朧 な る








「散歩?」
 頭の上方からふいに知らぬ声をかけられ慌てて振りかえれば、道路脇に延々とのびる高い塀の角になったその上に、少年が一人腰掛けて笑っていた。
 おそらくは十三、四ばかり。とっくに日付の変わった時間に外をふらついていい年齢ではない。
 私はいささかの狼狽をとっさに取り繕い、眉を顰めた。
「こんな時間に子どもが何をしている。さっさと家に帰りなさい」
 分別らしい言い方がおかしかったのだろうか、少年はすっと口の端をひいた。微笑みと呼ぶに違いないその表情、だが。
 背筋がそそけだった。
 どうしてなのだろう。子どもにすぎないではないか。しかしついさっきまでの幼くさえ見えていた彼が、するりと変貌したように感じられ、視線はつい路面を彷徨う。
 影が奇妙に濃い。
 都会の夜は明るく、暗い。住宅地でもそれは変わりない。規則的に並ぶ街灯が人気無い道々を白々と曝け出し、いつ訪れるか知れぬ客を待って自動販売機は商品を眩しく照らし続ける。就寝時間を過ぎた家の玄関では常夜灯がひっそり朝を待っている。
 だが街灯の真下に立てば、人工の光が切り離した夜を見通すことは難しい。立つ場所が明るければ一層、ただただ暗く閉ざされて見えぬ。
 ちょうど四辻の中央に立ち、四方の街灯から集まる光に足元から四方にのびる輪郭のくっきりとした影も、なおさらに闇を感じさせるもので。
「あなたこそ、何をしているの、こんな時間に、こんな場所で」
 足をぶらつかせながら、少年は問いかけてきた。幼児にでも尋ねるような口調に不快さを隠さぬまま答えずにいると、わからぬ人だな、と小さく呟き、
「ねえ。ボクは、ここにいる理由があるけれど、あなたにはそれがあるの? 無いのなら、早々に、自分の縄張りへ帰るのが、一番だよ」
「私のことなど関係ない、大人なんだから。さあ、君みたいな子どもが夜遊びなんかしてるんじゃない、危ないだろう」
「それって、あなたみたいな人がいるから?」
 ぎょっと頬が引き攣る。少年はおかしそうに小さく笑い、ぴんと指先まで伸ばした手のひらをほっそりとしたむき出しの首の前で水平に振った。
「何を言って…」
 私の言葉など待たず、彼は喉をのけぞらせて空を見上げた。
「きれいな月だね。満月だ。統計的に見ると、満月の夜には犯罪が多いんだって。知ってた?」
 その、まるで何かを見通しているかのような台詞、急激に鼓動は加速し、握りこんだ手のひらはじっとりと汗ばみ、無意識に握りこんだコートの胸元がぐしゃりと皺を作った。おかしな子どもの戯言をただ笑えばいいのだと、思いながらもそれができない。
 ふわりと少年は腕を持ち上げた。ゆったりした袖口が落ち、肘までむき出しになった腕は細く、白い。魚の腹のように。
「理由は別々でも、月光を不吉なものとして避ける風習や迷信が、昔から世界中にあるんだよ。不思議だと思わない? こんなにきれいなものが、どうして狂気と結びつけて語られるのか」
 天空に向かって差し伸べられた少年の指先が、はるか彼方にあるはずの月にむかってまるで戯れかかるかのようにひらひらとゆれ、その輪郭をそっと撫でる。その一瞬、細かな光片が月からこすり落とされたかのように散った。
 そんなことはあり得ぬ、見間違いだ。そう思おうとする私の心の内が見えているのだと言わんばかりに笑み、少年は指先に真っ赤な唇を寄せた。
「ねえ。一見ばかばかしいようなことでも、長く忌避されてたことには何か理由があるってこと、無いわけじゃないんだよ。知ってた?」
 唐突に、明かりが落ちた。周囲の街灯が、自動販売機が、門灯が、人工的に光を放つすべての物が力を失い、夜の暗闇にあらゆるものが飲み込まれた。
 けれど。
 少年は、そこに。はっきりとそこにいるのが見えた。いくら満月とはいえ、それはあまりにも…
「……ほら、時間だ。せっかく教えてあげたのに」
 その少年の言葉とともに、何故かすいっと指先が伸ばされて足元を見るよう促し、抗いようもなく誘われるまま目を向ければ。
 私の足元には、闇が。
 一度として目にしたことのない、あり得ようもないほどに濃密で深く暗く、そして艶やかな漆黒の暗闇が、凝り、息づいていた。
 それはひたりと私を見据え。
 にたり、と。
「あ〜あ。すっかり興奮しちゃってる。こんな時間に、こんな場所で、そんなふうに血の匂いなんかさせてるから」
 はっと見上げれば少年の身体は少しずつまとう光を強くして、月を背に、その輪郭は朧になり。
 足元から体内を貫きぬけていくように激しい風が猛々しく唸って吹き上げ。


 最期に目にしたのは、私を飲みこんだ何かを通して淡く朧なる、深淵の月。






《了》





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