夏は来たりて




 》 1 《


「クリストファ。さっきフィドル先生が、おまえらいつになったら来る気だって、気短に叫んでたぜ」
 パルナの山奥にある学院でも、さすがに暑い日が続いていた。
 どことなくざわざわと、長期休暇も間近となったこの時期特有の落ち着かなげな雰囲気の中を歩いていた背の高い青年は、丁度いいところに、という表情で反 対方向から近づいてきたランディに声をかけられて、戸惑ったように足を止めた。
「へ? 気短にって、そもそもあの先生が叫ぶってありえないだろ、なんだよそれ。何も聞いてないけど?」
「それこそなんだよ。掲示板に張り出されてたじゃんか、おまえとリオニス」
「げ、呼び出し紙出てたのか!?」
「…………ああそっか、昨日一昨日は外出日だったしな」
 そんな理由ですっかり納得されるのもどうかと、こんな時でさえ思わず憂いてしまったクリストファである。何しろ、私に関する四つの噂、などと数え上げる とすればまず一番にあがるのが、外出日の騒動に絡んでのことなのだから。
 だがさすがに慣れもしたもので、すぐに気を取り直して礼を言った。数日間も呼び出しを無視したとなれば、まっとうな言い訳があったとしても決して印象が よいことはない。
「仕方ない。内容確認して、行くか」
 あまり掲示板そのものを見ない方だから、というか見るまでもなく直接呼び出されることが多いために、見る習慣が自然と無くなったという言い方が正しいだ ろう。そもそも不特定多数の生徒たちが集まる場所に行くと、居心地悪くてかなわない。
 まあどちらも一応は親友と呼べる立場にある『爆破魔人』のせいなのだが。
 どうやらその友人も同時に呼び出されているということは、またあいつがらみの問題か? そう不安を抱きつつ、クリストファは教員棟の真下に置かれた掲示 板へと、気乗りせぬ足を向けた。
 ついでに、途中でリオニスを拾えれば、手っ取り早いのだが。


「……学院外での実習、ですか?」
「ええ、そうです」
 机の向こう側で、フィドル先生はいつものように淡々と説明する。
「前期末の成績評価のために今回、あなたたちの級では実習を行なうわけですが。クリストファ、それにリオニス、あなたたちに、他の同級の人間と同じ課題を 与えるのは、不公平でしょう?」
「でしょう、って先生、そんなことをわたしたちに言われても……」
 ねえ、と思わずエクセン教授の研究室から引っ張り出してきたリオニスと顔を見合わせて言うと先生は、ほんのわずか、それでもめったに見せないほどの笑み を浮かべた。どうやら、彼女なりのからかいであったらしい。
「学院長とも相談したのですよ。もちろん他の先生方とも」
 勘弁してくれ、とは心の中の声。この忙しい時期に、どれほど先生方を悩ませる結果になったのやら。クリストファは思わず天井を見上げ、隣で小さく笑った 金色頭の元凶を肘で小突いた。
「そうしたらちょうど、いいお話が。あなたたちを派遣するということで決まりましたから。ところがまあ、当のあなたたちがなかなか来ないものですから、実 習放棄で落第になるかと心配しましたよ」
「えー、それはやだなあ」
「すみません、掲示板を見る習慣が無かったものですから」
 まったく異なる返事に、動じた様子もとがめた表情も見せずただかすかに頷いたのは、すんだことだからとの許しだろうか。今度から気をつけるようにとの一 言の後、手元にあった書類を一枚ずつ渡した。
「実習とはいえ、依頼相手のいる仕事であることは、忘れぬように。明日の出発です。それまでに書面にあるように準備を整えておきなさい。以上です」
「はい。失礼しました」
 声をそろえて退出の挨拶をし、扉を閉めると同時に書類をまじまじと眺め、顔を見合わせた。
「……出発、明日、だぁ? ああいや、余裕がないのはこっちの失敗のせいだよな」
「魔法カードの携行許可枚数、各五枚って、…………もしかして結構きつくない?」
「選ぶにしても依頼内容書いてないだろ、これ。あ、ここにヒント……って、イモリの丸焼き? どういうことだよ?!」
「つまり……」
「……だよな」
 そう、この準備段階からすでに実習は始まっているわけだ。限られた情報から最善の準備を整える、それは将来彼らが正式に魔法使いとして活動するようにな れば、当然あり得る事態ではある。
 が。
「呼び出し紙、見逃したのはイタかったよなぁ」
 同級の学生たちの中にあっては頭抜けた実力を見せているとはいえ、やはりまだ彼らは卵なわけで。思いもよらなかった課題に二人、ため息をもらさずにはい られなかった。




 》 2 《


 馬車にゆられて丸一日。
「前から思ってたけどさ。あんまり乗り心地よくないよね、学院の馬車って」
「そうか? 座席むき出しじゃないし、屋根も幌じゃないし、いい方だろ」
「そーおー?」
 それこそ育ちの違いだろうか。父親の仕事の関係から、造りもしっかりとし内装にも手が込んでいる馬車に乗りなれているであろうリオニスと、時には仕入れ た商品を積んだ荷台に放り込まれて長距離を旅した経験が無いわけでもないクリストファとでは、乗り心地に対する感想がまるで違うのも当然の結果だった。学 院と街との往復で利用する程度の短距離ならばともかく、徐々に路面状態が悪化していく中での丸々一日の移動は、リオニスには流石に少々堪えたようだ。
 またそれ以上に、やることが何も無い状態が延々と続いていることが、珍しいほどの彼のグチの多さにつながっているのだろう。苦笑しつつ、クリストファは それにつきあってやる。時間つぶしの道具を忘れたのは同罪だし。気持ち悪くなって黙りこまれるよりは、同乗していても気が楽だ。
「起きてるから、なおさら気になるんだろ」
「寝てるのも飽きた。手綱取らせてもらえたらいいのに」
「行くまで、とりあえず目的地は秘密って話なんだから、仕方ないだろ」
「この上、到着してすぐ実習なぁんてこと、ないよねえ?」
「あり得なくはないよな」
「やーだなー。もう日が暮れてきたよー」
 実際のところは、その場になれば生き生きと動くであろう姿は容易に目に浮かぶのだが。今はとにかく退屈に押しつぶされ、折角の美貌も存在しがいがないと ばかり脱力した人形なみにだらけている。
 もちろん、彼自身退屈してないわけではない。これだけ時間がかかるとわかっていたら、いっそのことレポートの資料も持ってくればよかったというのが実感 だが、今更どうもならない。ここで《呼出》を使うのは不可能ではないが、実習でどんなことをやらされるかわからないのに、そんな無茶などできやしない。そ れがわかっているから、リオニスもただただ口を動かしているのに違いない。
 と。
「……れ?」
「わっ、なん、った!」
 ぐらりと傾きを感じたと同時に、がんっと馬車が大きく弾んだ。床の上にあった足が弾かれて盛大に跳ね、次の瞬間、全身がその壁に叩きつけられていた。そ れも一度だけではない。二度、三度と明らかに回転しつつ、落下している。
 馬の嘶き、馬車の軋み、車体そのものが強くどこかに叩きつけられる衝撃と破壊音。
 不自然な浮遊感を感じ取り、クリストファはとっさに頭を抱え込むように身を縮めた。


「……ーい、おーい、大丈夫かぁ? 」
 間遠に、上の方から呼びかけがくり返されている。いかにも心配げなそれは、間違いなくクリストファたちに向けられたものだ。が。
「だいじょぶ……」
「……なわけねーし」
「つっこんでるってことは、案外余裕あり?」
「とりあえず、動けなくはない、なっと」
「同様、うう、でも痛い……」
 気がつくと、クリストファもリオニスも、横倒しになった馬車の中に転がっていた。身体中あちこちが痛みはしたものの、目立つような傷がないのは馬車が頑 丈だったのか、はたまた二人が丈夫だったのか。まずは状況確認をと軽口を交わしつつ、今は上にある扉から馬車の外に這い出た。
「クリストファくんっ、リオニスくんっ、無事かぁい!?」
 予想通り、彼らは崖の下にいた。暮れかかり視界の悪い中、ずいぶん上にある道から乗り出していた人影が、彼らの動きを目にしたのか喜色の混ざった声で二 人の無事を確認してくる。クリストファは大きく手をふることでそれに応えた。
「大きな怪我はありませんっ。ダルシュさんこそ、大丈夫でしたか?!」
「ああ。運良く落ちる前に飛び降りられたんで、無傷だよ」
「クリス、馬も無事。ついてたよ、そこの木がクッションになったみたいだ」
 示された木の枝はかなり太かったが、幹に近い部分から大きく裂けていた。その傷口に手をあてて、しみじみとクリストファはため息をついた。
「こりゃ、感謝だな」
 互いの無事を確認できたところで、ようやく今後の予定に話が及んだ。できるものなら崖を登ってそのまま目的地に向かいたいところだが、何はさておき日暮 れの近さが問題で。
「そりゃ、ボクもクリスも怪我とかはないから、《移動》や《飛行》使って馬車を上まで上げられないこともないけど」
「馬車はダメ。車軸が完全に折れてるから、上げても動かしようがない。その上、疲れ果てて真夜中の路上でぶっ倒れるなんて、それこそ冗談じゃない」
「じゃあ、そこで野宿するとして、二人とも大丈夫なのかい?」
「はーい」
「一晩くらいなら、まあ平気でしょう」
「ふむ。クリストファくんが言うなら、なんとかなるか」
「……ボクの返事は無視?」
 話している間にも辺りは次第に暗さを増してゆく。夏至間近で昼が長い時期だったのは幸いだが、崖の下とあっては暗くなるのも早い。身動きが取れなくなる 前に、とダルシュが目的地へ先行して事情を説明し、二人はこのまま野宿で夜を明かすと決まった。
「不可抗力の結果でも到着が遅れる以上は、早い時点での依頼主への説明が必要だし。ダルシュさん一人の方がやっぱ身軽だよ」
「この場合、実習はやり直しになるのかな?」
「到着したら、そこから続行だったりして」
「うわーお」
 脚を折ることなく助かった馬を頚木から外して広く動けるように繋ぎかえ、クリストファが薪を集めて火を焚く間に、リオニスは転倒したままの馬車の中から 二人の荷物を取り出した。しかも備え付けの保存食料までちゃっかり見つけ出せたのは、食べ盛りの二人にとって当面一番の幸運だった。満腹とまではいかなく とも、空腹を抱えずにすむのだから。
 切迫した空腹をとりあえず満たした後は、互いに《治癒》をかけ合い、その上でリオニスは馬に、クリストファは枝を折ってしまった木にと同じ呪文を唱え る。とりあえずやらねばならないことをこうしてすませてしまうと、後は夜が明けるのを待つばかりとなってしまった。
 両手の平で覆ってしまえるほどの小さな焚火が、二人の爪先でぱちぱちと音を立てる。光が区切る範囲は、周囲の見通しのきかぬ闇に比べてあまりにも狭い。 触れるほどの近い位置に座っていたリオンのふわふわの金髪頭がこくん、こくんと舟をこぎ始めた。
「おい、リオン。寝るんなら馬車に入れよ。獣出たとき危ない」
「ん、まだ平気。それにクリス、何か出たら、二人でいる方がよくない?」
「寝ぼけて転がってられるよりは、後方支援してもらった方が心強いような気が……」
「えー、ボク、戦力外なわけ?」
「そもそも馬の方が、ずっと早く感づくから確実だ」
 枯れ枝を足しながら、冗談半分に拗ねてみせるリオニスを笑った。


「あのー」
「ぅをわっ!?」
 ふいに背後も背後、すぐ後ろから声をかけられた二人は飛び上がる勢いで、ばっとふり向いた。とそこには、二人より多少年上であろう一人の青年が彼らのあ まりの驚きようにかえってびっくりしたような、申し訳ないような中途半端な表情を浮かべて、立っていた。見たところでは、武器の類を手にした様子はない。
 手に小ぶりではあるが火を灯したランプを持っていて、これでどうして気づかなかったのかと、自分のうかつさにクリストファはこっそり冷や汗を流した。そ んな彼の内心も知らぬげに、青年は手で行き先を示した。
「あー、あ、驚かしてすまん。そこ通りたかっただけなんだけど……」
「え、え? 通ると言っても、この先は見たとおり岩壁ですよ?」
 確かめるために手で叩いてもやはりそこはしっかりとした岩壁で、その先に進むことのできる場所などない。わざわざ彼らに断ってまでその間を通っていく必 要などなさそうなのだが、男は迷う様子もなく首を横にふって言った。
「今はそうでも、もうじき道が開くんでね」
「へえっ、精霊の隠し通路みたいなものなのかな? 見るのは初めてだけど」
「おや、よく知ってるな。そういえばあんた方はどうしてまたこんなとこで野宿を?」
「あ、えっとパルナ学院のクリストファと、こっちがリオニスです。実習に行く途中で、この上から落ちて……」
 改めて聞かれると、むしろ自分たちの方が不審人物だと思い当たり慌てて簡単に事情を話すと、へえっと面映いくらい感心された。
「魔法使いさんか。こんなとこで災難だったね」
「いえ、まだ卵なんで、そんな。あの、それであなたは、この辺りの方ですか?」
「僕はリム・リフ。カンザン村のものだけどね」


「薬の材料探し?」
 焚火の前にゆったりと腰を下ろしたリムは、二人の問い返す言葉にちょっとだけ首をひねった。
「探し、というか場所はわかってるから、取りに行くってだけだね。いつもは、別の道を使ってるんだけどねぇ……」
 リムが言うには、村のもっと近くにいつも使っている道があるのだが、つい数日前の大雨で起きた土砂崩れで、その道が埋まってしまったというのだ。しかも 地下を通る部分がかなり長く、掘り起こすのには時間も手間もかかる。
 無くなる間際の薬を作り足すには材料が足りず、材料を取りに行くには掘り起こさなければならず、掘り起こすには病気のせいで人手が足りず。まさに手も足 も出ない状態なのだった。
「ここに開く通路はその場所に通じることは通じるけど、夜しか開かない上に目的地に行く途中に障害があるんで、普段は使ってない。村からも遠いし。けども うここ通るしかないわ、人手が無いから僕一人で行くことになるわで、踏んだり蹴ったりって気分だよ」
 やれやれとリムは大きくため息をつき、そしてはっと、顔を上げた。
「…………あの?」
 焚火を挟んだ真正面の位置で、青年はさっきまでの気乗りしなさそうな表情とは打って変わった、とてもいいことを思いついたと言わんばかりの顔つきで、二 人を交互に見た。
「そっか。そういえばそうだ。うんうん」
 輝きだした目に見つめられ、次に口にされる言葉を簡単に予想できてしまったクリストファの顔が、かすかにひきつる。
「お願いだ! 君たちはパルナの魔法使いで、しかも朝まで何もやることがないんだろ? 村の病人を助けるために手伝ってくれ!」
 やはり。
「……頼まれちゃった、ね」
「だな」
 卵といえども魔法使いとしてここにいる以上は、
「役に立つかは、わかりませんが……」
と言わざるをえず。
「ありがとう! よろしくお願いしますよ!!」
 二人の見せたためらいもなんのその。がしっと両手を取ってぶんぶんと上下にふられ、リオニスの頬もそこはかとなくひきつっていた。




 》 3 《


「けど、これ、勝手にやっちゃって、怒られないかな?」
「仕方ないだろ、依頼された以上尽力するのは魔法使いの義務。……やらなかったらそれはそれで、どうせ説教されると思う」
「だよね」
「だな」
 こそこそと二人が小声で交わす声が聞こえているのかいないのか。先導する青年の足取りは、やけに軽い。
 ふうっとリオニスが小さくため息をつき、ついつい近くなっていた青年から距離をとるのが目に入り、クリストファは苦笑を噛み殺した。
 基本的に人当たりのいいリオニスがこんなふうな態度を取ることはとても珍しいのだが、焚火を囲んでいた間の話題が悪かった。彼らの協力を取り付けただけ にしてはやけに笑顔の大盤振る舞いだと思ってつい話をふったところが、
「僕、キレイな男の子が好きなんだ……」
とうっとりとした口調で、それも手を握られた状態で言われてしまったリオニスは、それからずっとリムと自分の間にクリストファを置き、一方のリムは避けら れているのはわかるだろうに、確かに美少年であることは否定できないリオニスの顔を見つめては、すこぶるご機嫌であることを隠さないのである。
 多少、先が思いやられたが鬱々としているよりはいいかと、クリストファは特に口は出さずにいるのだが。
 今歩いている通路については、リムが言った通りだった。しばらく待つうちに岩壁の一部分が覆いを取りのけたかのようにぽかりと口を開けた。最初からそこ にあったと言われれば信じざるを得ない、まったく当たり前の洞の入り口にしか見えなかった。
 中は大人の身長でも十分立って歩けるほどの高さと幅があった。壁に発光性の苔でも生えているらしく、リムの持っていたランプ一つで歩くのに支障ない明か りが得られている。空気の流れもあり、息苦しさは全く無かった。
「足元も平らで、歩くの楽だよね」
「どうしてこっちの道を使わないんですか?」
「着けばわかるよ、あと少しだから」
 やがて音が聞こえてきた。ひんやりとした、静かだけれど深く響く何かの。
「この先だよ」
 ふり向いて掲げたランプの光が、通路の先の空間に反射して、ゆらゆらとゆれる。
 青年に続いて目の前の角を曲がったリオニスが、目を見開き、歩みを止めた。
「……わ」
 ひたひたと足元で波打つ。ランプの光が青く頭上周囲の岩壁を走る。
 掲げた光が真っすぐに、落ちてゆく。
「なるほど。湖になってるのか」
「そう。で、目的のものは、この一番底にいるんだ」
「底?」
 覗きこんでいたクリストファが問い返す。リムはあっさりと頷いた。
「いつもの場所でなら、水際近くに上がってきてるから楽だけど、こちら側だと一番底の、水草の繁ってる一角にかたまってて上がってはこない。だから集まっ てる場所に行くまでがとにかく大変でね」
「その、いつも使ってる側に抜けるというのは……」
「手の一本ぐらいならいけるんじゃないかな」
 返答を受け、見るからに深い湖水を見つめクリストファが考え込むその傍らで、リオニスが今気づいたと、リムに尋ねた。
「今さらな気もするんだけど、つまり薬の材料って、生き物?」
「ああ、イモリだよ」
「イモリ」
「ここにしか棲んでない、赤銅色のイモリ。五匹くらいは欲しいな」
 にっこりと、頼まれた。
 断れる状況にはない。
 水は冷たい。


「どうしよ、クリス?」
「確実に潜るのと、呼吸だよな。直接唱える場面も考えると」
「《流水》のカードとか、ある?」
「ない。《風》と《火焔》、用意あるの。リオンは?」
「あったら聞いてないよ。クリスのは微調整、効くね?」
「多少なら」
「最悪、呼吸だけ確保」
「それじゃ、行くか」
 決めてしまうと迷いは無く、クリストファとリオニスは湖面に無造作なほどあっさり足を踏み入れた。
 灯火を掲げて見守るリムの目に、それはごく普通の光景に見えていた。だが次の瞬間、普通に水に潜るのとは明らかに別の様相を露わにした。
 二人同時に呪文らしきものを唱え、その周囲からわずかに水が引いた。
 わずか、ほんの指一本分の幅程度に。
 とぷん。
 小さな音とわずかの波紋を残して、二人の姿が、水中に消えた。


 ゆっくりと。
 地上に立つのと同じ姿勢のまま、二人の身体は一定の速さで湖底に下りてゆく。
 小さく短い呪文の声と同時に、クリストファの手中に光塊が生まれ、泡沫のように二つの吐息が同時にこぼれていた。
 湖中の壁は一面が硝子質の物に覆われ、光が動くにつれて様々な角度で反射した。色の変容は一瞬の遅滞もなく、くり返しもなく、どこまでも重なりあって深 みを増し複雑な新しい紋様を描き出していった。
 すでに時間の感覚は失せていた。
 それでもようやく二人の足は湖底を踏み、そこに金色を帯びた緑色の水草の林を見出した。
(ここ?)
(他に無いな)
 勢いよく周囲を見回すと、ゆらゆらと茂みがゆれた。
(いた)
 捕獲そのものは難しくはなかった。思うに、本当に水底に下りてくるまでが問題なのだろう。いつもは空気袋を沈めてそれで呼吸を補助しているという話だっ たけれど、かなりきつい作業に違いない。
 四匹までは順調に集められたが、そこで急にイモリの姿が見えなくなった。警戒されたか、もっと他に集まりやすい場所があるのか。大きく膨らんでもぞもぞ と動いていてる袋を抱えて辺りの様子を探るうちに、ふっとクリストファの胸に不安が過ぎった。
 それはもう本当に勘としか言いようのない、しかも、ある特定の人間限定で感じるものであったから。
 慌ててその姿を確かめれば、その黄金色の髪はまるで光のように青い水に飲まれるかのようにゆれて。
(リオニス!)
 夢中になったのだろう。最後の一匹になる赤銅色の大きな体を見つけたのだろう。気持ちはよくわかる。だが。
(離れたら、継続して発効してる呪文の条件が、解除されるだろうが!)
 クリスの心の絶叫が声になる前に、水を押しのけ呼吸を助けていた空気の膜がふいに捩れ、暴走した。
 簡単に言えば、本来ある形で水中に放り出されたのだ。
(…………っ)
 緊急用と襟元に留めておいたカードを強く握り、クリストファは最後の一息を呪文の一語に変える。

 水中に。
 突風が吹いた。

 彼の身体は勢いよく水面方向に押し上げられていく。たぶん、リオニスも同様の状態にあるだろう。別の呪文を唱えていなければだが。
(この展開って、もしかして、またぶつかるのかよ?)
 水の重みを痛いほど全身に感じながら、彼は己の不運に呻いた。そして、カードを使わずに落下までの一瞬で唱えることのできる、落下の衝撃を抑えるのに利 用できるような呪文がないか思い出そうと、虚しい努力をした。




 》 4 《


「クリストファ、リオニス。こちらが実習の評価票になります。きちんと読んで、次回の参考にするように」
 いつものように淡々とそう言って、フィドル先生は机の前に立つ二人に二つに折った小さな厚みのある紙を渡す。
「ですがフィドル先生、僕たち、実習現場には行けなかったんですが……」
 一応は受けとったものの、珍しくおずおずとリオニスが言い、クリストファも隣で頷いた。だが。
「いいえ。予定通り、実習は行われましたよ」
 そう言って、フィドル先生は唇にはっきり微笑とわかるものを浮かべた。
「馬車の落下から、イモリの捕獲まで、初めてにしてはなかなかうまく対処したと思います。これからも一層の努力を期待します。以上です」
「失礼、しました」
 促され、呆然と声をそろえての退出の挨拶。扉を閉めると同時に各々に渡された紙切れをまじまじと眺め、顔を見合わせた。
「つまり……」
「……だよな」
 がっくりと、へたりこむ。完全に脱力した。


 イモリを捕獲し終えた後、元の馬車のある場所に戻ってリムを見送ったのは、明け方の少し前。
 頭から爪先まですっかりびしょぬれになり、疲れきった身体を焚火で乾かしているところに、ダルシュが迎えに来た。小型の別の馬車を引いて。そうして彼ら はそのまま、また丸一日かけて学院に戻ってきたのだ。
 だから当然、実習は中止もしくは延期になったのだと考えていた。
 ところが。
 一晩すぎた今朝になっての呼び出しに、二人そろって顔を出したところが、この結果で。
「結局……馬車が落ちるところっから、実習は始まってたってことぉ? なんだよそれー」
「やられたよな、おい」
 評価票を眺めると、そこにはダルシュとリム・リフの名前。つまり彼らこそが試験監だったわけだ。
 予定外に引き受けた仕事の報告書まで、苦心惨憺して書いていたというのに。
「……ねえ、クリス」
「なんだ?」
「実習って、不意打ちに決まってるのかな?」
「………………勘弁してくれよ……」
 支える気力さえ失って見上げた空は、暗闇の中に見たものとはまた違う、青。
 夏は来た。
 暑熱の盛りと長い休暇は、あと少し先だ。




》了《





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