岩井蒼の不遇な週末






 《1》


「食べたいんですけど」
「……は?」


 繁華街の夜は、うっとうしいほどにぎやかだ。
 不況不況と騒がれながら、学生相手の店はそこそこに繁盛しているように見えるし、千鳥足で路上を移動する酔っ払いの数も多い。道の隅には露店に客引き、下手なギターで声高に歌い続けるストリートミュージシャン。夜も大分遅い時間だというのに、人の姿は引きも切らない。
 そんな人ごみの中をするすると、碧は極力足どりをゆるめぬように歩いていた。駆け足でも早足でもなく、けれどもナンパや客引きを寄せつけないきっぱりした雰囲気で。おかげで視線を奪われるものはいても、声をかけるものは一人もいない。
 程よい酔いにそこそこ気分よく歩いている碧自身に、興味を引くほどのものは特に目に入ってこない。だから家への道をたどる足どりがゆるむことはなかった。
 ふいに声をかけられたその時までは。
「あの、ちょっといいですか?」
「急いでるから、だめ」
「食べたいんですけど」
「……は?」
 いつの間に近づいて来たのかにさえ気づかなかったのがまず不本意だったが、そんな一言でついそちらを向いてしまったのはさらに不覚だった。
 足の長さに自信がなければ履けないような黒のスリムジーンズと、身体の線を強調したデザインの黒のカットソーを身につけた、背の高い青年がすぐ隣に立っていた。
 小柄と言えない身長である碧が見上げる位置にある顔は、まるで西洋美術館に飾られている彫像のように整っていた。普通ならば近寄り難さを感じさせるような顔立ちは、だがそこに浮かべた微笑みの月光めいたやわらかさのために、やけに人懐っこいものになっている。
 あえて歩みを止めない碧に苦情を言うでもなく、青年は速さをあわせて真横に並び、懲りずに声をかけてきた。
「すごくお腹すいてるんですよ」
「それって、ボクに全然関係ないけど」
「まあ、それはそうなんですけどね。わたしの事情がありまして」
 青年はにこっと微笑んだ。途端にこちらを窺い見ていたらしい周囲の女性たちから抑えた嬌声があがる。ちらりと視線を走らせれば、呆れたことに男性たちも同様だった。
 なんにしろ、ものすごく目を引く青年であることは確かだ。口にしてる台詞はナンパとさえ言えない、たかりのようなものなのだが。
 まったく、この整った顔がなければただの変な人とみて、まともに相手にする人間はいないことだろう。平均以上に顔がいいというのは、つくづくお得なことかもしれない。
 相手にしても碌なことにならなそうな気がした碧は、そのまま足を速めて立ち去ってしまおうとしたのだが。
「実はですね」
 タイミングよく青年は身をかがめ、声をひそめ、内緒だと言いたげな様子で碧の耳元に囁いた。
「わたし、吸血鬼なんですが」
「……………はぁ?」



 《2》


「なんで電気がついているんだ」
 マンションの窓を見上げて、蒼は非常に嫌な予感に襲われた。
 点けっぱなしで出かけた覚えはないのに、一人暮らしの自室の窓から煌々と明かりがこぼれている。
 先日、恋人と別れたばかりの彼に、無断で部屋に上がっているような人間の心当たりは、一人二人しかない。
「………週末だぞ、おい………」
 万が一にも明日出勤する必要がないようにと多少無理して残業し、半端になりそうだった仕事を一段落つけてきたというのに。
 それまで軽かった彼の足どりが、一気にずぅんと重くなった。



 一応閉めてあった玄関の鍵を開けると、即座にリビングから聞きなれた声が彼を迎えた。多大な疲れを感じてつい上り框に腰をおろし、座りこんで靴を脱いだ。見覚えのある靴と見覚えのない大きな靴が一足ずつ並んでいるのが目につく。
「おかえりー。遅かったね」
「…誰の家だよ、おい」
「んじゃ、お邪魔してます」
「……あの、すみません。いきなりお邪魔してしまって……」
 いつものこととはいえ、がっくりと肩を落としてだらだら靴を脱いでいた蒼は、聞いたことのない男のおずおずとした声を耳にして、はっとふり向いた。
 奇跡的な美形の顔が似合わぬほどの遠慮がちな表情を浮かべて、十才下の従妹の顔に並んでいた。
「碧っ! おまえ、なに人の家に男連れ込んでんだよっ!」
「ちょぉっとワケありなんだもん。流石に家に連れてくわけにもいかないからさ」
「んなことしたら叔母さんが卒倒するわ! だからって、なんで俺の家だよ、こら」
「だって週末暇でしょ、どうせ」
「…誰の、せい、だと」
 くらりとめまいに襲われて立ち上がり損ねながら、蒼が超低音で暗く呟く。が。
「蒼にぃが甲斐性無いから」
 さっくりと、反論は却下された。
 事情はこうだ。
 今夜と同じように碧がいきなり泊まりに来たその翌朝、つきあっていた恋人がこれまた予告無しで顔を出したのだ。運悪く蒼は洗面所にいて、寝室から軽装で姿を現した寝起きの碧を目撃した彼の恋人は、「私というものがありながら、ひどいわ!」と叫んで部屋を飛び出し、以来音沙汰無しなのである。
 あれ以後、電話番号も変えたようで、なんとも虚しいアナウンスを聞かされたのがちょうど二週間前。
「そりゃまあ、ボクがきっかけになっちゃったのかもしれないけどさ」
 ふうっ、とわざとらしくため息をつき、碧は言う。
「一言も言い訳させてもらえない信頼関係しかなかったってことじゃない。ボクだけが原因じゃないよね」
「……おまえ、帰れ」
「えー」
 蒼に与えたダメージなど知ったことではないらしい。
「んじゃ、蒼にぃがコレ引き取ってくれる?」
「はぁっ!?」
 コレ、と示されたのは遠慮がちな美形の黒服青年。そういえば碧の発言のせいですっかり存在を失念していたが、今回の来襲の原因はこの青年のようだ。どうやら彼に押しつけにきたのだろう、いつものごとく。
「犬猫じゃねぇんだぞ、おまえ」
「当たり前じゃない。犬猫じゃないから家に持っていけないんだもん。帰れって言うなら引き取って」
「捨ててこい」
「えー! ひっどぉーい!」
「………やめろ、似合わないから」
 わざとらしく甲高いそれを却下して、蒼は何はともあれ着替えてしまうことにした。乱入者をそのままに寝室に移動しようとした、まさにその時であった。
 チャイムと同時に玄関の扉が勢いよく開く。飛び込んできた人物が右手で素早く鍵を閉め、左手でヘルメットを取って一言叫んだ。
 碧そっくりの顔で。
「蒼にぃ。ごめん、泊めてっ」



 《3》


「お疲れさま。お先しまぁす」
「はいお疲れー。気をつけて帰れよー」
「はぁい」
 藍はすっかり慣れた調子で挨拶をすませると、歩きながらフルフェイスのヘルメットの顎紐をきっちりと留めた。店の裏に停めておいたバイクに荷物を着けながらキーを差し込むと一動作で座席に跨り、ズウンと低く唸りを上げる身体に比して大きなバイクのエンジンを乱暴なほどにふかし、軽々と走らせ始めた。
 夜も十一時を回っていて、車両の数はぐんと減り、バイクを走らせるには具合がいい。帰宅に使うルートは不届き者の集団が走るようなコースではないことを幸いに、ほどほどに疲れたバイト帰り、いつものように気分転換も兼ねてぐんとアクセルを回した。
 まだ夜にも暑さを残す風が肌をかすめ、疾走感を助長する。気分が高揚し、獰猛な鉄の獣をもう少し走らせたい気持ちになって、藍は信号の少ない遠回りの道を選んだ。どうせ週末、明日の土曜日に予定は入れていない。金曜の夜がバイトなのは親も承知だから、多少帰りが遅くなってもあまりうるさく言われないのが丁度いい。
 途中まではだからごくごく気持ちよく、バイクをふりまわしていたのだが。



 タイミング悪く交差点の信号が赤に変わり、藍はブレーキを引いた。慣れた道なのでここの赤がやたら長いことは知っていた。前後左右に車も通行人も見当たらないのを確かめて、このまま無視して進んでしまおうと、そう思った目の前で。
 ぶわり。
 多分、見間違いではないと思う。
 信号機の上から黒い何かが降りてきた。落下してきたというのではなく、薄い羽を広げたようにぶわりと。
 危なげなくまっすぐそこに降り立ったのは、背の高い男だった。
 この季節、秋と断言するにはまだずいぶん早い時期だというのに、その男は黒いコートを身にまとい、不思議にまったく違和感を感じさせなかった。それも踝まで届くようなロングコート、長袖の先から出た手にはご丁寧に黒革の手袋。
 暑くないのかなと言わずもがなの感想を持った、と同時にその男がふわりと目前に立っていることに気づいてぎょっとする。驚くほどに気配が薄い。
 中型バイクに跨った藍よりも高い位置から見下ろして、髪を後ろに撫でつけた、ひどく整った顔がにっこりと笑った。いわゆる貴族的な美貌とか形容されるような顔立ちだったが、その笑顔はこれ以上ないくらいに、うさんくさかった。
『げ』
 なにしろまず、細められた目が赤かったのだ。カラーコンタクトでも充血でもなく、確かに虹彩にあたる部分がルビーのように純粋に赤く、しかも輝いていた。
「…ああ。やっぱり、いい匂いがしますね」
 ふわりと、空気にさらされた首の辺りに顔を近づけて男が呟いた。舌なめずりをして。
『げげ』
 ヘルメットがフルフェイスタイプで本当によかったと心の底から感謝しながら、ポケットに入っていた物を気づかれぬようにそっと右手に握った。アイドリングしているバイクの規則的な振動が、身体の下に頼もしく感じられる。ありえぬとは思いつつも、万が一これがただの変質者なら、あまり乱暴な行動をしては後々まずいと様子を窺っていた藍だった、が。
「これは滅多にお目にかかれない、ごちそうだ」
『げぇーーーーっ!』
 触れられた肩から伝わってきた、どう考えても尋常ではない凍えるような冷気と握り締めるその指の強さに覚悟して、というか感触にもうそれ以上我慢できず、右手を一閃させた。
「うごぁっ!?」
 怯んだ隙にアクセルを回し、一気に加速してその場を後にする。
 そしてまた全速で疾駆させたバイクの行き先も、その時点ですっかり変更されていた。



 《4》


「こんなふうにいきなり肩、掴まれてね」
 怪しいものとの遭遇について、藍は淡々と話した。
「感触がさ、分厚い革のジャケットの上からなのに気持ち悪いふうにぞわっと冷たくて、まずいなーって感じがしたから、全速力で飛ばして逃げたんだ。あ、碧におしつけられたキーホルダー、ちょっと役にたった、ありがと」
「何?」
「銀細工で、装飾過剰なナイフの形したのだよ。オレの趣味じゃなかったんだけどさ」
「ええっ、きれいだって言ってくれたのに。藍、ウソついてたわけ?」
「綺麗なのと好みかどうかってのは、同じじゃないだろう? だからとりあえず、上着のポケットに入れたままにしてたんだけどね。他にすぐ取り出せて武器に使えそうなものなかったからさ、助かったよ」
 これね、と取り出して目の前でぶらぶらゆらされたナイフの形のキーホルダーは、先端だけが鈍い灰色だった。
 テーブルの上にそれを投げ出し、それにしても、と藍はため息をついた。
「碧を巻きこむとまずいかなぁと思って、家に帰るのやめてこっちに来たのに、いるし」
「俺なら巻きこんでいいってのかよ、こら」
「しかも、何か見たことない男、隣にいるし。これ、誰だよいったい」
 そう言えば。
 藍の言葉に、もう大分やさぐれ気味だった蒼もはたとその青年の存在を思い出した。藍が飛び込んできたことで忘れていたが、碧が連れてきたこの青年について、詳しい事情をまだ一切聞いていなかった。
 急に視線が集中して居心地が悪くなったのか、碧の隣に座っていた青年はいくらか肩をすくめ、申し訳無さそうな表情で口を開いた。
「すみません、まだ名乗ってませんでした。わたし、アルと言います。吸血鬼です」
「「…はぁ?」」
「碧さんと、おんなじ反応ですねぇ」
 アルは目を丸くして蒼と藍にそう言い、にっこりと笑った。



「偏食と言ったらおかしいんですけど」
 きちんと姿勢よく正座して、アルは碧にも語った自分の事情を説明した。
「あまり血は飲まない方なんです。元々、強引に人間の血を吸うのって嫌いですし。アルコールでかなり代用が効く体質だったのが、幸いだったんですけどね」
「アルコールって、ワインとか?」
「ワインも好きですよ。今一番好きなのは日本酒なんですけど」
「………なんか吸血鬼のイメージが…」
 あまりににこにこと言われて、藍がかくんと首を傾げる。
「それにやっぱり男性の血は遠慮したいし、女性でも若い方の血が好みです、あと健康な人。最近はこれが一番問題ですね、若くても疲れた匂いだったり、妙に薬臭かったりして。ダイエットっていうんですか? 気持ち悪いくらい薄い人も多いですし、逆にあんまりねっとりした感じのも避けたいですね」
「…なんか当然の選択をしているような気もするし、すごい偏食のような気もする」
「酒と血しか飲まないって時点で偏食だろ。なあ、お腹が空いてたら、どれでもいいんじゃないのか?」
「滅多に飲まなくて、お腹が空いてるからこそ、おいしい血が飲みたいんじゃないですか。まあ、縄張りにしてるのが繁華街なので、なおさら見つけるのが難しいのかもしれませんけどね」
「なんで繁華街?」
「実は、ナンパしてくれるお嬢さんたちにお酒を奢ってもらったり、寝床を提供してもらったりしてるんです。お陰で衣服やアルコールの調達には好都合なんですけど、どうしても周囲にいる方々は不健康な人が多くなってしまって…」
「本末転倒」
「あはは、そうですね」
 妙に照れくさげな表情が、吸血鬼だという彼の主張にものすごく似合わない気がして仕方がない。蒼が呆れているのに気づいているのかいないのか、アルは説明を続けた。
「まあそれで、今夜も街に出てたんです。泊めてくれるっていう方と次の店に移動しようとしてたところだったんですよ、碧さんを見かけたのが」
「おまえっ!?」
 血相を変えた蒼と藍を、ちょっと待ってください、とアルは慌てることなく制止し、碧はというとそんな二人をおかしそうに嬉しそうに見ていた。
「厳密に言うと、ただ血じゃないんですよ、わたしたち吸血鬼が吸うのは。身体と心がぴったりあわさっているところにある活力みたいなものですね、そういうのを血を媒介にして吸収するんです。だから本当にいい『血』の持ち主を見つけた時、わたしは絶対に無理強いしないことに決めてるんです。そんなことをしたら、かなり確実に味が落ちます」
 あんまり食材へのこだわりな口調で断言されてもどうかという気はしたものの、碧が強制的に血を吸われないということだけで、二人にはとりあえず十分だった。藍などとっさに握っていたナイフ型のキーホルダーを、それとなくテーブルに戻していた。
「碧さんの血は、見るからにすごくすごくおいしそうなんですよ。なんだか久しぶりに、ずっとごまかしてた空腹を思い出してしまったくらいおいしそうで。もうこんなおいしそうな血を飲めるかもしれない機会なんてないんじゃないかと思って、声をかけちゃったんです」
「何て?」
「食べたいんですけど、って」
「………あんた、もしかして毎回断られてないか?」
「あはははは」
 図星だったのだろう、アルはただ笑っていた。脱力した藍と蒼をよそに、碧が口を出す。
「まあ、なりゆきでね。血を飲ませるかどうかはちょっと考えたいんだけどって言ったら、ダメならダメで泊まるところだけでも提供してもらえないかって話になったから、ここに連れてきたの」
「泊まるところ?」
「だって、ほら。一緒にいたお姉さんを無視してボクに声かけちゃったから、この人」
「当分、あの街は使えないですねぇ」
 ちなみに、ちゃんと吸血鬼らしく太陽の光は弱点らしい。



 《5》


「…んんん?」
 くんっ、とアルが何かを嗅ぎつけたように鼻を鳴らした。
「なに?」
「知ってる匂いが…。さっきから気になってたんですけど、藍さんの肩のあたりから同族の、あの、吸血鬼っぽい匂いがかすかにするんですよ」
 アルがそう口にした途端、三人三様に顔を顰めた。
「…もしかして、藍が遭った怪しいのって…」
「なんでまたおまえらは、そろってそんなのに引っかかるんだ」
「同族の吸血鬼?」
「はい。それにこれ、ちょっと知ってる相手かもしれないですね」
 いいでしょうかと、改めて肩の周囲を確かめた上で、アルはやっぱりそうだと断言した。
「友だち?」
「いいえ。知人です」
 これまたきっぱりと言って、アルは眉を顰めた。あまりたちのいい相手ではないらしい。
「んじゃ、あれ? 匂いで相手がわかるってことは、あなたたちってもしかして匂いを追いかけたりもできるわけ?」
「できますよ。人間の言う匂いとはちょっと違いますけど。気に入った獲物に直接触れることでマーキングして、後から時間のあるときに改めて探す目印にしたりするんです」
「うわ、やだなぁ。じゃ、あいつ来るかもしんないわけ?」
 心底嫌そうな藍に、頷きながらも慰めるようにアルは言葉をつけたした。
「そうですね、いずれ。今夜は来ないでしょうけど」
「「なんで?」」
「わたしたちの弱点って色々有名ですけど、藍さんが攻撃に使ったっていう銀細工って、同族が苦手にしてる物の一つなんですよ。それに今は、わたしがここにいますし。しっかり傷をつけられてたらなおさら、今夜は動きませんね」
「あなたがいると、来ないの? なんで?」
「一種の、縄張りの尊重みたいなものが、一応の不文律としてあるんです。マーキングを理由に、優先権を主張することもできますけどね、少しでも不調なときは、同族と張り合うのは避けるものです」
 どうもあまり数はいない同族同士で無駄に争わないための取り決めらしい、と納得する。しかしすぐに、でもまた嫌な相手に目をつけられましたね、とのアルの発言に、藍の顔が一挙にひきつった。
「この匂いの主はたぶん、ドレイクってやつですけど、…わたしと逆で、獲物の選り好みをほとんどしないんですよ。重要なのは外見の好みだけで老若男女問わず。それより何より、嫌なのが血を吸う時が無理やりで」
「無理やり?」
「わりと手段選ばないタイプです。そのせいか一か所にあまり長く留まらないないんですけどね。藍さんも、碧さんと一緒ですごくおいしそうな『血』をしてますよ。実は蒼さんも。少々無理に飲んでも、けっこうおいしく飲めそうなくらいです。これだと、あいつだったらわたしがいたところで、体調さえよければ来そうですね」
「……なんか、嬉しくないぃ」
 微妙にへこんでしまった藍に、脅してしまったようで申し訳なくなったのだろう、アルが提案した。
「じゃ、そのマーキング、取ってしまいますか?」
「え、取れるの!?」
「完全には無理ですけど、直接くっついてるよりは気分がいいかと思うので」
「取ってもらっちゃえば? ボクも、藍にそんなのがくっついてると思うと、なんか気色悪くてやだ」
「気色悪いって、おまえ、ひどい……」
 更にへこんでゆく様子がまた憐れ。
 なんとかしてやってくれと蒼にも目で促され、アルは藍の右肩の上に左手をかざして、指先で宙に複雑な字のようなものを描いた。
「…ったい」
 思わず舌打ちした藍に、すぐ終りますからと小声で言うと、言葉どおりにアルの指先が光りだし、藍の肩から何かがするりと抜け出してその光に溶けてしまった。
「よかった、うまく抜けましたよ」
「うわぁ、肩軽くなった…」
「なになに? それって、マーキングの?」
 興味津々で碧がアルの手の中を覗き込む。光の引いたその左手の中には、体長十センチほどの小さな蜥蜴がじたばたともがいていた。アルは慣れた仕草でこれまた小さく透明な箱を作り出し、その蜥蜴をしまいこむ。
「完全に取れたわけじゃないので、ある程度の距離までしか離しておけませんけどね。びったりくっついてるよりは、ましでしょう」
「うん。けっこう負担かかってたみたい。すごく楽になった。ありがと」
「お役にたてて光栄です」
 内容はともかく微笑ましい光景を横目に、蒼は気味悪いと言わんばかりの表情で蜥蜴入りの箱を窺い見た。自宅にこんなものがあるのが心底嫌だった。
「取れたのはいいが、こうしておいて害はないのか?」
「大丈夫です。わたしの力で覆ってますから」
 保証します、とアルは断言した。



 《6》


「あー、なんか疲れちゃった。お酒飲んできたから、すっごく眠いんだよね。蒼にぃ、ベッド借りるよ」
「こっちだって残業帰りでこんなごたごたに巻き込まれて疲れてるっての。おまえ、ソファーで寝ろ」
「えー。ソファーなんかで寝てボクが風邪をひいたら、どうしてくれるの」
 当然の如くに碧は言いはって、さっさと寝室の占有権を主張した。簡単に言えばつまり、追い出される前にベッドに横になってしまったわけだ。
「……藍。おまえの妹だろ、アレ。なんとか躾しろよ」
「蒼にぃが最初に甘やかしたからでしょ。オレじゃ無理。諦めなよ」
 気が楽になったからだろうか、晴れ晴れとした顔で藍は言い、それじゃオレも碧と寝るからと蒼の寝室の扉を閉めた。
 疲れて帰って来た自分の家で、どうして自分の寝室で休むことが許されないのだろうか。
 従兄妹たちに振り回される一方の自分に、つくづく躾を誤ったと蒼は深い深いため息をついたのだった。



「あの、それで」
 寝室を奪われたという事態にどうしようもなく脱力していた彼は、ふいに背後から声をかけられて驚き、弾かれたように勢いよくふり向いた。相変わらず気配薄く、申し訳無さそうにアルが立っていた。
「結局、わたしは泊めてもらえるんでしょうか?」
 そういえば、その問題はまったく結論が出されていなかった。やれやれとため息をつきながら、諦めたとばかりに蒼は頷いた。
「まあ、藍のこともあるしな。追い出して、後で碧にごちゃごちゃ言われたら、たまったもんじゃない。クローゼットなら、位置的にどうやっても太陽光が入らないから、あんたにはちょうどいいだろ」
「ありがとうございます。お世話になります」
 つくづく礼儀正しい吸血鬼である。深々と頭を下げられてしまった。この半分ぐらいでいいから、遠慮の気持ちを従兄妹たちに分けてやってほしいものである。
「どういたしまして。そんで、日が昇るまではまだしばらく時間があるけど、あんたはどうするつもりで? 俺はもういい加減疲れたんで寝るけど」
「あ、申し訳ないんですけど、この近くに酒屋か、お酒を売ってるコンビニはありますか?」
「コンビニなら、一階を出てすぐのところにあるな。酒も置いてたはずだけど、…あんた、今から飲む気か?」
「食事ですよ。ちょっと買ってきますので、それまで寝るのは待っていただけますか?」
「ああ、どうせこれから風呂に入るから、かまわないよ」
「すみません。では行ってきます」
 小走りに玄関を出てゆく姿を見送り、これで一応今夜の騒動は一段落ついたのだろうかと、ふと思う。あくまでも今夜の、ではあるが。
 どちらにせよ、長い夜だった。



 《7》


「いやまあ確かに、それぞれに食の嗜好ってのがあるのはわかってはいるんだけどな」
 碧と藍が、自宅では母親に邪魔されて普段はさせてもらえないほどの惰眠を貪ったあげく、占領していた従兄の寝室からようやく出てきた途端だった。
「……蒼にぃ。いったいなにがあったわけ?」
「これを見ろよ。なあ、雑食極まりないと思わないか」
 ソファーで寝たための寝不足や、そもそも昨夜の疲れのせいもあるのだろうか。蒼は憤懣やる方ないといった口調で、ただひたすらに言い募った。
「いやそんな言葉で片付けるのも腹立たしい。あれでもあいつは吸血鬼なんだろう!? 吸血鬼なら吸血鬼らしく、血だけ吸って生きていればいいと思わないか? いや酒なら酒だけでというならまだ気にならん。だが、いったいなんなんだあのつまみの残骸! 許しがたいのはあれだ、あれ!」
 示されるまま二人がクローゼットを覗き込むと、そこには昨夜碧が拾ってきた美青年が毛布にくるまり壁にもたれて眠っていた。まだ温かいし、人間でもないらしいからそれはかまわないかと気にもせず、問題は、その足下に袋いっぱいになっている残骸らしい。
 酒瓶の数はまず無視した。無視できないのは、コンビニで多分一番大きいに違いないビニール袋二つ分の、お菓子の包装の残骸だった。
「和菓子に洋菓子に、なんだってあんなくそ甘いものを大量に食えるんだ。それだけ食べてるんならともかくっ、日本酒のつまみにしてだぞ、日本酒のっ!!」
 言われてみれば、ずらりと並んだ酒瓶はどれもこれも日本酒だった。表示を見ればどれも辛口、アルの好みなのだろう。
 辛口の日本酒と、ケーキやゼリーなどの洋菓子に、団子や饅頭といった和菓子。この取り合わせが、蒼の美意識というか食の好みの範疇を著しく逸脱していたということらしい。
 もっとも。
「蒼にぃって、案外…」
「吸血鬼に思いいれあったんだね」
 寝起きの双子の感想はそんな程度のものだった。



 すでに昼も近い時間だった。
 憤然と文句を連ね続ける蒼を二人がかりで宥め、とりあえず空腹を満たそうと三人は居間のテーブルについた。まだまだ成長期と主張する藍は当然のこと、ダイエットなんて言葉を無視した碧の食欲も爽快なほどで、目の前に山と積まれたトーストやハム、ソーセージ、サラダはあっという間に嵩を減らしていった。
 やがて、コーヒーを飲み終わるころになって満足いったのか、とうとう藍がそれを口にした。
「結局、マーキングそのものはまだされてるんだよね。やっぱり今夜あたり、オレを探して来るのかな、そいつ」
「かもな」
 朝刊を読みながらの、蒼のどことなく気のない相槌をものともせず、いいことを思いついたとばかりに笑顔になったのは、碧だった。
「ねえ、それならさ。いっそ多少騒いでも邪魔にならない場所に移動しちゃわない?」
「え?」
「久しぶりに、ケリーやスールにも会いたいし。アルも連れてさ」
「…………」
 それは俺に車を出せということか、と口に出そうとして蒼は止めた。
 すでに双子にとって、それが確定事項になってしまったらしいと見たからだ。
「……アルは、どうやって連れてくつもりだって?」
「え? 要は、直接光が当たらなければいいんでしょ?」
 その質問はささやかな抵抗だったのだが、何やらすでに思いついているらしく、にっこりと、有無を言わせず碧が微笑んだ。
 この瞬間、嫌な予感を感じたのは、果たして蒼だけだったのだろうか?



 《8》


 太陽が落ちた後の森はぐんと気温が下がり、街中とも異なって肌寒いほどの涼しい風が吹いている。
 寝ぼけているというわけでもないのだろうが、ぼんやりと空を見上げていたアルは、十分ほども過ぎてからようやく当然過ぎる疑問を口にした。
「…ところで、ここはいったい何処なんでしょうか?」
 太陽光が完全に消えたからと、それでも念のために木陰で起こしてやったアルに、数枚の毛布でぐるぐる巻きにされた上、トランクに詰められて運ばれたという事実を告げたものかと悩みながら、蒼は実家で管理している山の森だと彼に教えた。
「色々と事情あって、俺たちはよく来る場所でな。休めるように、備品を放り込んだ小屋もある」
「そういえば、二人の姿が見えませんね」
「来たついでに遊んでる。暗くなったから、もうすぐ戻ってくるだろう。それより、なあ」
 くわえ煙草のまま勢いをつけてしゃがみこむと、まっすぐに視線を合わせた。
「藍にマーキングしたやつって、ここまで来るかね?」
「あ、もしかして移動したのって…」
「あんな住宅地で騒動になるのは避けたかったんでな」
 そもそもがあそこは他でもない俺の住居なんだと、蒼がぼやく。
 気の毒だと言わんばかりの表情で、しかし賢明にも口にはせず、アルは懐から箱に入った蜥蜴を取り出した。
「これがありますから、呼ぼうと思えばこちらから呼ぶこともできますよ。そうでなくても、真夜中までには来ると思いますが。飛べますから」
「飛ぶ?」
「常日頃たっぷり血を取ってますからね、あいつは。かなり速度が出せるでしょう」
「……昨日の藍は、幸運だったのか?」
「ええ、かなり」
 やれやれと、アルが出会ってから何十回目になるのかわからないため息をついて、蒼は煙草をもみ消した。
「そんで。俺たちにできることはあるか?」
「銀製品って、持ってきてますか?」
「一応、ありったけ。十字架もあるけど」
「キリスト教徒ですか?」
「いや、違うけど」
「じゃ、効かないと思いますよ。気休めにつけててもいいですけど」
「そいつも銀製品だったから、あんたが有効に使ってくれ」
 言って車の中から取り出された品はといえば、藍が持っていたナイフ型のものを合わせても、ようやく両手いっぱいというところ。量的に、心もとなく見えた。
「これだと、あまり広範囲には仕掛けられないかな。…あいつが来たら、うまく誘導しないと」
「罠?」
「罠です。カムフラージュかけてる時間があるかどうかわからないので、皆さんにも手伝ってもらうことになるかもしれません」
 とりあえず、よさそうな場所を探して仕掛けてみますと、確かに人ではない夜の生き物らしい滑らかさで、アルの姿は森の薄闇に消えた。



「あれ、アル?」
「藍さん、一人ですか? 碧さんと一緒だったのでは?」
「蒼にぃのとこに先に戻ったはず。何してるの?」
「ちょっと罠を」
 斜面が崩れたのだろうか、一面がちょっとした崖になっているその下で、蜥蜴の小箱の上に何やら一つずつ置いては呪文らしきものを唱え、それを埋めていた。
「何か、かえって面倒かけてるみたいだよね。ごめんね?」
 きょとんとした顔で、本当にすまながっているらしい藍を見上げたアルは、ふわんと笑み崩れた。
「いいんですよ。こうしてがんばったら、少しぐらい血を飲ませてもらえるかもしれないという、下心もありますから。それに…」
「それに?」
 口ごもったアルを促す。ほんの少し困惑の表情を浮かべた彼を、藍は黙って待っていた。アルは視線を逸らしてそのまま俯き、小さく呟いた。
「…まあ、いつ消滅しても、本当はあんまりかまわないんですよ、わたし」
 ふいに、藍がアルの真正面にしゃがみこんだ。目は、合わせないまま。
「湖に石を投げ込むと、波紋になるよね」
 脈絡なく同意を求められ、つい頷く。
「? ええ、なりますね」
「小石ひとつだって、そんなちょっとしたことでけっこう大きい変化を生むんだ。周りに何ひとつ関わりを持たずに生きようなんて、オレたちみたいのには、不可能なんだよね」
 藍は、静かに静かに言葉を紡ぐ。
「それでね。アルはもうね、オレたちに関わっちゃってるんだよ。そりゃアルにとっては、たった一晩程度、なのかもしれないけど。…消滅してもかまわないなんて言われるのは、オレはやだな。碧も、同じこと言うと思う。蒼にぃも」
 何と言っていいのかよくわからなかった。ただ、胸のどこかがくすぐったく、温かく感じられることにアルは気づいた。
 もう忘れそうなくらい昔に、感じたことのあるもの。
「………ずぅっと昔に、同じようなことを言ってもらったことがありました」
「そう?」
「はい。わたしはその人がとても大好きで、とても大切でした。それで…その人が死ぬ時わたしに、死んではだめだと言ったので、なんとなく死なずに生きてきたんです、今まで」
 ぼそぼそと、囁くような小声で話すアルを邪魔せぬようにだろうか、藍は無言のまま小さく頷いて、聞いていることを示した。
「…長く生きるのも、いいものだなって、久しぶりに思いました」
「そっか」
「はい」
 小さな笑い声が重なって、二人同時に顔を上げた。
「ここの場所、念のため覚えておいてくださいね。わたしが先導はしますけど。ちょうどここにあいつを立たせたいんです」
「ん、わかった。…殺すんじゃないんだよね?」
 おずおずとした問いかけに、ええ、とアルは笑って答える。
「わたしの同族でもありますから。ちょっとの間、悪さできないようにするだけですよ」
 最後の一つ、とそれを崖の真下に埋めてから、アルは作業が終るまで待っていた藍に戻りましょうと声をかけた。
 準備は終りましたから、と。



 《9》


「遅かったね、藍。アルと一緒になったの?」
「うん、ちょうど作業してるところに通りかかったんで、見学してきた」
 車のライトが丁度よい合流の目印になった。仕掛けた罠の位置について簡単に説明をすませると、そのまま夕食。
 アルにはちゃんとお酒が準備されていて彼を喜ばせたが、しかしその代わりのように蒼の愚痴もついてきて、藍と碧がいい加減にしてほしいと止めるまで、ほんのちょっとも止まらなかった。
 アル自身はただ楽しそうに飲んでいたけれど。



 つんつんと背中をつつかれてふり向くと、碧があのね、と声をかけてきた。
「血を飲んでる方が、やっぱり色々と力を使えるんだよね?」
 だがアルは頷きはしたものの、じゃあ飲んでと言いかけた碧を遮った。
「これから多分、全力で走ってもらうことになるので、今は飲まない方がいいと思います」
「本当にそれで大丈夫なの?」
「平気ですよ。それにとりあえず夢の中で、食べているんですけどね」
「ちょっと! それがいったい何の役にたつって言うわけ?」
 宥めるつもりで言ったのに、いきなり耳元で怒鳴られてアルは首をすくめた。碧はまるで全身を膨らませたネコのように、彼を睨みつけている。
 アルは穏やかに微笑み、逆に問い返してみた。
「ねえ。なんでそんなに心配してくれるんです?」
「拾ったものには責任を持つようにって、何度も蒼にぃに言われてるから」
 あまりにきっぱりと答えられて、なんと返事をしていいのかわからなかった。すぐ近くで蒼が苦笑していた。一応、成人男性の姿をしているもの相手に使う台詞ではないだろう、と言いたいのではなかろうか。口にしないのは、碧の気持ちを尊重しているからだ。アルを心配しているとわかっているから。
「ね。お願いだから、あんまり聞き分けのないことは言わないで」
「心配してもらって、すごく嬉しいです。だから、信じてもらえませんか?」
 こうしてみると吸血鬼と人間は、やはりまったく別のものなのだとわかる。人間にはできないことが、吸血鬼には普通のことだったりする。確かに、説明無しでは叱られてもしかたないかと、アルは自分の発言の不十分さを理解した。
「わたしたちの特性のひとつで。夢の中で摂った食事も、起きてる時に血を飲むのとは比べものにはなりませんけどね、ちゃんと力になるんです」
「ホントに?」
 じっと覗き込むように目を見つめられた。真剣な眼差しを、アルも真面目に見つめ返した。本当と嘘とを見分けようとする瞳を。
「はい。だから、いざとなったら飲ませてください。お願いします」
「絶対だからね」
「はい」
 にっこりと碧が笑った。
 やはり胸が温かくなるな、とアルは思った。
「じゃ、そろそろ移動してあいつを呼ぶかい?」
 間のよい蒼の提案に、みんな揃って頷いた。



 《10》

 アルの合図から五分と経たぬ間に、ばさりと空を打つ音がした。
 見上げると、夜空に煌めいていた星の一部が真っ黒く切り抜かれたようになっていて、漆黒のそれはぐんぐん近づいてくる。
 ちょうど彼のもとを目指して。
 ごくりと喉を鳴らした彼は、ぶわりっと地上すれすれを蝙蝠の羽のように翻った動きに、思わず驚愕と感嘆の叫びをもらしていた。一瞬にしてロングコートの体裁をととのえたその裏地の鮮紅色が、見事なまでに血をイメージさせる。
 男はわずかに乱れたらしい髪をどこかわざとらしくかきあげるように整え、口の端にふっと冷たい笑みを刻んだ。
「今更、驚くことでもないだろう。そこにいるアルと、ここまで同行してたのなら」
「……いやぁ、なんか今度はまた、えらくオーソドックスというか、吸血鬼らしい格好の吸血鬼だったもんだから、かえって意表をつかれた」
「うんうん」
 せっかくの格好つけを台無しにする暢気な台詞に、男は思わず頬を引き攣らせる。一瞬にして、目が血走るかのように真っ赤に染まった。
「…ふざけてるのか、おまえら」
「そういうつもりじゃないんだけどね」
 苦笑して、蒼は藍を促した。すかさず駆け出す彼を男はすぐには追おうとせず、まずは値踏みするようにじろじろと蒼を凝視した。
「そこそこ旨そうな匂いをさせてるな、おまえ」
「あんた、やな目つきだな、ほんと」
「うるさい!」
「そんで、どうするんだい?」
「そりゃあ、せっかくの獲物だからな」
 にやりと、わざわざ大きく開けて見せた口は毒々しいほどに赤く、不気味なほどに牙が突き出していた。
「やなこった」
 弾かれたように蒼も駆け出した。
 幸い、この山はいろんな意味で慣れた場所であったので、蒼もなんとかそれなりの速度を保ったまま走ることができた。その後ろを、足止めのふりをしながらアルがドレイクを誘導して追ってくることになっていた。
 現在のアルの状態では、ドレイクを一人で完全に足止めすることも力を削ぐことも不可能なのだと、最初に説明された。それは碧の血を飲んだところで、さほど変わりない差だからと、あえてアルは彼らの血を飲むことをしなかった。
 結局、そんなアルの状態で可能な彼らの作戦は、ごく単純なものだった。
 おびき寄せて、罠を発動させる。
 材料が少ないので範囲が狭いのが一番の問題だった。最初からそこに降ろせればよかったのだが、樹木が邪魔でどうしようもなかったのだ。
「わ、まずい、もう来たっ」
 できるだけ捕まらずに逃げられればいいのだが、やはり。
「逃げられるわけがないだろう」
 真後ろで囁かれて蒼はぎゃっと悲鳴めいた声を上げ、だが肩を掴まれかけた瞬間、手にしていた小箱をその手に押しつけた。
「ギャッ!」
 悲鳴を確認するや否やそれを前方に思い切り投げ。
「ナイス!」
 受け取ったのは藍。それを確認すると同時に蒼は強制的に足を止め、背中からドレイクに体当たりした。
「…げほっ、って、さすがに痛てー…」
「この、何を!?」
「俺のことより、追いかけた、ほうが、いいと、思うが、ね」
 喉を締め上げられながら、蒼は笑った。
「あんたを刺した、ナイフ、こっちに、あるんだぜ?」
 ずだんと地面に投げ飛ばされて、蒼は再び咳き込んだ。涙で滲んだ目に、凄まじい勢いで去ってゆく黒い背中が見えた。
 全身がとにかく痛くてたまらないが、どうやら挑発には成功したらしい。



「これ、感触がやっぱりやなんだよなぁ」
 手にしたものに対して、どこかのんびりとしたコメントを呟きつつも、藍は全力で走っていた。目的の場所はすぐ先で、とりあえずそこまで行けば、アルが先回りしてくれる予定なのだ。
 そこまでの、保険になるのがこの小箱で。
 もとはドレイク自身のマーキングに使った力なのだが、アルが細工をしたおかげでドレイクに対して、強烈な静電気みたいな衝撃を与えるようになっているのだという。
(蒼にぃ、大丈夫かなぁ)
 だが。ふいに後方から冷たいものが近づいてきた。
 覚えのある、とにかく不快な冷気。
「来た!」
 だがほんの少し、藍の足の方が早かった。
 小さな崖を背後に、ナイフ型のキーホルダーが刺してある。息を乱して駆け込むと、木の陰に碧が身を潜めているのが見えた。
 傍らには、アルが。
 ほっと胸を撫で下ろし、ぱっとふり向いた目の前に。
 まるでマントのように大きく広げられた漆黒のコート。血走ったように真っ赤な目。威嚇しているのだろうか、牙をむき出しにした口は大きく開き、気持ち悪いほど赤い。
 きっちり挑発されたらしい。頭に血が上りきっているようだった。
 ドレイクは一目散に待ち構えていた藍の前に走りこみ。
 だが。
 ほんの一歩、足りなかった。
 そうして顔を上げ、にやりとひどく得意げに、馬鹿にしたように、嘲笑った。
「残念だが、そんなわかりやすい罠になどかからないなぁっ!!」



「…そうでもないと思うよ」
 笑ったのは、藍も同じ。
「ケリー、スール、来いっ!!」
 彼の声と共に、ドレイクの背中に何かが体当たりし、更に踏みにじった。バランスを崩した男の身体は目印のちょうど真ん中にうつぶせに倒れこみ、機を逃さず発せられたアルの声が、高らかに響いた。



《11》

「それにしても、どこから拾ってきたんですか、この子たち」
「藍と碧に聞いてくれ。こいつらがどっからか見つけてきたせいで、この森の管理をするはめになったんだ、俺は」
 愚痴をもらした蒼の前で、藍と碧にまとわりついて思い切り褒めてもらっているのは、ドレイクを罠に突き飛ばしたケリーとスール。
 ケリーは犬だったが、どう見ても首が三つあり、スールはといえば足が八本もある馬で、足の数が尋常でも蒼の部屋で飼うのは無理だったはずだ。
「まあでも、お陰で助かりましたね」
「こいつらを拾ったのも、結局は幸運だったってことなのかね」



 ややしばらくたって、銀を材にした目に見えぬ枷で縛られ転がされていた男が目を覚ました。登場から格好つけていた男にとって、芋虫状態のこれはものすごい屈辱であったようだった。
 アルは傍らにしゃがみこんで、男に話しかけた。
「彼にかけたマーキングをちゃんと解除してくれるんなら、そんなに時間をおかずに解放してあげてもいいって話になってるんだけど、どうする?」
「けっ、やなこった」
 憎々しげに顔を歪め、どこまでもふてぶてしく男は唾を吐いた。ふてくされているのか、口調がかなり雑だ。
「大体、人間に入れ込んでどうすんだよ、どうせ餌じゃねえか」
「あなたがそう思うのは勝手ですけどね。少なくとも、わたしが大事に思う人間に手を出されるのは、嫌なので」
「だけど、死んだんだろう」
 ドレイクが哂った。
「ははははは、おまえのせいで死んだんだろう、あの人間は! すっかり昔の話だから、忘れたと思ってたかよ。けっ、大事とか言ったところで、やってることは結局なぁんも変らねえんだよ、おまえもなぁ!!」
「……………へえ。そう」
 声が違っていた。全く。
 蒼は思わずアルの顔を見、咄嗟に数歩、後ろに飛び退った。
「あなたには、一度、きっちり、反省してもらおうか」
 ぷっつりと、正気を失っているのは確かだった。



「…ちょっと残念よね」
「何が?」
「あの二人、確か写真には写らないんだもの」
 顎に指を当てながら、碧は言った。
「もしもこの状態を写真に写せるものなら、二人とも一応外見はすっごく美形なわけだし、…その手の雑誌に投稿したらおもしろそうなのに」
 目の前では、アルがドレイクを押し倒し、無理やり首筋に噛みついて血を吸っている。内情を知らなければ、まあ確かに美青年二人の淫靡な絡みと見えなくもないかもしれなくもない。
 しかし。
 真面目くさって、本当に残念そうにそんなことを口にする従妹の言動に、蒼は頭を抱えるより他にどうすればいいのかわからなかった。



「ああ、不味かった」
 ようやく正気にもどるほど血を吸いきったのか、アルが三人の方に戻ってきた。しかし満腹になったにしては、その表情は不快感があまりに露わになっていた。
「あの人の血って、そんなに不味いの?」
「吸血鬼の血が、そもそも口にあわないんですよ。こんな事態でもなかったら、舐めるのも嫌です」
 口に残る後味さえも気に入らないのか、ひたすら顔を顰めていたアルがふっと碧を見つめた。
「…碧さん」
「なに?」
「ちょっとだけ、ほんのちょっとだけでいいんで、口直しに、血を舐めさせてもらえませんか?」
 昨日出会って以来、ずっと遠慮がちだった彼の言いようとも思えないほどの迫力に、思わず。
「……………そこまで不味かったの?」
「喩えようもなく、不味かったです」
 一瞬のためらいもない、断言だった。
「ずいぶん前から、おいしい血だけを選んで飲んできたせいもあるんでしょうけど、こんなに不味い血を飲んだのはほんっとうにすごく久しぶりというか、なんか…………なんだか、気持ち悪くて、吐きそうかも」
 出来れば反対したいと思っていた蒼でさえ、刻々と顔色が悪化してゆくアルを見ているうちに、どうにも憐れになってきた。
 碧はまず藍を見て、蒼を見た。それからゆっくりと手の甲をアルの目の前に差し出して、にっこりと微笑む。
「ちょうどよかった。さっきちょっとかすり傷つけちゃったんだ」
 ここまで輝くような笑顔というのは初めて見たなぁ、と藍は暢気に感心した。



 結局、調子の戻ったアルがドレイクを適当な繁みの下に蹴り込んで戻ると、そのまま帰ることに決まった。
 いい加減疲れたと座りこんだ蒼を見ていた藍が、珍しいことに、オレが運転してあげると言い出したのだ。とりあえずさっさと帰ってゆっくり休みたい気分だった蒼は逆らわず、碧もアルも異存はないと大人しく車に乗り込んだ。
 大人しく見送ってくれるケリーとスールに、碧がひらひらと機嫌よく手を振る。
「ただひとつ、問題はさぁ……」
 シートベルトを締め。背筋を不自然なほどぴんと伸ばして、まっすぐ正面を向いたままエンジンキーを回してから、藍が言った。
「実は、免許取立てだったりするんだよね、オレ」
 同時にアクセルが目一杯に踏み込まれ。



 その後に展開した絶叫のあれこれは、まあ、今後の心の平穏のために語らずにおいた方がいいのかもしれない。
 こうして蒼に残されていた休日であるはずの日曜日もまた、藍の運転の後遺症できれいに潰れることになったのであった。






《了》




/BACK/