紅 奇 談




 座席に荷物を置くや否や列車はガタンと大きくゆれ、ゆっくりと走りだした。
 一瞬動きを掴みきれずにバランスを崩し、みっともなくも転びかけたものの、かろうじて踏み止まると僕はまわりを見まわした。この車両には、僕一人しか乗客はいなかった。改めて僕は色褪せた緑色の布が張られた四人掛けの座席に腰を下ろした。
 窓の外は細かい雨に濡れ、ささやかな市街にも人影はまばらだ。五分とたたずに、まだ緑色の鮮やかな稲穂の連なりが視界いっぱいに広がり、霞んだような景色に人の姿はさらに少なくなった。雨音は聞こえない。規則的な列車の震動と、僕自身の呼吸の音だけががらんとした車両の沈黙に響いていた。
 ふと、無意識のうちに手帳と短い鉛筆を手にしていたことに気がついた。苦々しい気持ちでそれらを焦げ茶色の旅行鞄に突っ込む。と、何かノートの角のようなものが手に触れた。
 『落日』
 その小冊子、三十頁余の小冊子を見つけ、僕はひどく当惑した。持ってくるつもりなどなかった。入れたはずがなかった。全て処分したのだから。なぜ、こんな物が鞄に入っているのか。
 頁の間から長方形の紙切れがはらりと落ちた。夕陽と紅葉を描いた水彩の、手描きの栞だ。
 『落日の赤をすいこみ、紅葉はいよいよ赤くなった。      萌黄 』
 裏にはそんな言葉が、あまり上手くはない字で書いてある。破り捨ててしまいたい衝動をおさえて、僕は栞と小冊子を鞄にもどした。
 萌黄というのは僕のもう一つの名前だった。
 『落日の赤をすいこみ……』
 僕は、その名から逃げてきた。



 ガタンッ。
 列車は発車する度に音を立てて大きくゆれ、その度に僕は転寝から覚めた。短い夢の多くは、目覚めると同時に指の間から水がこぼれ落ちるように記憶にとどまらなかった。
 車内には、乗った時からずっと僕一人であった。平日だからだろうか。田舎の各駅停車では、このような閑散とした車両というのもありがちなのだろうか。今の僕にとってありがたいことではあるけれど、奇妙なほどの空きようだった。
 窓の外ではまだ雨が降っている。緑色の水田のむこうに青色の山々が雪冠をいただいて静まりかえっているのだろうが、雲は暗く低く垂れ込めて風景を閉ざし、淀んだようにまるで動かない。
 陰鬱とも言える景色に、僕は見とれていた。
 雨の日はもとから嫌いではない。雨の休日には、庭先の木の梢に落ちる雨を終日見ていることも珍しくない。開け放った窓から入り込む濡れた匂い、雨や湿った草木の放つ微かな香り、水気を帯びて生き生きと光る草や木の葉、雨が屋根を打つ音、水滴の水溜りにしたたり落ちる音、朝も昼も暮方もほとんど変わらぬ薄ぼんやりとした陽光。僕は一言も口にすることなく窓際に蹲る。
 列車は単調なリズムを刻みながら変化に乏しい風景の中を進んでいる。その単調さにつられたかのように、僕はとろりと眠気を覚えた。
 細く開けた窓から、雨と濡れた緑の匂いが吹きこんでくる。胸いっぱいに吸い、僕はまた眠りの中に滑り落ちていた。



 目覚めてからも、今しがたの夢の香が残っているように感じられたのは、窓を開けていたせいだろうか。
 雨が、夢の中でもやわらかにまとわりつく雨が降っていた。耳障りに甲高い鳥の声が聞こえ、姿は見えなかった
 僕は傘も持たずに歩いていた。
 やわらかい草に膝まで隠れ、裸足の指の間で、ほんのり温かい土がじとりと盛りあがった。
 行く先は知らなかったけれど、足元から生まれた小道がここを進むようにと目の前に現れて、僕は導かれるままに歩いていた。
 見渡す限りの草原、濃淡の差の乏しい緑が目の届く限り広がっていた。細かな雨は世界を包みこむように降っていた。時折、姿を現さぬ鳥が甲高く鳴いた。
 道はどこまでも続いていた。どこか追われる気分に駆られつつ、僕は道なりに歩いていた。歩いて歩いて歩いて…
 躓いたわけではなかったが、唐突に力が抜けて、がくりと膝をついた。ずぶり、ぬかるんだ土に思ったより深く埋まった。立ち上がろうとすると、足の先からさらに深く沈みこんでしまった。
 僕は空を仰ぎ見た。這いずるように暗雲が頭上低く迫り、それは濃い灰色をしていた。
 押しつぶされんばかりの圧迫感に両手を上げたとき、空からひらりひらりと舞い降りてくる色彩が目に飛び込んだ。
 それは美しく赤く染まった一葉の紅葉。  血の滴のように、それは僕の手に触れ、肌にまとわりつくようにすべり落ちて、地に溶けた。
 一瞬、厚い雲が切れた。暮方の赤味を帯びた陽光が僕の上をちらりと通り過ぎる頃、僕もまた幾層にも降り積もった紅葉に埋もれ、草原に溶けさってしまっていた。



 カタンカタァン、カタンカタァン、……
 転寝の隙間に、いつか夜が訪れていた。雨はまだ降り続いている。
 鞄につっこんできたパンで夕食をすませ、視線はまた窓の外に向かう。
 日が落ちた車外は外灯も稀で遠く、窓に砕ける雨粒くらいしかはっきり見えるものはなかった。硝子は妙に薄明るい車内の様子と自分の姿を映す。無精してのばしたままの前髪で、まともに目が見えていない。それだけだ。
 カララ…
 この車両に乗って初めて、扉の開く音がした。つられて転じた視線の先、窓硝子に人影が映って見えた。
 ぬばたまのように黒く長い髪、日にあたったことなどないかと思える血管の透けて見える白い肌、美しい艶ある真紅の唇の、女性。
 驚愕は緩慢に胸にしみた。
 硝子に映る彼女を、僕はただ目が乾くほどに凝視していた。声は出なかった。一言も出せなかった。彼女は少しも不安定な様子はなく、手を体の前に組んだまま車両の入り口近くに立っていた。目にとまるのは真紅の唇、まるで染まりきった紅葉のような、深い…。
 いったいどれくらいの間そうしていたのか。僕はぎこちなく頭を動かし、戸口に直接目を向けた。
 カタンカタァン、カタンカタァン、……
 そこには人影などなかった。
 閉まっておらぬ扉が、列車の動きに応じて揺らぐばかり。



 「萌黄さんですか?」
 それが出会いだった。彼女は『萌黄』の書いた『落日』が好きだと言った。
 美人だなぁ、とごく単純に思ったものだ。ただ、後になって改めて思い出そうとするといつも、彼女の姿は部分でしか浮かんでこなかったのが不思議であった。黒髪と白い肌と真紅の唇。
 それ以来、僕はしばしば彼女と一緒に空いた時間をすごすこととなった。いかにもぱっとしない僕などといると特に、彼女は鮮やかに人の目をひきつけたけれど、やはり後になって友人などに聞いたところ、彼等も皆な僕と同じような印象を受けていたことを、教えてくれた。
 とりわけ奇妙であったのは、友人の一人に絵の巧いのがいたのだが、彼女がいないときに描いた似顔絵が赤と黒と白の、目の描かれていない、それでもひたすら美しい人であったことだ。
 どうして目が記憶に残らなかったのだろうか。僕は、常に彼女の視線を感じ続けていたのに。
 それにしても、いったいいつからだっただろう、僕は少しずつ、そうほんの少しずつ彼女のことを嫌うようになっていた。彼女はその姿から受ける印象よりはるかに内気で、奥ゆかしく、口数少ない人であった。かといってそのだんまりが、居心地悪さを与えるというのではない。もともと他人と長く過ごすのが苦手な僕でさえ、一緒に居て気持ちのいい女性だったと思える。嫌う理由などなかった。
 だからおそらくそれは彼女がいつも僕を『萌黄』としか見なかったからであったと思う。幾度僕が教えても、頼んでも、彼女は決して僕の本名を使おうとはしなかった。頑なに筆名である『萌黄』の名でしか僕を呼ばなかった。
 出会ったばかりの頃はさほど気になりはしなかった。いや、かえって嬉しくさえ感じていた。僕の拙い作品を気に入ってくれた証のように思われたからだ。だが次第に親しく付き合い、長い時間をともに過ごすうちに、ざらざらと手触りの悪い何かに肌をこすられるような違和感を覚えるようになっていた。
 たぶん、僕は怖かったのだ。彼女が僕を『萌黄』と呼ぶたびに、それまで僕として在ったものが、消え失せてゆくような気がした。僕が僕でなくなっていくように思われた。そう、あの赤い唇で呼ばれ微笑みかけられるたびに。他の誰にその名を呼ばれても、そんなふうに思われたことはなかった。ただ彼女の澄んだ高い声だけが力を持って、僕を不安で居心地悪く感じさせた。
 だから彼女の急な死を聞かされたその日、僕は胸の奥ではっきり喜んでいた。もし彼女があんなふうに死んだと知らなければ、そのまま彼女のことなどたやすく忘れていたに違いない。



 カタンカタァン、カタンカタァン、……
 冷えた窓硝子の向こう側には夜が広がっている。霧のような雨が降り続いている。
 彼女が死んだ日も、同じような雨であったと思う。あの日、僕たちは激しい喧嘩のはてに別れたのだ。彼女が死んだのはその直後であったらしい。いつもと違う道を帰ってゆく途中で。まだ、青々と若い葉を繁らせた紅葉の木の下で。
 女の血で赤く塗り上げられた、まだ青い紅葉の葉を、夕陽がさらに赤く染めあげる。恋人が、傍らに茫然と立ちつくす。そんな場面が僕の『落日』にはあった。
 彼女はまさにその通りに死んだ。自分の血で紅葉を赤く塗り潰し。青々と繁った木の下で。
 なぜ彼女は死んだのか。殺されたのか。通り一遍の事情聴取の後、どういうわけか事情はまるでわからぬままだった。誰も、何も、知らなかった。噂にさえならなかった。こそこそと何事か囁かれているのに、それは決して表に出ることなく、説明されることもない。
 友人たちは、腫れ物を扱うように僕と接した。そのためにかえって彼女の死はいつまでも僕の傍らにあった。僕は、忘れたいのに、忘れさせてくれない環境にいい加減うんざりしていた。どうかすると笑い出したいような気分になった。泣き出したい気分になった。彼女はとっくに死んでいる。なのにまだ僕を苦しめる。

 先刻、窓硝子に映った、あれのように。

 なんにしても、この列車はおかしい。
 今になって僕ははっきりとそう思う。僕が乗り込んで以来、誰も入ってこなかっただけでも考えるまでもなくおかしかったのだが、彼女が姿を見せてからは、この列車は一度も止まっていない。
 変だ。
 窓の外はあいかわらず真っ暗で、明かりの灯された車内からでは何も見えない。これは、夜の暗さだろうか。本当にそうだろうか。
 細かい霧雨が、窓を叩いている。それだけだ。他には何も見えない。ここはどこなのか、一体ここはどこなんだろうか。
 焦燥にかられて立ち上がると同時に、足元が一際大きく揺れた。瞬く間に列車の速度が落ちてゆく。窓の外は、塗りつぶしたように暗い。駅の在り処を知らせる光の一つもない。
 アナウンスも無かった。そう、僕が聞き落としたのではない。乗り込んでから僕は一度もアナウンスの声を聞いていない。これはどういうことだ。
 いったい、この列車は何なんだ。
 ガ・タ・タ・タン、ガ・タ・タ・・・タ・ン、………
 列車の速度が落ちる、落ちてゆく。
 窓の外は闇だ。彼女の髪のように真っ黒に光を呑みこむ、闇だ。雨が…
 カララ…
 車両の扉が開いた。
 彼女が、立っていた。
 おそろしく印象的で、あくまでも不明確なまま、彼女はそこに立っていた。そう、立っているだけ。
 足が震えた。彼女がそこにいるだけで、僕は僕でなくなってゆく。僕はもう『萌黄』ではないのに。その名前は捨ててきたのに。
 大きく息を吸い込んで僕は駆け出した。車両から車両へと、誰もいない、限りなく連なる幾つもの車両を、僕は走り抜けていった。
 果てがない。幾つの車両を駆け抜けても、新しい車両が扉の向こうに在る。
 そして、彼女が、いる。
 幾つの車両を駆け抜けても、彼女は、後ろの扉の前に立っていた。ただ、立っていた。
 逃げられない。僕は、決して、逃げられない。
 ガ・タ・タ・タ・・・ン、ガ・タ・タ・・・タ・・・ン・・・
 彼女が微笑した。紅葉のような、美しい赤色の唇。
 僕の絶叫は声にならなかった。足が、少しずつ重くなり、僕はもう、走れなかった。歩くことさえできなくなり、膝をつき、手をつき、体をひきずり、まるで鍋牛のようにのろのろと、それでも這いずり進もうとした。
 それでも、進めなかった。
 列車は速度を落とし、ブレーキの甲高い音が、耳障りに響く。
 彼女の声が聞こえた。
 紅葉の色をした唇に微笑を浮かべて、彼女は僕を呼んだ。

 『萌黄』

 僕は、逃げられなかった。



《終》




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