沈 め る 鐘
彼のささやき声は、いつか消える鐘の音のようだった。 私に向けて語られたものではなかったのだけれど、ちょうど、隣席だったというだけの相手との会話が途切れ、黙り込んでいた私の耳に、彼の声は奇妙なほどにはっきりと響いて聞こえた。 盗み聞きしたわけではない。話の内容について少しも意識していなかった。ただ、その声が言葉としてではなく、また音楽でもなく、響き、鐘の音のように、いつの間にか耳を傾けていたのだ。 ほんの数分間のことだった。 ざわざわと騒音が高まり、誰かが大きな声をあげていた。店を移動することになったようだ。私は幹事をつかまえて断ると皆と別れた。そもそもがその幹事を務めている友人への義理と、たまたま暇があったから参加してみたまでで、二次会に行こうと思うほどに、同窓会を楽しみに来たわけではなかった。 もっとも、まだ少し飲み足りぬ気分はあった。ひとり、どこへ行こうかと思案していると、 「どこか、いい店を知らないか?」 ふりむくと、彼が集団から離れて立っており、私はそれを不思議に思った。疑問を読み取ったのだろうか、彼は首をすくめて、言った。 「あまり人が多いと、疲れる」 「…十分、以上は歩くことになるが」 「ああ」 高校時代、親しくしてはいなかった。それどころか三年間同じクラスであったにもかかわらず、ほとんど話をした記憶がない。彼はいつも集団の中にいるようなタイプで、どちらかと言えば、図書室に通いつめることの多かった私とは、接点が少なかったからだろう。今夜も、直接に話をしたわけでもない。そのくせ、当然のように彼は私の後について来た。 ほんの少し、明るい通りを離れた雑居ビルの三階の、店は真っ青な分厚い硝子戸の向こうにある。こじんまりしていて、二十人も入りはしない。全ての座席が埋まるほど客がいたこともない。照明は暗く、全体が青系統の色彩で統一され、手元の硝子器の中で蝋燭の炎がちらちらゆれる。 今日は客がひとりもいない。二人掛けのテーブルにつくと、暇な顔をしていたマスターがすぐにボトルを運んできた。 グラスを手にしてふと顔を上げ、今日初めて彼の顔を真正面から見た。ああ、髪が伸びたなと思ったが、それ以外の雰囲気は昔と変わった様子がない。ここに来て、ひどくくつろいでいるように見えた。 「深海魚みたいな気分だ」 「落ち着くだろう。いつも、客が少ない」 「ここなら、行動範囲の中だな」 静かに話す声はやはり鐘の音のようだ。どこかの国の伝説に、水の中の鐘の話があったような気がするのだが、はっきりと思い出せない。 「みんなで騒ぐのが好きなんだと思っていたんだが」 「嫌いではないよ。けれど、いつもというわけでもない」 低い声で笑う。そんな笑い方を聞きながら、同時に高校時代の朗らかな笑い声を思い出していると、彼は続けて意外なことを言った。 「以前から、おまえと話してみたかったんだ。親しくしてこなかったけど」 「何でだ?」 「よく、外を見てただろ?」 話の流れがよく分からぬまま頷いた。何故だか、三年間のほとんどを窓際で過ごしたために、授業に飽きると自然に視線は外に向かった。授業中とも限らなかった。たいして珍しいものが見えたわけではない。 「空を見ていただろう? いつだったか忘れたが、一度だけ、おまえの独り言を聞いたことがあったんだよ。まるっきり無意識だったみたいだけれど。あの時から、話してみたいと思っていたんだ」 「何て言ってたんだ?」 「『青い…』ってさ、一言だけだ」 「覚えてないな」 しかし、言っても不思議はない。不思議なのは、彼がそれを――変わった言葉でもない一言をおぼえていて、そのために私と話したいと思ったことの方だ。 「そうだろうな。ただ、俺はあの時から機会があれば聞きたいと思っていたんだ。おまえも、俺と同じように、世界が水底のように青みを帯びて見えているのか、どうか。ずっと聞いてみたかった」 私は彼を見つめた。驚いた顔を、彼は満足そうな表情で見返していた。 「やっぱり、そうだったんだな」 「…」 「この店に案内されて来た時から、本当は確信していたんだ。ここは、そのものだから」 「…ああ、そうだ。深海魚の気分だよ」 とうとう私は打ち明けた。そうすると、彼はもう何十年もつきあってきた友人のように感じられた。私たちは、同じ種類の視覚を持っていたのだ。 彼はくすくすと笑った。 「きっと部屋もそうなんだろ。俺のとこは、今は、海中の写真でいっぱいだ」 「少し前までは似たようなものだった。一面空のジグソー・パズルのパネルを妹に取られて、模様がえをしたんだ、最近。それでまあ普通の状態になっているかな。この間、とうとう水槽を入れた。落ち着くんだよ」 「真っ青で、溶けていくみたいに見える…」 「鐘の音みたいな声だな」 つい口をついて出た。彼は、けれど驚いた風もなく、応えた。 「ああ、水の中で鳴り続ける幻の鐘さ」 いや、懐かしげな様子でだった。私は自分がすっかり酔ってしまったのではないかと疑った。しかし、彼が話し続ける。 「趣味で、ダイビングをやってるんだ。休暇のたびに潜りに行ってる。最近は水中用カメラまで買って、すっかりローン地獄だ」 「へぇ」 「二カ月前、ヨーロッパの方に行って、湖に潜ったんだ。ずっと昔そこには街が在って、あるとき水に沈んだのだと土地の人に聞いた。波の静かな日には今でも、水上からその街が見えるとも言われていた。土地の案内の人、二人と潜って行くと、透明度の高い湖で、確かに湖底には石造りの街が、街の跡が見えた。そのまましばらく一人で泳いでいたんだが、鐘の音が聴こえてきた」 「鐘の音が?」 「街のどこかから。動くのをやめると、ふいに陽光が射し込んできて――その日は朝から曇っていたんだ――光がカーテンのようにゆらゆらと街にかぶさり、その中央に高い塔がそびえていた。鐘楼で、影がゆれていた」 「また、聴こえたのか」 「ああ。不思議な光景だった。光がどれほど射し込んできても、水中はやはり真っ青で、光まで真っ青で。自分の呼吸の音も、いつもならうるさいぐらいなのに、俺は静けさの中に浮かんでいて、そして、鐘の音が鳴り響いた。とっくの昔に滅んだ街に」 何も言わなくてもよかった。私にはその光景が見えていた。おそらくは彼の見たものと寸分の違いもないだろう、青い世界だ。 「もっと不思議なのは、その光景を見たおぼえがあることだ。既視感と言うのだったかな。妙に、そう妙に、いつか見たことがある、聴いたことがあるという確信が、あった。けれど、いつだったのか、結局、わからない」 沈黙がおちた。ちらちらと炎がゆれ、青い影が壁に踊る。魚の尾がひるがえるような店内に、他に客はいない。 手の中で氷がぶつかりあい、店内に鐘の音が鳴り響いた。 彼は顔をあげた。 私も顔をあげた。 一瞬、世界がゆらいだ。 真っ青に。 さざめいた。 * * * 「これ、どうしたんだ?」 「買ったのよ、もちろん」 笑いながら彼女は言った。 「少し高かったけれど、きれいでしょう? 服を一着、諦めたのよ」 直径が二十センチほどの球形の硝子の中で、小さな陶器の建物がいくつか、ヨーロッパ風の町並みを形作る、ミニチュア。水槽の中には、いっぱいの液体。水ではないのだろう、薄く青みを帯びている。つい最近だろうか、買ったのは。 「こういうもの、好きだったか?」 「あら、知らなかったの? 写真集とか、置いてあるわよ、ほら」 言われて、書棚に目をやると確かに何冊かの写真集があって、適当に目を通すと、どれもヨーロッパの城や町並みの写真だった。しかしそれは、私が聞きたかったことではなかった。 街は水の中に沈んでいる。青い水の中に沈んでいる。街の真ん中には高い塔がそびえ立ち、鐘楼の中には、影がゆれる。 影が。 「どうしたの?」 現実が、彼女の声で語りかけてきた。私は小さな顔を見下ろして、なんでもないよと答えた。 軽やかに話し始めた彼女の声に耳を傾けながら、心がふらりと水槽の中に返っていく。 ミニチュアの街、鐘楼には影がゆれる。 もしも彼女に話したならば、一体何と言うだろう。おもしろがったとしても、信じることはないだろう。笑い飛しはしないまでも、本当に信じようとはしないだろう。 ましてや、彼の話との奇妙な照応など、彼女にとって何の意味もない。 彼女との距離を感じて、私はそっと手を握った。青い色彩に溺れたことのない瞳が、私を見上げる。やさしく微笑む。 「どうしたの?」 彼女の声は、少しも鐘の音のようには聴こえない。 * * * 店は珍しく混んでいたが、カウンターで手を上げる彼はすぐに見つかった。辛うじて空いていた彼のとなりに滑り込むと、久しぶりだなと、彼が言った。 「来週の頭から、有給休暇を取って潜りに行く」 「どこに行くんだ?」 「この前話した、あの湖だよ。古い街が沈んでいる」 「鐘の音が聴こえた所か?」 「ああ、そこだ」 それは彼にしか聴こえなかった。彼の質問に、同行した土地の人達は何も聞かなかったと答えたのだ。水の中で鐘が鳴るはずもない、普通ならば。 「また行くのか」 「今度はカメラを持って行く。前回は、まだ買う前だったから」 「撮れるのか?」 「たぶん」 彼は答えた。 「撮れなくてもかまわないんだ、本当のことを言えば。ただ、もし思った通りに撮れたなら、おまえに見てもらいたくてな」 「見なくとも、たぶん分かるが」 「ああ。それでも見てくれ」 酒を注ぎ足し、彼は続けた。 「とにかく、気になる。今まで一度もこんなことはなかった。どんなきれいな所に潜っても――あの映画の『グラン・ブルー』の舞台になった場所にも行ったことはあるが、そしてとても青く美しかったけど、こんなに惹かれたりしなかったんだ。それなのに、あの光景は、鐘の音は、離れない。最近は、夢にも見るほどさ」 「どんな夢だ?」 「湖の中に俺がいる。街を見下ろし、ひどく長いことそこにいるようなんだ。生きたものの姿は見当たらない、魚もなにもいない、俺一人きりだった。街は、廃墟なんだが、いましがた沈んだばかりのようにも見えた。突然、圧倒的な光が、真っ青に周囲に満ちあふれ、そして鐘が鳴り始める。沈黙に似た響きが、光とともにあふれかえって、…俺は目を覚ますんだ」 「こわいな」 「ああ。けれど惹かれる。目が覚めて、消えてしまうたびに、そう思う」 うっとりとした表情で、彼は言う。私は、頷いた。 「ああ。そうだな」 * * * 初めて、世界の青さを感じた時、ひどく恐ろしかったことをおぼえている。 あの時、目を上げた瞬間に、すべてのものに青く紗がかかり、なにもかもに青い色彩が溶け入っていることを、青が滲み出してくることを、私は知ったのだ。 高校に入ったばかりの頃だった。 数日たつとその視覚に慣れて、初めほどの恐怖は無くなった。しかし折に触れて、世界は青く波立った。そんなとき、決まって世界はひどく静まりかえり、私は、極端に無口になった。空のものとも、水の色とも知れない青に溺れてしまいそうな、漠然とした恐怖が言葉を封じていた。 今でも時折その恐怖を感じる。けれど、恐怖ばかりではない、うっとりと魅入られるような感覚を知るようになったのは、一体いつからだったのか。目の前に広がる真っ青な世界を、青さを、美しいと思うようになったのは。 一度だけ弟に聞いたことがあった。そんなふうに見えたことはないと言われた。友人に聞いてみたが、目が悪いのではないかと笑われた。以来、誰にも言ったことはなかった。恋人にさえ、それが伝わるとは思わなかった。 勤めるようになってから見つけたあの店に行くときには、いつも一人だった。あのような青い色彩に満たされた、私の視界に似た場所に、誰にも踏み込んで来てほしくなかったからだ。 何故あの日、あの店に連れて行く気になったのだろう。彼のことを、私はほとんど知らなかったというのに。彼が同じ色彩を見ることも知らなかったというのに。 彼の声が鐘の音のように聞こえる。それだけの理由だった。 青が、波立つ。 * * * 彼と会わぬまま数カ月が過ぎた。二人とも、それぞれ店に来てはいたのだが、マスターの言う通りならば、おもしろいほどのタイミングですれ違っているらしい、顔を会わせることはなかった。また、お互いに連絡先を知らぬままだったことに、その時になってやっと、気がついた。 夏が過ぎてしまっていた。暑さが気にならなくなり始めたころ、手紙を受け取った。マスターから手渡され、封筒をその場で開けると、写真が一枚出てきた。 真っ青な、透き通った水中の街の写真。彼が話していた、あの湖だ。思った通りに撮れたのだ、私に見せようと思うほどには。だが、もっと美しいはずだった。カメラでは捉えきれない、彼もそれは十分に分かっているのだけれど。 その裏側に、彼の字で、日付が書き付けてあった。 『十一月一日』 いったいどんな意味があり、伝えようとしたのだろうか。撮影した日付ではないことぐらいしか、私にはわからなかった。何か説明ぐらいつけろよと思いつつ、幻想的な写真に見入る。 彼が言っていたように、本当に透明度が高い湖だ。街の全貌が収められているにもかかわらず、街並みは鮮明だった。しかし夏のその時期、これほどに透明度が高いということは、この湖水はもしかすると毒性が強いのではないだろうか。 うろ覚えだが、酸性雨の影響で、そうなってしまった湖のことを雑誌で読んだことがある。透明度は高いが、それは水がきれいだからではなく、あまりに酸性度が高くなってしまったために、生物がいなくなったからなのだ。 生物がいれば、水はそれなりに濁るものだ。まだ子どものころ、実家の庭に池があった。冬場はいくらか水が澄んでいるのだが、春から夏にかけて、藻の類いが発生するためだったのだろう、だんだん濁って底の方まで見えなくなるのだった。 その雑誌の写真には、周囲に林立する一枚も葉のない木々と、とても澄んだ湖が写っていた。そこに生き物を見つけるのはとても難しいだろう。 あの街の沈む湖の生物のことを、そういえば彼は一度も口にしなかった。 * * * 一瞬、彼だと気づかなかったのは、髪を短くしたためばかりではない。思わずまじまじと見つめてしまったほど、彼は変わってしまっていた。 外見での目立った変化は、痩せたことだった。以前も、太っている方ではなかったが、今ははっきりと頬がこけている。顔ほどではないものの、体の方もひとまわりは細くなり、背の高さだけが強調されて見える。だが決して顔色が悪いわけではない。 「痩せたな」 「そうか?」 「病気でもしたのかと思った。平気なのか?」 「健康だよ」 彼は笑いながら言った。その声は以前と同じく、鐘の音のように響いた。いや以前よりもそれらしい。私はひそかに不安を強めた。彼はしかし気づかずに話し続ける。 「写真は、実はほとんどが失敗だったんだ。マスターに預けたあの一枚だけが、うまく撮れていた。考えてみたら水中カメラどころか、普通のカメラもあまり使ったことがないんだから、一枚だけとはいえうまく撮れたことの方が、幸運だったのかもな」 「あの日付は何なんだ? ほら、十一月一日、だったかな」 私は思い出して尋ねた。 「あれか。分からなかったか?」 「ああ、全然」 頷くと、彼は素直に教えてくれた。 「簡単なことさ。あの街が沈んだ日だ」 「へぇ。本当なのかな」 「さあ。一晩にして沈んでしまったというのと同じで、本当のことかどうかは分からないが、そう伝えられていると教えてもらったからな」 グラスを持つ指も肉が落ち、骨張って細い。袖口から見える腕も同様だった。魚の尾のようにひるがえる火影が、彼の痩せた顔を照らす。病気ではないというなら、どうしてこんなに痩せてしまったのか。 心当たりはあった。 『深海魚』 彼が現実に潜っているのは湖だが、大きな違いはない。ただ、深く潜り過ぎていることだけが問題なのだ。 彼の内面の変化。彼だとすぐに分からなかった理由であるその表情は、しかし見覚えのあるものでもあった。 私自身の中にかつて見られたもの。 大学に在学していた時、私もまた今の彼と同じ場所にいた。同じほどの深みにまで潜り込み、青の色彩に憑かれていた。実際、あれほど現実から遊離していた時期は他になかった。視界の青さが日に日に増して、周囲に存在するものを認識できなくなり、ただ、滲み出す青だけが全てだった。 結局、浅瀬に戻ったのは、その世界への接点が不完全であったからだと今は思っている。以来、再び潜ったことはない。 彼は偶然にも、彼の見る視界と重なり合う世界に出会ってしまったのだ。あの店など及びもしない、まぎれもない接点。私が引き返してしまった場所だ。 彼は深く潜り過ぎている。しかしそうなった原因は、私にもあるのだろう。私と会ったことで、この青色の世界に潜り込む勢いがついたのだ。私が深みにあった時、青色の視界を共有するものはいなかった。彼には、私がおり、そして湖底の街があった。 今の彼はあの頃の私と同じ目をしている。自覚のないまま、さらに深く潜って行こうとしている。そして私とは違い、潜って行くことのできる世界がある。 「また近いうちにあそこに潜りに行くから…」 「もう潜らない方が良い」 彼の言葉を遮って、ようやく私はそれを口にした。 「…どうしてだ?」 それを説明するのはひどく難しかった。そしてまた、差し挟まれる彼の声が鐘の音のように響くたびに、私は自分自身が引き込まれぬようにしなければならなかった。 何より青がゆらぐのだ。 私たちは一緒に店を出て、いつも通りビルの前で逆方向に別れた。 「それじゃあ」 「ああ、さよなら」 私は、そこに立ち止まって彼の後ろ姿を見送った。彼は一度ふりむいて、手を振った。角を曲がり、すっかり見えなくなるまで私は動かなかった。 彼の声が、鐘の音のように、まだそこに残っていた。 * * * 相変わらず、真っ青な世界だ。 ぼんやりとそんなふうに考えながら、私はそこに突っ立っていた。気がつくと、そこは水の中のようで、足元には支えになるようなものは何も存在しなかった。 かといって、慌てる気分にも遠く、やはりぼんやりと、そこにいた。 遠くで、誰かの呼ぶ声が聞こえた。まだ遠い。私を呼んでいることは確かだったが、言葉にはならず、まるで鐘の音のようだと思う、ああ、彼の声だ。 そうか。 ふいに足元にあった街並みに気がつく。真っ青な古い街は、あのミニチュアによく似ていた。街のほぼ中央に高い塔がそびえ立ち、鐘楼に影がゆれる。 鐘の影がゆれる。 響き渡る。彼の声が。私を呼ぶ声が。 青みを帯びて、何と美しく、恐ろしく、もの哀しい世界なのだろう。生きたものの姿はなく、射し込む光まで、吸い込まれるほどに青ざめている。今まで見たことのあるどこよりも私の視る世界に近い。 彼が鐘楼に立って手を振った。私も手を振り返す。 ここにいる、と、大きく振る。 それにつれて、あふれかえる光と鐘の音。 いつも通りに自分の部屋で目が覚める。全てが夢であったことを知って、私は彼がかつて話してくれたことを思い出した。 『だけど惹かれる』 仰ぎ見たカレンダーの日付には、見覚えがあった。 * * * 彼とはもう会えなかった。 訃報を受け取ったのも、あの店でだった。彼も、同窓会名簿を見れば住所などすぐわかることに、最後まで気がつかなかったのだ。 私宛ての手紙が、出し忘れたのだろうか、店の住所を宛て名にした封筒に入れられて、机の上に置いてあったらしい。彼の父親が添え書きして、同封されていた。 もっとも葬式には間に合わなかった。ちょうど出張が重なり、長く店に行けなかった頃だった。ただ手紙を受け取った翌日が日曜日であったから、私はすぐに彼の家を訪ねることができた。 遺影は、見知らぬ人のようだった。 頼んで見せてもらった彼の部屋には、何枚もの海の写真、空のポスター、絵葉書、硝子やまた別の素材の置物、彼自身が写したあの湖の写真に至るまで、一見乱雑に、しかし彼なりの意図によって配置されていた。 真っ青だった。真っ青で、遺影などよりもむしろこの部屋の方が、私の知る彼らしかった。 深夜、ひとりで湖に潜り、事故で死んだのだと聞かされたとき、なんとなく、すでにわかっていたことを確認したような気がした。最後に会った日の彼の様子と、このごろくり返し見ている夢とが、全てを告げていたように思われる。 「潜水用具を全て外した姿で見つかったと聞いています」 彼の父親が、何故、という口調で語る。私には、理由が分かっていた。事故ではないことも分かっていたが、口には出さなかった。教えたところで何も変わらない。彼は戻らないのに、何を言う必要があるだろう。 それでも、私は知っている。夢の中、あの光は陽光ではなかった。彼はひとりで潜って行った。深く、さらに深く。夜の湖は全くの暗闇だから、始めは照明器具をつけた潜水用具を身につけていただろう。けれど。 暗闇に射し込んだ月光が眼前に現した世界は、彼の望んだ以上に青かったのだ。 彼は潜って行く。余計なものを捨て、深く、さらに深く、街へ。鐘の音を追って。 『あの街へ行くことにした。 前にも話したけれど、このところ、前よりもまたさらに、あの鐘の音が気になって仕方がない。今度は、鐘楼まで近づいてみようと思っている。 またあの店で会おう。その時に詳しく話す』 手紙は短いものだった。私に止められたことを、考えての結果だったのだろう。初めから戻らぬつもりでいたわけではなかったのだ。 しかし、彼は帰って来なかった。深く潜っていったまま、とうとう帰って来なかった。 彼がいなくなってしまってから、私はまたひとりであの店に通っている。私しか客のいないような日には、彼のことを考える。硝子器の中で蝋燭の炎はちらちらとゆれ、火影は青く魚の尾のようにひるがえる。 最近、読んだ本に少し気になる文章があった。もし彼が生きていたなら、きっと彼に尋ねていただろうが、はたして彼は知っていただろうか。古今を問わず、死者たちの国の多くが青く描かれてきたことを、彼は知っていただろうか。 今となっては知りようのないことだ。私が彼と同じ深みに潜って行くかどうかも、今はまだ分からない。 私はただ、時折青くさざめくあの店に、響き渡り、やがて消える鐘の音を聞いているだけなのだから。 |
《了》 |