Dream Catcher






 雲ひとつ無く晴れ上がり、それでいてどことなく膜を張ったように薄暗い空が、ただただひたすら青ざめて頭上を染めていた。




  ◆◇◆


 特に何があるわけでなくても、月曜日は憂鬱だ。遅刻したとなればなおさら。
 朝のHR終了後のざわつきの中、扉を開ける音は意図したよりも大きく響いた。
 またかと笑う友人たちの視線を受け流しつつ、それほど悪びれた様子もなく教室に入ると、彼は自分の机を目ざした。
「おはよ。なあ、隣のクラスやけにうるさいけど、どしたんだ?」
「おそよー、ノゾミちゃん」
「ノゾミじゃないし、『ちゃん』つけんのも止めろ」
「とうとう連続遅刻十回の達成だな、お見事」
「ご褒美に、エヘラが昼休み出頭するようにって言ってたぜ」
「げーーーーーっ、なんでエヘラっ!」
「そりゃ三年の学年主任だし、あいつ。おまえが担任に何回言われても遅刻やめねーから、敵がレベルアップしたってわけだ。よかったな、ノゾミちゃん」
「よくないし、ノゾミも『ちゃん』も止めろっ」
 けけけと容赦なく笑われながら席に着き、望は国語の教科書を取り出してビタンと机に叩きつけた。もっとも今回の呼び出しが自業自得でしかないのは知れてるので、友人連中はそんな八つ当たりは一切気にしてない。せいぜいが『がんばれよー』などと棒読み台詞の応援をくれるぐらいなものだ。
「昼休み職員室エヘラな。あーヤダ。それより、隣うるさいのは何だよ?」
「隣? 転校生だって」
「へえ、今ごろ? 半端な時期にくるもんだな。男? 女?」
「おとこー。背は高くなく低くもなく、顔がすげーいいってことも不細工ってこともない。頭の中味がどんなのかは、テスト待ち?」
「つまり、普通にしてたら目だたなそうなんだな」
「名前はちょっと変わってるとか言ってたけど。ただけっこう急な転入だったみたいで、今朝いきなり机増えてたらしいから、ざわついてるみたいよ」
「確かに、出流も転校生が来るとかって、何にも言ってなかったな」
 隣家の幼馴染は隣のクラスの生徒だから、転校生なんていう話題があったら話に出ないわけがない。予告もなく現われた転校生なんて、大学受験が微妙に視野に入るかどうかといった退屈してる高校生にとっては絶好の遊び道具だ。いつにも増して隣がうるさいのも当然だと納得できた。今ごろ質問の嵐の中にいるに違いない。
 まあ同じ部活に入部してくるとかならともかく、当面は関係ない話だ。
 そんなことより五時間目の英語の宿題ができてないことの方が差し迫った問題で、急いで残りを仕上げるため集中しようとした望だったが。
「ああ忘れてた。望。国語と英語、授業時間交換になったから」
「それを先に言えよっ!!」
 折しも、一時間目開始のチャイムが鳴った瞬間のことだった。




 戸口で引き返したくなったほどに教師がほとんどそろっていた。そのまん中での注意という名のお説教と、ついでとばかりに英語の教師に引き止められて結局間に合わなかった宿題や、居眠りが多すぎるなど自分とは関係ないことまでくどくど言われたことを、右から左につるっと素通しして、望は職員室を後にした。
 解放されて嬉しいのと、休み時間を潰された悔しさとが半々というところ。せっかく食べた昼食の消化に悪いよな、と戸を閉めたと同時に思わず大きく大きくため息をつく。
 その背中に声をかけられた。
「望じゃないか。なんで職員室から出てくるんだ?」
「いず…」
「もしかしてまた遅刻したのか。おまえ、もう三年生なんだから、いいかげんにしとけよ」
「だってさぁ…、ていうか、なんでいきなり図星差す」
「そりゃ、それ以外におまえが職員室にいる理由に心当りが無いからな」
「質問に来たとかそういう…」
「あり得ない」
「断言すな」
「幼馴染として、心にもない嘘はつけない」
「ひでぇ、なんて冷たいんだぁ…」
 大袈裟に泣きまねしてみせた望のがっくりと落とされた肩を拳で押すように叩き、出流は笑った。彼もまた応えて苦笑いとともに問い返す。
「ところで、おまえこそ何してんだ?」
「校内の案内。聞いてるだろ、うちのクラスの転校生」
 言われてようやく、出流の半歩後ろに立っていた見慣れない人影に気づいた。縁の無い眼鏡をかけた少年は、促されるまま今日何度もくり返したのだろう調子で名乗った。
「夢野久作です。よろしく」
「ユメノキュウサク? なんかどっかで聞き覚えがあるような無いような…」
「作家でいるんだってさ、同じ名前。『ドグラマグラ』って知ってるか? それ書いた人と字まで同じ」
「へえ」
「…知らないなら知らないって言った方が、後々恥ずかしくないぜ?」
「そういうおまえは知ってたのかよ?」
「名前だけはな」
「………へぇ?」
 いかにも疑わしいと言いたげな視線は無視して、出流は肩をすくめた。
「担任は知ってたみたいだったぜ。さすが腐っても国語教師。もっとも作家の名前と同じなのは知らなくても、なんだか変わってるとか古めかしい名前だってよく言われるんだとさ。な」
「それでもね」
 ふいに、当の転校生が二人のやり取りに口を挟んだ。
「最初、うちの母親は名字にかけて『獏』ってつけようとしたんだって」
「バク? って、悪夢を食べるとかいう獏?」
「そう、それ。さすがに父親が必死で止めてくれて、それならって『久作』にしたんだって。ほんと、父親には心から感謝したよ」
「とんでもない母親だな。『久作』にしたって、有名な人の名前と同じじゃ、後々色々言われることになるってわかると思うけど…」
「でも獏よりマシ」
「獏って、どんなんだっけ?」
「象の鼻、犀の目、牛の尾、虎の足、の想像上の生き物。現実にいるバクとはまったく関係なし」
「…慣れた説明だな」
「慣れてるよ。名前の由来を話す時には必ず説明してるから」
 説明はため息と同時。思わず納得し、同情してしまいたくなった。
「そういう事情なので、名字の夢野で呼んでほしいんだ。呼び捨てでかまわないから」
「わかった」
「了解。オレは九日望。ココノカって書いてクノカ。呼び捨てでいいから。…くれぐれも、他のヤツらのマネして呼ばないように」
「クノカ? へえ、珍しい名前だね。けど……他の人は何て呼んでるんだ? 出流と同じに名前で呼んでるんじゃないのか?」
「そのうちわかるから、聞かないでやってくれよ」
 いきなり憮然とした表情になり口ごもった望の隣で、出流は笑い出しそうになるのを必死で堪えてのことだろう、頬を引き攣らせてそう言った。




「おまえら、廊下の隅にふき溜まって、いったい何やってんだ?」
「ありゃ、岳センセ」
 がらりと勢いをつけて戸が開けられ、いかにも体育会系風な四角い頭がぬうっと突き出された。言われてみれば、わざわざ職員室前の廊下で立ち話する必要などない。休み時間も残りわずかとなってしまったこともあり移動しようとしたところで、当の岳先生が出流を呼び止めた。
「ちょうどいい、平野、おまえちょっと来い」
「はい。あ、でも…」
「オレが一緒に戻るよ」
「悪い。頼む」
 片手で感謝のポーズを取ると、出流は再び職員室に戻った先生の後について、戸を閉めた。
 視線を感じてふり向けば、夢野が妙にまっすぐな目を彼に向けていた。
「一人でも戻れるけど?」
「ああ言っとけば、案内任されてた出流が気にしなくてすむ。それに、どうせこのまま教室に戻るんだろ? オレも戻るから、結局一緒」
「それなら、いいけどね」
 行こうか、と促す彼を半歩遅れて追いながら、後にしてきた戸をちらりと伺った。
「なんだろ。急用だったのかな?」
「大会の打ち合わせか何かじゃないか。岳センセ、陸上部の顧問だから」
「陸上部員なんだ、出流って?」
「知らなかったか? 勧誘とか…」
「今のところは誰からも。それに三年だし、今さら勧誘もないんじゃないかな。前の学校で特別良い成績残したとかってことでもなかったらさ」
「前の学校では、何部?」
「郷土史研究会」
「………渋いな」
「土地の歴史とか伝説って、おもしろいんだよ?」
 夢野はあっけらかんと言った。言われなれているのだろう、気にした様子は無い。
「朝に色々聞かれたときに言ったから。運動部からの勧誘は来ないんじゃないのかな」
「そういえば、なんで出流が案内してたんだ? 日直でもないのに」
「彼の席の隣になったんだ。それで…」
 ふっと、思い出し笑いをして。
「居眠りしてたところを先生に見つかって、叱られたんだ。それで、出流が案内するようにってね」
「……居眠りなぁ。…あいつ、調子どんなふうに見えた?」
「なんで?」
「あー……」
 席が隣だからとはいえ、今日現われたばかりの人間に、何故そんなことを聞いてしまったのか彼自身でも不思議ではあったが、結局ためらいながらも口にしてしまった。
 目立って特徴的なものがあるわけではない、そのくせ印象的な、眼鏡の奥の目のためかもしれない。話したい気になったのだ。
「ここんとこ夢見が悪いとか言ってて、夜、よく寝れてないみたいなんだ。まだ続いてるみたいだから、やっぱ、気になってさ」
「寝れてない?」
「大会控えてるから、部の練習だってきつくなって疲れてるはずなんだけどな。授業中に居眠りすることも急に多くなったって聞くし。本人は大したことないって言ってるけど、どうも、やっぱり疲れてる顔してることがあるからさ。クラス違うから授業中はどうなのかわからないから…かえって心配になる」
「それは大変だね。…そういえば、居眠りして、少しうなされてたかな。隣だから気づいたってくらいの様子だったけど」
「そっか…」
「すごく仲がいいんだね」
「生まれた時からお隣さんの幼馴染で、あいつとは兄弟みたいなもんだから。それに、ちょっと尊敬してんのよ」
 あいつには内緒だけどさ。照れからにやりと小さく、言うなよ、と笑って。
「陸上、あいつは長距離の選手なんだ。今でこそ全国レベルの記録出すようになったけど、中学で始めた頃は全然だったんだよ。だからって焦ったり諦めたりせずに続けて、ここまでの実力つけて、全国大会で一位目ざそうって毎日朝も放課後も走ってる。だからさ、寝られないなんてことで、本番が台無しになるのはヤなんだよね」
 オレは途中で野球止めたくちだから、なおさらと、心の中で望は呟く。
 声が聞こえたわけでもないだろうに夢野は小さく頷くと、具合が悪そうだったらさっさと保健室に連れて行くことにすると請け負ってくれた。
 もっとも。
「それで、保健室ってどこなのかな?」
 そういえば今日来たばかりの、不案内な転校生なのだった。




  ◆◇◆


「よく寝られないなら、一度枕を替えてみたらどうかな?」

 昼食は弁当だ。
 もっとも成長期食べ盛りの高校男子の弁当が昼食の時間まで全て残っている確率は、けっこう低いと思う。
 というわけで、いつものように机を囲んだ望たち四人に、今日になって出流が連れてきた夢野を加えた五人のうちの三人は、購買部で買ってきたパンの袋を次々に開けていた。しばし物も言わず、空腹を満たすことに集中する。蟹の食い放題もかくやといった光景だ。
 そうしてある程度腹が満たされ、転校生夢野への当然とも言える質問が一段落つき、話題が出流の最近の不眠の話に移ったところで、夢野がした提案がそれだった。
「枕を替えるのって、不眠に効果あるのか?」
「普段は気にしてないかもしれないけど、身体にあった枕を選ぶのって、健康のためにもけっこう大事だよ」
「寝具メーカーの回し者みたいな台詞だな、それか通販番組」
 高橋が茶化す一方で、斉藤はうんうんと頷いていた。斉藤は生活知識紹介系の番組がやたらに好きなのだ。もっとも健康オタクかと思いきや、ジャンクフードの類に目が無いのだから辻褄があってない。今も大きな音をたてて袋を開けながら、テレビで仕入れた情報を披露する。
「テレビ番組で見たことある、それ。年齢とか体格によって、ちょうどいい枕の高さが違うんだって。枕の高さや素材を変えて実験しててさ、かなりはっきり脳波に出てたぜ」
「へえ、知らなかった」
「俺なんか、ずっと同じの使ってる」
「オレも」
 夢野は一同を見回して、そんなもんなんだろうけどとでも言いそうな表情で苦笑いした。
「あんまり寝苦しいのが続いてるなら、一回くらいはちゃんと合わせてみるのを勧めるね。それにそういう実用の面だけでなくって。昔から枕はずっと大事な役割のあるものとされてたんだし」
「大事?」
「枕を踏むなとか座るなとか、言われたことってない?」
「昔、枕投げしてたら、ばあちゃんにえっらい怒鳴りつけられたことならある。マジ怖かった」
「うるさかったからじゃないのか?」
「ううん。枕をそんなふうに扱うなって言い方してたから、夢野が言ってるのってそういうことかな?」
「そもそも、なんで枕が大事なん?」
「まず『まくら』っていう名前の由来がね…」
「え、由来なんかあるのか?」
「物の名前には大抵由来があって、その役割や意味が著されているものだよ」
 言いながら夢野は机の上に指で大きく二つの漢字を書いた。興味津々で覗き込む四人にわかりやすいようにゆっくり。
 魂蔵、と。
「『魂蔵(たまくら)』が語源で、まくらっていうのは縮めた呼び方なんだって。寝ている間に魂を納めておくものだって考えられていたんだ」
「それって、寝てる間は魂が身体から出てっちまうってことか?」
「そういうこと。だから、身体を離れた魂がふらふらどこかで迷っちゃって帰って来れない、ってことがないように魂を入れるものなんだって。だから粗末にしたらいけないわけ」
「そういえば出流、よく数学の教科書枕にして居眠りしてるよな? 今日も飛び起きたって…」
「ということはその間、出流の魂は数学の教科書の中に収まってるってことか!」
「そりゃ、うなされもするぜ。寝てる間まで数式まみれじゃな」
「おまえの枕なんかエロ本じゃ……ってーよ、足踏むな!」
 てんでに言い合う中、望はふと思いついたことを口にした。
「じゃあ。もし枕をしないで寝たら、寝てる間に魂はどっかいっちまうってこともあるってことなのか?」
 皆の目が一斉に夢野へと向けられ、彼はこくんと頷いた。
「昔話であるね、そういう話。転寝をしている男の口や鼻から蝶や蜻蛉が出てきて川の向こうに飛んで行って戻ってくる。目が覚めた男はこれこれこういうものを夢に見た、と連れの人間に話すんだ。連れの人間が男の言葉どおりにすると、確かに夢で見たと言うものがそこにあった、ってね」
「もしその蝶とか蜻蛉とかを捕まえちゃったらどうなるわけ?」
「そりゃあ当然、眠ったまんま、ってことになっちゃうねぇ」
「怖っ!」
「うかつに昆虫採集できないぜ」
「てか、俺らの魂も、どっかの小学生のガキに標本にされたりして」
「うわー、新たな都市伝説が」
「新たじゃない、ぜんぜん新しくない、それ昔話にあるから」
「それにしても夢野。なんでこんなこと知ってんの? 郷土史とも関係ないだろ」
「ああ、実は」
 ゴキブリになって退治されるんだろうとか、おまえは蚊になって身体から出た瞬間に蚊取線香で撃沈だ、などとくだらない言い合いを楽しげに聞いていた夢野は、それを問われるとにっこりと笑い。
「叔父が、寝具屋に勤めててね」
「メーカーの回し者かよ!」
 つい皆で一斉につっこんだ。




「それで、新しい枕にしたって?」
「ああ。ちゃんとしたとこで色々試してから買った」
 どうも最近の昼食時の話題は、いかに熟睡するか、という情報交換会になっている気がする。
 そんな望の感慨など誰も気にするものでなく、皆な出流が買ったという新素材の枕のことを興味津々で聞いている。
「で、寝心地は?」
「首とか肩とか疲れなかったってことは、やっぱり身体にあってるんだと思う。熟睡まではいかなかったけど、ちょっとは楽。悪夢の方は、大会前のプレッシャーかな。枕でどうにかなるもんでもないかもって、諦めてるけど」
「ふーん。オレも替えてみようかな…」
「なんだ、望も熟睡できてないのか?」
「出流ほどじゃないんだろうけど、なんかさ。ずっと寝てるみたいな起きてるみたいな半端な感じで、朝まだ早い時間に一回目が覚めちまうんだよ。結局二度寝で熟睡、起きられなくて遅刻ってパターン」
「へぇ〜、だったらそのまま起きてればいいのに」
「冗談! 朝五時だぜ、朝五時。絶対寝なおす」
「俺はその時間には起きてるけどな。朝練があるから」
「運動部は辛いなー」
「『強い』運動部は、だろ? 卓球部が朝練してるなんて、聞いたこともないぜ?」
「てめえ、言ってはならんことを!」
 ふと口数の少ない夢野の方を見ると、食べ終えた弁当をしまった袋から、何かを取り出しているところだった。望と目が合い、小さく笑う。
「気休めにしかならないかもしれないけど…」
 そう言って、出流に手渡したものは。
 皮紐を巻いた輪の内側に、紐が模様のような網の目に張り渡してあり、ぶら下げるものなのか、カラフルなビーズと鳥の羽根とが下の方にゆらゆらゆれていた。
「似たようなの、車に飾ってあるのは見た事あるかも。夢野、これ何?」
「ドリームキャッチャーっていう、ネイティブアメリカンのお守りだよ。よければ使ってみない?」
「なんか蜘蛛の巣みたいだな」
「蜘蛛の巣を真似て作られたっていう言い伝えだからね。東の窓とか枕元にかけておくんだ。そうすると夜の間は悪夢をひっかけて、良い夢だけをこの真ん中の穴から通してくれる。引っ掛かった悪夢は、朝日にあたると消えてしまうんだって」
 出流の手から、不思議そうに覗き込む皆なの手を渡っていく。光にかざしてみたり、網に触れてみたり。
「このキラキラしてるのも、ビーズか何かか?」
「うん。これ、従兄が趣味で作ってるんだ。いつも何個かうちに置いてくから、いっぱい飾ってあるよ。これは天然石のビーズを使ってるんだって」
「効くのかな?」
「やってみれば? 熟睡して悪夢を見なかったら、効いたってことで。後で俺にも貸してくれ」
「実験台かよ」
「最近悪夢続きなんだろ? いつ悪夢見るかわかんないやつより、適役じゃんか、実験台」
「そうそう。これで週末ゆっくり休めたら、来週から調子も戻るかもよ」




 これが、金曜日のこと。
 実際、効果を信じていた人間が、何人いただろうか。




  ◆◇◆


 地平線が見えた。
 雲ひとつなく真っ青に晴れながら薄暗い空の下。ゆるく弧を成した地平線がくっきり、空と地面とを区切っていた。
 地面には視線を遮る物が何ひとつ存在しない。どこまでもだだっ広く平坦な茶色が地平線まで広がっている。茶色は所々でさらに濃い色になって長い線を何本も引いていた。
 いや。線ではなかった。影だ。
 平らだと見えていた地面には、無数の亀裂が入っていた。どれほどの深さなのか、どれほどの幅なのかここから伺い見ることはできないが、やけに色の濃い暗がりをそこに含んでいるようだった。
 思わず背伸びをして亀裂を覗き込もうとした望は、がりっと厭な音をたてて足下が崩れたことに気づいた。なんだ、と見下ろして息を飲んだまま足が凍る。
 亀裂。
 彼は断崖の、まさに突端に立っていた。半歩踏み出したならば、バランスを崩して落ちただろう。その幅は五メートルを越え、深さは計り知れない。足下から崩れた石礫が落ちてゆく音は軽やかに遠ざかり、だが底に落下し終えたことを伝える音は届かなかった。
 驚きのあまり干からびた喉を鳴らし、望はそっと後退りした。ひどく長い時間をかけたような気がしたが、ほんの数分のようでもあった。
 一メートルかそこら離れると足の強張りは収まったが、恐る恐るふり向いた後ろ十数メートル先にも同じような亀裂を見出して、思わずへたりこんだ。
 高所恐怖症のため、ということはない。これまで高さに恐怖を感じたことは一度も無い。
 だが今目にした大地に加えられた切り込みは、陰り以上に薄暗く。飲まれそうに。
 虚ろ、だった。
 地面に割れ目が、在る、という表現は相応しくなかった。
 むしろ、無い、のだ。
 そこに大地が。亀裂が。深淵が。空隙が。
 無い。
 思い返すだけで震えが走る。慌てて視線を上げ、そこでようやくぽつりと地表に一点、色を落すものがあることに気づいた。
 立ち上がり目を凝らせばそれは人の形をしていた。人の形で、動いていた。
 生きている。
 安堵感で胸がいっぱいになった。人影のまとう色彩は彼らを取りまく全てが乾き枯れているからなお鮮やかで、瑞々しく視界にゆれた。
「おーいっ!」
 急いで大きな声で叫び、両腕を目いっぱいにふりまわした。すると人影は身体ごとふり返り。
「危ないっ!!」
 え、と声を出す暇も無く。
 ざりざりざりざりざりざりりっ……と何かが這う音と同時に足首に覚えた圧迫感、目に入ったた途端に声にならぬ絶叫を発していた。ただ黒いわけでなく不快感をもよおす濁った色の表面は、細かく不規則なぶつぶつの集合で脈打ち、しかもぬめっていた。あらゆる鈍い色を混ぜ込んだかのようで、だが混じりきらずに渦を描き、どろりどろりと蠢いていた。
 蛸か烏賊の足のようなものに見えたそれは、次の瞬間には平たかった先端がぐにょりと無数に分裂した。膝を過ぎて足の付け根まで一気に絡み伸びてくる。服の隙間からまたさらに細く分かれたそれが入ってくる感触。
 冷たく、じとりと生温く。
「う、ぁぁぁぁぁぁんなんんなんっ!?」
 一気に全身が鳥肌に覆われた。頭の中が真っ白になり、彼は必死にそれを振り払おうと暴れた。地面にこすりつけてもそれは剥がれぬばかりかいっそうびたり、ぬめりと肌に密着してくる。居ても立ってもいられず反射的に伸ばした手が、突然握り止められた。手までそれに絡みつかれたかと、がっと振り上げた、その時。
「触るな、今取る!」
 強い声が告げ、直後ぶわりと光の粉が散った。
 ぐにゃり、と。
 見る間に張りついていたものが怯み、縮みあがって離れてゆく。まるで塩をかけられたナメクジのように、力失せて。
 そうして地面に残った染みさえも、嫌悪感をそそった。
「な、ア、…アレ、は、なんなんだ……っ?」
「夢魔、だよ」
「ム、マ?」
「夢に寄生する魔物。憑かれたままにしておくと、最後には人の心を食い尽くしてしまう」
 不快感が、纏わりつかれた足に残っている。膝に力が入らなかったが、傍らに立った救い主は彼の様子には頓着せず、ぐいと肘を掴んで無理矢理立たせた。
「ここは場所が悪い。移動するよ」
 その声に聞き覚えがあった。信じられぬ思いでふり向いた。

「それにしても、どうして望がここまで来てるのかな?」
「来てるのかなってこ、……夢野ぉっ? えっ、ここどこだっ!?」

 その瞬間。
 望は愕然として目を見開いた。
 そう今夜は確か、出流の部屋に泊まって眠った、はずだった。
 小さい頃から何度もそうしてきたように、出流の隣に並べて借りた布団を敷いて、とりとめもなく話しながら眠ったはずだ。
 断じて、こんな茶色でからっからに乾いた屋外にいるはずがない。
 いったいどうしてここまで荒れはてた、荒野としか言いようのない風景の中に自分がいるのかがわからない。
 あんな変なモノがいることも。
 夢野がいる理由も。

「…望、出流の部屋に泊まってるんだろ。もしかして、出流と同じ枕使ってる?」
「そんな狭苦しい寝方をしてたまるか!」
「でもそれじゃあ、と。そうだ、出流が使ってた枕を借りた?」
「あー、うん。…って、何だよ、それがどうかしたかって、それよりここがどこで、あれが何で、どうしてオレとおまえがこんなとこにいるのか説明しろよ! 大体、このことになんで出流が関係あるんだよ!?」
「それは、ここが、彼の夢の中だからだよ」
「はぁっ?」
「それよりちょっと移動するよ。暴れないでね」
 とんでもないことをあっさりと告げるや否や、夢野は望の腕をしっかりと掴んだまま、いきなり翔んだ。
 まるで五十センチと無い溝を飛び越えるかのように、数十メートルという距離を、幅五メートルはあろうかという断崖を。  とん、と一蹴りで越え。
 さらに高く、ふわりっと。
「な、と………!?」
「だから。ここは夢で、このくらいのことは普通にできるの。わかっただろ?」
「で、だ、…ぅえ?」
 パニックの頂点に立ってうまく言葉にできない様子に、まあ落ち着いて、と夢野は望の肩を叩いた。
 近くで目にする夢野の格好は、先ほど遠くに見たよりも一層色鮮やかで、赤や黄や青を組み合わせたまるで南国の鳥のような華やかさではためいた。その上、肩を叩いた手も指先までジャラジャラと、動くたびに音を立てるたくさんの宝石を嵌めこまれた装飾品が、キラキラと輝いている。
 それは一緒に学校生活を送っている時の彼とは、別人のようでさえあった。表情を押さえ込むようだった眼鏡も、今は無い。素通しの瞳が、望に向けられて。
 藍、が。
 そうして初めて、学校で感じた違和感の正体がわかった気がした。この色が隠されていたからだったのだ。
 目を奪われている間に、十分な距離を移動し終えたのだろう、ゆっくりと二人の身体は下降し、気がつくと足は地面を踏みしめていた。
「うーん。ここもなぁ…」
「だから! いったい何なんだよ!?」
「…ちょっと空を見てみなよ」
「空だぁ〜?」
 言いながらも示す指先につられて素直に仰向いた。
 目の中には青。どこにも雲ひとつ浮んでいない、色を遮るものが無い。
 無い。
 目を剥いて夢野を見れば小さく頷いて、彼の問いを肯定した。
 無いのだ、太陽が。
「…………あり得ねぇ…」
「枕は、寝てる間の人の魂の入れ物になる。だから、同じ枕を使えばお互いの夢の中に入りこむことだって、まあできるわけだね」
「そんなことあるかっ!」
「あるんだ、これが。そもそも夢ってのは、ずうっと根っこの方でつながってるものなんだし。実際、望だって今そうしてるじゃないか。まあ僕たちは、いちいち枕に頼らなくてもできるけど」
「…たち?」
「僕たち、夢野の一族」
 『夢』の。
 いきなり信じられるかと望は言いたかったが、現状がとても現実ではないということだけは確かだった。足にはついさっき纏わりついた生々しい気色悪さを、すぐに思い返すことができる。
「…だとしても、何で夢に入って…?」
「夢魔を捕まえるためだよ」
「ムマ?」
「夢に寄生する魔物。最後には人の心を食い尽くしてしまう。そうなってしまったら回復はすごく難しいから、見つけたら早めに捕まえないといけないんだよね。それが一族の仕事なんだ」
「…そんなんで生活して…」
「普段は普通に仕事してるよ。一族の能力を利用できる医者とかカウンセラーが多いけど、寝具メーカーで新商品の開発してるおじさんもいるし。たまには直接依頼が来ることもあるけど、この家業、知ってる人も信じてる人も今は少なくなってるから」
「あいつの不眠、医者にかかるほどひどかったのかっ?」
「え? ああ違う、医者にかかったのは出流じゃないよ」
 しゅるしゅると、何の用意なのか右腕に巻いてあった紐を解きながら、思わせぶりに夢野は言った。
「追いかけてたのは、他で見つかった夢魔。残念なことにカウンセリングに来た時点で、大きく育ち過ぎててね。分裂した上いくつか散った形跡があったから、可能性のあるところをしらみつぶしにあたったんだよ」
「それで、出流に…?」
 そう、と彼は頷いて、腕から解いた紐を空に放り投げた。紐は鋭い音を立てて宙を駆けて何故か落下することなく、そのまま網状に彼らの頭上高い位置を広く覆った。巨大な蜘蛛の巣のように。
 そうして夢野は、唖然と口を開けて見上げる望の腕を再び捉えた。
「さ。もう一回、今度は長く飛ぶけど、暴れないでね」
「…え………ぇええっ!?」
 反論を待たず、二人は垂直に上昇して網を抜けた。思わず両手でしがみつきながら下を見れば、つい一瞬前まで立っていた地面にみしみしと新たに亀裂が生じ、そこからは…
「………げ」
「うーん。これはやっぱり、君に狙いをつけたねぇ…」
 この世のものとは思われない形と色合い、一時としてじっとしていない動き様は上空を目指し、それに。
 どこにも目のようなものがついては見えないにも関わらず、全身をなでるかのように。
「………見られて、る、よう、な……?」
「見てるよ。目が無いように見えてるけど、あれに限らず、今見ているものはどれも実態というよりも、わかりやすい形にイメージを再構成したものだから」
「でも、ここは、出流の夢だってさっき…」
「出流の夢だからだよ」
 夢魔と呼んだ物体から一瞬も目を離すことなく、夢野は説明した。
「パソコンにたとえてみようか。それぞれ違うOSを乗せた機械なら、ファイルなんかをやりとりするために、どれでも読める共通のファイルに変換する必要があるだろ? どうせなら自分がいつも使ってる形式の方が使いこなしやすい。僕たちはだから、人の夢に入ったらまず、自分の動きやすいように夢の見方を処理するんだ。そうしないと夢を見てる当人の不安定な世界に巻き込まれるし、夢魔の見せる世界なんて認識できるものじゃない、いきなり喰われてしまうよ」
 夢野はざっと腕全体を使って、地平線までの全部を指し示した。見てみろと言わんばかりに。二人の浮ぶ高い場所からは、荒涼とした世界が一目で見渡すことができた。地面からとは比べ物にならないほど広い範囲が一望できる。
 だがやはり荒野をしか見ることはできなかった。木も草も山も川も、あるいは廃墟のような建築物の形も痕跡も何も見えない。
 隆起の乏しい平たい地面が広がり、そこに無数のヒビのような亀裂が入り。
 断崖は深く、その全ての深淵に何か蠢くものが、鈍く濁った色をしたものが、亀裂の外を窺いながら、大地の裂け目を広げていた。
「今、僕たちは出流の夢を僕にとっての一番わかりやすい形で見てるんだ。夢魔に喰われて本来あるはずの豊かな世界は枯れて消えて、すっかり荒れ果てている。あの気色悪い代物は僕の中の、夢を貪る夢魔のイメージってこと。生物って認識してないからだろうね」
 夢を貪るもの。
 夢野のコメントは確かに夢魔のイメージを端的に表していた。これはただ人間の夢を、心を貪り荒らすだけのものだ。
 それが他でもない友人の出流の夢を荒らしているという事実に、荒廃を止める術を持たない自分に、彼は言葉を失う。

 長く続いた沈黙を破ったのは、夢野だった。
「もう少し準備してからのつもりだったんだけど。君がこうして来たから、予定変更。今夜でかたをつけるよ」
「ど、どうやって…」
「出流は君の親友、だよね」
 ふいに夢野はにっこりと笑って言った。気圧されながらも頷くと、ためらいなしに彼は告げた。
「じゃ、囮。決定。がんばって」
「…っぇぇぇぇぇえええええっ!?」
 信じられねぇと叫ぶ彼に向けられた微笑は、禍々しいほど爽やか極まりなく。
「アレ、僕のことは警戒してるからさ。今ちょうど君に狙いつけてるし、ある程度まとまった状態でやらないと、取りこぼしが出るかもしれない。そうなっちゃったら後々困るだろ?」
 畳み掛けるような説明も納得できないものではなかったが。
「そ、そ、そりゃ、そりゃあ確かに、そうかもしれねけど! オレ、おまえみたいな力とか何にも無いし、飛べねえんだぞっ、あんなののがうじゃうじゃしてるとこに降りて行けってのかよ!?」
「今さら何言ってんの。飛べるよ、君も」
「へ?」
「言ってるだろ。ここは夢で、しかも僕の見方で処理してる。だから、飛べると思えばいい。それで飛べる」
「………うそ」
「嘘ついてどうするって。ま、飛べても飛べなくても、この網の上にいてもらうよ。あ、夢魔はここを通ることができないから、安心して」
 改めて見下ろすと、足下に広がる蜘蛛の巣のような網は宙に浮いたまま、さっきよりもずっと広いものになっていた。とても夢野の腕に巻かれた程度の紐で作られるとは思えない大きさだったが、訊けばやはりこれも、夢の中だから、と答えが返るのだろう。
 夢でもそうでなくても、今の問題はその網の目が五十センチほどは幅があり、しかも紐は五ミリと幅が無いことだ。上に立つには細く不安定すぎる。だがしかしここに座り込めば間違いなく足は網の下、つまり夢魔の前にぶら下げる状態になる。
 まさしく、生餌状態。
 上には、太陽の無い青空。
 下には、網ごしに亀裂の入った干乾びた大地と、夢魔。
 アレに纏わりつかれた感触を思い出すだけでもぞっと背筋に寒気が走った。だが、夢野の笑顔は揺るがない。

『出流を助けたいんだろう?』

 声にされない問いをくり返された気がした。
「…飛べる?」
「飛べるよ」
 はっきり断言されて、それでもまだ実際にはその夢野に片腕をつかまれて浮いている自分の足下を不安に感じたが。
「……わかった。出流のためだもんな」
 自分にできることがあるなら、と。
 深く吸い込んだ息を、強く吐き出して、覚悟した。




  ◆◇◆


 いくら保証されたところで、いきなり飛べるとはどうしても信じきれなかったので、望は網の上の比較的他よりも目が詰まっている部分に下ろしてもらった。

「動いてもいいけど、ここからあまり離れないでね」

 そう言った夢野は、いかにも慣れた様子でふわりと浮かび上がり、そのまま地平線目指して速度を上げて飛び去った。全体に広がっている夢魔を、望のいる辺りに向かって追い込むためだ。
 ただ囮を置けば寄ってくるのだと思えば、それだと時間がかかるから、というのが答えで。警戒されないように短時間で済ませたいというのがその理由だった。
 確かに。
 怖いもの見たさに負けて見下ろせば、夢魔の塊はそれぞれの亀裂から身を乗り出し、徐々に望の真下に集まり始めていた。不規則な胎動じみた蠢き、芽吹きを早送りで再生するかのように触手なのか繊毛なのか、とにかく太かったり細かったりする何かを伸ばしては縮む。
 もし、ここで足を踏み外して落ちたとしたら。
 想像しただけでぞっとしたが、もし夢野が戻ってくるのが少しでも遅れたら、それも想像ですまないのではないかと、厭な気分になった。
 塊が、見る間に大きくなっているのだ。ついさっきまではまだ離れているからと安心できない距離でもなかったが、今はもう倍の高さにまでなっている。見下ろした視界全てが夢魔の不快な鈍く濁った色のうねりで満たされて、さらにはそれが彼目掛けて身をよじる。たまったものではない。
 だいたいこんなすかすかの網が、本当にアレを防いで通さないのか?
 どのくらいの時間をそうしてじっと身じろぎもできずに過ごしたのかわからない。だが、待ちかねた変化は訪れた。

 唐突に。
 閃光が走り、地平線が縮み上がる。
 夢魔が怖じけたように身を低めた。
 次の瞬間。
 勢いを増して、一挙に膨れ上がった。

 恐らくは周囲から夢野が攻撃を加えて、望のいるこの位置に向けて追いたてたのだ。縮みあがったのは地平線ではない、視線のいたる限界以上にまで広がりはびこっていた、夢魔。
 そうして追いたてられたものが、寄り集まってくる。
 恐ろしい速さで押し上げられ、彼の足下すれすれまでぐわり、ぐわりと。
 地面全体が盛り上がったとしても、ここまで驚かなかっただろう。ただの地面ならば、これほど気色悪くない。
 いっそ本気で飛んで逃げたかった。だがどれほど夢だと言われ、実際夢でなければ存在するわけのないものを目にしても、自分が飛べると信じこむことはできなかった。いや、何も無いときならば試してもいい。だが今は。
 この中に落ちると考えただけで、身が竦んで試すどころではない。
 動かないというより動けない彼の足下に吹き上がった夢魔がぶつかり、網に遮られて粘りつくとぐにゃり左右に分かれた。網はその衝撃でいくらか波打ったものの、網目から入り込ませることはなかった。夢野の言った通りに囮となった望目掛けて次々盛り上がりながら、彼を捕まえることはできぬままただ足掻き続けた。
 遠くに何度も何度も閃いた光も止み、いつの間にか空の他には夢魔しか見えない。
 まるで世界の終わりのように。
 淀んで。
 暗い。
 足下は波立ち続ける。
 次第に高く、早く、不規則に。
 音にならない声が、轟いた気がした。
 歓喜の、声が。


「………う、嘘つきだ夢野のヤローーーーーっ!」


 網の中央に、穴があった。
 小さなその穴から、鈍い色の触手が、覗いた。
 にゅる。
 にゅるり。
 ぬらり。
 ぐにゅり。
 ぶわ。
 ぶわ。
 ぶふぁっ。

 今こそ飛びたかった。
 心底、飛んで逃げたかった。
 だが遅い。
 遅すぎる。
 通ることができると知るや否や、夢魔は身を捩じらせ唯一の入り口から次々に入り込み、真っ直ぐに。
 望を目掛けて。
「…………っ!!」
 なすすべは一つも無い。彼は忽ち夢魔に纏わりつかれ。幾重にも、押しつぶさんばかりに包み込まれ。
 それらの全てが。
 彼の内側に、乾いた砂に水がしみこむように恐ろしい勢いで、吸い込まれてゆく。
 視界を覆うほどの量であったのに。
 ほんの一瞬のことだった。


「よし。ちゃんと全部入ったね」
 気がつくと、望の目の前に夢野がいた。
 じゃらじゃらとたくさんの飾りをゆらしながら、望の目を覗き込む。
 藍い瞳で、真っ直ぐに。中にいるものを、確かめる。
「は、い、った、っておっ、囮ってこういう………!!」
「うん。これからが本番」
 彼が近づくたびに、望の中でのたうち蠢く気配がした。入りこんだ夢魔が声無く騒ぐ。
 新しい宿主を獲物を手に入れたと、喜びにわきたっている。
 溢れそうになっている。
 だが、夢野は笑っていた。余裕の表情のまま、制御できない震えに支配された望に問いかけた。
「望さ。前から遅刻は多かったらしいけど、最近になって特に増えたんだってね?」
「…それが、今、なん、の……っ?」
「思い出してみなよ。それって、出流がよく寝られないって言い出した頃と、同じくらいからじゃないか?」
 思わず目を見張る。そんなことはちらっとも意識しなかったが、言われてみれば確かに、時期的には同じ頃かもしれない。もとから遅刻するのが珍しくも無かったから、気にしなかった。
「今回みたいに、枕を借りたくらいであっさり夢に入れるなんてこと、いきなりできることじゃない。つまり、自分でもしらないうちに、以前から似たような事をしてた可能性が高いってことだ」
 ひらひらと、舞うような手の動き。太陽も無いのに、きらきらと装飾が輝く。
 やたら眩しい。
 眩しくて、痛い。
「自分の物も人の物も区別無いような子ども時代を一緒に過ごしてきた幼馴染で、今も無意識に相手を思いあう仲の良い兄弟みたいな友人同士。心理的な距離がひどく近い関係だと、稀にだけど道具無しでも起こるんだよ、夢の共有って」
「共有? そんな夢、なんか、無いぞ。もともと、夢はあんま、見ない」
「夢のほとんどは忘れられてしまうから、おぼえてなくて当然。でも、思い出してみなよ。いつから遅刻が増えた? 二度寝の時間、ちょうど出流が朝練に出かける頃じゃないのか?」
 どくどくと血の流れる音が響く。
 違う、と望は気がつく。何かが彼の中でざわめいているのだ。思うようにならぬ忌々しさに、痛みに、焦れた様子で。
 囁くように、夢野が言葉を編んでゆく。いいや、解いてゆく。
「出流に聞いてた悪夢を見出した時期からしてみると、本当はもっと荒れて、というかもっと何にもない状態になってるんじゃないかと思ってた。実際に視てみたら、思ったより踏ん張ってて、風景として成立してるじゃないか。不思議だったんだけど、これでわかった。君だ。君が、出流の夢が壊れるのを防いでたんだ」
「…………え?」
「実はこの罠、君が囮で、檻だった」
 ぞわぞわぞわっと、背筋がそそけ立った。
 藍色の瞳に凝視され、夢魔が、彼の中に在るまま苛立ちを募らせている。
 全身が痛んだ。内側から、膨れ上がる何かが逃げ場を求めてのたうちまわる。
「クノカ。九日望」
 とてもはっきり丁寧に彼の名を呼び、夢野は微笑んだ。
 夢魔が、騒いだ。その名が口にされた瞬間。
 慄いた。
「いい名前だ。出流は本当に運がいい」
「なん、で!?」
「『九日』をくっつけてみればいい。一つの字になるだろ?」
「『九』と、『日』をくっつけ、る? ぇえっ!?」
「そして『望』は『亡月の王』、月の光を葬って昇る太陽の強い光は、つまり『旭』だ。君の名前は、夢魔がもっとも苦手とするもの」
 ふいに、望と夢野の間に、それが姿を現した。
 細い光の糸で編まれた等身大の、蜘蛛の巣が。
「夢魔よ、諦めろ。今ここに、おまえを滅ぼす陽が昇る」
 宣言と同時、嘔吐するかのように喉の奥、腹の底からせり上り、夢魔は小さな小さな塊となって望の口から飛び出した。
 濁ったそれは勢いが失われ、ひどく弱りきった様子で、あっさりと、光の網に絡め取られ。
 ジュウッと音を立てて、干上がった。
 残ったのは小指の先ほどのごくごく小さな石の欠片。落下する前に素早く受け止め、用心深く夢野は懐にしまいこんだ。
「これでよし、と」
「…なんか納得いかないんだけど!」
 満足げな夢野とは対照的に、ワケも分からず夢魔に入り込まれ、吐き出すはめになった望は、めっきり座った目つきでじっとりと睨みつけたが。
「いいじゃないか、うまくいったんだから」
 あっさりと往なされた。
「あのなっ!」
「それよりも、ほら、これは一見の価値ありだと思うよ?」
 ごまかされるかと叫びかけて、だがちらりと動いた目が色を捕まえて自然に動いた。
 緑。碧。翠。
 大地はもはや枯れてはいなかった。
 平坦でさえなかった。
 脈動しつつ亀裂は閉じ、大地はここかしこで隆起し、それら全てを覆うように、まず緑色が奔り、他の数多の色彩が従い迸った。
 干からびた荒野は絵の具を一時に流しこんだように、色を瑞々しさを取り戻し、ゆるやかに風が吹き始め。遠くには煌めく海さえ満ちていた。
 ついさっきまでの暗さが嘘であったかのような眩しい青色へと変容した空の下、望はあっけに取られて生命に満ちた風景を眺めた。

「人の夢は儚いけれど、夢見る人はしぶといのさ」

 夢野の笑みはどこか達観したふうだった。とても同年代の少年が見せるものには見えず、だがまた、呆れるほどにひどく幼く子どもっぽくも見える。
 夢見ることを、一瞬であっても疑うことのない眼差しに見えた。
「夢魔なんて、結構ちっぽけなものなんだ。そりゃ悪さをするし、野放しにできるものじゃないけどね。でもずっと、人の夢見る力の方がずっと強い。どんなに夢を壊されたって、何度でも、何度でもさらに美しい夢を見出すことができる。力強く夢を見ることができる」
 こんなふうにと両手を広げた彼は、身につけた極彩色の衣装のためかやはり南国の鳥のようだった。緑に満ちた今の風景の中にならば、何より相応しい姿だと思えた。
 夢の中に居ておかしな言い方だが、それこそ、夢のようだった。
「夢魔って、たくさんいるのか?」
「いるよ。でもね、夢魔だったら僕たちでなんとかできる」
 右手がきらきら輝きながら持ち上げられ、望の額を軽く押した。
「夜の夢の守りなら、僕たちは幾度でも力を貸せる。だから君たちは、夜も昼もたくさんの夢を見ればいい。いつか光の中にゆるぎない夢を掴むためにね」
 笑む藍色の瞳は、夢魔を抱えていない今はただ美しいだけだ。


 光が弾け、瞬きをひとつ。
 忽然と夢野の姿は消え、遠くにゆったりと羽ばたく鮮やかな色の鳥が飛んでいた。
 眼下に広がるは緑の沃野。彼方遥かに満ちて光を弾く真っ青な海。
 いつの間にか、歩くのと同じくらい自然に望は飛んでいた。両手は色鮮やかな翼になって、熱い風を軽々と捕まえる。
 そうしてどこまでも高く上りながら。
 風を従えて走る人影を見守っていた。




 からからから…
 部屋に響く軽い音に誘われたのかもしれない。眠りが途切れふっと瞼が震えた。
 音のしている方向に頭を動かすと、ほんの少しだけ開けたままになっていた窓から風が吹き込んでいて、窓辺にかけられたドリームキャッチャーをくるくる回していた。
 回るたびに、網に通されたビーズが朝の光をキラキラと弾いて眩しかった。
 くるくる、からから、キラキラ…
 どことなく疲れたような、逆に何か気がかりが取り除かれてすっきりしたような、そんな気分のまま望は窓辺に踊るドリームキャッチャーを見つめていた。
 出流が目を覚ますまで、ずっと。




  ◆◇◆


 見上げた青空は透き通って高い。ほとんど手入れされていないに違いない動きの悪い重いドアを開くと、ちょうど真上にかかった真昼の太陽がやけに眩しく目を射た。
 日差し避けに額の辺りに手をかざすと、扉が閉まる音に紛れるように、実はね、と夢野が口を開いた。
「…は? 転校? また? 冗談、じゃなくて?」
「ここまで短期間なのって、さすがに僕も初めてなんだけど。昨日言われて。今日、学校にも連絡してるはず」
 建前上は立ち入り禁止になっている屋上だが、出入りする人間がいることを実は教師たちも黙認している。今日はたまたま誰もいないが、天気さえよければ日光浴に来る生徒もいなくはない。勿論サボりは見逃してもらえないが、休み明けのこんな日は授業など無視してゆっくり昼寝でもしたいのが本音だ。
「屋上に入れるなんて知らなかった。惜しいなぁ、せっかく教えてもらえたのに」
 大きく背伸びをして、空に届きそうだなんて言ってみる。
「…おまえ絶対、幻の転校生とか言われるぞ」
「やーなこと言ってくれるよ、ノゾミちゃんってば」
「……ノゾミ言うな、ちゃんつけんなっ」
 言い返せば、くすっと笑われる。
「気にしなきゃいいのに。ムキになって言い返すから、ますますからかわれるんだよ」
「だからって、黙ってられるかっ」
 憮然と、やはり隠しておけなかった友人連中からの呼び名を却下した。


「………枕のことと、お守り」
「ん?」
「ありがとってさ。出流が。後であいつもちゃんと言うって言ってたけど。週末、久しぶりによく寝られたって」
「それはよかった」
「放課後、陸上部の練習見ていく時間とか、ありそうか?」
「残念だけど、ムリだと思う。授業終わる頃、車で迎えに来るって言ってたから」
「ホント、急な話なんだな。あいつが調子いい状態で走ってるとこ、見せたかったんだけど」
「うん。でも、全国大会で見られるだろうから、それで我慢することにするよ」
 まともにその走りを、しかも万全の体調で走っているところを見たわけでもないのに、夢野の話しぶりには望をさえ頷かせるような確信が感じられた。それとも何処か別の場所で目にしたことがあるのだろうか。出流の走る姿を。
 あの、誰を彼をも魅了するような、走りを。いつか、どこかで。
「おまえさ」
「なに?」
「…あー、いや、何でもない」
 確かめておきたいことがあったような気がしたけれど、眼鏡越し真っ直ぐに視線を受けたとたんに、それが何なのかさえよくわからなくなって、望は首をふった。その代わりに、急な別れを惜しんだ。
「またどっかで会えたらいいなと思ってさ」
「なんて言っておいて、大学の入学式で会ったりしたら笑えるよね」
「…志望校どこだよ?」
「秘密」
 予想通りの返事を返され、やれやれ、と空を見上げる。
「予測つかない方が、おもしろくない?」
「おまえだけがな」
 出流の行方ならば、大会に出る限り知ることができるのだろうから、芋蔓で望まで手繰れるだろう。ずるいよな、と思いつつもそれでいい気がした。
 もしまた夢野と会うことがあるというなら、確かに、その方がおもしろそうだ。
「そうそう。忘れるとこだった。はい、これ」
 ぽんと投げられ、反射的に受け取ったそれは。
「出流にだけあげたんじゃ、不公平かなと思って」
「…ありがと」
 出流が渡されたのとは色違いのドリームキャッチャー。悪夢を捕まえるお守り。
「これでいい夢を見られるといいね。遅刻しない程度に」
「今日は遅刻してねーよ」
「それはよかった」
 それじゃ教室に戻るから、と夢野が扉を開けた。
 おう、と掴んだままのドリームキャッチャーの網目越しにその背中を見送る。最後にちらりと向けられた微笑とビーズが弾いた陽光が重なり、瞬きした後にはもう扉は鈍い音をたてて閉まっていた。
 なんだか変に気が抜けてかくんと仰向くと、遮るものの無い空に落ちてゆくような気分になった。あるいは、空の方が勢いよく落下してくるかのような足元が心もとない気分。
 そのまま、落ちてきた真っ青な空の中に漂って。
 短いつき合いだったが、別れはやっぱりさみしかった。けれど、こんな明るく晴れた日ならそれもいい思い出になるような気がした。



《了》




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