Only Music, Only a Song






 《 1 》


「いったい何事だい、ご主人?」
 ひょいっと覗きこんだ男の声に、道端でもめていた二人が揃ってうわっと仰け反り返った。少々恰幅のよすぎる、すぐ後ろの店の主人らしき男が誰だという目 つきで、しかしまた困った状況を変えてくれる人間が来たかとの期待の表情も浮かべて、大きな荷を背負った旅装の男を見上げた。
「や、この男がね。質草にならんような物ばかり出してきて、とても金など出せないと言うのにしつこく食い下がってくるんで、参ってるんだよ」
「でもほんの少し、食事できるくらいの額でいいんです。都合していただけたら、今夜のうちに返せます。返します。どうか……っ」
「いいやいいや。大体だね、さっきから言ってるだろう、その抱えてる竪琴だっていう代物を預けてくんなら、まあ食事代ぐらい融通してもいいって」
「とんでもないっ、これを手放すだなんて!!」
「だがね。あんたが自分でさっき言ったじゃあないか? 夜には返せるってんなら、それこそちょっとの間だ。それができないってのはおかしな話だ。さっさと 別の店に行ってくれ。うちじゃそんなボロ着にゃ端金も出せんよ」
「そんな、どうかご主人!」
「しつこいねえ。こっちだって商売なんだ」
「お願いですっ」
「さあ行った、行った」
 ぐいっと気づかいの無い手に押しのけられて若い男はよろめき、すとんと路上に腰を落とした。それでもひとつきりの小振りな荷物の包みだけはしっかりと抱 えこんでいたが、どうやらそれが精一杯だったようだ。さらによろよろと上半身まで倒れ落ちそうになり、勢いをころすことができぬまま店の外壁に凭れかかっ た。顧みることなく、質屋の主人は店に入っていった。
 それまで二人のやりとりをどこか面白そうに眺めていた旅の男は、軽い動作で青年の前にしゃがみこみ、血の気の失せた顔を覗きこんで、聞いた。
「あんた、腹減ってんのかい?」
「……ええ」
 青年は問いにかくんっと頷くと、首を支える力も失せた様子で項垂れた。


「この街に入る五日前に、荷物と路銀のほとんどを、盗まれました」
 青年は、バードと名乗った。ぼろぼろのフードを下ろすと、吟遊詩人を示す色鮮やかな布が編みこまれた長い髪がこぼれ落ちた。伸ばしっぱなしなのだろう、 前髪で顔半分は覆われており、髪からはみだしている部分も野宿続きのせいか薄汚れて、顔立ちはよくわからない。
 吟遊詩人のギルド事務所まで行けば、多少の資金援助と仕事の斡旋が望めるはずなのだが、たどり着く前に体力が尽きて、こうして道端にうずくまるはめに なったらしい。
 ただ、事情を語る若々しい声だけはよく通った。
「あんたの声がそんだけ響いていなけりゃ、首をつっこんだりしなかったんだがね」
 旅装の男、ロウは、やけに人好きのする顔で笑って言った。
「吟遊詩人なんだよな?」
「はい」
「歌に自信がある?」
「そうでなければ、詩人は名乗りません」
「じゃあ、なんで歌って稼がなかったんだ?」
 当然の疑問に、青年は小さくため息をついて、答えた。悔しそうに。
「お腹が空きすぎて、力が入りません」
「おやおや」
「正直、演奏の方が得意で、こんな状態では、情けないけど、声が楽器に負けてしまうんですよ」
「だからかい、その竪琴を手放せないってのは」
「これだけは絶対に。盗まれなかったのは、不幸中の幸いでした」
「なるほどねえ」
 ふむ、と何故か何事かを考えこむ様子を見せ、ロウは立ち上がるようにバードを促した。
「ま、試してみるか。ついて来な」
 言うや否や歩き出したロウの背中をぽかんと見つめていたバードは、はっと目を覚ましたように瞬きし、よろめきながらも必死にその後を追おうと一歩踏み出 し、血の気を失いひっくり返った。




 《 2 》


 ティルディナの王都である西都周辺には、街道沿いに自然発生的に形成された小規模な街がいくつかある。
 西都には、国内ばかりでなく大陸中から人が集まる。その中には当初の目的を終えても故郷に帰らぬ者や、帰るに帰れなくなる者も少なくない。しかしその全 てが西都内に留まれるわけではない。
 王都であり、国政や大陸全土に関わる様々なことを決定する機関が置かれた土地でもある。そのため、住人は安全が保障されると同時に時には行動の制限を受 けたり、相応の税金を始めとする様々な義務が課せられる。
 それらの義務や責務を負いきれない人間は、自然と西都に程近い周囲の街に散ってゆく。また、西都にたどりつく前に路銀が尽き進むことのできなくなった人 間も、同じように留まり、そうして住人が増え大きくなってゆくのである。
 ここリムディもそんな街のひとつで、西都の南にあった。西都に比較的近いこともあってか、なかなかの賑わいを見せる。街道に沿って広がっていることから 予想しやすいのだが、まず目立つのは宿屋だ。
 ロウが青年を半ば担ぐように引きずって行ったのは、そんな宿屋が建ち並ぶ大通りから一本裏に入った細い通りに面した酒場だった。
 真昼時のこととあって店の戸は閉ざされている。その上で、花を咥えて枝にとまる鳥の姿を描いた看板が、ゆらゆらとゆれていた。
「『花喰い鳥』って店だ」
 街道沿いの宿屋は一階が酒場を兼ねた食堂になっていることが多く、日中もそこが人の集まる場になるものだ。だから逆に宿を具えていない、酒場だけの店は 珍しい。
 準備中であることがわかりきっているその店の戸を、ロウは躊躇いなく押してできた隙間にひょいっと首をつっこんだ。
「よう」
「ロウさん! 久しぶりですねえ」
「元気そうで何よりだ、フギン。デイシュはもう出てるかい?」
「いますよ。さっそく腹ごしらえですか」
「オレじゃないけどな」
 手で促されておずおず、というよりよろよろとバードが店に入ると、雑巾を手に笑っていた少年は、彼が手にしている包みを一目見て、目を丸くした。
「それ楽器ですよね。へえ、ロウさんがわざわざ連れてくるなんて! すぐに呼びますか?」
「その前に腹ごしらえだ。腹が減りすぎて、声が出ないんだそうだ」
「それはそれは!」
 少年はひどくおかしそうに言った。
「すぐデイシュさんに頼んできますよ。準備中だから、簡単な物しか出せませんけど」
「十分さ。ああ、オレにはリーチー水を頼む」
「はあい!」
 机の隙間を跳ねるような足どりで、黒髪の少年はするすると奥へ消えた。
「少しかかるだろ。座りな」
 言われてやっと、目の前の男がとっくに椅子を下ろして座っていることに気づく。バードは慌てて目の前の椅子の足を掴むと床に置き、腰を下ろすとほうっと 大きなため息をついた。
「あの……」
「ん?」
「それで、いったい何事なんでしょうか?」
「ああ」
 ロウはにこりと笑った。
「歌う場所が必要なんだろ。ここの主人のお眼鏡にかなえば、店で歌わせてもらえるぜ。ダメならダメで、店の雑用をして食事代に代えさせてもらえばいい。オ レの顔馴染みの店だから、そのくらいの融通はしてくれるはずだ。腹が膨れて動けるようになったら、ギルドに挨拶に行って当面の活動資金を借りるのでもいい だろうし。どちらにせよ、しばらくは食うに困らずにすむだろう」
 説明にぱちぱちと数度瞬きして、バードはちょっと困ったような表情でロウを見遣った。
「どうして、こんなに親切にしてくれるんですか? 何の得もないと思うんですが」
「なに、面白そうだったからさ」
「ロウさんって、いつもそんな感じですよね」
 後ろから声がして、よく冷えたリーチー水が二つ差し出される。
「それだけでもないぜ? ちゃんといい声してるって思ったから、連れてくる気になったんだし」
「声ですか?」
「腹減って力が入らないって割に、随分遠くまで、質屋の店主に訴える声が聞こえてた。それもやけにいい調子で」
 笑い含みに言われ、バードの顔が赤くなる。周囲の様子など考えもしなかったあの行動は、いったいどれだけの人間に見られたことかと、ようやく思い至った のだ。
 演奏で目立つのは望むところだが、お金を借りようと必死の姿なんてものは、見せ物にしても情けなさすぎる。
 そんな彼の心情をよそに、ロウは事情を語り続けた。
「聞いてみたらなるほど、吟遊詩人だって言うじゃないか。あれだけの声が出せるんなら、彼女に聞かせるのも面白いかもって思うだろうよ、フギン?」
「あの人の点は辛いですよ! 知ってるくせに。そこの詩人さんには、再起不能にならないようちゃんと説明してあるんですか?」
「……何も、聞いてない、です、けど」
 燃え上がるように赤くなった顔が、今度はじわりと青ざめた。宥めるようにロウはその肩をぽんと叩いた。
「怯えることはないさ。ただ単に、ここの主人が求める力量がちょっとばかり高めだってだけだ。だから滅多に専属の吟遊詩人を置かないのさ」
「その代わり、ここで歌うのを許されたとなれば、その後はこの街のどこに行っても大歓迎で雇ってもらえるってことです!」
 少年は胸を張って言い切り、
「とはいえここ半年ばかり、両手両足の指の数よりたくさん試みた人はいたものの、居着いた人はいないんですけどね!」
 と店の奥、厨房らしい場所から怒鳴り声がして、少年は慌ててまたぱたぱたと駆けて行き、今度はそろりそろりと用心深い足どりで深い皿に盛られたスープを 運んできた。
「煮こみが足りないのは我慢しろ、だそうです。でも、おいしいですよ!」
「相変わらず、匂いからして美味そうだ」
「食べ終わったら呼んでください、裏の手伝いしていますから。彼女に伝えてきます」
「頼むよ」
「はあい!」
 あれよあれよという間に進んでゆく事態にバードが口を挟むこともできないでいると、リーチー水を飲みながらロウが不思議そうに言った。
「食べないのか? 腹減ってんだろ?」
「あ、はい。いただきます」
 慌てて口につっこんだスープは熱すぎ、しかも空腹続きだったせいか上手く飲み込めなかった。味わう前にむせてしまったけれど、身体全体に染み渡るよう で、手を止めることなど考えられないほど美味く、気がつけば深皿はすっかり空になっていた。
 空腹が満たされて腹の内側から温まったことと旅の疲れ、行き倒れずに済んだという安堵から気が緩んだのだろう、彼は椅子に座ったままついうとうとしてし まったらしい。
「あら、まあ。本当にいるわ」
 奥のドアが開いて、聞こえたのはまずそんな一言。寝床に敷き詰めたやわらかな布のような響きの声に、弾かれたようにバードは顔を上げた。
「邪魔してるよ、ベル」
「久しぶりね、ロウ」
 花のような人だ、と彼は思った。
 準備中の店内には日中でも薄暗さが漂う。彼女は長い髪を無造作にまとめ、化粧もせず、全くの普段着でそこに立っている。決して若くはない。彼よりは確実 に年上だろうし、慣れた様子で軽口をたたきあっているロウよりもまだ歳は上のようだった。
 そこにバードは花を見た。日の光を浴びて開いてゆく、大輪の花を。
 幾重にも花びらを重ねた、重厚であっても重たげに見えない大輪の花。一目見て、誰もが目を奪われ近くで見つめずにいられない花。讃えずにはいられぬ花。
「――あなたが?」
「あ、はい、バードですっ」
 見惚れていたことに気づかれただろうか。問いかけられたことに一拍遅れて気づいた彼はばっと立ち上がり、椅子にひっかかってつんのめる。じたばたとみっ ともない様子を見せた自分にまっ赤になったまま、改めて椅子の脇に立つと頭を下げた。
「ここで歌わせてもらえるかもしれないというので、連れてきてもらいました」
「ようこそ。私はベル、この店の持ち主よ。ところでこの人、ちゃんと説明した?」
「はい、ええさっき」
「さっき、ねえ……。まあいいけど」
 女主人の呆れたようなため息にも動じず、それがどうかしたのかと言いたげに眉を上げ、ロウはリーチー水を口にする。
「要は、気に入るか気に入らないかだろ。聞いてみりゃいい」
「そうね」
 ベルは優雅な仕草で椅子に腰を下ろし、顎に細い指先をあてがった。目を眇めてじっとバードの様子を見つめ、口を開く。
「あなたが今歌える中で、一番難しいものを」
 一番難しいもの。バードはほんの少しだけ考えてからずっと大事に抱えていた布包みを解き、竪琴を取り出した。外観は古びてはいて、弦が一本だけ極端に太 いのがやけに目についた。けれど丁寧な手入れがされているとわかるその竪琴を手に椅子に座りなおす。しばらく弦を撫でては弾いてと丁寧に音を調整していた が、やがて満足がいったのか構えなおすと、曲名を告げた。
「では『月がふたつあったころ』を」
 ほんの少しだけベルは目を瞠り、けれど何も言わずに小さく頷いて演奏を促した。
 バードの指が弦を弾いた。低く、重く、緩やかに脈打つ旋律、次第に晴れやかに音調は変化して、伸びやかな声が世界の始まりを語り始める。

 神々は人を作り
 神々は人を愛し
 神々は人を導き
 やがて長い永い退屈に飽いた

 慈しんだ人の手を離して神々は
 彼ら自身も知らぬ物語を生きよと
 二つの大陸を用意した
 それは月を砕いて造られた大地
 我らを載せて在るこの地
 ……


 バードの声は荒れ狂う海を越え新しい大地に降り立った命あるものたちの苦難を語り、竪琴は近く遠く寄り添う神々の息吹を奏でた。
 二つの大陸の始まり、神々との別れの物語。この歌には技巧的に困難な部分はない。むしろ単純で歌いやすい旋律のために、ごく幼い子どもから大人まで気軽 に口ずさむことができる曲だ。
 だが、だからこそだろう、才能ある詩人が歌えば目の前に数多の場面が浮かび上がることが、よくわかる。音をなぞるだけでなく旋律に心を注いで歌う時、目 にしたことのない風景を見せ、人ではないものにさえ共感させるだろう。技術的な難しさではなく、表現が困難な曲を彼は答えとして選んだのだ。
 薄暗い店内に広がる海原の幻想と共に竪琴の最後の音が消えた。
 ゆったりと手を打ち合わせ、ベルはちらりと横目にロウを見やった。どこか呆れかえった風さえあった。
「あんたはまた、いろんなものを持ち込むわねえ」
「一番欲しいものを持ってこれなくてすまんがな」
「だからって歌い手を連れてくれば足しになるってもんじゃないわよ」
「だが、オレにもさすがに専門外でね、常々手の出しようがなかったわけだし」
「あんたは手広すぎて専門を忘れがちなんだけど」
「商人ってのは、手広くやるものさ」
 そう言って、どうぞ今後もご贔屓に、と笑った。

 ロウに背を向けると、ベルは喉を潤していたバードに向き直り尋ねた。
「もしかして、正式に音楽教育を受けたことがあるんじゃない?」
「あ、はい。小さい頃は、カリオードの学校に通いました」
「楽都の。なるほどねえ」
「へえ、本格的だな。楽都で学んだんなら、国のお抱えになる道もあっただろうに、なんだって吟遊詩人になったんだ?」
「ほとんど外に行けないでしょう、国雇いの楽人になると。海を知らないままに海の歌を歌うようなことを続けていくのかと思ったら、嫌になったんです」
 バードはため息と共に言う。
「ボクは、歌に歌われた場所に行きたかった。歌われたあらゆるものを、この目で見たかった。触れて感じたかった。歌の舞台で歌いたかった。だから、楽都を 出たんです」
 ベルの眼差しがふと懐かしいことを聞いたかのように緩んだ。
「……一番行きたい場所は、何処?」
「叶うものなら、失われた大陸へ、ボクたちが生み出された始まりの場所へ行ってみたいし、その地に今も居るものならば神々に聞いてみたい。この大陸が、本 当に歌の通り月を砕いて造られたものかどうかも」
 きっぱりと言い切り、だがすぐ情けなげに表情を崩した。
「でもまあ、神々の前で堂々と歌えるかっていうと、まだまだとてもそこまでの覚悟は無いですし、西都さえ行き着けずに行き倒れかけましたけどね」
「急ぎの旅ではないのね?」
「はい。街道に乗って来ただけで、特に用はないです」
「いいわ、しばらくここに居なさい。後はフギンに聞いて」
 ぽんと肩を叩かれた。じゃあねと奥へ消えて行く背中を、バードはぽかんと目を見開いて見送った。ベルの姿が消えると、室内が少しばかり色あせたようだっ た。
「ええと……?」
「合格ってことです。とりあえず十日間の契約で、もしまだ移動する気がなかったらもう十日間。二階に部屋があるので、寝泊まりはそちらでどうぞ」
 いつの間にか傍らに立っていたフギンが、おめでとうございます! と笑顔で言った。よかったなと頬杖をつきつつロウもくしゃりと笑った。




 《 3 》


 夜が更けて、落ち着く宿を決め身軽になったロウが改めて姿を見せた頃には、空いている座席を探すのに苦労するほど『花喰い鳥』は込み合っていた。陽気に 騒ぐ人と人の間をフギンと、彼にそっくりなムニンの黒髪が慣れた様子でするするとぶつかりもせずに動き回り、注文をさばいている様子が見て取れる。
 店の奥には、さほど広くないものの床が一段高くなりピアノが置かれた一角がある。狭いが舞台になっているその隅で、バードは人波に紛れるように座りこん で一息ついていた。空席を探すそぶりもなくまっすぐにやってきたロウは、ずいぶんこざっぱりしたなと感嘆の声をあげた。
 確かに竪琴を抱えて座る姿は、昼とはまるで別人だった。当座の寝床として店の二階の部屋をあてがわれた後、湯を使わせられた上に空腹が満たされたことも 大きな理由だろうが、本来の造作の良さと若さがわかるようになった。衣服も清潔な物を身につけ、濃い色の髪には編み込まれた色鮮やかな布がよく映えてい た。
 バードは少しの疲れと興奮をのせて上気した顔で彼を迎えた。
「すごく賑わうお店なんですね、ここ。さっきまで歌いづめでしたよ」
「そりゃあ普段から賑わう店だが、今夜に限ればお前さん目当てだろうよ」
「へ? 何でですか?」
「最初に言っただろ。ここの女主人は、滅多に吟遊詩人を置かない。だから、彼女の耳に叶った人間の歌を聴きに来たんだろうさ。どこまで歌えるか、試された のさ」
「合格点はもらえたんでしょうか」
「彼女の評価にケチをつける強者はいないだろ。だがまあ店の中にこんだけ客がいるんだ。文句無しってとこじゃないのか」
 聴衆は正直だ。店の主人がどれだけ気に入ったところで、耳に適わなければ文句をつけ、終いには帰る。逆に上手ければ喝采が沸き、もっと歌えと求められる のだ。こうして客たちが居残って次に歌い始めるのを待っているのだから、バードの歌は十分に彼らの耳を満足させたに違いない。
「ギルド事務所に行ってきたんなら、ここの名前で驚かれただろ?」
「何でわかるんですか。お店の名前と場所を何十回も確かめられて、閉口しましたよ」
「違いない。それなら、この中にあんたの同業者もいるかもな」
「うわ……」
「数日の辛抱だ。後はあんたの実力次第ってこった」
「精進します」
 派手に苦笑すると笑われる。手慰みに弦をかき鳴らし、ふっとバードは首を傾げた。
「それにしても随分ボクに構ってくれてますけど、ロウさんがこの街に来た用件って何なんですか?」
「商売の件で、知人と待ち合わせ」
 その相手とロウの扱う品物について知れたのは、翌日のことだった。


 日が傾き始め、開店を間近に控えた頃合い。今日はムニンが店内の掃除するのを成り行きで手伝いながらバードは、またも開店時間前に現れたロウが語るこれ まで出会ったものについて、あれこれ聞いていた。行ったことどころか全く名前さえ知らない場所や、見たことも聞いたこともないような幻獣や現象について語 るロウの話に夢中になっていたのだが、会話の合い間にコンコンと店のドアを叩く音が響いた。
 応える前に押し開けられた入口からは、太陽の光のような眩しい黄金色の髪をなびかせた青年がひょいと顔を覗かせ、麗しい顔立ちに相応しい笑みを浮かべ た。
「開店前にごめんね。ロウ、いる?」
「……西都じゃないんだぞここは。何でおまえが来る、リオニス」
 応じたロウの声は、昨日から一度も聞いた覚えのない酷く苦々しいものだった。驚いて見遣ると、顔つきもあからさまに渋い。だがそんな出迎えをされた客人 は全く気にした風もなく、感動的な美貌に輝かしい微笑を浮かべて、立ち上がりもしなかったロウの隣の椅子を引いた。
「仕方ないでしょ、クリスが仕事で出てるんだから」
「おまえが来るんだったら、待ち合わせに酒場は使わなかったんだがな」
 腹の底から全ての空気を吐き出すような深い深いため息をついたロウだったが、仕方なさげに首を振ると興味津々に彼らを見ていたムニンに、酒の入らない飲 み物を頼んだ。
「クリスに直接渡さないでいいのか?」
「王宮での仕事用なんだ、クリス個人じゃなく協会の予算で購入する。金額が大きいから現金じゃなく金券使うよ。確認して」
「はいよ。こっちが品物。金粒の入った金剛石が揃いで三つ、でいいんだな」
「うん。……ああ、やっぱり君に頼むのが一番安心だ。良い品だね」
「そりゃどうも」
 二人の間を書類が行き交い、客人の手には手の平大の布袋が渡された。確認のために取り出されたのは酒場で見るには不似合いな大粒の宝石で、光を吸い寄せ きらめいていた。
 かなり高額の品をやり取りしているようだったが、交わされる会話からは商売の付き合いだけではない親しげな様子が垣間見える。
「ところで、この石以外の魔法力の気配があるよ、ここ。ナニ?」
「あー。ずいぶん前、ここの主人に頼まれて石をやったな。それだろ」
「酒場で何の用事があるわけ?」
「さあ? 氷石みたいに実用的な品を扱うこともあるが、商売繁盛を祈念しての縁起いい石なんて類の、効果がはっきりしないようなのでもそこそこ需要がある ことだし」
「なにそれ、言った者勝ち的な効果。ぼろ儲けじゃないか」
「タチの悪そうなのは取りしまっとけよ」
「う。話は一応回しとく」
 思いがけないところで仕事を増やされたと不本意そのものの顔つきになった客人は、出された飲み物に口をつけるや嬉しげに顔を綻ばせた。がその一方でロウ は通りすがりのムニンを捕まえ、恐ろしいほどに真剣な口調と表情で、厳重に注意を促す。
「万が一、他の日にこいつが顔を出しても、間違っても酒は飲ませるなよ。しばらく営業できないくらいの被害が出るぞ」
「ひどいなあ」
「ひどいのはあんただよ。お目付け役抜きで酒場に来るな。クリスは何してるんだ、留守中の手配ぐらいしてけよまったく」
「だから急な出張。そうじゃなかったら、お酒を出す店に入れるわけないじゃない」
 堂々と口にするんじゃねえよとぼやき、ロウはその華々しい美貌をじろり睨みつけた。
「オレの気に入りの店を破壊しやがったら、二度と石の調達に手を貸してやらねえ」
「ひっどーいっ!」
「かわいこぶんな。可愛いかねえから」
 二人はその後もしばらく他愛もないやりとりを交わしていたが、日が落ちる前に帰れと言われてひらひらと手をふり、またねと笑って素直に立ち去った。
 光を振りまくような笑顔の名残りに思わず吐息をこぼし、世の中には本当に美しい人間というものがいるのだなあとバードはしみじみ感動しながら、何気なく ロウに聞いた。
「誰なんです?」
「魔法使い協会のお偉いさん。そのうち、長になるんじゃねえのかな」
「え!?」
 失礼ながら、とてもそんな風には見えなかった。
「そんな人と知り合いだなんてロウさん、いったい何者なんですか……?」
「旅商人だよ、ただの」
 ロウはひょいっと肩を竦めるばかりだった。


 その夜も、店は盛況だった。
 食事目的の客足が一段落つく時間を見計らって店に出たバードは、いつもそうしているように竪琴の調弦と調声を兼ねてまず一番に『天地に捧げる詩』を歌 う。一曲歌い終える頃には客たちもまた、じっくりと耳を傾ける姿勢になるものだ。
 昨夜より客数はいささか少ないように見えた。昨夜は興味本位に顔を出した人間が多かったのだろう、ひしめきあうようだったが。今夜はひやかしでなく彼の 歌を目的に来ている客がいるはずで、自分のためにも店のためにも、彼らを落胆させるわけにはいかないと気合が入った。
 旅の途中、町や村の広場などで歌うのも、他の詩人たちと舞台の上で競いあうのも楽しいけれど、こうして歌を聴くためだけではなく酒場に来ている客たちの 耳を、一曲を奏でる間に奪うのはまた別の喜びだ。浮き立つ気持ちに促され、尽きることのない泉の水のように、バードの唇から歌が紡がれてゆく。
 音に溺れるように歌い続けて夜は更ける。客の動きがすっかり落ち着いた頃、それまで客席の間を歩き回っては良い加減に酔いの回った男たちと言葉を交わし ていたベルが、バードの居座る小舞台の方へ足を向けた。客の視線が彼女の動きに連れて集まり、舞台に立つつもりなのだと悟るやどこからともなく歓声があ がった。
 ベラはやさしくピアノを撫でるとその椅子に腰かけ、高い背もたれに片腕をもたれかけた。
「『サリエステラの請い歌』を」
 他の客たち同様に目を奪われていたバードだったが、手は言われるままに竪琴を奏でた。和音を多用した複雑な音色を踏みしめて女主人の厚みのある声が踊 る。引きずり上げられるようにバードもその喉を振るわせ、和した。

 帰っておいで
 帰っておいで
 私は港
 私は止まり木
 私は寝床
 あなたを抱く
 この腕が冷えきる前に
 帰っておいで

 待っておいで
 待っておいで
 おまえは港
 おまえはとまり木
 おまえは寝床
 私を抱く
 この胸が凍える前に
 きっと帰ろう


 サリエステラの請い歌、離ればなれになった恋人たちの歌だ。ごくありふれた、大陸中の酒場で、道端や広場で歌われてきた歌だ。この店でも何百回となく歌 われてきた曲のひとつにすぎない。勿論、ベルが歌ったことも一度ならずある。
 けれど今客たちは、この歌を初めて本当に耳にしたかのように心打たれ、茫然と聞きほれていた。魂を奪われたかのような顔つきで、まるで無二の恋人から自 分こそが呼びかけられていると、自分こそが訴えかけているのだと、錯覚するほどに。
 酒精の酔いなどどれほどのものだろう。その店に居合わせた客たちは皆な、歌のもたらす陶酔に心の底から酔いしれた。
 歌い終えたベルが優雅に礼をして舞台を降りてから、長い間喝采は止まなかった。そして彼女の歌の余韻が去るまで歌を求める者がいないことは、疑う余地も なかった。


 いつまでもどよめきが収まらない店の隅で、客たちの視線を集めながら戻ってきた女主人を、ロウは杯を掲げて迎えた。
「ずいぶんと久しぶりに、あんたの本気の歌を聴いた」
「歌わせてくれる伴奏ならいつだって歌うわよ。承知で連れてきたんじゃないの?」
「まさか。歌に関しちゃ流石にオレは門外漢だ」
「それにしてはまた、本当に腕のいいのを見つけてきたものね。商売と一緒。憎らしいこと」
「そりゃどうも」
 促されて席についたベルは珍しく酒を頼んだ。少しずつ店内の喧騒がいつもの状態に戻ってゆくのを感じながら、小さな杯に満たされた酒をゆっくりと干して ゆく。ようやく半分ほどが空いたところで、ロウはぽつりと口を開いた。
「まだ探してるんだろ。見つかったら、どうするつもりだ?」
「……さあ」
 ベルはふわりと遠くを見つめるように目を伏せ、瞬きの後に笑った。
「見つかった時に考えるわ」


「正気か?」
「うわっ!」
 ぽんと肩を叩かれた瞬間、バードは椅子から跳びあがった。
「ろ、ロウさん、驚かせないでくださいよ!」
「さっきから何度も声をかけたんだがな。客はもうすっかり帰ったぞ」
「え?」
 言われて初めて人影の消えた店内に気づき、彼は呆然とした。全く気づいていなかった。
「まあ、ベルと歌ったんだ、仕方ないって言えば仕方ないんだろうが」
 苦笑し、どこか憐れむような口調になって、再びその肩を叩いた。
「わかってるかどうかわからんから、注意しておくぞ。彼女の伴侶はたった一人、今でも、死んじまった小鳥だけだからな、惚れたりするなよ」
「え、ぇえっ!?」
「あんたと同じ吟遊詩人で、『失われた大陸』に行ってみたいなんて言ってるところまで同じだ。この店は元々、彼がベルと歌うために作った店だ」
「じゃあもしかして、あのピアノ……」
 赤みの引かない顔に手を当てながら、バードはふり向いた。小舞台の端には小型のピアノがあったが、弾けるかどうかを一度も聞かれなかった。伴侶の形見な らばそれも当然。
「ああ、彼のだ。死者の国に直行したくなかったら、あれには絶対に触るなよ。ベルは、歌はあの通り素晴らしいが楽器の演奏はまるっきりで。彼が弾くピアノ で二人歌ってる時は、本当に幸せそうだった」
 それはもうずっと遠くなってしまった記憶の風景。小鳥が死んで以来、ピアノの蓋は閉ざされたままだ。
「あの通りの美人だから口説いてくる男は絶えないらしいけど、なびく気配も見せない。あんたみたいな吟遊詩人なら尚のこと惚れる気持ちもわからなくはない が、彼女にとって最良の演奏は今も彼の歌らしい」
 だから店に吟遊詩人を長く置こうとせず、自分でもめったに歌わない。歌う気になれない。彼女を歌わせていたのは、彼だったからだ。
「その人は何故、亡くなったんですか?」
「船が転覆した。本気で『失われた大陸』を探しに出たんだ。外洋での事故だったからな、遺体があがったことの方がびっくりだ」
 ため息をついてロウは呟くように言う。
「あれからずっと、彼女は待ってる」
「旦那さんを?」
「旦那が、彼女のために作ってたはずの歌を」
 彼が最後の旅に出た日に、帰ってきたら聞かせると約束していった歌があった。だが彼は存在するかすら定かでない場所を求めて船を出し、海に沈んだ。彼は 戻ってきたけれど、その唇が歌を紡ぐことは二度とない。
 それでも彼女は待っている。約束が果たされる日を、今も。
「形あるものじゃないから、逆にやっかいなんだろうなあ」
 日の出前の店の中はやけに寒々しくて、ロウの声は行き場なく空に解けて消えた。




 《 4 》


 その夜も、食事の注文が一段落した頃に彼は定位置につき、調弦をすませると真っ先に『天地に捧げる詩』を奏でた。
 三夜目ともなれば客たちも心得たもので、その間に座席の間を行き交う双子たちに飲み物を頼むのと併せて、聞きたい曲の名を言付ける。途中、どうしても先 に聞きたいからと直接声をかけられることを除けば、後はバード自身の裁量で切れ目もなく次々に歌われてゆくのだ。
 歌が始まったところで客たちが一斉に会話を止めるわけではないが、それは歌声を邪魔するものではなく、返ってそのざわめきが歌の世界に溶けて海鳴りにな り、森を渡る風になり、恋人たちを囃したてる人々の声になった。
 昨夜、ベルが歌ったことが伝わっているのだろう、夜が更けるに従って客の数が増えてゆく。今は滅多に人前で歌うことをしない女主人の歌声に、惚れこんで いる客は多いのだという。連夜歌うことはないと知りつつ、もしかしてと顔を出さずにはいられないらしい。あちらこちらから『サリエステラの請い歌』をとい う声が上がるのは、そのためだろう。
「おかげで商売繁盛です!」
と満面の笑みで言ったのはフギンだったか、ムニンの方だったのか。正直、ベルの歌を期待する客たちの前で演奏しなければならないバードには、かなり荷が重 く感じられる事態だが、歌いだしてしまえばそんな重圧もすっかり忘れた。
 そのまま歌うことに没頭していたから、彼は一瞬沸き上がったどよめきに気づかなかった。
「おいっ、てめえだよっ!!」
「うわっ!?」
 いきなり髪の毛を鷲掴みにされ、叫びながら手の持ち主を見上げたバードは、どう考えても泥酔状態にある大男の姿に、顔を顰めた。
「いきなり何ですか、あんた!?」
「うるせえっ! てめえ、いい気になってんじゃねえぞ!」
「だから、いったい何事だって言うんですか!!」
 顔を真っ赤にした男は説明らしい説明などしようともせず、バードが言い返した途端にあっさり逆上した。
「やめ……な……ぅぐっ?」
 胸倉を掴みあげられ、吊られ、揺さぶられ、息が詰まった。叫ぼうとしても声が出せない。商売道具なのにと朦朧とした意識の底で抗議するが、どうなるもの でもない。それでもこのまま窒息させられるわけにはいかず、辺りかまわず蹴りつけていると唐突に呼吸が楽になった。崩れ落ちるバードの周囲に何人かの客が 集まり、大男を三人がかりで押さえつけていた。
「災難だったな、詩人さん。あいつ、ベルさんに惚れてて、つい五日前にも十回目の求婚を断られたとこなんだ」
「誰だよ、昨日のことをコイツに教えたのは。迷惑な」
「喉は大丈夫かい?」
 咳きこみながらもバードは大丈夫ですと答え、心からの感謝の気持ちでお礼を言った。と同時に、大事な竪琴を探す。逆恨みなんかが原因で踏み壊されでもし たら一大事だ。幸い、床に投げ出されはしたものの壊れたり弦が切れたりした様子は無い。ほっと安堵の息をついて身を伸ばした瞬間、うわあっと複数の人間の 叫び声が響き。
 押さえつけていた人間をふりほどいて高々と椅子を掲げた大男が、バードに向けてそれを全力で投げつけようとしている姿が、真正面に見えた。
 血の気が失せた。
 咄嗟に前に転がった彼をとり逃した椅子は、その背後にあったピアノに勢いよく叩きつけられ、ばきっと激しい破壊音とともに外板が割れた。一層興奮した男 は雄叫びをあげながら別の椅子を掴んで再び彼に殴りかかったが、酔っ払いの悲しさから狙いは定まらず、鈍い音をさせながら周囲を破壊してゆく。間一髪、心 臓が止まる思いで逃げていたバードの足が段差を踏み外し、もうこれまでかと思われた、その時。
「う、わっ! なんだおいなっ、なぁぁぁぁぁ!?」
 何かやわらかい曲線を持った細長い物が、男に絡みその大きな身体をがっちりと拘束していた。暴れる手足を逃がさぬように何本もの細い縄状のものが男の全 身に幾重にも巻きついている。よくよく見れば葉がついていて、こんなに激しく動くことを考えなければ、見た目は全く蔓のようだ。
 どこから現れたのかと視線で辿った先には、壊れたピアノがあった。
 簡単に壊れるような物ではないのに、酔っ払いの馬鹿力で破壊され内部の構造が露わになってしまっている。その、本来は鋼線が張られているべき場所から、 次から次へと蔓は伸びた。
 それらはまた、伸びているだけではなかった。伸び、ぶつかりあい、絡みつき、空を切るその度に、音をたてた。植物の蔓では発しようもない、硬質な音。
 鋼線を弾くような、音だ。今はただでたらめにかき鳴らされているようなものか。一台のピアノで数曲を一度に演奏したり、曲のお終いから極端な緩急と省略 をくり返したりすれば、こんな風に聞こえるだろうか。
 瞬く間に蔓の数は増え、店内いっぱいに伸び広がってゆく。大暴れした酔っ払いだけでなく、そこに居合わせ逃げ損ねた客の何人かも、見る間に動けぬように なってゆく。
 悲鳴と怒声と蔓の音。秩序の欠けた騒音の真っ只中、どうしてそれが聞こえたのか、バードは後から不思議に思ったものだ。
 とにかく顔を上げた先にロウがいて、ピアノから伸びた蔓といつの間にか抱えこんでいた竪琴を指差して、叫んでいたのだ。
「ピアノの音を竪琴で拾え! 旋律が混ざってる!」
 すぐにはわからなかった。多分、中にいたから却って聞きとれなかったのだろう。けれど意識して耳を傾ければ、彼は吟遊詩人を名乗る人間だ、騒音の中から 曲の欠片を拾い上げることができる。
 右手の指がまず一番太い弦を弾き、その響きが消えぬうちに蔓がかき鳴らしている歌を拾った。
 そうだ、拾い上げられたのは歌曲だった。一音一音を長くとった旋律はピアノの音、そして何故かそれに唱和する男声の歌が聞きとれる。騒音を丁寧に取り除 いて、やがて彼は見つけた。
 歌を。

 小鳥は歌う
 君の名を
 紅匂う
 花にかえ
 永久までも
 永久までも


 彼が竪琴で旋律を奏でると蔓の動きがゆるんだ。旋律に歌をのせるとその動きは止まった。
 そして彼の背後からベルの声が歌い始めるや、蔓は抱え込んでいた獲物を手放し、滑らかにピアノの置かれた場所まで退いた。最初から約束されていたかのよ うに、ピアノと壁を覆いつくすように、絡み合って。
 ベルの歌声の余韻が静かに消えた時には、壁一面に大きな花弁を持つ花の浮き彫りが咲き乱れていた。


 店内は滅茶苦茶だった。机も椅子もひっくりかえり、男たちが数人、気を失って床に倒れている。
 だがそんなことは委細かまわず、ベルは様変わりした壁に両手で触れた。磨き上げた木の表面に似た滑らかな感触だった。
「……あの人の歌が聞こえたわ。何故?」
「彼の声を、記憶してたからだ」
 やれやれと頭をかきながらロウはピアノの残骸に近づいた。小石のような物を数個拾い上げる。
「ピアノの弦の何本かに、『鳴蔓』って幻獣を使ってあったんだ。ほとんど植物だが鋼線と同じような音を奏で、音を食い、時に音を蓄えることもある」
「知らなかった」
「人里で長く生きるものじゃないんだが、オレに用意させたこの響柱石で維持していたんだな。本当は彼が、この仕掛けを動かすはずだったんだろう」
 あの旅から帰った彼自身が聞かせるつもりだった歌、彼女が、ベルがずっと待っていた歌は、ずっとここにあった。彼女の傍らで眠っていた。
 花に額を押し当てて、ベルは笑った。それから囁くように小さな声で、おかえりなさい、と。
「ねえ。私は、良き止まり木であれたのかしら?」
「彼にとってあんた以上のとまり木は見つけられなかっただろうよ。たとえ《失われた大陸》でだってな」
「そうでなければ、あんな歌を残せないですよ」
 混乱からようやく立ち直ったのか、床にしゃがみこんだままバードも言った。ため息をついて、そっと目を閉じる。今見た夢を忘れまいとするかのように。
「あんなに、美しい歌」
 やさしく抱きしめられた彼の竪琴が、肯くように弦を震わせた。


 後片づけには一晩中かかった。
 泥酔して暴れまわった男は迷惑極まりなかったけれど、彼が暴れなければ歌は見つからなかったかもしれないから、責めるのはほどほどにしておくのとベルは 笑った。だがとりあえず、店への出入りは当面禁止だ。今夜居合わせた人たちなら、流石に止めてくれるだろう。
 朝日が昇る様を眺めながらベルは、もう待つ必要が無くなったから、いずれ店は誰かに譲ることにするわと明るい表情で告げた。今日明日の話ではないけれ ど、彼女の決意はきっと変わらない。それまでは、彼の残した花の前で小鳥の歌を歌うだろう。
 次に顔を出す時に、まだ彼女はいるだろうか、もう旅に出ているだろうか。
 睡魔に負け、後片づけを放棄して店の隅に転がり眠っている吟遊詩人を見下ろし、ロウは大きなあくびをした。なかなか面白い拾い物だった。
 彼が起きたら挨拶をして次の街に出かけることに決め、ぐいっと大きく背伸びをした。




《了》




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