その気持ちはわかりすぎるほどよくわかった。何故よく晴れたあんなにも穏やかに見えた海で、あれほど唐突に父が失われなければならなかったのか、主のいない墓の前で何度無言で問うたことか。
「人を喰う海を、許せなかったんだよ。だからここに帰って来た。魔法使いならば、原因を探し出すことができるのではないかと思ったんだ」
 だが、と先生は力なく首を振った。
「漁火の灯った次の朝、何度となく海に出た。静かな海だからね、私程度の腕でも船が出せる。けれどわからなかった。私の父が海に奪われた時と条件は同じはずであったのに、異常らしい異常も、原因らしいものも、何ひとつそこに見出すことができなかった」
「それでとうとう、実際に漁火の現われている海に出てみたわけか。あそこに行くために、力の強い宝石が必要だったんだな」
「君の持ってきてくれた石は、どれも力に満ちていて、私の力不足を補うのに充分だと思った。……結局、私自身が最後まで統御できなかったわけだが」
「一人でやろうとするからだろ。長い年月をかけて、ここまで予備調査ができてるんだ。中央に申請すれば、人手は出るんじゃないのか?」
「出ただろうね。けれど、これは私がやりたかった。私一人で、この海に、家族を奪った海に、復讐したかったんだよ」
「それで自分が喰われかけたんじゃ、どうもならないだろ」
 ロウは心底呆れたといった様子でため息をつくと、いきなりテアを指さした。
「ほら見ろよ。あんたの大事な教え子が泣いてるじゃないか。あんた、この子をまたどうもならないほど悲しませるとこだったんだぜ」
 言われるままに先生がテアの方を向いて、声もなく目を見張った。どうしてそんな表情をするのかと、どうしてロウがそんなことを言ったのかと不思議に思った彼は、皺だらけの手に頬をなでられてようやく、自分が涙を流していることに気づいた。
 道理でなんだか目の前がぼんやりしていたわけだ、そう笑おうとした喉が引き攣るように震え、堪えることもできぬまま泣き出してしまった。
 そういえば。
 泣きじゃくりながらテアは思った。
 父が死んだ時には、悲しむ母を慰めるのに忙しくて、幼い弟妹の面倒をみるので精一杯で、思い切り泣いた記憶が無い。その後もずっと、父親の代わりに必死で生活を支えるために働いてきて、泣いてる暇など少しもなかった。
 先生のところに通えなくなってからも、折々先生は言葉をかけてくれた。様子を心配してくれた。
 亡くした父の代わりではないけれど、頼っていたのだ。心が。
 小さな子どものように顔をぐしゃぐしゃにして泣きながら、背中を撫でてくれているこの手が失われずにすんだことを、テアは心の底から感謝していた。


 朝になって家に戻ると母に叱りつけられたが、さっぱりした気分だったのでそれも苦ではなかった。
 後でちゃんと話を聞くからと、とんぼ返りで先生の家に向かうと、呆れたことにロウはもう出発しようとするところだった。もう少しいればいいのにと言うと、売るものは売ったし、見たかったものは見たから、という返事。あっさりしている。
「この無茶する先生を、ちゃんと見張ってろよ?」
「わかってるよ」
 テアが即答すると、ラーオ先生は困り果てたように苦笑いして、けれど頼りにしてると言ってくれた。これから海のことを調べる時には、かならずテアと一緒に動くことにすると、昨日約束してくれたのだ。彼が思い切り泣いたのが、よっぽど衝撃を与えたらしい。
 ロウからも、友人を通じて中央の方に事情を説明してくれるという。もしかしたらもうじきこの海で、テアの父やラーオ先生のお父さんや他のたくさんの人たちのような、原因がわからないまま死ぬ人が出ることがなくなるのかもしれない。
 まるでそこらに散歩に出るような気楽さで去ってゆくロウに手を振りながら、テアはそんな未来が来ることを自分がすっかり信じていることに気づき、知らず知らず微笑を浮かべていたのだった。




《了》




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