分厚い氷を切り取ったような硝子の向こうで、彼女は微笑む。
 僕はとても嬉しくなる。
 とても小さなその窓は、壁の高い位置にひとつだけある。背伸びして中を覗き込めるようになったのはごく最近のこと。そこから見える部屋の中はいつもぼん やりと暗い。
 ただ彼女だけが白く浮かび上がり、きれいに微笑んでいる。



「んなわきゃねえだろ」
 幼馴染の声が容赦なく夢想を破った。
「あのな。お前が昔っからぼんやりしてんのは知ってるけどな、まずよっく考えろよ。あの妙な建物にゃ、壁しかねえんだぞ。ぐるっと石を積んだ上を土で固め た壁で、出入りできるような隙間も戸もねえ。あのひとつっきりの窓も開けられるようにはできてねえし、そもそも人が出入りできる大きさじゃないのは、見て すぐわかるよな。そんなところに、何年も生きた人間が居られるか? どうせ絵か何かだろ」
「……そりゃ、そうだろうけど…………」
 確かに。
 よく考えるまでもなく、彼の言った通りだった。
 上部がわずかにすぼまった円筒形のような建物は、僕が物心ついた頃にはそこにあった。いつからあるのか改めて尋ねたことはないけれど、かなり前に建てられ たのは確かだと思う。そして最初から窓以外のものがあったとは一度も聞かない。
 だからあの中に誰かが暮らしているなんてのは、とうていあり得ないことだ。
 でも、ちょっとした夢を見るくらい、いいじゃないかとも思うのだ。
 この小さな村で生まれ、暮らし、死んでいく。僕の将来にこれ以外の道があるとは思えない。ここがどうしても嫌いなわけじゃないけど、変化が欲しいのは嘘 じゃない。
 だから僕は夢想する。
 例えばあの中にいるのは、訳ありのお姫さまとか貴族のお嬢さんで。表に姿を現すことができない事情から、こんな場所に幽閉されているんだ。たったひとつ の透き通った窓から垣間見る風景だけを楽しみに一人淋しくそこにいて、そして時々覗き込んでくるこの村の子どもたち――つまり僕たちの訪れを心待ちにして いるのだと。
 たわいない空想。誰に迷惑をかけるわけでもないそれのどこが悪い。
 いつものようにそう言えば、彼は溜息をつきながらやれやれと首を振った。
「しょうがねえなあ……。けどな、あの一帯がそもそもあそこのお屋敷の方の地所なんだってことは忘れんなよ。離れた場所にあるからってあんまり勝手が過ぎ れば、やっぱりお叱りがあるぞ」
「そのくらい、わかってる」
「……だといいけどな」
 隣村とこの村と、二つの村の間をほぼ占有するほどの広大な敷地が、お屋敷の主人の所有地だ。こちらに滞在することは年に何度と数える程度で、また要り様 な物はほとんど隣村で用立ててるらしいから、僕の住んでる村にお屋敷の人間が姿を現すことは滅多にない。お屋敷の建物は高台にあるから、大きな屋根だけは ちらりと見ることができるのだけど。
 きっと、僕が想像できるよりはるかにお金持ちなんだろう。そうでなければ、あんな奇妙な建物の窓にまで硝子を使うだなんて考えないだろう。この村で窓に 硝子を嵌めている家なんかどこにもない。村長の家でも、村一番の金持ちの家にだってないんだから。
 嵌め殺しの窓ひとつだけの円筒状の建物の中にあるのは、きっと幼馴染の言うように絵か彫像かそんなものなのだろう。
 ああ、でも。
 あり得ないのはわかってる。けれど。
 きっとまた僕は行くだろう。
 あの窓の向こうで確かに、彼女が微笑んでいるのを、僕は見たんだ。



「火事だぁっ!!」
「皆な早く起きろ、火事だ、火事だっ!!」
 深夜、重なり合うような叫び声にぐっすり眠っていたところを叩き起こされた。
 慌てて外に出れば高台の方、遠めにも大きなお屋敷が天を焼かんばかりの激しさで燃え上がっているのが見えた。盗賊だ、との声も混じる。
 村からは距離がある。けれどもしこのまま周囲の樹木に燃え移れば、或いは村の近くまで火が走るかもしれないし、盗賊となればなお放ってはおけない。お屋 敷とは比べ物にならないだろうが、何かの間違いで村の方に逃げてきたのを見かけたからと、とばっちりで被害を受ける可能性もあるのだ。
 大人たちが手に手に桶や濡らした大きな布切れを持ち、連れ立って高台に向かって走ってゆく。ああも燃え上がっていては大した助けにはならないかもしれな いが、怪我をした人を手助けすることはできるだろう。或いは逃げ遅れた人を助けることも。
 慌しい雰囲気に包まれ立っていた僕は、ふと何かに急かされるように駆け出していた。高台にではない。
 僕がいつも通っている、奇妙な建物。
 屋敷からはずっと離れた敷地の端だけど、あそこも屋敷の建物に含まれるのは間違いない。そして窓しかないあの構造が、もしかしたら何か重要な物を守るた めのものじゃないかと思いつくかもしれない。
 闇の中を僕は走った。いや、全くの闇夜ではなかった。轟々と音をたてて燃え上がる炎が、さらに冷たく輝いている月の光が僕の足先を照らし出す。
 夢の中の出来事のようだった。どこまで走ればそこにつくのか、いつから走っているのかどれだけ進んだのか、よくわからぬ気持ちになる。
 だが僕は駆けていた。そして確かにその場所を目指していた証拠に、ほとんど唐突に。
 ぐわ、と。
 黒々とした円筒形が木々の合間から姿を見せた。
 考えてみれば。
 夜に来たのは初めてだった。夜に来たって中は見えないから、来ても仕方がないと思っていたのか。それとも、窓から灯りが見えないことで空想の余地を失う ことが嫌だったのか。
 奇妙だと感じたことはあっても、これほどに圧迫感のある建物だったとは一度も認識したことがなかったんだ。
 迫るような押しつぶしてくるような、しかしそんな感覚を長く味わっている時間はなかった。思いつきが現実になっていた。影のような円筒形の隣に体格のい い人影がひとつ、今まさに棒状の物を振りかぶり。
 止めに入るとか声をかけるとかそんな、間は少しも無かった。
 激しい打撃音が数度くり返され、ガシャリ、ガチャンと狙われた窓硝子が叩き割られる音が夜闇に響き、何もできない僕の目の前で分厚い硝子が無惨にも砕き 除かれる。
 穴が、開けられる。
 穴だった。もう窓じゃない。無理矢理にこじ開けられた、穴。
 狼藉者がぽっかりと空いた穴に手をかけた、まさにその時だった。
 手が。
 目を疑った。多分、目の前にそれを見た男が一番驚いていたに違いない。いやそれとも何が起こったのかわかっていなかっただろうか。
 僕に見えたのは手が、白く浮き上がるように細く白い腕が穴から外へと差し伸べられて、窓にしがみついていた男が仰け反り倒れた様子だけだ。突き飛ばされ たようでもなく、唐突に硬直してしまったといったふうに。
 手はそのまましばらくふわふわと外の空気を撫でるようにゆれていた。
 そして。
 そこは小さな窓だった。僕の頭でもようやく通るかどうかという大きさで、くぐり抜けるだなんて考えもしないほどだった。そこを。
 まず腕が。
 長い髪と小ぶりな頭、肩が。
 ほっそりした胴体とそれに続く足が。
 ふわふわと煙をかき集めたように朧に、一人の少女の姿を形作って地上に降りた。男の身体を踏みしめながら、全く気にした気配もなく。
 空を見上げ。
 微かに首を傾げそして、ふわりふわりと歩いて行った。
 今なお激しく燃え上がる炎の下へ。



 僕は、全てが過ぎ去るのを呆然と見つめるだけだった。
 白い少女の姿が森の影に消えてしまうと、まるで金縛りが解けたかのようにほっと溜息をついていた。声どころか、息ひとつ自由にならなかったのだと気がつ く。
 深く何度か呼吸してから、僕は恐る恐る建物に近づいた。
 倒れている男がいつ目を覚ますかもしれないという少しの不安も、好奇心に勝てなかったのだ。
 だがそれは杞憂だった。男に命の気配はなかった。一目見てわかった、死んでいた。いったい何を見たのか、目を限界まで抉ったように見開き、ただ恐怖の相 だけが色濃く表情を染めている。
 見ているこちらが寒気を覚えるほど。
 気味悪さを堪え、せめて踏まぬように気をつけながら、おずおずと中を覗き込んだ。
 暗い部屋の壁にもたれて、人形が一体座っていた。
 白く浮き上がり、虚ろな眼差しを窓に向けていた。
 足元でジャリと冷たい音がした。砕けた硝子の擦れあう音。
 彼女はもうここにいない。
 窓硝子を粉々に、涙のようにふりまいて、去った。



 もう二度と、僕に微笑まないだろう。







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