空 に あ る も の






 大きな掌が撫でつけたかのように、緑が大きくざわりとうねった。
 雲の無い空に向けてプラトーの下部から風が吹き上げていく様が草原の上に形をとり、群のラウグそれぞれの足もとをくすぐりながら割れる。
 誘導用の低い柵のあちらこちらにこんもりと繁ったジャスラの枝先で、真っ白な小花が毬の形にかたまり咲いていて、ルウグが近くを通ると真似るようにゆら ゆらゆれた。
 明後日ぐらいには、林向こうの一画にあらかじめ何頭か追い込んでしまった方がいいかもしれない。前に放してからしばらく群を入れていないから、たっぷり 食べさせることができるはずだ。それともリガを出してやった方がいいだろうか。少し運動させるだけでも、ずいぶん身がしまるだろう。
 夜明けとともに畜舎から出したラウグたちを草の具合を見ながら一塊のまま丘に誘導し、畜舎の掃除やその他諸々を終える頃にはもう昼だ。空腹が時間を教え てくれる。
 作業は順調に進んでいる。この分なら、午後には外柵の点検ついでに新しい風羽の練習ができるかもしれない。袖口で汗を拭きながらボクは思わず笑みを浮か べた。
 目を覚ました時から快晴だったし、この天気は多分夜まで続くだろう。使い初めには絶好の日だ。



 空に突き出した岩盤の端ぎりぎりに立ち、視線をそのまま真下に向ける。
 絶壁がぐんとえぐれながら深くどこまでも降りてゆく。先に進むほど白く霞んでいるのは、霧のためだろうか。
 どれほどに目をこらしても、底は見えない。果てが知れない。
 この国は、極端な言い方をすれば、霜柱の上にあるようなものなのだという。
 初めからそんな形をしていたのか、それとも後からこんな形に隆起したのか、崩れ落ちたのか。おそらく、答えを持っているのはこの国をつなぐ竜だけで、人 には知り得ないことなのかもしれない。ボクにしてみればただありのまま受け入れるだけだ。
 霜柱の柱ひとつひとつはプラトーと呼ばれ、条件があう場所、主に水が手に入るか否かにつきるがそんな場所には人が住んでいる。橋を渡せる程度の間隔で密 集していれば盛んに行き来できるから市を開きやすいし、ある程度以上の広さと住人の数とが揃って町と呼ばれたりもする。
 聞いた話だと、国都が置かれているというプラトーはボクの住んでいるここの数十倍以上もの広さがあるという。一番高い場所に立ってもプラトーの端が見え ないだなんて、信じがたい話だ。
 一番のお隣さんでさえも橋で繋げることができるほど近くにはない以上、ボクにとっての世界は自分が住んでいるプラトーひとつだ。
 人は自力で空を飛べないから、移動手段は限られる。
 風羽と、竜。これだけ。
 ただし竜を操ることができる人間が多すぎるとは聞いたことがない。確かに竜に選ばれさえすれば身分にかかわらず騎竜士になれるけれど、そもそも選んでも らうためにまずは竜の台地に渡らねばならない。そこに辿りつくまでに、いったいどれほどの幸運を重ねなければならないだろう。まして竜士を持たぬ竜が台地 以外の場所で人前に姿を現すことは、さらに稀だ。
 だから、自力移動の手段として今後もボクに望めるのは風羽での移動だけ。
 むずむずとわきあがる喜びを堪えきれないままに、口元が笑みに歪む。
 ふり返れば若い緑色の草むらに、それがある。
 風羽だ。それも、ボクだけの風羽。



 これまでボクが用いていたのは練習用のものだった。その骨格は頑丈で皮膜はちゃんと張り替えられていたけれど、でも古い、父のお下がり。父は祖父から譲 られたというから年代物だ。もちろんそれを使って飛ぶことはできる。吹き上げる風に乗ってプラトー内だけを移動するなら、家畜を追ったり探したりするのに とても重宝する道具だ。
 ただ、これではプラトーの外を飛ぶことができないというだけ。
 父はそれでいいと言う。ボクは、我慢できなかった。
 やっと一ヶ月前だ。信士のレテアに練習成果を見てもらい、とうとう合格をもらえたのは。練習用の風羽での飛行訓練を始めてから二年以上が過ぎていたけ ど、ようやく本物の、プラトーとプラトーの間も飛ぶことのできる風羽を使う許しをもらった。
 残る問題は、手に入りさえすれば、だったこと。ボクの家に本物の風羽は無く、いつ手に入るかもわからなかった。欲しいからと即買うことができるほどに安 い買い物ではないし、プラトー外を飛ぶことにはそれなりの危険があるから、父が快く許してくれるとはボクも思ってはいなかった。それでもいつか相応しい力 量があるのだと認めてもらい必ず、そう夢見ていた。
 なのにそれからたった半月後の誕生日、ボクの前に立った父の腕には風羽が抱えられていた。
 真新しい新品だった。
 目を疑った。
 夢ではなかった。



 よくなめされた皮の手触りは最高だ。
 新しい風羽は、皮膜にびっしりと紋様が描かれている。皮膜だけじゃない、それを支える骨格にも浅く紋様が刻まれていた。一目見ただけでわかる、国都で売 られていてもおかしくない本格的な品だ。もしかしたら本当に国都で扱われているものを取り寄せたのかも。父がこんな贅沢を許してくれたことは、未だに信じが たいほど幸運だと思う。
 手に入れてからもう何十回何百回となくやったように、表面にそっと手を滑らせた。
 この紋様はただの飾りじゃない。これは風精寄せの呪文で、これがあれば練習に使っていたおもちゃみたいな風羽とは違って、隣のプラトーにも、その隣のプ ラトーにも寄らずに一番近い町まで飛んでいくこともできるのだ。
 勿論手にしてすぐに飛んでみたかったのだが、父と、何より風羽の師と言えるレテアに、一番最初に本物の風羽を使う場合は十分すぎるほど状態のいい時を選 ぶようにと堅く約束をさせられていた。さらに実行の日には父に場所と時間を告げておくこと、竜が来る日を絶対に避けること、熟練するまで風羽で竜に近づく のは非常に危ない行為だから、と。
 通常であれば最後の約束にはほとんど意味が無い。そうそう頻繁に竜に出会うことはないから。
 この国の、プラトーによって構成されたちぎれちぎれの国土を繋ぐ竜は、余るほどに数がいるわけではない。重要な空路、離れすぎたプラトー同士、国都と関 係の深いプラトーを中心に飛び、それ以外の連絡は手紙を運ぶ信士などを含む、総称『空士』と呼ばれる風羽を使うものたちが担っている。はるか頭上を飛んで ゆく姿を遠目に眺めることはあっても、間近に威容を見ることは国都でもなければ滅多に起こらぬ出来事だ。
 だが餌場――竜の食糧をまかなうことを任せられた牧場では。
 ボクが住むプラトーは竜の餌場、食餌を獲るため定期的に竜が訪れる場所のひとつだった。今のところボクが生まれた頃から馴染みの一頭が使っているだけと はいえ、少なくとも十日前後に一度やってくるから、大袈裟なくらいの注意も当然とわかっている。
 でも、今日は食餌の日じゃない。
 くるりと風羽をひっくり返し、背中に負う。
 ひとつひとつ順を追って、たるみや変なゆるみがないように装具をつけてゆくのは慣れた手順でしかないのに、動きに伴い新しい皮がたてる音にぞくぞくし た。
 立ち上がっても背中が軽い。実際の重量は練習用とそれほど違わないはずだけれど、何かを着けているという違和感がほとんど感じられず、ボクはまたごくり と期待に喉を鳴らした。



 一枚岩でできた岩棚は空に突き出している。
 先端のぎりぎりに立つといつも、身体が足先からふわりと浮き上がる心地になった。
 風の誘惑、或いは風精が呼ぶ、という。
 この感覚に誘われるまま落下する人間がいる。人間だけじゃない。動物たちでもそうなるらしい。時々、放牧している家畜の中に、外柵を越えて、どう考えて も暴走が理由ではなく落下してしまうものがいるのはそのせいだと、父に教わったことがある。
 底も見えない深淵へ落ちてゆくかもしれない恐怖に足が竦むのと同時に、同じほどの強さであと一歩を踏み出してみたいと何かが囁いてくる。だから、翼を持 たないものが不用意にプラトーの端に近づいてはいけない。
 でもこれからは。
 岩棚の端に立つ。ふわりと身体がゆらぐ感覚に襲われて、けれどそのまま目を閉じる。
 風を感じた。強く、これまでとは比べものにならぬ強さで。
 いきなり持っていかれないように足を踏みしめながら、意識のほとんどは背中に向け続けた。新しい風羽はまずこうしてゆっくり開きながら、風に馴染ませる ものだ。風精は気まぐれで、だからこちらは決して焦ってはいけない。
 やがて風羽は穏やかに震え始めた。
 ただ過ぎる風に木々が草葉がゆらされるのとは違う。通りすがりに触れられるのとはまるで、違う。
 風の唸り、いいや風精の囁きが、まとわりついて離れなくなる。
 瞼を上げた。
 広い。
 頭で考えるまでもない、足はとんと地面を蹴り次の瞬間、身体はプラトーの外にあった。少しの落下の感覚、そしてずんと上半身にかかる衝撃。
 上がる!
 考えたときにはもう、プラトーは足の下になかった。あるのは空。風。はるか下方に滲む白い霧。
 風に乗る感覚は、練習用でも十分に馴染んでいるものだ。
 でもこれは。
 違う。
 全然、別だ。
 逸る心を懸命に押さえ、プラトーの縁に沿ってボクは飛んだ。次々に寄ってくる風精に支えられた風羽が、本当に身体の一部のようだ。
 鳥はいつもこんな気持ちで飛んでいるのだろうか。でも鳥は風精に支えられて飛んでいるわけじゃない。
 ならば竜は。こんな気持ちで飛んでいるのだろうか。自由に心地よく、どこまでも早く自在に。
 ほんの少し高度を下げてみた。
 今まで上から覗き込むよりほかなかったプラトーの壁面が、目の前に迫る。かなり下の岩壁にまで木々はしっかりと根を張り、鮮やかな新緑をまとっていた。 日当たりのせいか北側では草木の勢いは弱かったけれど、そこにもたくさんの鳥の巣がかけられているのが手に取るように見える。
 ゆるやかに高度を上げた。
 そこかしこで満開のジャスラの花が、プラトーの縁を白く飾りつけていた。眩しい午後の陽射しを受けて眩しく咲いている。混じりこんだミルティの薄紅色が やわらかく、大きな花びらを開いて一際鮮やかだ。
 林の内側には草原が広がり、ルウグの群はそれぞれの好き勝手に散らばって長閑に草を食んでいる。折々聞こえる鳥たちの囀り。風精たちがあわせて歌う。
 楽しい。
 嬉しい。
 楽しい。
 不思議なほどに風羽との違和感が無かった。まるで自分の背中に直接生えた翼ででもあるかのように、ボクは新しい風羽を使いこなすことができていた。ずっ と、ずっと願っていた通りに。
 プラトーの上高く昇って横切るボクの影が、草原に落ちている。ぼんやりとしたそれの動きに伴って草原の緑がざわりと波打つ。風精がからかい奔っているの だ。
 そのまま通り抜ければ足もとから見慣れた色は消えて、どこまでも深い霧が満ちていた。ボクの影がどこにあるのかわからない、影が辿りつけないほど深く広 がっている。
 今日は駄目でも。
 明日は無理でも。
 決して遠くはない未来に、この広い霧の原の上を飛んで、どこまでも行くのだろう。
 これまではただ夢でしかなかったそのことがいつか現実になるのだと、たった今ボクは知った。
 ボクの世界は、このプラトーひとつでは終わらないんだ、と。
 胸が。高鳴った。
 その時。


 外れた。
 風精の支え手が。


 落ちる。
 ボクの身体が落ちてゆく。
 プラトーの縁の外側にあった身体は、風精が減った風羽では支えきれなかった。それでもまだ少しだけ、幸運にも羽に留まってくれた風精が、落下速度を和ら げてくれていたことに気づいたのは、とっさに広げた手が岸壁に根をはり繁っている木の枝に触れた時だった。プラトーの側に運んでくれたのだ。
 手が足が自分のものではないかのように弾んでいた。枝を折り葉を散らし、聞こえるのは身体がひっかかっては外れて落ちる、その音だけのはず。何度もくり 返し背中にぶつかる風羽の骨格、せっかくの新品が壊れてしまわないか、自分の怪我のことなど思いもせずに、それが一番気にかかった。
 その最中にもちらちらと目を開いていたボクの上に、悠然と落ちてきたのは大きな翼の影。
 竜がいた。
 空に。
 ほんの少し前にボクが飛んでいた空に。
 竜が。



 次第に落下の勢いは削がれ、やがてひっかかった太い枝が危なげなくボクの身体を支えてくれた。
 ふいに訪れた静寂はやけに透き通って空に向かう。
「い…………ったた、た」
 落下による衝撃と痛みに細めた目の端を何かが通り過ぎた。いくつも、いくつもの白い何かが。
 そっと見開けば、それはきらきらと降る花びら。
 幸運にもそれほど登りにくくはなさそうな、途中のでっぱりにひっかかっていた。枝に手足をとられながら、空を見上げる体勢。きらきらと降る芳しい花び ら、真っ白な花びらを散らし飛ぶ竜の姿。
 風が混じりけない喜悦の声をあげている。
 優雅に舞う竜によりそって、それが悦びなのだと歌っている。
 どうしてそんなものを聞かせるんだろう。さっきまで、ついさっきまでボクと一緒に彼らはいたのに。まるでもうボクのことなどすっかり忘れてしまったよう に。
 風精寄せの紋様など彼らには要らない。その巨躯にふさわしい大きな翼を広げれば、風精たちは喜んでともに空を行く。
 ボクがどれほど望んでも、求めても、ただその大きな翼ひとつ震わせただけで。
 どうして。
 そして、気づく。
 何故自分がずっと、竜ではなく風羽でプラトーの外を飛ぶことにこだわっていたのか。
 竜士になりたいと一度も考えたことがなかったのか。
 ボクはただ、竜のようになりたかった。竜のように飛びたかった。
 彼らが飛ぶのと同じように風に愛されて、自在に空に在りたかった。
 だからボクはずっと憧れて、風羽で、自分の身体で飛ぶことを望んで。
 きらきらと降る花びら。あんまり綺麗すぎて、涙で歪む。
 残酷だ。空が。竜が。風精が。この世界が。
 たとえ風羽が使えたところで、空に拒絶されれば落ちてゆくしかないこの身体で、どうして生まれてきてしまったんだろう。
 どうしようもなく胸が痛み、目の奥がやたらに熱く、潤んだ視界の中にさえ。
 獰猛に、優雅に。
 ボクの飛びたかった空で、芳しいジャスラの花を存分に散らして。
 竜が、飛んでいた。




 [ 了 ]








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