Blow



 珍しく、本当に珍しく朝からまるで風の吹かないとても静かな一日で。
 けれど何故か彼だけはずっと落ち着かぬ様子で、そわそわしていた。
 慣れぬ場所で見知らぬ人間の間で、警戒を隠さなかったごく初めの頃に見せていたものとは違うようではあったが。いくら宥めても何が気になるのか、始終あちらこちらと動き回っていた。
 それでも一日はごくあたり前に過ぎた。
 やがて晴れ上がったままだった空が夕焼けの時間にきれいに染まり、その色彩は足を止めるには十分すぎるほど、目も覚めるばかりに鮮やかで。結局、少し足を伸ばして、近くの丘に上ってみた。
 見慣れているはずの小さな世界が夕空の下、不思議なほどに美しく広がる。
 太陽が輝きを散らしながら、見る間に地平に向けて落ちてゆく。音がしないことがおかしく思われるほどにそれは激しく、鮮やか。
 唐突に、彼が頭をもたげた。何かを聞き取ったように。
 それはすぐに僕の耳にも届いた。ゴゥ、と空はるか高く響く音。
 次第に近く音高く強く激しく鳴り渡り。
 ゴオオンッ
 それは風。風翔ける音。遮るものなどありはせぬ天空を激しく、地に草を木々を家を山を、削り薙ぎどこまでも駆ける音。
 荒々しい突風に押されてつんのめる。勢いを殺しかねて膝は崩れ、思わず草の上に座り込んだ。傍らで。
 バサッ
 翼を打ち鳴らす音と共に喉震わせて猛々しく、彼が吼えた。高く高く、天の頂きに突き刺さんとするかのごと、勇ましく。
 僕はただ呆然と見上げた。怪我負った彼に出会った時にはただ痛々しく思うばかりであったし、回復するごとに美しいと感動することはあったけれど。知らなかった、今の今まで。

 これほどまでに神々しい生き物であろうとは。

 立ち上がることさえままならぬ強風の中、だが彼はむしろ悠然と夕映えの輝きを纏うかのよう。ゆるぎなく立ち、癒えた双翼を伸びやかに左右に開いた。
 知らなかった、今の今まで。すでに時が来ていたのだとは。
 僕の頬にぎゅうとこすりつけるかのように顔を寄せ、彼はやわらかく鳴き別れを告げた。思わず首に腕を回し、返す言葉も見つからぬまま僕は縋りつき抱きしめた。
 人の中に居るべき存在ではない、彼の在るべきはもっと異なる場所。深い傷を負って地に伏せた姿を目にした時から、それはわかっていたけれど。
 そっと腕をほどいたが、そのまま離れてしまうのはさびしくていつものように翼の付け根に指を埋め、彼もまた名残惜しむように目を細めた。言葉が通じるわけもなく、互いに苦労したことを思い出す。初めてこうしてなでさせてもらった時には、どれほどに胸躍ったことか。
 こんな出会いは二度とないだろう。


 ゴォと唸りあげて一際強く風が吹き、僕は手を放した。
 猛禽の翼に風を受けた彼は、獅子の後脚で音がするほど力強く地を蹴り、次の瞬間その姿は上空はるか高みにあった。
 猛く吼え上げて、人には見えぬ空の道を駆け抜け。

 ぱたりと風は止んだ。

 丘の上に一人立ちあがり僕は、祈りともいえぬ想いを胸に夕焼けの名残りがすっかり消えてしまうまで、彼の飛び去った空を見上げていた。
 いつまでも。







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