か ら や し き







 月が出ていた。
 まあるい月が。
 きっとそのせいだ。
 だから、魔が差したのだ。




 賭場で大負けに負けた帰りの道であった。夜更けのこと、人影は当然のことながら全く無い。ざっ、ざっ、と響く自分の足音を聞きながら行けば、もともと人 家の少ない土地柄である。遠く吠える声が高く消えたかと思うや、唐突に近く、応じて遠吠えする犬に驚かされ、足取りはしばしば乱れる。
 道端に深々繁るすすきの穂群。群れるその奥底からは虫の声が、りん、りん、と冴えた響き。しきりに湧く。
 進むちょうど左手に高々と月があった。ほんのわずかに端を欠きながら白く、円く、星々を圧倒している今夜は雲ひとつなく晴れ渡って、心底冷える。
 襟をかきあわせて家路を急ぐ途中、一際大きな家が男の目に入った。
 淡く、甘い香りが鼻をくすぐる。
 唐屋敷である。
 と言っても唐人が住んでいたり唐風の建物なわけではなく、単に先代から唐物取引で儲けている商人が別宅として構えたというのが、名の由来であると聞い た。おそらく内部の調度品などには扱っている唐の品物もいくつかあるだろう。羨ましいことだ。
 いかにも御屋敷というがっしりした門構えであるが、その門に無造作に板が打ちつけられて立ち入りできぬようにされてある。空き家になったのだとすぐに知 れた。つい三日程前に同じようにここを通った折には何とも変わった様子はなかったが。この分では家人は皆なすでに家を離れたものだろう。
 あれ、と。
 男の足が止まる。
 夜闇にも薄ぼんやり浮かぶ白塗りの、屋敷を囲んで長々と続く土塀に唐突に、穴が。
 ぼかり、と。
 穴が、あった。
 急くように歩み寄って覗きこめば、確かに分厚い壁を穿ち内側まで達している。大人がしゃがんでどうにかくぐり抜けることができるほどの大きさの、白い土 塀にくりぬかれた歪んだ円の向こうには、植木の茂みでもあるのだろうか、覗きこんだ男の目を閉ざして暗い。
 ぼかりと暗い。
 いったい誰の仕業か、これほどの大きさの穴であれば夜とはいえ目立つのはわかりきった話。だがそこに取り繕う様子は見られず、騒ぎになった気配も無い。
 いや。どのようにして空けたものか、当然そこらにあるべき土屑もきれいに無い。まるでかき出されたものなど初めから全く存在せぬかのように。
 背後深くふいに、りん、と虫の声が湧き上がる。
 遠く、犬が吠えた。
 高い声で長々と吠えた。
 首をひねって空を見上げれば月は白く、冷たいほどの月光の下にいるのは男ばかりである。
 魔が、差したのだ。
 右、そして左。男は改めて周囲を見やるとおもむろに身をかがめて手足をつき、そろりと、その穴をくぐった。



 群れるように植えられてある葉の落ちぬ木々の、わずかな隙間を四つん這いになってくぐり抜けると、出た先はすぐに池になっていた。大きな池だった。
 ちょうど外壁と母屋との間に横たわるように位置し、四方から庭木のかぶさるその水面は一見黒々と光を飲んでいる。ささやかにも波は無く、大きな石を磨き あげたかのようにゆるがぬその暗闇は、深さも知れず、ただ中央に月を映した。星の無い空の、暗い空にある月の片割れ。
 その歪んだ分身。
 だがそれからわずかな光の粒が岸辺までこぼれて、水面と地面との区別をかろうじて告げた。池の傍、剥き出しの地面はひたすら暗く、水面はなおひそりと黒 い。
 池のぐるりには色濃い石が敷かれ、小道が整えられていた。もっともいつから手入れされておらぬものか、もともとは端と端がぴたりと並べ合わされていたは ずの石板と石板の隙間からも草は生い茂り、所によっては一塊の深い草むらとなって黒々と覆われてしまっている。
 男はそうっと立ち上がると、踏み出す暗い足元に用心しながら一足ずつ道なりに進んだ。すると小道は急な弧を描き、じきにそれが、大きな木の陰から唐突に 姿を現した。
 石の板、である。
 表面が粗く平らに整えられた岩壁のような形の、人の背丈に余る大きな石板であった。足元の小道はそちらに向かって延び、大木の下に黒色の石板は先を塞い でどっしりと、あるはずの母屋の姿を隠すかのように視線の先に据えられている。
 中央には穴があった。闇より暗く穴があった。まあるく、縦長に丸い穴が地面に接して穿たれている。ちょうど小道を通る者がくぐり抜けることができるよう に。よほど飛び抜けて背が高い者でなければ、膝をつかずとも身を屈めて苦もなく通れよう。
 石板に向かって左手には池がある。池の縁には雑然と木々が並ぶ。右手には下草が深く、また高低を問わず庭木が密生して迫っている。特に理由が無ければま あ誰しも、その穴をくぐって進むであろう。勿論、そのためにわざわざ母屋との間に据え置かれているのであろうが。
 石板はかなり厚みがあるのだろう。屈まぬままで向こう側は見通せぬ。
 手を触れてみると、表面はざらりとしていたが、穴の内側は案に相違してつるりと滑らかであった。
 あまりに滑らかなためか、殊更指に冷たく思われた。
 しばし、石板の前で男はためらいを見せた。しんと黙りこんでいる池の端に立ちすくむ。だが結局ぐうっと身を屈め、穴をくぐる。
 一転、奇妙に明るい場所に出た。



 束の間、己が目を疑う。
 穴をくぐるとあらわれたそこは、母屋まで真っ白い玉砂利が一面に敷き詰められた場所であった。降るささやかな月光をも千々に弾いて地面が妙に眩しかっ た。光を拒む母屋の下に含む暗さとは対照的に。
 中ほどに大きな、これも白っぽい石が影も無いままいくつかぽつりぽつりと置かれてある。ということは寺にあるという石庭を真似たものででもあろうか。だ がここも意図したとは思われぬ場所から草が伸びてそこここに陰を含み、手入れが行き届いていない様子である。
 道は穴を出たところでぷつりと途切れていた。そこで男は眩しい玉砂利の上を真っすぐつっ切る他なく、そうして家の外に立った。
 軒下の暗がりに入って見れば、さすがに雨戸は閉ざされていると知る。無闇に叩き破れば余計な音がするだろうが、ではどこか忍び込むのに適当な場所はない かと、周囲を見てみることにした。
 かたん。
 進めかけた足が止まる。音がしたとおぼしき場所まで戻り手を当てればまた、かたんと、不安定な音がした。信じられぬ思いで力をこめると一番端の雨戸が すっと動き、難無く開いた。
 途端、ぶわりと埃臭い匂いが鼻につく。
 暗闇であった。
 生じた隙間からこぼれたのは、ぐらりと飲まれるような暗闇であった。
 月光に慣れた目にはなおさら見通すことのかなわぬ闇にしばし見入り、何を考えたか男はくるりと頭をめぐらせた。
 甘い、風。花の香りだ。
 向けた視線の先には石板がある。しかしつい先刻くぐり抜けたばかりの穴から見えたものは、まったくの闇、だけであった。闇としか見えなかった。
 たぷん。
 視線を戻そうとした男の目はそのままふっと水音の方向へ流れたが、木々に囲まれた池は光を拒んで暗く、何も見えなかった。
 たぷん。
 何も、見えなかった。



 幸運にも廊下の端に置き忘れられたらしい手燭を見つけ、使いさしの芯に火を灯すと、ぼうっという小さな音がした。古い油の埃臭い匂いとともにちらちらと か細く震えた炎は、弱々しいながらも何とか消えずに周囲をぼんやりと照らす。乱暴に扱わなければ屋敷を一回りする間ぐらいは使えそうである。
 履物を脱いで懐に挟みこみ、男は人気のない屋敷の中を探り歩き始めた。だが。
 ぎい。
 床が軋む。
 みしり。
 床板がたわむ。
 一足ごとに、嫌な音がするのである。外からは立派な御屋敷と見えたものだが、内実はこれである。床板は柱と同じく磨き上げられたような濃い色であった が、所々で危うく踏み抜きそうな感触さえ覚えて、男は幾度もひやりと肝を冷やす。
 掲げた明かりは頼りない。
 家中の雨戸はぴたりと閉めきられ、月光の差し入る隙間は無い。迫る左右はともかく、伸びる前方は淡く、とり残された後ろは余計に暗い。逃げ場を失いどこ となく淀んだ空気、閉ざされた廊下を歩けば一足ごとに炎は震え、初めから曖昧な光の領域に接して陰は増し、ぎい、と床板が軋む。
 いくら忍ばせようとても、一足ごとに軋む。だがそれは騒々しくはならない。静まりかえった空気に響くというより飲みこまれてゆくような具合。軋めば軋む ほど、その狭間の静寂は激しい。
 ぎい。
 みしり。
 影がゆれる。
 ぎい。
 みしり。
 陰がゆらぐ。
 ぶわんと膨らむ灯の境に触れて目についた、手近な部屋の戸を開けようと男が足を止めた。
 ぎい。
 息が止まる。
 どこかで、確かに邸内のどこかで重く軋む音が聞こえ、戸惑う手元にじりりとはかなく炎が鳴いた。
 部屋は闇を詰めこんで隅々まで暗く、灯火を差し入れて怖々覗きこめばすっかりと、呆気ないほどきれいに空であった。
 次の部屋も。
 その次の部屋も。
 家財道具はとっくに、しかも徹底的に全て運び出されたらしい。どの部屋も天井の隅に、梁にまたくすんだ壁伝いに陰を凝らせたたまま、ひどくがらんと、何 も無い。
 空である。
 部屋に続く戸という戸はすべてきっちりと隙間なく閉じられており、その戸を開ければどれも空である。空の部屋がいくつも続く。うっすらと敷かれているだ ろう埃の他には小物ひとつ落ちてはいない。徹底的に、何も無い。
 無い。
 どれもこれも同じ。ただ暗闇や、膨れ縮む灯火に追いやられては押し返し梁に、隅に凝る陰ばかりががらりとした室内に見出される。
 閉め直す気にもならず、あらわれるまま次々に戸を開け放しては探し歩いていた男は、廊下の角を曲がろうとしたときに、ちらり。
 即座にふり向く。
 ちらりと何かを目にしたように思った。
 何か、動く影を。
 だが廊下の反対の端までは手燭の危うい明かりは十分に届くことなく、明らかにそれとわかる影など無い。そこには確かに燻るような陰しかあらず、男はわず かに眉を顰め、目を逸らす。
 人の気配は、無い。
 無い、はずだ。
 ゆれた影は多分、幻だと。



「…おや」
 やがて数えることも止め、もはや何の気配りも期待もせず無造作に開けたその引き戸は、しかし意外に広い部屋の入り口であった。踏んだ足元の畳もきれいな ものである。もちろん何か物があるかと見れば。
 灯火とともに視線を走らせると、それまでと同じく空の部屋と思われたそこに、だが壁に沿って箱が置かれてあるのが目に留まった。あわてて歩み寄る。
 随分と立派な飴色の木の箱であった。それも小型の箪笥よりもまだ大きい。横に長く深さのある箱の各々の角や表面には、それぞれ黒光りする鋳鉄で作られた 凝った草葉の装飾が施されている。
 鍵穴は無い。
 ぽつねんと置き去りにされている、鍵のかからぬ箱にしまわれている程度の物では中身は期待しかねた。とはいえそれでも屋敷内をくまなく見て回った果て に、たったひとつ見つけた物である。
 どうせ最初から見つからなくてもともと、万が一、小金に代えられそうな物が一つ二つでも残っていれば儲け物といった程度の考えであった。
 所詮、酔狂である。そう、ほんの思いつきである。
 賭場でいいように煽りたてられた興奮も、そこで重ねた酒の酔いも、もうとっくに冷めてはいた。いたのだが、それらとはまた微妙に出所の違う酔いが頭の芯 にちりちり燻っていて、それとなく男を誘う。
 誘われるまま、箱からいくらか離れた場所に灯火を置くや、男は大きな箱の蓋に手をかけた。
 ぴくりともしない。
 意地になり眉根を寄せてさらに渾身の力を込める。足元で、畳がみしりみしりと音を立ててたわむ。引っかけた指先が痛む。しかし、蓋はきつく閉じたままじ りっとも動く気配が無い。かんだまま、開く気配がまるで無い。
 気を取り直してひとまず箱の周囲を詳しく調べてみたが、たとえあるのにしろ鍵の所在は知れなかった。もし無いのにこれほど開きにくいのだとすれば、これ はまた使いづらい箱である。見たところはなかなか立派で、古道具屋にでも売ればきっとそれなりの金になりそうであるのに、ひとつだけこうして残されていた のはしかしどういうわけか。
 散々あちらこちらを撫で、引っ掻き、叩いてみたりもしたがどうにもならぬ。
 とは言え、ここから一人で運び出すには見るからに重すぎた。蓋がかんで開かないのにしても箱そのものもじわりとも浮き上がりはしなかったのだ。
 屋敷内のどの部屋にも思惑にかなうような代物は見つからなかった。辛うじてあると言えるのはせいぜい襖絵の類いだが、それもちょっと持ち出すというには かさ張る。傷まぬようにはがすのは手間だ。
 無くてもともと、ではあってもいざ収穫が全く無いとなるとそれはそれでつまらぬ。そう思った目の前に、この箱が現れたのだ。
 もうこの箱だけなのだ。
 期待するだけ無駄かもしれぬ。これもやはり空かもしれぬ。だがもしかしたら何か入っているかも、しれぬ。
 たとえばそれが着物一枚でもいい、手に入ればそれはそれで気がすむのだろうが。こうして開かぬとなると無性に強情を張りたいような気分になった。もっと も、感情にまかせて叩き破ろうにも道具が無い。道具が無ければ、丈夫な箱は壊すどころかひびを入れることもかなわぬ。
 改めて両足を広げて低く構え、蓋に手をかける。指先にしびれがおきるほど力を注ぐ。腕が軋み、足元がみしりとたわむ。
 だが動かぬ。蓋はぴくりともせぬのだ。
 腹立たしいほどに。
 男は無性に腹立たしい気持ちになった。
 思いあまって激しく箱を蹴りつける。蹴った足は却って痛み、やりどころ無い苛立ちに大きなため息を吐いた。
 灯火が大きく震えて燃え上がり、一瞬、室内隅々まで明るく照らし。
 ふっ、と。
 花の香が鼻先をかすめた。
 どこにも隙間は無いはずなのに。入り口の戸も閉めた室内には、何も入るこむことは無いのに。
 甘い香が淡く漂う。
 これは先刻も庭で嗅いだ香りであった。多分、庭木のひとつに強く香る花をつけるものがあったのだろう。木の間闇の中では花の色はかすかにも目に入らず、 だが間違いようもなく香りたつ。
 今は、淡く。けれど確かに。しかしこれまでまったく埃の匂いしか無かった屋敷の中に、こんな花の香をさせる物があるだろうのか。他の部屋には何も残され ていなかった、廊下にも手燭以外の何も見つけられなかったというのに。
 どこに、いいや、どこから香るというのか。
 甘く。
 じりり、考えこむ足元で炎が鳴いた。
 すると暗がりの凝る隅の方で、何やらごとりと音がした。目をやると、ぽかり、一際深い闇が四角く切られていた。
 香がはるかに強まる。
 そこから、ぬうっと、深く腰をかがめて何者かが入ってきた。声も出さぬ。こちらも見ぬ。気にしているとも見えぬ。部屋の内に入ると、するするこちらへ歩 いてくる。
 もとよりそこそこの広さがあるとはいえ、無闇とだだっ広い部屋というわけではない。物も無い。その目指す先が穴とはちょうど反対側の壁の前に据え置かれ た大きな木の箱であることは、数歩と進むまでもなくわかった。しかし何にしろ、それが何者なのかはわからない。淡く途切れがちな灯火は箱の角ひとつをちら ちら照らしているにすぎない。
「……もし…………」
 呼びかけた声は彼自身にも情けなく思われるほどに掠れていたが、届いたものか聞こえずに終わったか、そのゆっくりとした歩みはわずかもためらわない。
 それにしても軽い足音。
 丈が余る褪せた緋色の着物の裾をずるずるとだらしなく引きずり歩く、それにさえかき消されてしまう足音とはいったい何だというのか。軽すぎる。みしりと も歪みの音をたてぬ畳に、不審の目を向けたところで理由はわからぬ。その頭部は、梳かすことをやめて何カ月がすぎたものかと疑わしいほどの蓬髪にすっかり 覆い尽くされている。
 するり、ずるりと着物が畳をこする音。
「もし。いったい、どなたで………」
 応えず、箱の前にそれは立ち、分厚い蓋に両手をかけた。それは開かぬ、と言いかけた男の目前で、しかし、先刻までぴたりとはまってまったく動こうとしな かった蓋は、さしてひどい音をたてるでもなく、たやすく開いた。
「……何で…………」
 呆然と目を見開いて見ていた男にそいつはようやく気づいたものか、それとも目的の果たされたが故か、かくりっとこちらに頭を向けて、笑った。
 ちらちらとゆれる淡い灯火に照らされて笑っていたのは、髑髏だった。
 髑髏は、ぽかりと空いた二つの眼窩をこちらに向けていた。それはひどく虚ろな、暗い暗い穴であった。
 虚ろな穴。否、虚ろではない。詰まっている。何かがぎゅうと詰まっている。隙無く詰まって底が知れないほど暗い。密であるがゆえに、光射す余地も無く暗 い。
 暗い眼窩がぼかりと見る。
 こちらを見やる。
 虚ろか。否、否だ。髑髏ならば当然眼窩の奥にはささやかでも空間があるはずだが、見えぬ。そこにはひたすらな暗い意思が詰まっている。空であるはずの空 間にぎゅうと隙間なく詰まっている。
 ひたとこちらに目を向ける。
 そうして、くすんだ白色のそれは確かに笑みとわかる表情を浮かべると、はや興味を失ったかのように目をそらし、大きく開いた箱の内に頭をさし入れる。着 物を纏わりつかせながら右足を踏み入れる、そして左足。ゆるり身をかがめれば、縁からはみ出していた着物もするすると後を追ってゆく。
 やがて箱の中から突き出しているのは白い骨だけの手になった。腕が支えていた蓋は徐々に下がり、そしてコトンと小さな音を最後にもとの通りに閉じた。
 じりり、淡い灯火も今にも消えそうな頼りなさで大きな木箱の角のひとつばかりを照らしている。箱は元のまま、先刻まで開いていたことなどまるで嘘のよう にきっちりと蓋が閉ざされ、部屋にいるのは男一人である。
 男の影もゆれる。
 ゆれ続けている。
 もとに戻らぬままなのは、部屋の隅にぽかりと切り取られた闇の口である。そうなのだ、そこから確かにあれは来たのだ。
 男は穴に目を向けた。
 穴の向こうは見えなかった。灯火が届かぬからというだけではきっとない、そこには色濃い闇があるのだ。だから見えぬ。光では見通せない。
 ひどく甘たるい香。花の香は、そしてそこから流れこんでいる。
 風は無い。ぼかりと開いた穴の先は、ここの前に確かめた部屋だ。その部屋に窓ひとつ無いのはだから知れている。そこから吹きこむ風があるはずはない。そ こから風が吹くはずがない。
 ないのに。
 足元で灯火はゆれていた。先刻から、ささやかではあったがずっとゆれていた。まるで、暗い穴の方から空気が流れているかのように。
 それは無いはずの花の香、炎をゆらす質量を伴った甘い香だった。香を放つ物がどこにも無いことは男自身が知っている、それなのに、香を感じていることも 確か。
 満ちてゆく。
 喉を鳴らして息を飲み、視線を転じた。
 四角く切り出されたこの口に入って行く度胸は、男にはなかった。無いはずの香の源を確かめるのは、何故かひどく恐ろしかった。
 そのくせ、止まることなくゆらぐ灯火にちらちら照らされているこの箱の中身が気になっている。もうこそりとも音はせぬが、中にはあれが収まっているの だ。何ゆえか、自ら収まってみせたのだ。
 四角く区切られた虚ろな空間に。
 屋敷の中、部屋の中、なお狭く区切られ閉ざされた、箱に。
 それなのに。
 何ゆえなのだろうか。
 男は恐る恐るに近寄ると、少しばかり灯火を箱に近づけた。大きくゆれながら明るさがわずかに増しそれでも、ためらう。何よりも安易に背中を向けるに は………ぼかりと開いたあの穴が気になる。
 ざわざわと気になる。
 しかし、男はじきに心を決めた。先刻と同様、両手を縁にしっかりとあてがい、構えた腰に力をいれてぐうっと押し上げる。
 足元でみしりと畳がたわむ。その下で床板がぎいと軋む。
 軋んだが。
 やはり俺では動かぬか。男はちらりと思ったがふいに、じり、じりり、指先に手応えがあって、これならばなんとかなるかもしれぬ。そのまま様子を伺いつつ さらに力を加えてゆく。と。
 ぎし。
 踏み締めた足元でではなく、確かに手元で。
 ぎし。
 ぎこちなく音を漏らし。
 ぎ、し、し。
 蓋は開いた。
 濃密な花の香が湧き上がる。
 慌てて取り上げ近寄せた灯火がぶわり、大きくゆれた。
 ぱっくりと開いた木箱の内には意外にも華麗。つい今し方は色褪せてただのぼろとしか見えなかったものがこれはまた、咲き誇る花か燃え立つ炎かあるいは日 没の空とでも言おうか、目に鮮やかな暗緋色に織りこまれた衣はちらちらと彩をなし、深々波立つ衣の襞に埋もれて先刻の髑髏がいた。さらには晴れ渡った空か 荒く波打つ海か、しっとりと潤んだ深青色の唐風の衣をくるりからめた一体の骸骨を懐に深く抱き寄せた形で横たわる。
 花の香はこれから生じたか。二人抱き合うことでさらに強まるのか。今は室内に満ち満ちる濃密な甘やかな香。咲き乱れる秋の花はここに。
 そして、髑髏は笑っていた。
 濃密な暗闇と、それより他の何かをぎゅうと詰めこんだ眼窩を怖々覗きこんだ男に向けながら、カタタンと小さく笑い。
 じゅっ、と不愉快な音を立てて小さな火が、消えた。






〈終〉




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