》 01
「ああ、そういえば」
わずかに目を伏せて。それはまるでほんの今しがた思い出したとでも言いたげな口調だった。
「最近、お忙しいようですねぇ」
音もなくグラスを置いたこの時間唯一の店員に磨きこまれたカウンターごし、彼は苦い顔で首をふって、肘をついた。
「あれは違うよ、根津さん」
「おや、てっきり」
「言われるだろうとは思ったけどね」
絶妙な青色がグラスの中にゆれ、からりと軽やかに氷が鳴る。
ちょうど深夜十二時を回ったところ。客は他に無い。
常から客であふれることなど滅多にない店ではあるが、それにしてもひっそりとした様子に、彼は首を傾げた。
「……客がいないな」
「まったく。率直ですね。まあ、かまいませんが」
気にした様子でもなく小さく笑い、
「このところやけに物騒なものですから。この店に限らず、この一帯の深夜営業をしている店は軒並み閑古鳥らしいですよ」
「なるほど……」
ぐい、と半ばまで空ける。冷たい色を裏切る熱が、静かに喉を焼いた。
「それで、本当にあなたがやってるんじゃないんですか?」
「わかってて訊くなよ。……無関係ってわけでも、多分、ないが」
「おや? ではこちらへは今夜、仕事の依頼でしたか」
「いいや、私用だ。単に近かったから寄っただけ」
さらに一口で残りも飲み干す。あまりに無造作な飲み方に根津と呼ばれた店員がさすがに嫌な顔をするのを尻目に、札を一枚コースターの下に挟み、椅子から
下りた。
「じゃあ、またな」
「行ってらっしゃい」
時折、根津はこんなことをする。彼は口元に苦笑を浮かべて軽く手をあげた。
店を出た彼の背を追うように、やわらかなベルの音が扉の向こうに、ゆれた。
》 02
街灯が煌々と光を投げかける街角は閑散として、明るさと暗さの奇妙な均衡の狭間にあった。表通りから入り込んだ裏道では時に暗闇が勝るが、未だ客を待つ
店に灯されたいくつかの明かりが間を置いて、端然と店先を照らしだしてもいる。
首を撫でた夜風に、ジャケットの襟を寄せた。汗ばむこともそろそろ珍しくない昼とは異なり、夜の空気はまだわずかに肌寒さを含んでいる。
営業中の店舗の数が次第に減ってゆく。音もなく歩みを進める彼の肩を、生垣からこぼれ咲く藤の花房が掠めた。
テッペンカケタカ
唐突に、甲高い鳴声が響いた。鳥の声。
緑は夜にもいよいよ色濃く。乏しい灯り。ゆれる薄紫色の花。うずくまっていた小さな子ども。
テッペンカケタカ
もう十年ほども前になるのだろうか。
当時、この一帯は緑地公園という名目で半分ばかり整備の入った、やたらに広い雑木林だった。
もともとそこにあった豊かな緑を利用するとの建前のもと、雑木林の木々をぬうように中央の広場に向けて何本かの小道が敷かれ、だがそれは道の両端に木材
を並べる形で区切っただけのごく簡単な造りだった。当然外灯もほとんど無く、新緑が気温の上昇にともなうように濃く塗り重ねられてゆく夏を控えた季節、夜
ともなれば伸ばした手の先が見えぬほどの闇があった。
依頼された仕事を終えた彼がそんな夜闇の中で出会ったのが、その子どもだった。
数少ない外灯のひとつが置かれた広場の端、設置されたばかりで場になじまぬ観のある藤棚の下に膝を抱えた姿は、怯え疲れた小動物のようだった。珍しく気
づくのが遅れたのはそのためだったのかもしれない。
見たところ五、六才ほど。もたげられた顔は涙に濡れ、いきなり現れた彼に恐れを感じるより先にほっと安堵をおぼえたと、そんな表情を浮かべていた。
知らぬふりで立ち去ることはかなわず。諦めて近寄れば、幼い少年はぎこちなく立ち上がって彼を見上げた。
「家出か。迷子か」
ぐすんとすすりあげながら、りょうほう、との答え。
「おじさん、だれ?」
真っ直ぐな問いへ、どう返そうかと思案していると。
テッペンカケタカ
闇を貫くように、静かにざわめく木々のどこかで鳥が鳴き、子どもはびくりと身を震わせた。
「鳥の声が、怖いのか?」
「鳥? 鳥なの? 夜だよ?」
「夜鳴く鳥もいる。あれは杜鵑だ」
「ホトトギス、っていう鳥?」
「ああ」
繁る枝葉に覆われて、空は見えない。星も月も。外灯の光の届く範囲から離れることもできず風の音、ざわざわゆらぐ茂みの奥から響く硬質な何ものともしれ
ぬ声に、居竦んでいたのだろう。鳥の声、と正体を与えられ、目に見えて小さな肩から力が抜けた。それでもなお反射的に肩がこわばるが、この程度は愛嬌のう
ちか。
助けてもらえることを疑いもしない眼差しをあえて裏切る必要もなく、どうせ公園を出るのは一緒だからと、彼は少年を促して小道を歩き出した。
それは単純に距離の短い方を選んだ結果だったが、出口へ向かうのにそちらの小道を使ったことが、不注意だったのは間違いない。十数歩と進まぬうちに、つ
い先ほど仕事で始末したものが、そのまま放り出されてあることを思い出したが、息をのむ気配に今更の方向転換が無駄なこともわかった。
いくら幼いとはいえ、遠い光を受けて転がる身体の異様さはわかるか。ほんのついさっき、彼が同じ方向から現れたことも忘れてはいまい。道端のそれと彼の
顔を数度、代わる代わるに見て、一度目には答えの得られなかった問いを再び口にした。
「……おじさん、だれ?」
「死神、みたいなもの」
「しにがみ」
杜鵑の名を教えた時と同じ響きで言葉が返ってくる。足は止めないまま、彼は一言加えた。
「死ぬ人間をつれていく仕事」
「どこに?」
「さあ。……天国かな」
置き去りにされぬよう小走りに彼の後を追いつつ、子どもは首を傾げる。
「あの人、笑ってたよね」
「ああ」
「まわりになにかあった。青いの」
「青色は、私の目印だからだよ」
「めじるし。おじさんのおしごとだって?」
「ああ」
ふぅん、と何か納得できたのかできなかったのか、或いはただ実感をもてないだけなのか、それ以上の問いは無いままやがて二人は公園を抜け、街灯の並ぶ深
夜の路上に立っていた。
「ここしってる!」
弾む声は確信に満ちていた。
彼は声をかけることなく踵を返して再び公園へ入り、子どもはもちろん後を追ってなどこなかった。
かつて公園だった雑木林は、数年前にそのほとんどが切り開かれて住宅地へと変貌を遂げた。名残がいくつか、緑地スペースとしてかろうじて木々を残してい
る。日のあるうちは近隣の住人たちの憩いの場として利用もされるのだろうが、日付が変わったばかりの深夜では人影が目に入ることもない。
ふと、彼は足を止めた。
道の先にぼんやりと色を浮かべた藤棚が見えた。
花房の下には人影が、ひとつは立って、ひとつは横たわり。外灯は枝葉に邪魔され、役目を果たすには心細い光をその上に投げかけている。
テッペンカケタカ
杜鵑が鳴いた。
人影がかすかに身じろぐ。見えぬ姿を探すかのよう。
「鳥の声が、怖いのか?」
彼の声に。
藤の花の下に立っていた背の高い少年が、かくんとふり向いた。
「あは、死神だ」
幼い子どものように、笑って。
》 03
「これは……」
「うん、目印」
深夜の路上を近づいた彼に少年は頷き、俺のシゴトだってわかったでしょ、そう屈託なく告げた。
面影があると判断できるほど顔立ちを覚えてはいなかった。けれど、口にされる言葉で十年前のあの子どもだと、たやすく知れる。
「でも俺、あんたがやってたみたいにうまくできなかったんだ。どうしようか考えたんだけど、どうせ自然に笑った顔にさせらんないんだったら、描いちゃえっ
て思ってさ」
ぬめる血臭に溺れる驚きと恐れと痛み。ひきつった死者の顔に施された死化粧がそれらを覆いつくす。毒々しいマジックの赤で作られた、過剰な笑顔。
この一ヶ月の間、かつての緑地公園に含まれていた地域一帯で続けざまに起きた殺人事件の被害者は、すべてが同様の装いをさせられ、周囲に青いビーズが撒
き散らされていた、と耳にした。
それはまるで、彼自身の仕事の不出来なパロディ。
どうしてそこで十年以上も前の夜を思い出したのか、彼には理由を説明できなかった。けれど足を運ばずにいられなかったのは、やはりワケあってのことだっ
たのだろう。こうして少年の姿を目にしてようやく、納得する。
目印。
テッペンカケタカ
「もう、怖がらないんだな」
夜の空に鳥の声が響いても。
「あは。怖いわけないよ。ナカマなんだから」
「仲間?」
「知ってた? ホトトギスって、アレ、カッコウの仲間なんだって。托卵……卵を鶯の巣に産んで、育てさせる鳥」
盛りの藤花が少年の上、ざわりとゆれ、静まる。
灯火よりも仄かに、彼らを包んで。
「俺も、ホトトギス」
無言のまま見つめ返す彼の前に、淡々と言葉を重ねてゆく。
「取り違えってやつ。ホントについこの前だよ、わかったんだ。それからもうすっげ大騒ぎで、病院相手に、責任取れってね。あげく『本物のうちの子に会いた
い』って泣いて……、じゃあ俺はナニ? 血がつながってないから、偽物?」
ふっと、変わらぬ表情の底から唐突に何かが欠けた。人懐こそうな笑顔のままに、視線は空をさえ見ていない。
「俺が追い出したワケじゃないんだけど、……追い出せたワケがないよな、赤ん坊だったんだから。そんなのもすっとんだんだろ、子どもを返せって言われて
さぁ。今の今まで親子だったはずがいきなり偽物にされちまった俺と、あの人たちって、結局なにも…………なにも、つながってなかったのかなあって、さ」
いやむしろ、何かが被せられたのか。足下の、存在を忘れられたように転がされた身体に上書きされているものと、似通って見えた。
「面倒になった。こっちだってもう要らないって、決めたらすっかり楽になったけど」
「だから、殺したのか」
「うん、そう。なんかすごくびっくりしてたよ、二人とも。自分たちはあんなに要らない要らないって言ってたくせに、要らないって言い返されるってことは、
考えなかったのかな。変なの」
他人事のように、いっそ不思議そうに語られる、惨劇。まだ人目に晒されていないらしい遺体は、おそらく一か月前からそのままに放置されてあるのだろう。
そこはもう、少年にとって安全な巣ではなくなったのだ。
「じゃあ、その後の、他の人は何をした?」
「他? ああ、うん。ほら、当たり前に帰ってくでしょ、家に。それ見てたらなんか、アレ、ホトトギスの声が聞こえた気がして、頭ん中すうっと真っ白になっ
て。気がついたら、こうしてた」
肩をすくめる彼の両手には血まみれのナイフと、赤いマジック。気がついたらと言いながらも、用意された道具と、次第に増えてゆく死者の数は、つまり。
彼は呟いた。ため息と共に。
「結局、……楽しくなってしまった、か」
「あんたは、違うの?」
返されたのは、描いたような満面の笑顔。
ほんの幼い子どもだった。
死神を名乗った相手の記憶など、日々にまぎれて消えてしまうものだと思った。このまま誰かを傷つける牙など持たずに生きていくのだろうと。そうあってほ
しいと、心の隅で願ったのは気まぐれだけではない。
連続した殺人事件の被害者が、一様に笑顔を描かれていたと知った時に、それが全てあの公園の敷地であった場所で起きたとわかった時にも、違っていてほし
い、と。
どれほどに無益な希望か、彼は知っていたけれど。
気づかぬはずがない。
迷子の子どもが、他でもなく彼に向けて示した、目印、だったのだから。
一歩、足を踏み出すと同時に手を伸ばし、むき出しの首筋を軽くつかむ。警戒のそぶりもない相手には、あまりに簡単に触れることができた。
たったそれだけの行為で、すうっと少年の頬から血の気が引く。
とろりと瞼が下りた。ほうっと夢見る表情に、頬はゆるんでゆき。
「……ああやっぱ、しにがみ、なんだ…………?」
「おやすみ」
問いかけへの答えではなくただそっと囁き、彼は人形のようにぐったりと地面に倒れた少年の手に、澄んだ青色のビーズを握らせた。
テッペンカケタカ
人の世界の騒動など関係ないとばかりに、杜鵑が高く鳴き、羽音が散った。
》 04
店の扉の取っ手近くにあるライトが、小ぶりのプレートに光を投げかけている。かろうじて『八方堂』と刻まれた店名を読み取ることができる程度の、だが
ぽっかりと街灯の範囲からはぐれた位置でのそれは、どことなく誘い込むような雰囲気を醸しだしていた。
あと数歩というところでタイミングよく店から出てきた青年がすぐ彼に気づいて、屈託のない笑顔を向けた。
「おかえりなさい」
「……艮くん」
苦笑する。
「根津さんだろ、それ言わせたのは?」
「まずかったですか?」
軽く首を傾げ、本気で困ったように眉をしかめた青年に、彼は首を振った。
「…………いいや。礼を、言っといてくれるか」
どうぞと誘われて店内に入る。やはり客の姿は無い。いつのまにか青年は足音もたてずにカウンターの中に戻っており、止まり木に座る彼の飲み物の用意を始
めた。
「いつもの、ブルーヘブンですよね」
「いや、コーヒーを頼むよ」
「珍しいですね。いいんですか?」
「ああ。もう少し、目を覚ましていたいんだ」
静かにジャズの曲が流れる店の中に、あの鳥の声は届かない。硝子窓からは、夜が薄められはじめる様が絵画のように見えた。
帰る場所を見失った子ども。
この手で送った先が、幼かった少年が信じていた場所ならよいのだけれど。
「……それこそ、嘘だな」
天国なんてものは、どこにも。
熱いコーヒーに口をつけ、苦さを味わうようにそっと、瞼を伏せた。
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