どこか舌たらずな、幼い子どもの甘やかに澄んだ声がピアノにあわせて歌う。
すりぃぴんへぶんりぃぴぃす
すりぃぴんへぶんりぃぴぃす
言葉の意味を知ったのは、ずっと後のこと。
* *
「天国のような平和、ね」
と、まだ少年の表情を残した若い青年が年代物のピアノの前で呟く。
「だからさ、特に今の季節なら春眠暁をおぼえずって言うだろ、そんな感じだよ。あったかい布団の中とろとろと目が覚めそうで覚めないぎりぎりのとこで、何
にも邪魔されずにうとうとしてる感じ。最高にふわふわな幸せって感じがしないか、あれって」
そう主張するのも同じく大学生ほどと見える青年で、カウンターの端に腰を下ろし、大きな身ぶり手ぶりを交えながら自分自身の感じている『ふわふわとした
幸せ』を伝えようとしていた。
「なのに、おまえの弾き方には情緒ってもんが無い!」
「……言われたって、こっちが困る」
ため息をこぼしながら青年の指先は鍵盤に触れ、と同時に軽快な旋律が店内に転がった。
こぽこぽとコーヒーの湧き上がる音がまるで演奏の一部のように添った音色は、このところ急に春めいた日射しに相応しい朗らかさで、確かに穏やかな眠りを
誘うものではないにしても、心地良い。
「こういう弾き方ならいくらでもしてくれるのになぁ……」
頬杖をついて青年は呟き、カウンター内でサイフォンの様子をじっとみつめている店員に向き直る。
「ね、未伸さんも思わない? ふわふわぬくぬくうとうとするのって、最高の幸せだよね。それでオレは陽に、生まれたばかりの赤ちゃんが何にも悲しいことも
苦しいことも知らないって様子で眠ってる、そんな感じで子守唄とか弾いてほしいんだよ。ここのところ特に、そんなふうに弾いてもらえたこと、ないんだけど」
「苦手なんだよな、ふわふわとかやさしいとか穏やかとか」
「うー。でもお前に弾いてほしいんだよ。最高に幸せなやつ」
「靖はいつも、無理な注文ばっかり」
陽の言葉に青年は頬を膨らませた。
「『 As Time goes by 』みたいな曲まで全速力で駆け抜けるように弾かれたら、注文つけたくなって当然だろ。しっとりやさしく弾けよ」
「だったらやさしく弾ける奴に弾いてもらえばいいのに」
「やだね。オレはお前の音じゃなきゃ歌う気しない。だから弾けってば」
けれど、次々に途切れなく青年の指が紡ぎだしてくるのはどこまでも軽やかで、まどろみとは無縁の音色ばかり。浮き立つように快活で、じっと座っているの
が嫌になってくるそんな音。
靖は不満そうに口を尖らせながら聞いていたが、結局目を閉じたまま喉をそらした。
美しい声が、ピアノの音色を抱きよせた。
「陽くん。今度、夜においで」
一時間ほど弾いた鍵盤からようやく手を放した陽は、カウンターごしにかけられた言葉に首を傾げた。
「夜に?」
「ここ、真夜中にも営業しているのは知ってるだろう?」
「それは知ってますけど……」
「実は根津と、少し前から相談していたんだよ。お願いしたいことがあるんだけれど、君が迷ってることの参考にもなると思う」
「え、なんで……」
「何にせよ、君に弾いてもらえて嬉しいよ。ずっと飾りでしかなかったからね、そのピアノ」
陽は少しの間、言葉もなく微笑む未伸の顔を見上げていたが、こくんと頷いた。
「わかりました」
「あ、ただ、十一時から午前一時までの間にね」
「時間指定?」
しかもよりによってそんな真夜中かと不思議そうに呟くと、その時間帯が根津の担当なんだと未伸が返す。なるほどと納得の顔でピアノの蓋を閉め、椅子から
鞄を取り上げた。
「バイト終わってから、顔を出します」
「よろしく」
ドアベルを鳴らして、入り口の扉が大きく勢いよく開く。
「あ、オレも行く。置いてくなよ! じゃあまたね、未伸さん」
陽の背中を追って靖は慌てて隙間に身体を押し込み、飛び出すように出て行った。
余韻が消え、店内に静寂が満ちるまで待ってから未伸は音楽をかける。ふっと温んだ空気の中、カウンターの上で冷えきったコーヒーを片づけた。
* *
もともと人通りの多くない道は、日付がじきに変わろうという深夜ともなれば心細さを感じてつい足早になるほどに人がいない。
店に来るのが昼ばかりだったから気づかなかったけれど、店は街灯の範囲からはぐれた位置にあった。扉の取っ手近くに置かれた常夜灯が小さな金属製のプ
レートに光を投げかけ、かろうじて『八方堂』という店名を読み取ることができる。
寒さの残る春の夜に、そこだけが少しだけ温かさを感じさせるようで、昼とはどことなく雰囲気の異なる扉を押し開ける躊躇いを拭い去ってくれた。
落ち着いた低い音色で来客を迎えたのは、ドアベルだけではなかった。
「ああ、いいタイミングです。いらっしゃい」
扉を開けるや否やそう声をかけられ、陽は戸惑いに足を止めかけた。店内には先客がいて、その女性は店員の声につられたように入り口に視線を向けると、カ
ウンター席から小さく会釈をし、すぐに視線を戻した。
「こんばんは」
「あなたが根津さんですか?」
「ええそうです。いきなりで申し訳ありませんがこちらの曲を、陽くんに弾いてほしいんですよ」
「はあ……」
事情を話す間も荷物を降ろす間も与えられることなく、カウンターに広げられた楽譜を見るように促される。まあ弾くだけならと目を通したそれは右手の旋律
に簡単な左手伴奏をつけた程度の、初見でもなんとかなりそうな単純なもの。
少しだけ気になったのは、題名すら書かれていない手書きの楽譜そのものが色あせ、古びていることだった。まるで何年もの間、どこかに置き去りにされてい
たかのように。
「あなた達の年代だと知らないかもしれませんね、昔とても流行った女性アイドル集団の曲ですよ。少々ひっかかってもいいので、なるべく朗らかに軽快な感じ
で弾いてください」
「お願いします」
横合いから、先客の女性がそう言った。陽たちよりも十歳以上は年上だろうか、偶々居合わせたのではなかったらしい。
「自分で弾ければいいんですが、……もうずっと、指が動かなくて」
どんな事情があるだろう。懐かしいような眼差しで楽譜を見つめる彼女の様子と根津の表情に促され、陽はピアノの蓋を上げて楽譜を譜面台に置いた。
「あ、歌詞が書いてある。ちっちゃ。これ、女の子の字だなぁ」
ひょいと覗きこんで靖は言った。旋律部分の下に鉛筆で歌詞が書きこんであった。もともと小さい字な上に、あちこち読みとれないくらいに擦れている。
「えっと、春はおわかれ、の、季節で、す……? ふぅん、朗らかにって言ってたけど、別れの歌なんだ」
左手の和音をいくつか確かめてから、陽は心の中でテンポを刻んで弾き始めた。伴奏はリズムを崩さないように、右手は明るく、女の子が歌う声のように。真
夜中に、お酒も扱うような店で聞くには不似合いな曲かもしれないと、ちらり思ったけれど。
じゃあね
そうよ、手をふって
サビのパートのくり返しに入ったところで、思わず手を止めそうになった。背後で、感極まったようにすすり泣く声と、若い女の子の歌う声が聞こえたのだ。
泣いているのは多分カウンターに座っているあの女性だろう、では歌っているのはいったい……。
じゃあね、じゃあね
ダメよ、泣いたりしちゃ
軽快なメロディーは朗らかにさよならを告げる。春の別れと、ずっと友達でいようと約束を歌う。
楽譜に指示はなかったけれど、何となく終わりにしがたくて陽はサビをもう一度だけくり返した。涙声が一緒に歌い出す。ずっと友達でいよう、と。
じゃあね
最後の音にあわせ、明るい少女の声が一際大きくそう言った。
彼がふり向くとほんの一瞬だけ、制服姿の女の子が見えたような気がした。
大きく手をふって、笑っている姿が。
「うん、じゃあね」
少女に向かって彼女も微笑みながら手をふっていた。涙の跡をそのまま頬に残した、ほんの少しだけ幼さを感じさせる表情で。
「今日が、四十九日だったんです」
ありがとう、と彼女はまだピアノの前に座る陽に礼を言い、カウンターの中の根津にも軽く頭を下げた。
「一番大事な友達でした。大学は離れるけれど、ずっと友達でいることだけは変わらないと、疑いもしていませんでした。それが、高校の卒業式の少し前に一緒
に事故にあって、彼女だけ意識が戻らないまま、先日とうとう」
震える瞼を伏せ、小さく口元だけで微笑んだ。
「その日からずっと、他の人には言えなかったけど、彼女の気配が近くにあって。彼女が一緒にいると思うと嬉しかった、とっても。でも……手を、放せなく
なってしまうものね」
そう言うと、あの古びた楽譜を手に取った。彼女の字、と歌詞を指先でなぞる。
「これ、中学卒業の時に、クラスのみんなで歌った曲だったんです。高校を卒業する時にも歌おうねって、約束していたの。彼女が見つけてくれたのかしら、遇
然出てきて」
春の別れと、ずっと友達でいる約束。
続く未来を疑うことがなかった、幸せな日の思い出。
「ちゃんとさよならを言いたいと思っても、どうすればいいのかさっぱりわからなかったのに、まさかこんな頼みを聞いてくれるお店があって、本当に……。す
ごく変わってると正直思ったわ、ごめんなさいね、根津さん。でも、本当にありがとう」
深く下げられた頭は、そのまま少しの間伏せられたままだった。
こぽこぽとコーヒーの沸く音が店内に響いて、やがて良い香りが立ち昇るカップが置かれると彼女はゆっくりと顔を上げ、真っ赤な目で微笑んだ。
「……さみしく、ないですか?」
ためらって口にした言葉は、僅かに掠れていた。唇が乾いていることが気になりながら、陽は目の前の女性が目を瞠るのを見て聞くべきじゃなかったかと、少
しだけ後悔した。
そんな逡巡する気持ちを宥めるように、彼女は言った。
「さみしいわよ、勿論。もう会えないんだもの。でも、隣にいなくても、彼女が私の大切な友達なのは変わらないの」
「ずっと?」
「ずっと」
古びた楽譜に視線を落とし、悲しそうに、幸せそうに、微笑んで。
「一生、大切な友達だわ」
* *
「それで、陽くんはどうしますか?」
根津がそう尋ねたのは、女性が帰った後だった。
ピアノの前に座ったまま、空になったカウンター席を見つめていた陽は、気持ちを落ち着けるように数回ゆっくりと息をついた。
「……最初は、気のせいだと思った」
ポーンとひとつ、響く澄んだ音。夜にすっかり溶けて消えるまで待って、陽は呟くように話した。
「でも、ピアノを弾き始めると、背中に気配があった。いつもいたのと同じ位置に、こうしてピアノに向かっていると、必ず」
「何の話だ?」
靖は首を傾げて陽を見つめたけれど、陽は今度は鍵盤に視線を向けたまま動かない。
「ずっと小さい頃から一緒にいて、ずっとそんなふうに過ごしてきたから、そう感じるだけだと思った。でも、歌う声が聞こえて……」
奏でられる音色を抱きよせるような。
他の誰にもできない。合図が必要ないほど伴奏と一体になった、歌。
「あいつの歌う声を、聞き間違えるわけがない。でも」
両手に顔を埋め、彼は。
「靖は、もう、いないのに……っ」
一か月前。
携帯電話に入った急な知らせを、彼は最初は信じなかった。
信じられなかった。
そして多分、今でも、信じきれていない。
「ピアノに向かえば、傍にいるのが感じられるから、前よりもピアノを弾く時間が増えた。でも、あいつが好きだったやさしい音色なんかで弾いたら、あいつ
が眠ってしまいそうで、そのまま、消えてしまいそうで、あいつが好きだった曲が弾けなくなった」
遠い記憶の中で、どこか舌たらずな、幼い子どもの甘やかに澄んだ声がピアノにあわせて歌う。
すりぃぴんへぶんりぃぴぃす
すりぃぴんへぶんりぃぴぃす
意味など知らないまま、歌う声はけれど歌詞の意味そのままの穏やかさを体現してやわらかく、そのまま心地良く眠りたくなるやさしさ。
ピアノを弾いていたのは陽で、歌っていたのは靖で。
ふんわりと、あたたかな。
天国のような穏やかな幸せが、二人で奏でていると生まれてくる気がした。
ずっと続いていくような気がしていた。
たった一か月前まで。
「……根津さん」
顔を伏せたまま、陽はくぐもった声で聞いた。
「あいつは……、靖は、いますか?」
「いますよ。さっきからずっと、あなたの斜め後ろに」
根津は静かに頷いた。
「とても驚いた顔をして、あなたのことを見ています」
「はは……。自分で気づいてなかったんだ、もしかして」
「オレ、死んでたのか?」
「ええ、そうです」
かみ合わない視線。通じていない言葉。そんな二人の様子を根津だけがわかっていて、頷くことで二人に教えた。
ようやく顔を上げて、陽は根津が伝えた場所に真っ赤な目を向けた。
姿は見えない。言葉も聞こえない。伝わるのはもう歌声だけ。でも、大事な大事な友人だから。
「本当は、このままずっと一緒にいて、ずっとおれのピアノに合わせて歌っててほしいって、思う」
「オレだって、おまえのピアノで歌っていたいよ」
「でも、そしたらきっと、手を放せなくなる」
「そうだな。どこにも行きたくなくなる」
ついさっき目にした光景は、まだ鮮やかだった。
『さみしいわよ、勿論』
きっぱりと言い切って、悲しい気持ちを抱えながら別れを受け入れた人。
笑って、手をふって、消えていった少女。
「ずっと、一生、大切な友達なのは、変わらない」
「そんなの、当たり前のことだろ」
重なるほど近づいて、合わない視線で、お互いを見つめ合いながら。
「やっと、弾いてくれるわけだ」
靖はにやりと笑い、陽は顔をぐしゃりと歪めた。
「……弾いてやるよ」
天国のような幸せを感じられる音で。
季節外れな気がするし、キリスト教を信仰しているわけでもないけれど、二人ともこの曲が好きで、小さい頃から陽は何度も弾いて、靖はそれに合わせて何度
も歌った。英語の歌詞をまるおぼえしたけれど、詞の意味がわかるようになったのは、英語の授業を受けるようになってから。
一番の歌詞の最後の響きが、その意味が、他のどの歌詞よりも好きだった。
陽の指は鍵盤の上を滑り、誰もが聞き馴染んだ曲を奏でる。
静かに、やさしく。けれど決して弱々しくはなく。
あたたかな毛布のような声が、そんなピアノの音色を抱えこむように響いた。
陽の耳にも届く、靖の声。幼いころのたどたどしさが嘘のような靖の歌声を、耳に刻む。
すりぃぴんへぶんりぃぴぃす
Sleep in heavenly peace
何度も、何度も。陽はくり返し弾いた。
天国のような平穏の中で、ふわふわぬくぬくうとうとと、ゆっくりと眠れるように祈りをこめて。
少しずつ遠ざかる靖の声が、聞こえなくなるまで。
何度も。
「根津さん。陽に伝えてくれる?」
「なんでしょう?」
「聞こえなくなってもさ、オレはずっといるんだって。いつでも、陽がピアノを弾いている限り、本当に失われることのない絆で繋がっているから、大丈夫だっ
て」
放心したように宙を見つめていた陽は、やがて視線をピアノに戻すと、根津の名を呼んだ。
「なんでしょう?」
「このまま。朝までピアノ、借りていいですか?」
「かまいませんよ。飾り物でいるより、ピアノも喜ぶでしょう。一時から入る艮にも伝えておきますから、存分にどうぞ」
「ありがとうございます」
ぐすぐすと鼻を鳴らし、目を真っ赤に腫らしたまま、陽は指を鍵盤の上に置いた。
そうして奏で始めたのは、ひどくやさしい、やわらかな、ほんの少し悲しくて、幸せそうな音色だった。
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