月 下 鬼 譚








 私の友人は少しばかり変わっている。

 彼は、高校で同級になって以来、おそらく最も親しい友人であるが、本当に頭が良いのかと疑いたくなるほど、現実外の事柄をごく普通のことであるかのように扱ってみせる。他の友人たちはあっさりと変人と呼び、彼もあえて否定しない。しかし、私にはどうもそればかりとは思われない。実は近頃は彼の言う事がすべて本当の事ではないか、と密かに思っている。
 このように言うと私までも変人扱いされそうであるが、彼と行動するとなぜか変わったことにしばしば出会うのだ。よくあるのは花の狂い咲きで、他にも尾の二つに分かれた猫や紫色の犬、人の顔した三つ目鳥などに出くわしたこともある。ところが、聞いてみると他の友人たちにはそんな事は起こらぬらしい。
 友人・Kに尋ねると、君とは波長があうのだ、とさらりと言われてしまった。彼によれば、私にはKのもとからの資質を増幅する能力があるらしい。一人でいる分には大した事はないのだが、Kのように波長のあうものといるとそれを際限なく増幅させてしまうらしい。だから、Kのように怪異に会いやすい者と行動を共にする限り、怪異とは離れられないというわけである。


 さて、本題である。あれはもう冬と言ってもおかしくない、秋の終りのことだ。
 そんな時期ともなれば、大方の受験生は目の色が変わってきているものである。私も例外ではなく、毎晩机に向かっていた。
 もっとも、やる気と根気とは別物で。二時間もそうしていると集中力が失せてくるので、気晴らしにとある時散歩してみたのだが、ほとんど毎晩のことになり、 いつのまにか日課になってしまっていた。
 その夜も十二時を過ぎた頃に課題を残して家を出た。さすがに風寒く、眠気も忘れるような夜気に星々は冴え、月は綺麗な半円を描いて濃い青色の空に浮かんでいた。
 雑木林に沿ってのびる小道を行くと小さな公園がある。家から十分ばかりの距離なので、夜の散歩に適当でよく行っていたのだが、その夜は、前夜とは感じがまるで変わっていた。
 毎晩のように散歩していたせいか、知らず知らずのうちに見るともなく細かい所まで見ていたらしい。調子の悪い街灯の明りでも、公園の敷地を取り囲む生垣の薔薇の低木に、前夜までは気配も無かった小振りの赤い花がぽつりぽつり咲いているのは見逃さなかった。
 Kといると時期はずれの花に会うのは、まあさほど珍しくもないのだが、この散歩は私ひとりのことであったし、Kの家と私の家とはかなりの距離を挟んでいる。いくらなんでも彼の影響ではあるまい。かといって、彼のような者がそうそういるはずもない。
 気のせいだろう、と決め込んだちょうどその時である。公園に誰かがいることに気が付いた。
(まさか、Kが?)
 それこそまさかである。
 だいたい彼の頭の良さには定評があり、そもそも十二時過ぎまで根をつめて勉強する性質でもない。何キロも離れた公園まで散歩にくる必要はさらにないし、いくら変人と言われていようがそんなことはしない、と思う。
 もしかしたら私のように気分転換に散歩している受験生か誰かかと思い、だとしてもそれが知人である可能性は、そうではない可能性よりもかなり少ないであろうし、こんな時間に誰かと行き合わせるのも気まずいと言えばかなり気まずいので、結局そのまま公園には入らずに帰ることにした。
 ところが翌日。授業を終えて図書館へ行った時だったが、Kが小声で耳うちしてきたことに驚いた。
「真夜中の散歩はひかえたほうがいいよ」
 それまで、夜の散歩のことを彼に話したことは一度もなかった。別に話すようなことが無かったからだ。
(なんで知ってるんだ?)
(君とは波長があうって言っただろう)
 分かったような分からぬような返答である。
(じゃあ、散歩をひかえろっていうのは?)
 他の利用者を憚って紙に書いて渡すと、綺麗な字で返事がきた。そう言えば書道を長くやっていると言っていた。
(夜、それも真夜中というのは人間以外のものが出歩く時間なんだ、本当はね。特に今は変なものが出歩いているようだし。変なことがあったんじゃないか? なにしろ君は増幅機だ、危険なものと波長があったりしたら大変だよ。気を付けるにこしたことはない)
(変なものって、何だよ?)
 Kは少し考えると、紙の端に綺麗な字を書き込んだ。
(吸血鬼)
 私は目を丸くした。日本に吸血鬼なんて、あまりに似合わない。
 まさか、と言いかけて止めた。私を見る大きな目が思いもよらぬほど真剣であったからだ。彼の勘が良く当たることを、怪異と同じくらい知っていた。それに信じようと信じまいと、彼は私などよりずっと怪異に近しいのだ。
(十二時以降の、二時か三時頃が一番危ない。それにこれから満月に向かうから、そうなったら絶対によした方がいい。理由を言ったって君のことだから結局、話半分にしか聞かないんだろうけど、頼むから止めてくれないか)
 私はうなずいた。彼はほっと表情を緩め、まだ少し心配そうではあったけれど、いつものとらえどころのない様子に戻った。
 怪異には迂闊に近寄らないのが身のためだ、とKは言う。彼が本気で心配しているのはよくわかった。ならばそれは本当に危険なのだ。
 では何が怪異なのか。
 あの人影と、薔薇だ。季節はずれに咲いた、一輪ばかりではない薔薇の花だ。
 真っ赤な薔薇だ。

*         *         *


 自分でもバカだと思うが、Kとの約束を破ったのはよりによって満月の夜だった。一時をすぎる頃だったと思う。散歩がてらジュースを買いに出、ふらふら歩いているうちに例の公園に出ていた。
 まずいな、と思った。Kの真剣な顔を思い出したからでもあるが、道路ぞいの生垣の薔薇が目の前で次々に開き始めたせいでもあった。コマ落としで撮影したフィルムを見るように花が開き、香気が細い道にひたひたと漂う。
 足を早めて通り過ぎようとしたのは失敗だった。迷わず踵を返して逃げるべきであったのだ。が、その時には思いもよらず、私は怪異に真っ直ぐに突っ込んでしまっていた。
 あまりの花々。あまりの花の香。妖気と言っても納得しそうな、あまりに濃密な香気。『花気、人を襲う』という言葉が中国の詩にあるが、まさにそういった風情である。
 その香気滴り漂う小道に公園の出入口から人影が現れた。夜のように黒い服を着た、同い年くらいの背の高い男である。
 いや、初めはわからなかったのだ。人影は何気なく道の真ん中に立ち、私はあっさりと足止めされてしまった。道端の街灯は弱々しく点滅し、消えている間の方が長かった。光の円の端に立った人影は、灯のついているときでさえ黒々として様子がわからない。
 点滅。
 人影が、笑った。
(こいつだ)
 途端、私は確信した。Kが警告した吸血鬼はこいつなのだ。光と闇の狭間にあって、存在感と非存在感とが奇妙に混じりあったような不可解な印象が、私にそうと告げていた。もしかしたらKの言う、波長があうということなのかもしれない。そうとでも考えなければ、この薔薇の狂い咲きをどう説明しようか。
 吸血鬼のもたらした怪異がなぜ薔薇なのかは知らないが、植物などのほうが怪異に敏感なのかもしれない。まだ開き続けている。
 人影が近づき、ようやく顔かたちがはっきりとした。男性で、私と同じ年のようでありながら、息をすることさえ忘れるばかりの美貌が黒一色の装いの上に微笑していた。その一事だけでも怪異と言うに足る、驚くべき美貌である。肌はあまりに白く、唇はあまりに紅く、切れ長の目はあまりに深い黒で、見るほどに目を奪われる思いがする。
 一帯の香気は濃くなりまさり、吸血鬼はその花気を呼吸しているようである。身動きを忘れた私もまた同じく甘い香りを吸い込み、あまりの香しさに血の味をさえ感じた。紅のイメージがちらちらと視界に瞬き、ひとつの唇に吸い込まれる。
 周囲を薔薇にとりまかれ、夜の結晶のような存在に見据えられ、私はKの忠告を無にしてしまったことを深く悔やんでいた。
 また一歩、美貌の主が近づく。これほどに美しいものは女性にさえいない。いや、人間の中に比較し得るほどの美貌など存在しない。存在できる筈がない。間違ってもこの存在と人間とが同じ種に属しているとは考えられない。人間の亜種でもない、まったく別種の存在。血肉と見えるものさえ、形を借りた幻に過ぎぬのかもしれぬ。妖だけが持ち得る美しさだ。
 花などが色や匂いで虫を誘いよせるように、この妖は美しすぎる姿によって、人間を誘いよせるのだろう。人間にそれほどの美貌が存在していたなら、それはすでに人間ではありえまい。
 とうとう、彼は私を捕まえた。肩を捕える手は白く氷を刻んだようで、完璧な形をしていた。触れられた瞬間、紛れもない血の色が思考にはじけ眩暈をもたらした。血が同調していることがはっきりと感じられる。やはり波長があっていたのだ。私は彼の力を増幅し、バカらしいことに自分自身を捕まえる手助けをしている。
 薔薇の香はもはや堪え難いまでに濃密になり、手触りさえ感じさせて月下に漂っていた。私の能力が手を貸し、常ならぬ怪異を引き起こしているのだ。もし私がこのまま彼の支配下に置かれてしまったなら、この怪異は常にこの妖を利することになるのだろうか。人を獲物とする魔物を。
 しかし逃れる術は無かった。私自身にはそのための力がないのだ。あるのは他者の資質を増幅するという、自分のためには使えない上に、自分の意思で使うこともできない力だけ。しかも今はそれが不利に働いている始末である。
 かろうじて残っている意識の片隅で、せっかく忠告してくれたKに謝りながら、目の前に現れた白い牙が首につき刺さる瞬間を恐怖と、なぜかしら痺れてうっとりした心地よさ感覚で、私は待ちうけていた。
 ほとんど気を失ったような状態で、だから何故だかKが現れたことにも、私は気が付かなかったのだ。
 轟、と。
 突風が蜜飴のように濃い香気を、この時に咲いているはずのない薔薇の赤い花弁を荒々しく吹き飛ばしたかと思うや、後には禍々しい妖気ばかりが残された。こればかりは吹き飛ばしようのない敵意と混じりあい、魔物の負の面が鮮やかに描き出される。
 吸血鬼の腕の中でぐったりとしていた私を正気づかせたKの声は、耳よりも身体全体に響きわたり、一瞬の遅滞もなく私の力は逆流を始めた。
 空気が変わる。
 火傷でもしたかのように、吸血鬼は私の身体を投げ出した。確かに火花のようなものが見えたと思ったが、どこまでが実際に起こったことだったのか、いまひとつ自信がない。
 それでもはっきりと分かっていたのは、この魔物がもはや私を手にいれることができなくなったという事であった。自分の自由にならない力ではあったが、どちらに同調しているのかが分からぬはずはなかった。
 確かに、私の力は吸血鬼に同調した。しかしそれ以上にKと波長があっていたのだ。
 魔物の恨めしげに唸る声が聞こえた。私はすでに獲物ではなかった。Kの力を増幅する、武器に等しかった。それは私の力の支援を失った吸血鬼には致命的な力であった。
 全身が沸騰した湯のように熱くなり、視界が、眩暈を起こしたような勢いで点滅した。
 人間のものではありえない悲鳴が上がる。
 再び突風が吹いた。吸血鬼だけをめがけて。
 絶叫が、町中に沸き起こった遠吠えを伴って晴れ上がった夜空に消えると、私は道にへたりこんだまま、Kがあきれ顔で立っているのを茫然と見ていた。
「やっぱり言うことを聞かないんだから。しかもよりによって満月だよ、今夜は。僕だって受験生なのに、分かってるのかい?」
 夜は静まりかえり、私はひどく疲れていた。薔薇の花も芳香も、もうほんの少しも感じられない。大きく頷きながら、二度と真夜中に軽々しく出歩いたりはするまい、と遅すぎる決心をした。Kが信じたかどうかは定かでない。
 翌日。学校でKになぜ都合よく公園に来たのかと尋くと、例によってとらえどころの無い様子で、
「だから、以前から君とは波長があうって言っていただろう?」
と答えて笑うのだった。
 以後は自重して日中でさえその公園は避け、夜は当然出歩かず、吸血鬼とはかかわりあいにならぬままに受験をむかえた。幸い第一志望の大学に合格することができ、Kはといえば当然余裕で合格通知を受け取っていた。
 大学に進んでからもKとのつきあいは続いた。会うたびに怪異にも遭遇する。ひやりとすることも無いわけではない。けれどやはり波長があうのだろう、今でもよい友人同士である。
 先日も会う機会があった。あの日の事を唐突に思い出し、あの時の吸血鬼はどうなったものだろうと尋いてみた。
 彼は相変わらずのとらえどころのない様子で、
「ヨーロッパにでも、飛んで帰ったのではないかな」
と言って笑った。
 たぶん、Kを怖がって逃げたのだ、と思う。






《了》





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