わが身ひとつの夜にはあらねど








 しんと。
 生まれるや否やの真新しい空気が音たてて落ちてゆくほどに雲はまばら、澄んだ空には高く、月が輝いていた。
 雨の日が続くうちふいに晴れた夜、遠慮がちに歌う虫たちよりいっそ悠々と微風に囁くススキの穂は満ちる光に似て白い。

「さらわれてしまうよ」

 声に応じてふわりと、少女は視線を天頂から下ろした。
 ススキの原の深く埋もれるほどに、彼女は真っ直ぐ立っていた。誰の干渉も拒むかのように、月を見上げていた。
 呼び止めた声に何を思ったのか、容易には悟らせぬふうな深黒の眼差しの先へ姿を見せたそれもまた、天頂に輝くものに比して見劣りなく。
 夜を鋳型にして、在った。

「そんなに熱心に見るものじゃない。月は、いつだってきれいなコが好きなんだから」

 そこはかとなく呆れているとわかる表情を頬に薄く、少年は指先で氷片めいたそれを示して、少女に警告した。だがささやかに首を傾げつつ、形良く色薄い花びらの唇は、夜を妨げぬ言葉を紡いだ。

「あなたは平気なのに?」

 思いもしなかった問い返しに目を丸くし、破顔した少年はそれに気がつく。

「何か持ってるね?」

 ただぼんやり月を見上げていると見えた少女の白い手の内に、光を含む何かがひんやりと収まっていた。
 一枚の、それは鏡。
 月を歪め映しとる、凸面鏡。

「集めているの、月の滴。あと少し、足りないから」

 言いながら携えている少女の手はすでにしっとりと濡れている。それはススキの原に降りた夜露か、それとも彼女の言う、鏡に凝り滴った月の滴のためか。

「足りない? でも補ってよいものじゃないんじゃなかったかな、それって」
「新月から新月まで一月をかけたけれど、雨の夜のせいで雑ざりものが多くて。もうやり直す時間が無いし。満月の夜の光は、粋だから、これより使えるものは、他に無いもの」
「ふうん。それで集めて、どう使うつもり?」

 好奇心、と少年は続けたが、応えは返らなかった。仄かな微笑のほかは何も。
 集め方も最もありふれた使い方も、何より扱い難い毒であることも、彼はよくよく知っている。自身で集め使ったことは必要ないからないけれど、必死に集め用いた者たちを、一人ならず見知っている。
 もたらされたいくつかの幸いと、それに勝って数多の不幸を。
 凸面鏡を用いて夜に集められる仙水は不死の薬、若水との名も持つが、結局のところ人の身に毒となることは違いないのだ。
 あ、と再び目を見張り、少年は苦笑した。

「そうか。人じゃないのか、君は」
「あら。じゃあ、あなたは、ナニなの?」
「さあ?」

 少女はひそやかに微笑む。真っ直ぐに、見つめ返すことなど到底できぬはずの少年の瞳に、深く。
 漆黒の瞳には仄かな光がしんと棲み。
 少年も鮮やかに微笑む。踏み込むことなくあらゆることを見通すように、濃い闇を幾重も重ねて。
 さわさわと、横合いからススキが応えた。見交わした沈黙に逆らうことなく。
 どちらも人の移り気とは無縁のものだよ、と。

「邪魔したね。無事に集められるといいけど」
「…ねえ」

 立ち去ろうとした少年を、だが思いがけず少女は呼び止めた。

「なに?」
「さらいにきてくれるかしら?」
「そのまま、真っ直ぐに見つめていれば、たぶんね」

 少年の答えに満足したものかどうか、眼差しは再び空へと向かう。いかなる想いを抱いていたとしても、うかがい知ることの敵わぬ漆黒の瞳。映すのはただ天頂の月の姿。ただひたむきに、空渡るものへと。
 満月を隈なく映した鏡面に湧き出すように水滴は凝る。月から降り落ちた仙水は少女の手に滴り流れてしとどに濡らし、足下に満ちる。
 月の光そのもののように。



 ややしばらくして雲がかかったか、辺りが鈍く陰った。
 丘陵の上から少年が見下ろせば、一面のススキは悠々と白銀を含んで波うち。
 一輪、夜露に濡れて咲く時期はずれの月見草を、幾重にも包み囲んでいた。







《了》





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