図書室


 司書の先生のいない日は、私が図書室に残る最後の人間です。時計の針がちょうど五時をさしますと、カウンターから閉館の時間です、と言うのがきまりです。
 その時間には、ほとんどの人たちは帰る用意をしているので、声と同時に図書室を出てゆきます。難しい仕事ではありません。皆さんが出てゆくのを待っているだけですから。
 ところが夏休みも終わり、日の入りが早まり、閉館時間が夕焼けの時間に重なるようになった頃から、私は不思議な人たちに会うようになりました。閉館を告げた後も、その人たちは出てゆこうとしないのです。
 その人たちは図書室のあちらこちらで、本を開いたまま動きません。仕方なくカウンターを出て、一番近い机に座っていた人に声をかけますと、その人は消えてしまいました。にっこり笑ってから。それが最初でした。
 翌日も、閉館後に残っていた人たちは、私が声をかけますと、ただ一人の例外もなくにっこりと笑って、消えてしまいました。理由を尋ねようにも、声をかけると消えてしまいますし、それ以外では少しも動こうとしません。次の日には、すっかりと諦めてしまいました。
 この一週間、先生は体調がよろしくないとずっとお休みでしたから、私が図書室に残る最後の人間でした。毎日、閉館後にはカウンターを出て、彼らに声をかけました。彼らはやはり消えてしまいます。ただ穏やかな笑みを残して。
 ですから、黄昏時の図書室で一人々々に声をかけながら、私自身の消えてゆかないことが、今日は少しさみしいのです。


  てっぺん


ついてない一日でさえようやく終わるから
ポケットにつっこんだ何もかもも
勢いよく放り出して
急すぎる下り坂を
ころげてく
銀色な月もいいさと笑おう

 電話をかけるための時間
            でもないけど

立ち止まって笑う
とけ残った雪が猫の死骸に見える
そんな夜だってある


  移動の関係


上りの
長いエスカレーターが
じりりと
地上へ向かう。
前かがみに黙りこむ。
不安定な
自分に気がつく。

 ひきあわせるたび
 襟の隙間からこぼれてゆく体温
 胸をはるたび
 肩から落ちてゆくため息

 不均衡で

ぽっかりと区切られた出入り口から
空と同じ色の風が吹き込んでくる。


  逆毛の猫


上むきににらみつける夕べの残照
動き出す 夜の歯車
影ぼうし 追いかける逃げごしな尾
キルリキルリと鳴く夜鳥
梢に立て 嘘つきな月赤く
梢に立て 嘘つきな月赤く
 手の平の裏側に鼻先を押しつけて
 逆毛の猫が駆けあがる
予定外の記憶の断片
黙り込む 羽化したての風色の花
氷面下 追いつめられた自由落下の天体
組みあげられて古びた暴君
梢に立て 嘘つきな月赤く
梢に立て 嘘つきな月赤く
 逆毛の猫が駆けあがる
 逆毛の猫が駆けあがる





  さくら


 さくらさく さくさくとさく
 さくさくとさき さくさくとちる
 さくらさくら
 さくさくとさくらさく

 さくらのした さくらちり
 さくさくと さくらちる
 さくらのした ちるさくら
 さくさくと めをまわす
 さくらさくら

 さくらさく さくさくとさく
 さくらのした くらくらとちる
 さくらさくら くらくらとちり
 さくらさく さくさくとさく


  笑うことについて


女がさりげなく口もとを隠す。
意味はひとつではない。
(むきだしにされた白い歯が
 友好を示すとは限らない。)
女がさりげなく口もとを隠す。
男が手の行き場を思案する。
それは無意味ではない。


  ためらい


音だけが道案内の夜に
うなだれてついてゆく足がつまづく。
ばたりとたおれたなら
もしかしたなら
楽になってしまうのだろうか。
促すように風が吹き始める。
足は踏みとどまろうとする。





  春


 雲がまっ白にふわんと
 東風に運ばれていく
 ゆったりと運ばれていく

 黄色の花は目に眩しい
 小さな庭に
 われ先にとほころんで

 空地に目を向ければ
 名は知らぬけれど小さな花が
 あちらこちらに

 おひさまの下ではしゃぐ声も
 あちらこちらに


  雑踏


ひそひそと屋根に漂う夕暮れ
色をゆずられ
風までが夜のふるまいを始め

 街の夕暮れは人の吐息にぼやけている
 木にかかる細い月さえ赤く溶けている

ぬりなおされるための時刻には
立ち止まろうと試みる人を見た
点滅に追いたてられていた

 街の夕暮れは人の吐息にぼやけている
 木にかかる細い月さえ赤く溶けている

夜は始まろうとしていた
夕暮れは終わっていなかった
誰も気がつこうとしなかった


  愛しの


人形のように糸を切られた
僕は
床に広がり
ジャズ
それから
風の響きをさがした
つきささった音は金色のトランペット
心の金具を破壊する
偽物の真夜中に
ショーと拍手はくり返される
残響の反射角が
きしみあげるちょうつがいに混乱し
惨々な勢いでとぎたてられてゆく