抱 海 石
〔 ホウカイセキ 〕




 夢を見た。
(カエリタイ)
 目が覚めると、すべて忘れていたけれど。



 いったい故意か偶然か。Kのアパートは、私の部屋から歩いて十分ほどでついてしまう近さにある。同じ大学に進み、学部は辛うじて違うのだが、いつのまにか同じサークルに引きずり込まれていた私は、最低でも週に一度は彼と顔をあわせている。
 大学入学後、初めてその住所を聞いたとき、どうしてこんなに近いんだと言った私に、彼はいつも通りのとらえどころのない表情で、
「偶然だよ」
と、あっさり言った。
 ほんの一瞬、その目が笑ったのを私は見た。
 大学祭での企画に私を引きずり込んだときも同じだった。あのお化け屋敷は確かに盛況だった。しかしあれ以来、仕掛けてあった以上の現象が起こっていた事実を知っていた仲間の何人かは、私が近づくと、無意識なのだろうが一歩ひくようになった。Kがあの現象を意図していなかった訳がない。
 Kは、『怪異体質』とでも言えばいいのだろうか。極端に怪異な出来事に出会いやすいのだそうだ。高校以来の付き合いから考えるに、黙っていても向こうからやってくる怪異に対して、実は好んで自分からぶつかっているのではないか、と思うようになった。『増幅機』である私を進んでひっぱり回しているくらいだから、決して的外れな考えではないと確信している。
 『増幅機』というのは私の持っている能力というか、体質というか、それについてKがつけた呼び名だ。対象が何であるかにかかわらず、波長の合った相手に同調して、相手の資質や能力を増幅してしまう。以前、そのためにいわゆる吸血鬼の類いに同調してしまい、ひどい目にあいそうになったこともあるのだが、これまでのところ最も波長が合っているのはKらしく、彼といる時には彼の資質を増幅させてしまうことだけに気をつければよかった。
 もっとも、それこそが問題であることも確かなのだ。
 彼とつるんでいると、その『怪異体質』を際限なく増幅する。大学祭のお化け屋敷がいい例だ。私はこの体質が無くなるか、コントロールできるようにならぬ限り(Kには無理だと断言されたが)、Kといる間に怪異にあうことは諦めなければならないようだ。
 というか。すでに半ば諦めている。
 友人としては、変わり者の評判も名高いが、いい奴だと言ってもいい。少なくとも、悪い奴ではない。その『怪異体質』さえなければ。
 知りあったのが運のつきなのか。お互いの体質を考えると、それさえ必ずしも偶然ではなかったのかもしれない。Kは、ただいつも通りに笑うだけで何も言わないので、まあ、たぶんそうなのだろう、と思う。
 とりあえず、退屈だけには縁のない毎日だ。



「なぜここにいる」
「退屈なんだ」
 Kはさらっと言った。この講義はKには必要がないはずだが、一応ノートが広げられているのは、大教室とはいえ教授に気を使っているのだろうか。
 と好意的に考えていた私の目の前で、Kは広げたノートに大きく地図を書き始めた。
「何だよ、それ?」
「展示会があるんだ。鉱物展。見に行くから」
「…バス通りから、かなり外れてるんじゃないか」
「少しくらい歩いたところで、倒れるわけでもないだろう。ここだよ。四時に、食堂でね」
 破り取った地図を手の中に押し込むと、止める間もなく教室を出て行ってしまった。
 いったいどこからそんな情報を仕入れてきたのだろうか。展示会があるという場所は、名前を聞いてすぐに場所がわかるという博物館ではない。
(うさんくさい)
 二重丸のついた地図を見ながら、私は心に呟いた。退屈しているKほどやっかいな者はあまりいない、と思う。
 地図をしまおうとしたときになって、ようやく彼と約束してしまったらしいことに気がついて、私は頭が痛くなった。



『このコレクションは、故・坂井明氏の手によって収集されたものである。現在は、御子息の孝弘氏が所蔵、管理を行なっている。今回は特に生前の明氏が好まれた収集物である…』
 説明書を読み終えるのを待たずに、Kは私の腕を引いた。そのひょろりとした外見からは想像しにくいが、彼はけっこう力が強い。言ったところで聞きはしないのだが、一応は抗議すると、彼はにっこりと笑った。
「そんなの読んだって、おもしろくないだろう」
 博物館は、明治か昭和初期か、とにかくそういった時期に建てられたような、石造りで趣のある建物だった。中は、照明が足りないわけではないようだけれど、入り口をくぐってからずっと、どことなく薄暗い感じがつきまとっていた。
 展示室に入ると、広くはない部屋の壁面はすべてガラス張りの展示ケースになっていて、そこに、石がいくつか並べられているのだった。説明文を読もうとして足を止めた私を、Kがまた思いきり引っ張った。
「今度はなんなんだよ」
「見に来たのは、別のモノだよ」
「なんだよ?」
「すぐわかるから」
 それだけ言うと、彼はまた私の先を歩きだした。周囲にまったく目もくれない。しかたなしに、私はおとなしく後を追った。ふたつ、みっつと小さな展示室を素通りして、四つ目の広めの展示室は、しかし目を引いた。
 中央には大きな岩の板が立ててあった。薄い緑色の表面には、森とたくさんの鳥が描かれて見える。ケースの中に並べられている物は大きさは劣るものの、やはりその表面はたくさんの模様や絵柄で埋め尽くされていた。図柄はさまざまだった。鳥や森、獣や小動物、人間も建造物も地図のようなものもあった。
 普通ならば、その展示は結構な見物だったと思う。特に中央に据えられた身長ほどの、暗い青緑色の石には、広い断面に明らかに魚や珊瑚、海草とわかる模様と、群れをなしている人魚たちの姿があった。十分に絵画として飾ることのできるような整った図柄に、私は感心した。
 が、Kはあっさりその部屋も通り抜けた。引きずられるように歩く私も、当然それ以上詳しく展示品を見ることなどできない。
「そんなもの、珍しくもない」
 というのがKの言い分だった。
「壁のしみが花や鳥や人の顔に見えるのは、珍しいことじゃないだろう? 木の天井の模様がお化けみたいに見えたことだって。同じことだよ」
 言い切る彼に、しかしそれにしてはくっきりとそれらしく見えるじゃないか、と反論したが、
「手を加えてあるんだから、当然じゃないか」
と一蹴された。
 説明も読ませなかったのにわかるわけがないじゃないか、と思ったが、結局、何も言わないことにしてしまったのは、その『絵』を見て、思い出したことがあったからだ。



 この夏の海は壮観だった。
 車を持っている奴を足にして、友人五人で海に行ったのだが、てんで勝手に遊ぶうち、ついでに無人島に乗せていってくれるという船の時間に間に合ったのは、私とKだけだった。
 無人島とは言うものの、ほんの沖の小島なのだが、人込みをかきわける海水浴場よりも快適だからと、それを教えてもらえたのは、友人の一人の地元だったからだ。
 遠浅の砂浜は泳ぐのにはもってこいだった。根性があれば海水浴場まで泳いで行けないこともない距離だったし、そこまでしなくても三時間後には迎えがくる約束だった。
 お互い勝手に泳いでいた。一時間ほどたったころだろうか、二人同時に顔を上げた。
 女性の声がしたのだ。
 私は彼と二人で島の真ん中を突っ切った。そちら側は、外海に面しているために波が荒く、海岸もひどくごつごつとした岩場になっていて、海水浴にはむいていない。しかし、上の方からのぞき見ると、確かに女性たちが五、六人も水遊びをしていた。
 すぐに上半身が裸なことに気が付いて、のぞき見るのは憚られたが、こちらを見つけた彼女らの方が、逆に大きく手を振った。
 照れ笑いした私が、手を振り返して近づこうとしたとき、それまで何にも言わなかったKに引き止められた。
「よく見なよ」
 彼はすっと彼女らを指さした。
 沈みきらない太陽に、海面は金色だった。彼女らはいかにも楽しげで、私もついつい浮かれ心地になっていた。
 女性たちはいつのまにか十人ほどに増え、岸の近くにいる者は、その整った顔だちまでよく見える。
 その美しい鱗も、尾も。
「人魚だ」
 私の様子がおかしいのか、彼女らはこちらを見ては笑いくずれた。何か絵画集で見たような、海の乙女たちが水に戯れている。長い髪を波にあらい、こちらを見ては、誘いかけているつもりなのか、手を振る。白い手が、肌が、胸が美しい。
 ついつい、私は足を踏み出して、彼女らの方へ行こうとしていた。たぶんあと一歩で、岩場の端から海へ落ちていただろう、寸前で、Kが私の肩を引いた。
 よほど不本意な顔をしていたのか。珍しく苦笑しながら、彼ははっきりとした声でくり返した。
「よく見なって、言っただろう?」
 岩場の真下、ぐんと色濃く深いそこにいた女は、こちらを見あげて、おかしくてたまらないというふうに、笑った。
 美しい唇の奥に、ぞっとするほど白い歯が並んでいた。鋭くとがって何層にも連なり、それこそ鮫の歯めいているのが、よく見えた。
 夕陽が赤くにじんでいた。彼女らは二十人ほどにも増えていて、後退りする私を指さして、笑っていた。
 ほろほろと、水滴が水面を打つような声で笑っていた。
「こんなに集まるなんて、さすがだね」
 Kはそんなふうに言って、もう興味をなくしたのか、砂浜の方に足を向けた。
「そもそもおまえがいなけりゃ、集まって来たりはしなかっただろうさ」
 負け惜しみがこもるせりふで答えながら、私の足はまだ少しの間、動こうとしなかった。
 そういう類いの光景だった。



 ぼんやりと、そんなことを思い出しているうちに、別の展示室に入っていた。もしかしたら引きずられるまま、さらにひとつかふたつは素通りしていたかもしれない。
 しかし、そこでKの足は止まった。
 顔を上げると、それは目に入った。
 大きな、両手でやっと持つことのできるくらいの大きさの石、表面にはなめらかな光沢があり、赤褐色や白い色が縞になってからみあって見える。この石の名前は知っていた。瑪瑙。もちろんこんな大きさのものは初めて見た。
「この中には水が入っているんだ」
 突然、Kが口を開いた。
「水?」
「手にとって振ってみればすぐにわかるんだけどね。この展示室の石は全部だよ。集めた人は、特にこれが好きだったらしい」
 軽く手を広げて示した展示物は、外見からは何ら特別なようには見えない。確かにKの言った通り、手に持ってみなければわからないものなのだろう。
「さて。それではこの石を割ったとしたら、どうなると思う?」
「どうなるって、水がこぼれるんじゃないのか?」
「そう思うだろう。でも違うんだ」
 Kはにやりと笑った。
「いいかい。この中の水は、溶けた鉱物が冷え固まるその過程で、空洞に落ち込み、閉じ込められてしまったものだ。ねえ、そのとき以来、強い圧力が水を圧迫して液体のままにとどめてきたんだ。なら、この石が割れて、その圧力がなくなってしまったとき、水はどうなるだろう。――簡単さ。蒸発してしまうんだ」
「蒸発!?」
「そう。石に亀裂が入った瞬間に、この水は消えてしまう。これこそ浪漫じゃないか? 今ここにある太古の水は、石の中にしか存在しない、存在できない。ただこの中に、古代の『時』が封じ込められているんだよ」
 言葉もなく、私は石を見つめていた。Kは、声を高くしたわけでも、興奮した様子でもなかった。それでいて、彼は平然と落ち着いてはいなかった。
 一瞬の全身が痺れたような感覚は、しばらくたつと嘘のように消え去ったが、私は言葉を出す気にはまだなれなかった。
 何かがおかしかった。展示室に入った時からずっと、ここにいることがまるで初めてではないように、私はここに響く声を待ち望んでいる。
(帰リタイ…)
「そうだ、…夢だ」
 口をついた言葉に、私は逆にうろたえた。
「今朝、夢を見たんだ」
(思イ出シテ)
 水音が聞こえたのだ。(夢ヲ)閉じ込められたように(ココニ無イ)響く、水音が。
 Kが私を見ていた。彼の肩越しに(待ッテイタ)展示してある石が(出シテ)、照明の中にぽつりと浮き上がって見えた。
「水の音がしなかったか?」
 私の(海ノ音ヲ)声が。
「聞こえてるよ」
 Kが、笑う。肩が(海ニ)揺れて、(カエリタイ)背後の石を振り返る。
「ちゃんと聞こえているだろう?」
(出シテ)
 たった一つの石に夢のとおりに照明なんてしてないことに、私は気が付く。肩越しに。叫んでいるのは誰なんだろうと、立ちすくむ私を静かにKが、笑っている。
(出、シ、テ… )
 叫んでいる。石の中から。
「いったい何なんだよ?」
「わかるんじゃないかな、君なら。聞こえているんだから」
(ココカラ出シテ)
 Kと違って訳がわかっていないのに声は訴え続け、私をさらに混乱させた。
 立ちすくみ私タチハ帰リタイそこに帰リわだかまる海ニ思いを帰シテ聞き取りながらココハアンマリ狭クテとても自由ではないのだ。だから狭クテ自由ニ泳ゲナイどこにも行けずに出シテアノ海ヘここで出シテココカラ誰の声も聞かずに帰リタイただ海ヘ憧れるアノ海ヘ帰ルのに。
 聞こえているのではない。統一されていない声はするりと思考の中に交じり混んで、声に出しでもしないと混沌として区別を失っていく。
 そう、そもそも言葉ではないのかもしれない。ただ周囲の石から放たれる思念、永い想い、望郷の叫び声が、私たちの頭の中で言葉の形に凝固して、思いを伝えているのだろう。
 何故なら、その声が叫ぶたび、海の風景がひらめいた。細かい砂礫の上を滑るいくつもの細い影。刃のように鋭い動きで先を行く仲間の尾びれ、また背びれ。餌となる小魚の群れを追う。
 声と言葉と映像が同じ次元で交じり合ったかのように。石の中からあふれ出す憧憬。
(帰リタイ)
 Kが答えた。あっさりと。
「それは無理だよ」
 動揺の波飛沫が脳裏にきらめく。
(帰ル私タチハ海ヘ帰ル)
「無理なんだよ。君たちの海はもう無いんだから」
(帰ルココヲ出テアノ海ヘ海ヘ)
(アノ海私タチノ海)
「君たちの海は、もうその石の中にしか存在しないんだ」
(アナタナラ出来ルハズ私タチヲココカラ出シテ海ヘ)
(ダカラ私たちを呼ンダ夢で声ガ聞コエル人ヲ待ッテイタズット)
(彼らはヤット待ッテ今まで待ッテ待ッテアナタトアナタニ声ヲ届ケテクレル人ヲ)
(ずっとアナタタチガ来テクレル日ヲ呼ンデイタズットココマデ)
(出シテ待ッテイタ海ヘ)
(聞イテ帰リタイアノ海ヘ)
(帰リタイヨ)
 Kは幾重にも私たちを取り巻く願いに、いつもの表情で対している。気が付けば私は彼に同調していたから、彼が何ら動揺していないことも分かっていたし、おかげで正気を保ってもいられたのだけれど、くらくらと目眩のような感覚は免れなかった。
 チャンネルをひっきりなしに変えられていくような感覚は、彼らの思念がひとつきりではなく、次々と入れ替わり私に触れてくるのだろう。同じく海中でも明るくなり、暗くなり、岩場であったり砂地であったり、光のカーテンめいてひらひらと波打って見えたり、暗闇が凝っていたりもした。一匹、また数匹と、追われるその合間に、窮屈な、ひどく狭い閉じ込められている場所が、そこにいる苦しさが、胸を打った。
 苦しいほどの望郷、憧憬。(カエリタイ)彼らのとりどりの思念が脳裏に瞬く。
 それを無理だと一蹴するKの理由は、先刻聞いた通りだった。
「この石の中、君たちのいる場所には、強い圧力がかかっている。その力で石の中の水は液体のままでいられるんだ。でももしも亀裂が入ったなら、水は一瞬のうちに気体に変わるだろう。それだけじゃない。石の中の君たちもその圧力の中で泳いでいるんだ。割れた瞬間に間違いなく水と一緒に蒸発する、消え失せてしまうんだよ」
(海ヘ)
「海へ帰ることもできない。石の外に出たら、君たちは存在できないんだ」
(アナタアナタニハ力ガアル)
(強イ力ガ出シテ海ヘ強イ特別ナ彼ト二人スグ分カル)
(待ッテイタ待ッテ)
(アナタタチヲ待ッテイタ)
「おい、K」
 私はとうとう口を開いた。
「なんだい?」
「初めから、こうなると知っていて連れて来たんだろ、おまえ」
「さて」
 Kの曖昧な微笑に確信した。
 高校の頃には『怪異には迂闊に近寄らないのが身のためだ』などと言っていたくせに、最近はわざと引きずり込む。私が気がついていると承知のうえで、笑っているのだ。
 だから今日、ここに来たのだろう。私が忘れていた夢のことも承知で。
 この閉じ込められた魚たち、展示されている、水を抱く石たちに呼ばれたからと、言いなりに来るような奴ではない。何かがあるのだ。
「はっきり言え。こいつらの愚痴を聞きに来たわけじゃないんだろ?」
「そうだって言ったら?」
「殴る」
 Kは大声で笑った。
「だから、君といるのはおもしろいんだ」
と手を伸ばす。
「こっちに来なよ。これを見て」
 指さしたのは瑪瑙の、とりわけ大きなものだった。展示品の中で一番大きくて、それだけが理由ではなく目を引いた。
 両手でやっと持てるくらいの滑らかな卵形の石は、照明を受けてそれとは違う色の淡い光を放ち、その光は内側からゆらゆらと揺れていた。
 水を叩く音がする。
「魚の泳ぐ音、なのか?」
 また帰リタイココカラ波の音が聞こえる外ヘ海ヘ。
「この部屋に入ったときに、君も一番にこの石を見ていた」
「ああ、そうだった」
「何故、この石が目を引くのか、気が付いていたかい?」
「…いいや」
「僕たちを呼んだのが、この石だったからだよ」
「…」
「僕たちだけではないけれどね。誰にでも、外に出してくれる、声を聞いてくれる者を探して、呼び続けた。その結果が、このたくさんの同種の石だし、これらの収集者だったんだよ。僕たちのように声を聞き分けることまではできなかったけれど、呼ぶ声を感じて、惹かれた。彼だけじゃなく、いろいろな人が、わけも分からず、それでもこの石の前でつい立ち止まっただろうね」
 声が聞こえる。強い想いが頭の中にあふれている。思念の中に交じり混んでくる。
(帰リタイ)
 泣き声だった。孤独でたまらぬまま、立ち止まっては歩み去る人間たちを呼び続けた。ふり向いても、気がつかない彼らに。
(帰リタイ海アノ海ヘ)
「でも君たちが帰りたがっているのは、もう無い海なんだよ、君たちの海は太古の海だから」
 感傷が混じっていたように聞こえて、私は驚いた。めったにそんなものを表に出す奴ではないからだ。気づいて振り向いた顔はもういつもの、とらえどころのない表情になっていたけれど。
 だから聞き損ねた。おまえも夢を見たのかと。
「なら、どうするんだよ」
 彼らは(帰リタイ)ずっと思い続けてきたのだ。ここを出テ外ヘ離れてもとの海ヘ遠い海ヘ広イ(外ヘ)帰り着く海ヘ、それだけを。
「太古の海へは帰れない。でも外へ出すだけなら、出してあげられる」
(外ヘ)
「おいっ、蒸発してしまうんだろ? 死んでしまうんだろう 」
「そうだよ。でも、ねえ、それ以外に何ができる? 今の海へ返すにしろ、持ち出すことはできないんだし、次の偶然までこのままにしておいた方がいいと、さみしいままにしておくのがいいと、思うのかい?」
「でも」
 Kなら石から出してやることくらいできるだろう。けれど彼らはそれでいいのだろうか。たとえ外に出たとして、ここは今の海さえ遠いのに。
「いいんだよ」
 私の考えが聞こえたかのようにKが答えた。唐突につかんだ私の手を、ガラス板の上に強く押し付けながら。
「空ハ海マデツヅイテイルンダカラ」



 ピシリッ  微細なひびが、展示室いっぱいに反響し。
 真っ青な海が反響して。
 あふれかえる。
 アフレ、カエリ。
 私の頭の中を荒波のようにくぐり抜けて。
 細いもの。太いもの。大きいもの。ごく小さいもの。奇妙な形。光のような鱗。グロテスクな姿。美しい模様。ひとつとして同じものはいない、目を奪われるほど鮮明に、室内を泳ぐ魚たち。
 溺れるほどの、一瞬の海の記憶が展示室を満たし。
 蒸発した。
 すっかり、消えてしまった。
「…K。つまりこれを見るために、わざわざ、連れて来たんだな」
 カランと、奇妙に空っぽになった部屋の真ん中に立ち、やがて私が低い声で、いくらかの怒りも込めて、そう言うと、彼はさらりと応えた。
「なんだ、今まで気づいてなかったのか」
 だからKは信用ならないのだ、と思う。



 一時間後。私たちは街の騒音に包まれて歩いていた。
 歩道橋を上りきると、Kがこちらを向いて立ち止まった。毒気を抜かれたような気分で私はKと目をあわせた。日が暮れて、彼の背後で街の明かりがちらちらと瞬いている。
「ねえ。君はそもそも、本当にあの中に魚がいたと信じているのかい?」
「なんだと!? 最初にそう言ったのは、おまえじゃないか」
「言ってないんだけどね。考えてみなよ。石の中のあの狭い空間に、太古の魚がいられるものか。第一、その中に閉じ込められた魚が、外の海をどうして知ってるんだ?」
「それじゃあ、あれは何だってんだ? 魚じゃなかったんなら――」
 私ははっとKの顔を見た。彼といる限り、どんな不思議も起こり得るが。
「…石は生きちゃいないだろ」
「そうかい? 石だって成長はするんだよ。それを別にしても、何故、あれを見せたのが魚ならよくて、石であってはいけないんだい?」
「何故って…」
 口ごもる私をよそに、彼は空に目を向けた。つられて上げた私の目に、地上の明るさの割に星はいくつも輝いて見えた。
「ねえ。僕たちのこの宇宙が、一個の石の抱く夢ではない、なんてことを、いったい誰が断言できると言うんだい?」
 そう言って、Kは、いつものように、笑った。




《了》




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