水辺に見ゆる








 しゃらしゃらと、細い音が聞こえる。

 水の音は細く、途切れることもなく、眠りそこねた私は寝返りをうち、幾度目かのため息をついた。そんなにも大きな音ではない。ただ、一度耳についたと思うといつまでも離れようとせず、眠りをさまたげた。
 階下で、時計が鐘をひとつ鳴らした。二つか三つ音色の異なるものをまとめて鳴らしたかのような、不安定な響きが消えてゆくのを確かめながら、私は身体を起こした。
 眠れなかった。それならいっそと、中途半端な姿勢で窓を開けると、風が吹き込み、水音が少し大きくなった。とはいえ、どこか硬質な細かく砕けた硝子か氷ででもあるかのような音色に変わりはなく、しゃらしゃらと細い。
 宿のすぐ裏手に湖がある。とても大きいというわけではないが、そこから流れ出ているらしい。着いたばかりなのでまだ直接には見ていないのだが、さして大きな流れではなさそうである。ただ、宿のすぐ近くを流れているようで、水音は聞こえた。
 気が付いたのは、夜になって部屋に入ってからである。いつともなしに、ひとりきりの部屋に響いていたのだ。
 宿の客は今日も明日以降もしばらくは私だけだそうだ。別に意外ではない。
 八月の末から九月にかかるこの時期は、通常の勤め人の休暇の時期からは外れている。休みなのは大学生くらいだろうが、周りに湖ぐらいしかない、ちょっとした店まで行くのに自転車でも十分以上かかる、こんな場所ではさすがにそう数を見ない。
 ひとりでぼんやりしたいと思ったのだ。移動時間も含めてではあるが、七日間の休みがとれた。希望通りに人も少ない、よい環境が手に入った。
 環境が良すぎたのだろうか。あまり静かで、水の音が耳から離れず、眠れない。かといって今は明かりをつけて本を読もうという気分でもない。
 ゆるやかな風はひんやりと冷えている。日中はそれでも暑かったのだが、水の上をわたって吹く風は、街中のアスファルトの熱を含むのとは段違いの涼しさで、日が暮れると肌寒いほどであった。先日までのアパートでの寝苦しさが嘘のような、それも眠れぬ原因なのかもしれない。
 窓の外は暗い。湖に向いているはずなのだが、何も見えない。
 庭や門柱の灯は十一時には消された。街灯も離れた道にぽつりと、私の泊まる部屋からは見えぬ所で点滅しているばかり。視界にはひとつの光も無い。
 都市や住宅地では、常に光があふれている。ここは正反対だ。闇が濃いまま、とても静かで、とても暗い。
 しゃらしゃらと水の音が響いている。細く、けれど、はっきりと。
 私は、壁にもたれかかったまま、長い間、耳を澄ましていた。


「水の音ですか?」
 宿の主人は首をかしげた。見たところ、四十を越えてはいないようである。脱サラして数年目、といったところだろうか。それがいぶかしげに眉をひそめた。
「聞き慣れないせいか、耳についてしまって、なかなか眠れませんでしたよ。静かですね、この辺りは、本当に」
 そう言って、私は熱い味噌汁をすすった。久しぶりにまともに朝食をとっているという気がする。
 そんな、変な感動に気をとられていた私に、主人は茄子の漬物の小鉢を出しながら、
「いえ、このところ毎日あんまり天気がいいものですから、流石にそこの湖も水位が下がっていて………あの流れも、ほとんど涸れていたように思ったのですが。そんなに、水の音がしていましたか?」
「さほどうるさいわけではないんですが、それなりに大きな音でしたよ。やっぱり耳慣れないものだから、気になったんでしょう」
「でしょうか」
「この辺りも、雨が降りませんか」
「ええ、まあ水不足ということはないでしょうが、流石にそろそろひと雨欲しいですね」
 食堂の大きな窓から、まばらな木立ごしに湖が見えた。水面は陽射しをうけて眩しげに青く、空には雲ひとつ見えなかった。今日も、雨の気配はない。
 食事を終えると、主人が一日の予定を尋ねてきた。ぼんやりと本でも読むかして、ごろごろするつもりだと言うと、興味があればボートも自転車もあるので自由に使ってくださいと言って、笑っていた。  よほど、運動不足にでも見えたのだろうか。
 その頃にはもう水音のことなど、すっかり頭から消え去っていた。


 持参した本の何冊目かを読み終えて、ふと湖を見たくなった。三日目の夜のことである。
 たぶん、午後にボートにのったせいだろう。ボートというか、カヌーというか。一人用のパドルを不器用に扱い、不器用なりに湖の真ん中あたりをふらついた。
 水飛抹もあたたかい。
 ぼんやりと手を休めていると、濡れた船腹が光をはじき、水中で半円を描いて、ゆれていた。顔を上げると、小島が緑濃く空に映え、絵葉書のように整った光景が広がっていた。
 ボートはたよりなくゆれた。膝から下はびしょ濡れになったが、気持ちがよかった。
 夜にまで乗ってみたいとは思わなかったが、湖を見たい気分になったのは、そのせいだったと思う。
 宿の建物から湖までは、木の道がついている。ふるい電信柱か枕木を使ったものだと思うが、おかげでつまづきもせずにすんなりと歩ける。
 道はゆるくカーブして木立の裏に入り、それからすぐに船着場になる。ボートを出入するための、ごく小さな桟橋になっていて、私もここからボートを出した。
 湖は、岸からしばらくはそれほど深くもなく、そのせいなのか、うるさいほどに蛙の声がする。一匹、二匹といった数ではない。部屋にいた時にはまるで気にならなかったというのに、今はそれより他の全ての音がかき消されて、まるでそれ以外の音ははじめから存在しなかったかのような気にさせられる。ゆるやかにそれは大きくなり、小さくなり、大きくなり。
 ぶるりと頭をひとふりし、まばたきした。やかましい。
 と、ふいに世界中に反響していたかのようなそれが、止んだ。しんと、底の見えぬ穴のように深い沈黙が、唐突に周囲に落ち。
 甲高い鳴声が湖の上に響いた。金属的な、妙に硬質な印象をあたえる声。
 蛙の声は止んだままである。沈黙が、広がる。そこに響きわたる鳥の声が、また。
 ほととぎす。
 鳴声は湖から聞こえた。小島のひとつからであろうかと目をやっていた私は、ふと、視線を移した。桟橋の端に。
 しゃらしゃらと細い音がした。その時まで、少しも耳に入らなかった流れる水の音が。
 たぷん、たぷりと波がよせて、かえして桟橋の柱に砕ける音もまた、やけに、はっきりと耳をうった。
 たぷん、たぷり。
 たぷん、たぷり。
 けれど、それよりもただ、私は見ていた。桟橋の端にある、白い人影を。
 白いワンピースを着た女性が、桟橋の端にしゃがみこみ、湖をのぞきこんでいる。
 つややかに、長くまっすぐな髪は黒い。その影になる、うつむいた頬は薄白く透いたようで、むきだしの細い腕と同じく、夜にくっきりとしていた。
 綺麗な人だった。
 流れる黒髪がかぶさった顔は表情どころではなく、目も鼻も口も、隠れている。わかるのは肌の白さ、滑らかな曲線で描かれた体つきばかりだというのに、その言葉は、一瞬に私を襲った。
 何故か、その印象におぼえがあった。


 雨が降っていた。
 一人で小学校から帰るところであった。先生に仕事を言い付けられでもしたのか、友人はみな帰ってしまった後で。
 人通りの少ない、住宅地のゆるく曲がった道の向こうから、やはり一人で歩いてくる人があった。なにげなくすれ違ったとき、その女性の頭はほんの少し見上げる位置にあった。
 おぼえずふり向いたときには、大きな傘にかくれた後ろ姿が見えなくなってゆくところだった。
 なんて綺麗な人だろうと、幼いながらに強く思った。


 たった一度、誰とも知れぬその人ほどに、綺麗だと、誰かに対して思ったことはなかったし、それからもない。考えるよりもはやい瞬間の認識が、そんなふうに襲ってくることも。
 今までは。
 桟橋にいたのは、そんな女性だった。
 たぷん、たぷり。
 波がよせて、かえす。彼女はじっと、湖をのぞきこんで、動かない。
 たぷん、たぷり。
 彼の音だけがくり返し、くり返す中また一声、ほととぎすが鳴いた。
 やがて。私はゆっくりと後退りをして、その場を去った。すいよせられたように視線は動かせぬまま、桟橋が木立に隠れてようやく、くるりと身をひるがえした。
 ぼんやりとした足どりは、宿の入り口で、止まった。
 庭の灯も、外壁の灯も、とうに消えている時間だった。
 しゃらしゃらと水の音が聞こえた。途切れることがなかった。


「この辺りで事故で死んだ人は、私の知るかぎりではいませんが」
 主人は、私が湖の深さに怯えたものと思ったらしい、安心させるように落ち着いた口調で告げられた。訂正もせずに部屋に戻ると、一日、外に出ることはしなかった。


 朝早くに外に出てみたのだ。
 湖からの流れは、涸れているも同然の状態であった。
 それはだが、見る前から分かっていたことのような気もした。


 それからは、二度と湖へは近づかなかった。
 木立にさえぎられた桟橋に目を向けることもしなかった。
 水音はふいに途切れ、もう聞こえることはなかった。
 私はぼんやりと、予定どおりの休暇を終えた。


 街に帰ると、忘れていた暑さが待ちかまえていた。過ぎる時間の慌ただしさや、人間の多さとあいまって、うんざりするような暑苦しさであったけれど、二日とたたずその忙しなさにすっかり慣れていた。
 軽い疲れをはりつかせて日が暮れれば、もう日常だった。


 一カ月ぶりに降った雨は、徐々に勢いを強くして、昼を過ぎる頃にはとうとうあちらこちらで、列車を止めた。夏中降らずにいた雨が、ひと息にまとめて吐き出されたような加減を知らぬ降り方に、仕事仲間の顔色も次第次第に悪くなる。
「今日中に帰れるかな…」
 交通手段ごとに、そんな呟きが聞こえてくる。私も他人事ではなかった。知らず知らず、窓の外に視線が向かってしまう。皆、くり返される同じような動作に苦笑いを向けあっていた。
 雨は止まなかった。
 私の利用している路線は、退社する頃にはとっくに不通になっていた。復旧の見込みはなく、幸いにと言ってよいのか代行バスは出たものの、三時間以上も待たされた後だった。たくさんの疲れた顔と一緒に乗りこんだバスは、湿気で気持ち悪くなりそうなうえに、ひどくゆれた。
 それでも、それ以上は何事もなく、普段利用している駅にたどり着いた。ここからは住宅地の真ん中を歩いていく。二十分もかからない。
 さすが、こんな大雨の夜遅くに出歩いている人影は無い。車もまばらで、歩いているのは自分ひとりのようである。
 考えてみれば、普段も帰りはそんなに早いわけではなく、人影なぞ見ることはあまりないのだが、何となく淋しい感じがするのは、雨があまりに激しいせいかもしれない。
 ため息がでた。それさえよく聞こえなかった。


 四つ辻は水浸しだった。
 もとから周囲より幾分低く、水の溜りやすい地形であったが、今日は水量も多く、排水も上手くいっていないらしい。高くなっている歩道の、すれすれまで水面がせまっている。
 たぷん、たぷり。
 波がよせて、かえす。波紋が、いくつもいくつも光を弾く。弾いてゆれ続ける。もうずっとそうしていたかのように。はじめからここが水に覆われていたように。よせて、かえして、たぷん、たぷりと。
 雨の音は、途切れることなく大きくなり、小さくなり、また大きくなり、ただ雨の音しかしないから、周囲はかえって静かだった。ただ雨の音だけが満ちていて、自分自身の呼吸の音さえ、ようやく耳にとどくかのよう。他のなにもかもが、全て、雨の音にとけて、水面の波紋にのみこまれ、こんな静かなことなど久しくなかったよう。
 けれどまた、それを否定する声がふと胸に湧いた。
 よせて、かえして。一心に降り続ける雨の静けさ。空気はひんやりとして、じっとりと濡れた感触があって、ゆるゆると肌を包み込んで。
 思い出す。ほんの数日前なのに、はるかに遠いことのよう。それでいて、今もあの時も同じ、私の他には誰の姿も見えない。波がよせて、かえす。たぷん、たぷりとゆれるだけ。
 たぷん、たぷり。たぷり。たぷり。
 傘が、いつのまにか手をはなれ、落ち、壊れた船のように水面を漂っているのが目に入った。波にゆられて、よせて、かえす。ゆっくりと流れよせられていくのが見えた。不安定なカヌーのようだ。
 こんな草も木も見えない、コンクリートの岸辺、こんな街の中で雨に降りこめられて、漂っていた雨傘は、カツリと、歩道の端にたどりついた。
「………あ…」
 白く細い手が暗闇から現れ、濃色の傘の柄をつかみあげる。
 夜よりも黒い髪がつやつやと、濡れていた。
 そうだ。
 こんな静かな水辺には、あの女がいたところで不思議ではないのだ。
 たぷん、たぷりと波がよせる。
 どこかで、しゃらしゃらと細い音がした。





《了》





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