酔 宵 桜 花








 花、ときたら酒だろう。


 今年の桜便りの、ごく近隣への到達を知ったのはテレビの開花情報という味気なさで。また、そうととり上げられてようやく会社までの行き帰り、途上にある花の存在が目に入る始末。
 毎日通っていたはずの道筋の、その傍らには意識してよくよく見ればこれが案外たくさん桜の木があって、それぞれ微妙に異なる趣ですでに艶を競っていた。
 もっとも、改めて桜に強い思い入れがあるのかと言われるとこれが、割と最近までまったく無かったというのが正直なところ。卒業式や入学式といったイベントが、桜の時期にはずいぶんと早すぎる東北の生まれ育ちの所為だろうか。大学入学以降は花見と言えばまず宴会の口実で、またいざ宴会となってしまえば、実際どこまで花を見ている者がいるものか。
 無粋なことではあるが、珍しくもない。そうしてごくごくありきたりに春を過ごしていたものだ。
 そうなると、では今はどうかとくるだろう。
 確かに。
 今は、少し違う。


 花の盛りを見計らい、適当な週末に酒瓶を手に一人、夜桜見物に出る。実はここ数年の恒例で、向かう桜も決まっている。
 道から人の背丈ほどの高さを下りることになる、幅は狭いがコンクリートで側溝のように固められることを幸いに逃れたその川の岸には、誰かが意図して植えたものかぽつりぽつりと、おおよそ三十メートルほどの間隔をおいて桜の木が並んでいる。桜以外の樹木も茂っているので、たとえ木ごとに宴を張っても互いの声や姿が邪魔になることがないのがいい。もっとも、大人数で宴を張るには狭いので、ここで花見をする集団を見たことがないのは幸い。
 俺の指定席はそれらのひとつ。老朽化し危険だと、通行禁止にされながらも何故かもう何年も取り壊されぬままにある小さな木製の橋の傍らに、寄り添うように枝を広げている、結構な大木の下だ。  着いてみれば、今年の花も見事だった。
 普段の陽の当たり加減のせいか地味のためか、他の樹よりも多少だが花に赤みが強い。かたまり咲くと濃淡に、ちょいと艶があっていいなと気に入っている。
 重たくゆらぐ花枝の真下、持参した敷布を広げて座り、やはり持参した気に入りの杯になみなみ酒を注いでまず一杯、花の礼に樹の根元へ。これも恒例。
 あとは自分の好きなように飲むだけだ。人気少ないこともあり、聞こえてくるのは傍らをゆくせせらぎ。川面を撫で、枝に戯れる風の声。程よく酔い転がれば真上に桜、時に散り落ちた花弁が酒に色を添えてくれる。
 忙しない時間がきれいに無になる。


「また来てる」
 澄んだ幼げな声が降ってきた。グラスハープのようなそれについと見上げれば、花に霞むさらに上からすぅと。
 ほっそりした手指が枝を掴んで。
「よう。おまえこそ、相変わらず」
 花弁をまとい音もなく、現れたのは中学生になるやならずといった年頃の少年だ。約束せずとも毎年顔を見せてくれるのは、そう言いながらも来訪を悪く思っていないからだろう。
 新しい杯を差し出せば躊躇なく受け取り、注いだ酒を一息で空けて満足そうに白い頬をゆるめた。
 幹に背中を預けるその姿は夜に仄か、羽織った着物は花の色に混じる。
「人に見られたら、警察に通報されるな、こりゃ」
「だろうね」
 細い喉に小さく笑いの気配、見えやしないよ、と。
 ああそうだ、見えはしない。俺もそれは知っている。


 そういえば。
 あの時は、花もそうだがむしろ枝振りのいいのを探していた。
 全然関係ない仕事のミスを押し付けられたり、多忙の極みで連絡が間遠になったとたん恋人に浮気されてさっさと捨てられたり。次の日も会社はあるってのに実家の親の愚痴に一晩中つきあわされた挙句、情が薄いだの冷たいだの散々に泣かれてみたり。他にもまあ、ひとつひとつは大したことでもなかったんだが、どうした具合かあれこれ一息に重なったものだから、もう。
 あてつけるとかそんなことでもなく、ただふっとなんだか色々すっかり面倒くさくなった。
 せっかくだから、気に入った景色の見える場所がいいと、そう決めた。
 決めたはいいが頃は春、桜が盛りとあってどこもかしこも喧しく、人のいない場所を探すのが難しい季節だったのは確かだ。鞄に丈夫な紐をつっこみ、花見を装ってふらふらどれほど歩いたか。
 ようやく見つけたのは、古びた木造の橋のたもと。余所よりも一刷けほど紅い桜の花にふらり、惹かれたものか誘われたものか足が向き。寄って見れば枝はがっしりと太く、ちょうどよさそうな位置にあった。
 淡々と、悲壮な覚悟も何も無く枝に紐をかけた、その時。
「やめてよね」
 ふっと仰向いて目を凝らす。樹のはるか上の枝、小柄な人影が満開の花にまぎれるように居た。
 次の瞬間には目の前の、今、紐をかけたばかりの枝に。
「この時期、なかなか寝つかないのをようやく宥めてるんだから。吊るんなら別のところでしてくれる?」
「…おまえ、ナニ?」
「あれ?」
 何がおかしかったのだろうか、まじまじと俺に顔を寄せた少年は唇の端をつっと歪めて枝から下りた。
「視えてるんだ、ちゃんと、もしかして。…へぇ?」
 改めて見上げられ、わけのわからぬ言葉に目を細めた。
 姿勢よく立つ姿は一見子どものようで、そうではなく。桜色の衣を羽織り、黄金色の瞳は月のよう。整いすぎた容貌にみあう紅い色は誘惑だ、…常ならぬ仄昏い場所への誘惑。
 似ているな、と思った言葉がつい口をついた。
「おまえ、桜?」
「…似たようなものかな?」
 ふわり微笑むや否や、足元が不安定にざわついた。うっかり目をやったそこでうぞうぞと身を捩りあわせるように暗いモノが集まり、形を成そうともがいている様が見え。
 そして気づいた。この暗いモノの中に立ってなお暗く眩しいこの少年の。
 底なしの闇に。
 俺の目に走ったそれらの想念を読んだのだろうか、少年は微かに笑い声をもらし。
「まあ、ほどほどにね」
 とんと胸を押された途端、薄紅色に吹き散らされた闇に包まれて思わず目を閉ざした。

 気がつけば夜は明けて一人、地べたに寝ている自分がいた。よくも風邪をひかなかったものだ。すべて夢かと疑ったことも、まあ愛嬌と片付けてさしつかえないだろう。
 陽の下に改めて目にしたそれは何かが褪せていて、ごくごく当たり前の桜でしかなかったのだし。


 結局のところ、彼と出会うこととなった経緯はどこかへ失せてしまい、再び思いつくこともなかった。おかしなものだ。
 ついでに、次の年からこの桜で花見をするようになった。盛りの頃に一度きり、少年も顔を見せる。見違える心配はなかった。
 初めて会った時からこの少年はいささかも変わらない。
 満開の花の樹の下に片膝抱え、杯を重ねて酔いもせず。
「いつになったら育つんだ?」
「必要な時にね」
「そんでまた縮むのか、もしかして」
 誰に邪魔されることもない、咲き誇り降りしきる花の下の酒宴。他には見出せたことのない色あいの花弁にとっぷり埋もれる心地で杯を重ねてゆけば、常には味わえない酔いにくらり、身をゆだねることも心安く。
「あなた、よく毎年来るよね。怖がらないの?」
 黄金色の視線とともに向けられた、呆れたふうでもある少年の問いに酒杯を掲げ、からからと俺は笑った。今さらだろう、いったい何を恐れろと。
 もう大分前から、俺にとって桜はすなわち彼で。


 どれほど禍々しかろうが、美しければそれでいい。






《了》





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