ひとたび屠られしものは


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 《序》

 轟々と、火炎は音を立てて夜を染めようとしていた。
「いたかっ!?」
「いいやっ! そっちもか…」
「だめだ。足跡が消えちまってる」
「ちくしょう……っ! なんてこった………」
 村をぐるりと取り囲むように、光の届かぬ場所が生じないように、大きな篝火が幾つも幾つも焚かれ、まるで真昼のように明々と周囲の闇を押し返している。村の中から出てきた年嵩の少年は腕いっぱいに抱えた薪を篝火の近くに使いやすいように手際よく積みあげ、他の篝火のためにまた村の中に駆け戻ってゆく。
 男が篝火の一つの前で足を止め、そこに立ち行き交う村人たちと情報のやり取りをしていた別の男に声をかけた。
「……薪は、足りるか?」
「今夜と、まあ明日の夜いっぱいぐらいは、何とかなる。だがそれ以上となれば、陽が上がってから改めて森に入って調達しなけりゃならないだろう。これだけの数の火を、明日以降も維持するつもりならな。…それだって、それぞれの家で使う分も全部出しきっての話だ。この冬は、苦しくなる………」
「まったくだ…」
 男たちは苦々しげに頬を歪め、篝火に照らされてもなお暗い、村に押し迫るように生い茂る森をじっと睨んだ。普段ならば様々な恵みをもたらす恩恵の森の、今はただひたすらにその深さ暗さが厭わしい。一度逃げ込み身を潜めたものを覆い隠してしまう分厚い暗闇が。
 先端を削り尖らせて焼き固めた木の棒で地面を穿つように叩き、男の片方が心底忌々しいと言わんばかりに音高く舌打ちした。
「ともかく! 今となっては陽が登るのを待つしかあるまい。暗い中でうだうだ悩んでいてもどうしようもない。まだ、追っている組もあるのだろう?」
「ああ、二組が。一度は戻ったんだがすぐに出て行った。どっちも若い連中だな。無理はして欲しくないんだが…」
「皆なに、深追いせぬよう念を押しておこう。……なあ、エド。おまえは例の件をどう考えてる?」
「…魔法使いを雇うという、あれか?」
「ああ」
「率直に言えば、無駄だと思う」
「何故そう思う?」
「まず、雇うに十分な金が無い」
「それでも、いよいよとなれば村中皆なでありったけ出すだろうよ」
「それは間違いないが、…ここはけして裕福ではないからな、たいした額にはならん。二つ目に、無理をして報奨金を準備できたとして、呼んだ魔法使いが本物である保証はどこにも無い」
「……」
 誰にも否定しようのない、それは事実だった。この選択によって困窮しようとも、本物でありさえすればまだ耐える甲斐がある。だが弱者の弱みにつけこむ輩は常にそこらじゅうにいて、狡猾で、真贋を見分けることは酷く困難だ。つけこまれ、搾り取られる危険は大きい。
 ましてや、こんな田舎の村には常日頃一切縁の無い存在だ。詐欺師と、呪い師と魔法使いとをいったいどうやって判別しろというのか。さらにそれが騙りならともかく、盗賊の類がからみでもしたら、村はぼろぼろにされる。そんなことはまた実際珍しくない。
「三つ目だが、もし幸運にも本物と連絡が取れたとして、少ない報奨金で、こんな田舎まで足をのばしてくれるかどうかは、ほとんど賭けみたいなもんだ。中央にだって、戦の危険はあってもよほど楽で実入りのいい仕事がいくらでもあるからな」
「まったくだ。だが、他に手が無いとなったら……」
「そうなったら…ああ、そうなったら、賭けるしかないだろうな。いつまでも夜に怯えて暮らすわけにはいかないし、何よりも村の人間をあいつらの同属にさせるわけにもいかない」
「…しかし」
 ふっと。何かを憚るかのように、恐れるかのように男は声をひそめた。
 誰もが心の内に抱いている疑問。口にせずにいること。
「どうしていきなりこんな場所にあれが、あいつらが、姿を現したんだ………?」
 戦地は遠く、神殿も魔法使いも縁が薄いこの地で、何故。
 ガラリと火の粉を散らして崩れる篝火の音に、こぼれ落ちた男の呟きは紛れて失せた。



 《1》

 強い日差しをやわらげるように、風は朝から涼しく吹いていた。
 すっかり身支度を終えてから彼は、いつものようにテトラの綱を解こうとしていた。だがそれまではしゃぎまとわりついていた愛犬が、唐突に身をかがめて警戒の態度を見せたことに気づいて、ふっと村の入り口方向に目を向けた。
 一瞬、日が翳ったのかと思った。
 靴から手袋に至るまで見える限り黒一色の旅装の上に、やはり漆黒のフードつきマントをまとい、がっしりとした黒馬の背にまたがった男が、ゆっくりと村の中央を進んで行く。
 馬の歩みにつれてマントの内側から、これも黒い鞘に収まった大きな剣が見え隠れする。
 低く唸り続けるテトラの首を軽く叩いて宥めながら、彼の視線もまたその男の姿を追っていた。
 姿も振る舞いもこの近在の人間のものではない、見慣れぬ人間。
 やはりたまたま屋外に出ていた他の村人たちも胡散臭そうに、またどことなく怯えを含ませた様子で、見知らぬ男を遠巻きに見つめていた。外来の客に普段ならばうかれて、親がどう止めても声をかけまとわりつこうとする小さな子どもたちも何故か、今はただおずおずと親の後ろに隠れて覗いている。
 やがて小走りに駆け寄ってきた青年に誘われ、騎馬の男は少しも足どりを変えることなく、このルフト村の村長の家に歩み去って行った。
「……何者だ………?」
 視界からその姿が消えてもなおしばらくの間、目の隅に影が残っているように感じられた。
 そちらにあまり気をとられていたからだろう、放り置かれて拗ねたテトラにいきなり体当たりされた。慌ててひとしきり宥めてやり、機嫌の直ったところでさあ出かけるかと改めてその綱を解く。と、だがその途端、彼の行動は再び遮られた。
「ハガル、いるかーっ!?」
「おう。なんだ?」
「呼んでる。すぐ来るようにって村長が」
「村長が?」
 伝えたからなと、他にも誰かを呼びに行くのか忙しなく走ってゆく背中を見送る。何だろうと首を傾げはしたものの、思い当たることが無いわけではなかった。そもそも呼び出しを無視できるような立場ではないので、一度解いた綱をもとの通りに結び直して、しゅんとした愛犬の頭をそっと撫でた。
「……あの、黒い男………」
 空は晴れ上がっているのに、うっすらと日が翳ったように思われた。



 ヒルスト山脈の麓には、裾野一帯を深緑色の厚布で覆うように森林が広がっている。山の名を借りたヒルストの森という名が一応の正式な名称とされているが、近在の者は皆な『黒闇の森』の名で呼んだ。昼でさえ明るさを感じることのない森だからである。
 実際には、そこまで言うほど暗い場所というのは広大な森の中にも数えるほどしかなく、多くの鳥や動物、幻獣などが騒がしいほどに息づいている。もちろん人間もだ。昔から根付いている者も新しい者も、獣を追い鳥を狩り、また高く聳える大木を切り倒し根を掘り起こして畑を作り、家を建て、そうして作られた大きくはないにしてもそこそこの規模の村が森の中に点在している。
 村々の交流も疎遠ではない。それどころか暮らすに決して楽とは言えぬ場所に住むもの同士、互いにできる範囲で助けの手を差し出すことを拒んだりなど決してしない。何故なら森は豊かな恵みを与えてくれる場所であるが、また同時にどれほど長くそこに住んだものにとっても未知の危険な場所であるからだ。
 その『黒闇の森』に点在する村が五つ、一ヶ月ほどの間に次々と消息を絶った。
 村が、という言い方は少しおかしいかもしれない。正確に言えば、それらの村に住んでいる人々が唐突に姿を消した、というのである。あまりにも不穏な状態で、忽然と。
 調査に向かった者たちの報告で共通しているのは、それら五つの村のどれもが、村の周囲に篝火を焚いていた形跡があるということであった。それも尋常ではない数であったと。
 もちろん、森の中には危険な動物や幻獣が多種多数生息してはいるが、どの村も昨日今日この土地に作られた村というわけではないのだ、たわいなく侵入を許すほど無防備なはずも無い。常日頃からそれらの危険に対する警戒をし、襲われぬように交代で見張りを置き、柵や罠を仕掛け手入れを欠かさずにいるのはごく当然のことである。
 それが常であるものを改めて、それも一つ二つではない数の篝火を夜通し焚くというのは、疑いようもなく異常事態である。
 おそらくは五つの村全てで同じようなことが起こったのだろう。同種の危険が。
 そしてその理由を知る者は誰一人残らなかった。
 ただおびただしい血痕だけを残して、村は住む者たちを一人残らず失ったのだ。



「いったい何が起こってるのか…。まだまるでわかっていないのです」
「手がかりになるようなものは、一つも無いのか?」
「今のところはほとんど何も。とにかく不可解なのですが、問題の村が五つ、どの村でも住人が一人も残ってないんです。流行病でもないようですし、村全体が火事で燃えたというのでもない、何かあって総出で村を捨てたのだとしても、逃げ出した者たちの姿を見かけたという話は周辺の村でも一切聞かれません」
「盗賊では?」
「ですが、盗賊の類が押し入ったにしては家自体に荒らされた形跡が無く、死体もありませんでした。これについては今のところは、ということですが。…盗賊が、自分らが殺した人間を全員ごていねいに埋葬するなんてのは論外でしょう。それに、どの村でもおかしいくらいの数の篝火を焚いていた形跡があるんですが、どうやら村中の薪の蓄えをすべて使いきっての行動だったようで、盗賊対策というにはどうも…」
 異変が知らされてからこれまでに集められた情報のあまりに少ないことに苛立ってつい髪をかきむしろうとし、だがすぐに人一人分ほど離れて立つ客人の存在を思い出してハガルはその手を下ろした。
 客人。
 ちらりと向けた視線の先の、漆黒。
 ちょうど自分の左隣に位置している客人の存在は、ハガルにとって何故だか、長老たちの小言をうける時以上に、ひどく居心地の悪いものだった。
 別に凶悪な風貌をしているというのではない。いや、容貌だけをとり上げるならむしろ妬ましくなるほど整っている部類だろう。背は高く、誇示するでもないがふるまいは堂々としている。女たちが群がる類の男だ。
 だが、おかしな言い方ではあるが、そこにいる、ということに違和感があった。村の隣人たちが決して持つことのない独特の雰囲気が彼を包んでいる。そう、ついさっき引き合わされた時には、咄嗟に誰もいないひんやりと孤独な暗闇を連想した。森の夜ではなく、石の洞窟の暗がり。誰をも近くに置かずいるような。
 実際にはすぐ隣に座っているのだ。手を無理に伸ばす必要も無いほどの位置。それなのに、人がいるように感じられないというのは、奇妙なことだ。けれど男の姿が視界から外れるたび、引きずられるようにそれを意識した。
 子どもたちが近づこうとしなかったのも、男を取り巻くこの雰囲気のせいだったのだろう。
 集まった村の代表たちのやりとりをどれだけ聞いているのか。男はまったくの無表情を崩さない。『スライ』と最初に名を名乗ったきり、一言も口をきいていない。
 同席した他の者たちもちらちら男の様子を窺っていた。多分、ハガルの村の村長と他の一人ふたりしか、この男のことについ予め聞いてはいないのだと思う。この件のために雇ったのだろうか。腰にした大剣からは傭兵かと思われ、しかしそうと断言するには噂に聞かれる無頼な様子はなく、魔法使いには更に見えない。
 いったい何者か。誰もがその問いを抱えたまま、今のところ事態には何の進展も無く、それぞれの村で起こるかもしれぬ異変に充分注意するようにと一通りの報告を終えたところで、さて、と会場となったここルフト村村長のザカトが立ち上がった。
「実は、この件についてどうにもわしらの手に負えぬように思われたので、皆に相談せずに進めたことは詫びねばならぬのだが、人を雇うことに決めた」
「…その方ですね。失礼ですが、何者なのですか?」
 ゲダイ村の代表が単刀直入に尋ねる。ザカトはかすかに男に向けて頭を下げ、答えた。
「カタフの町に人をやって紹介してもらったところ、非常に運がよいことに、他用で《黒闇の森》に向かうことになっていたからと、こちらの方が承諾してくださった。こちら、スライ殿は、《スレイヤー》の称号を持っておられる」
 狭い室内に押し殺したどよめきが走り、ハガルも改めて驚きの目で凝視した。
 《スレイヤー》とは傭兵の一種ではあるが、《幻獣の殺戮者》とも呼ばれる者のことである。人の手に負えぬ獰猛な幻獣をその腕ひとつで撃退する者、中でも《スレイヤー》の称号は自称できるものではない。その名を得、名乗るための条件はただ一つ…
「……竜を…」
「…本当に、いたのか……」
 囁き交わす畏怖交じりの声。だが男は先を促すようにザカトにちらりと視線を向けただけで、一切動じた様はなかった。
「ほとんどこの森の中しか知らぬようなわしらでは、わからぬことが起きているのかもしれぬ。更にこのところ森の獣も幻獣たちも一様に殺気だっていると言おうか、ざわざわと落ち着かぬ様子だ。ただ移動するだけのことに危険を感じた者もあろう。やはりここは一度、万が一の事態にも慣れた方にお願いするのがよいと思うのだが。いかがだろう?」
 反対するものは一人もいなかった。思うに、皆なこの件を自分たちの手に余るものだとの自覚を持ちつつあったのだろう。誰もが何が起こっているのを知りたいと思いそして、恐れている。
「それでは各々の村に通達をお願いする。スライ殿の行動には、出来る限り便宜を図ってほしい」
 会合はこれで終わりと、連れ立って部屋を出る人々の後に続こうとしたハガルは、立ち上がったところを村長に呼び止められた。
「実はだな。これからしばらくの間、おまえにスライ殿の道案内を頼みたい」
「俺、ですか?」
 初めからそのつもりで席を並べさせたのだろうか。まさか自分にそのような役割が任せられるとは思っていなかったハガルが、思わず意気込んでそう問い返したとほぼ同時だった。
「…この子どもを?」
 ぞっとするような低い声が、呟くように言った。思わずムッとして睨みつけようとしたハガルは、しかし値踏みするようなぶしつけで、また表情の見えぬ視線に一瞬にして気おされ、文句の一つも口にすることはかなわなかった。所詮、村の外を知らぬ子どもでしかないのだと、その視線は告げており、そこに反論の余地は無かったからだ。
 ザカトは苦笑いでそれに応じ、ですが、と淡々と説明を加えた。
「今回の件でこれは調査と村同士の連絡に最初から関わっておるので、一通りの事情説明はできるはずです。それにこの村近辺ばかりでなく森歩きをよくしおるので一帯に詳しく、村々に親しい者も多いゆえ、道案内には適当でしょう。それに人相手はともかくとしても、獣に弓や刀を使うのには慣れておりますし。さほど邪魔にはならぬはず、お連れ下さい」
 ぴくりとも表情を動かさぬまま男はほんの一瞬、ハガルの上に視線をとどめた。思わず唾を飲み、身を固くして答えを待つハガルに向けて、ただぽつりと。
「そうか」
 そのままふわりと身を翻す。
 あっけなかった。呆然と見送ってしまったハガルははっと我に返り、村長に軽く頭を下げると、逆光になお濃いその黒一色の背中を慌てて追った。



 《2》

「それも連れてゆく気か?」
「猟犬だよ。訓練はすんでる」
 スライは、ひどく無口な男だった。
 会合の間ずっと黙っていたのも、事情を把握していなかったからではなく、単に話す必要がないと判断したからというだけのことだったらしい。
 会合の部屋を後にしたその足ですぐに村を出ようとした男を引きとめ、大急ぎで森歩きに向いたいつもの服装と装備、それから数日分の食料を整えた。そして自分用に村の馬を一頭引いて現れたハガルが、愛犬のテトラを連れているのを目にした瞬間、男はほんの僅かに眉を顰めた。大きく表情を変えはしないもののその声が暗に邪魔だと告げていたので、彼は急いで理由を説明した。
「それに、森を歩く時にはいつもこいつを連れてるんで、中の道のことや他の村の位置なんかもよくわかってるし、俺が顔を出したことのある村の人間なら、こいつが俺の犬だってことを知ってる。何か事情があって急いで人手が必要になったときに、こいつがいれば俺が森の中を馬で走るより早いし、確実だと思うよ」
「責任を持てるか」
「当たり前だろ」
 敬語は、最初にやめろと言われた。どうも無理して使った使い慣れないそれがぎこちなさすぎて、却って不快だったらしい。明らかに年長の人間に乱暴な口をきくのはどうかと思うが、確かに不慣れな言葉でつっかえながら話すよりは、村の年長者との日常会話くらいの方がましだろうと、彼も納得した。
 彼の説明を一応は受け入れたのだろう、スライはそれ以上こだわる様子は見せず、準備が整ったとみなしてさっさと馬上の人となった。
 漆黒のマントが大きく風をはらみ、男の身体を包む。騎乗するとちょうどハガルの視線の高さに、大きな剣が見えた。
 何かの革を染めたものだろうか、艶を消した黒色の鞘は間近にすると文様が浮きあがって見えた。文字ではなく、また記憶にないような気もすれば、何かどこかで見たことがあるような………。
 急にそれが視界から外れた。気づくとスライはすでに馬を村の出入り口に進めている。ハガルも慌てて馬に跨り、邪魔にならぬように距離をとったテトラに手を振って、馬腹を蹴った。



 彼らは件の村全てに行くことになった。人が消えたのと逆の順に村を調べると、スライが言ったからだ。
 問題の村は五つ。ヒルスト山脈に属するディア山を間近に望むディルナ村、その西に位置するカドナ村、南に下って東西に流れるラア川沿いに開けたサフザン村。そこから東に行ったデザン村、そして一番最近人が消えたと知れた、ミルザ村。
 最初の目的地であるミルザ村までの行程は、距離はあるが比較的楽だ。ルフト村からは平地続きになるので、多少足場の悪い場所を除けば、かなりの速さを保って馬を駆けさせることができるからだ。
 広いけれど浅いラア川を危なげなく渡り終えた辺りに、村への道標が見えた。木で方向を示しただけのごく簡素なもの。住民がいないことを知っているハガルには、ひどく虚しく見える。だがハガルの案内に従って馬を進めているスライには、何ら感慨らしきものは見られなかった。
 目的地を定めてルフト村を出てから、二人の間には一言も会話らしい会話は交わされていない。ただただ黙っているのは気詰まりだったので一応声をかけてはみたのだが、全く返事が返らなかった。結局、村々の簡単な説明を一方的に口にするということで、返事をもらうことはとりあえず諦めた。聞いていないということでもないらしいからだ。
「ああそうだ。スライさん、馬のままだとこっちの道通りにくいけど、どうする? 少し遠回りになるけど、広い道も別にあるよ…」
 そう言って彼が示した、おそらくは抜け道のように使われている細く手入れの悪い道を覗き、スライは返事もせずにさっさと馬を乗り入れた。特別何をしたということもなく、いやむしろ無造作としか思われない動きだったが、手入れのよい道を行くのと変わらぬ安定した早足を保っている。人馬一体と評したくなるその見事さにハガルは思わず見惚れてしまい、そして幾度目か同じ疑問がわいた。
 いったい何故この男は、こんな辺境の村の依頼を受けたのだろう。
 《スレイヤー》の称号は、ほとんどおとぎ話に属する特殊さだ。どんな田舎の村の子どもでも、寝物語に冒険譚に出てくる彼らの活躍を聞いて胸躍らせる。それが男の子ならば一度は憧れるものだし、かく言うハガル自身もそうだった。
 そんな物語の中の英雄が、現実に、ここにいる。自分が道案内をしている。信じがたい事態だ。
 やはりどこか胸が躍った。
 こんな時ではあったが、これから村々を調査する間に少しは親しくなって、男の体験してきたことを聞いてみたい。最初に抱いた、どちらかと言えば近づきがたい印象をすっかり忘れ去り、ハガルはそんなふうなことを考えていた。



 少し前に調べに来た時にも感じたが、それは異様な光景だった。
 ミルザ村を取り囲むように、たくさんの篝火の跡が残されている。火が入っていれば、それぞれの光同士が届いて暗闇が間に入ることのない、そんな間隔。住居がまとまっているからこそできるのだが、それにしてもそれは尋常ではない数だった。
 ここに来てスライは案内を断り、一人で村の周囲を回ってくると行ってしまった。ハガルは男を待つ間、手持ちぶさたなこともあり、念のために改めて村の建物を調べてみることにする。
 つい最近まで人の住んでいた場所。
 不思議なもので、例えば森の中のように最初から人間のいない場所に一人でいるのはさほど恐ろしくもないけれど、かつては人がたくさん住んでいたような場所にいきなり人気がなくなると、理由がどうあれ、ことさら不気味で不安な気持ちになる。
 それに。
 今の場合、恐ろしさを煽るものは、村の路上にもあった。
 まだどこか赤味を残した、どす黒い染み。
 天日に晒されて乾いているので臭いはしないけれど、これは。
 多量の、あまりにも多量の血が流された痕跡。
 この村で起きたことが、命に関わる危険な事態であったことがわかる。血の跡はひとつきりではない。規則性など無い。あちらに、またこちらにと、一人の人間のものであれば、生きてはいないと思われるだけの量の血溜まりが、干からびているのだ。
 なのに、死体は無い。たったひとつも、埋葬されたばかりの墓地も、放置された遺体も見つけることはできなかったのだ。
 骨の欠片さえ。
 ふいに、こうして一人でいることが無防備極まりなく感じられ、恐ろしくなった。やはりテトラを連れてきて正解だったようだ。まだ信用できるかどうかもよくわからない無口無表情な連れよりは、子犬の頃から育てて一緒に何度も狩りに出た愛犬の方が、彼の気持ちを落ち着かせた。今もぴたりと彼の傍らにいた。警戒している様子は見られなかった。
 空を見れば雲がうっすらと赤い。もうじき陽が沈むのだ。ならばここで泊まりになるだろうと考え、ここには一本の薪も無いことを思いだした。
 やることを決めてしまうと、気分はさらにぐっと楽になった。ハガルはテトラを伴って、男が戻ってくるまでに薪を集めてしまおうと、日暮れ迫る森に向かった。



 デザン村、サフザン村、そしてカドナ村。
 無理のない程度に馬を急がせて、どれも移動に丸一日ずつかかった。
 そしてどの村もミルザ村と同じ、村人の影は見えず、周囲を取り囲むあまりにもたくさんの篝火の跡と、あちらこちらと脈絡無く流されたように見える血の跡らしきものだけが、黒々と残されていた。
 新たに手がかりになりそうなものは、何ひとつ見つからなかった。少なくともハガルには見つけられなかった。
 スライが何かを見つけたかどうかは、彼にはまるでわからなかった。男はあまりに寡黙な上に、無表情だった。
 一人で旅をしている人間だからか、もともとの性格なのか、スライの無口は筋金入りだった。仮に反応がある場合にしたところで、無言の行動で答えるのだ。必ずしもお喋りな方でではなかったにも関わらず、この数日で、ハガルは必要以上にテトラに話しかけるようになってしまっていた。
 朝早くにカドナ村を出たその日も、時々に進む方向を告げるハガルの声以外に口にされる言葉はなかった。周囲を囲む森の中から聞こえる鳥の声や、時折に届く獣の吠え声を耳に、少し時間がもらえれば今夜の食事用の新鮮な肉を調達できるだろうな、などとぼんやり考えていた、その時だった。
 けたたましく警戒の声を上げて、どこに隠れていたのかわからぬたくさんの小鳥たちが空に舞い上がり。
 つんざくような女の悲鳴と木々をなぎ倒す羽音が、響き渡った。



 《3》

 道の前方で、言葉通り転がり出てきたのは十五才ほどの少女。しかし何故こんなところにという疑問は浮かぶ間も与えられなかった。
 少女のすぐ後ろ、ミシ、バリバリバリッと枝葉をなぎ払って密生した木々の中から姿を現したのは…!
「な、なんだっ!?」
 ハガルの叫び声と少女の絶叫が重なる。
 暗灰色の大きな翼は、地面にぶつかるほどに低く羽ばたき、道端の若木が数本まとめて音高く折れた。大人一人簡単に隠れることもできそうな大きな翼の間からは、鋭い爪のついた長い指が伸び、手当たり次第の動きに地面が泥のように抉れる。獲物を捕えられぬ苛立ちに唸り吠えたそれの鳴き声は、まるで岩の隙間をでたらめに抜ける冷たい風の音のように甲高く耳障りだった。
 不規則に襲いくる風圧に身をかがめ、ただ必死に怯えもがく馬を押さえ込んでいたハガルは、テトラの噛み付くような吠え声にはっと目を見張った。彼の勇敢な愛犬はすでに倒れた少女をかばうように身構えて、空からの敵に吠えかかっていたのだ。
「! ス、スライさッ、何を……っ!?」
 そして次の瞬間、黒い影が目の前を横切った。
 縦横に吹きまわる強風の存在を表しているのは、そのマントの動きばかり。男を乗せた黒馬には怯えた様子など欠片もなく足どりも確か、スライはあっさり手綱を手放し、右手には、大きな剣を握っていた。
 だがそれは鞘に入ったまま。
 その動きをいったい誰が予想できただろうか。
 黒馬はいきなり矢のように突進し、翼の内側に入り込んだ男は鞘に入ったままの剣をほとんど無造作に、その首にむけて振り下ろしたのだ。
 バキンッ!
 とても生き物のたてる音には聞こえなかった。だが耳障りな断末魔と共にもがき地に落ちたのは、翼あるその生き物の方だった。
 大きな身体が落下するや否や、のたうち回る翼や手足に巻き込まれぬ距離まで素早く引いた男は再び右手を振り上げた。ばさりばさりと羽ばたきを止めない翼の付け根を、過たず打ち砕く。
 たったの三回。
 スライは剣を抜きさえせずに、たったの三回で、身の丈に三倍はある生き物を完全に倒してしまったのだ。
 これが《スレイヤー》と呼ばれるものの力なのか。だが今目の当たりにしたのはおそらく、その実力のほんの一端でしかないのだ。
 一切変事らしきことは起きなかったとさえ思わせる、あまりに平静な態度。しかし男の足元には未だぴくぴくと痙攣している斑な灰色の生き物が横たわり、それの向こうには自分の身体を抱きしめるように縮こまっている少女の姿があった。
「…な、何だよこれ?」
「見たことは?」
「初めて見た。こんなのが出たなんて、聞いたこともない」
 恐々と、道を塞ぐように横たわるそれの隣をすり抜けたハガルは、答えを求めてスライを見上げた。
「これ、何?」
「ガーゴイール。石獣という名でも呼ばれる幻獣だ。………確かに、普通なら森では見ないな…」
 答えの後に小声で呟き、スライはそのまま何やら考え込んでしまった。
 こうなってはもうこれ以上の説明はもらえぬものとさっさと諦める。今度は少女の元に歩み寄った。
 そこではテトラが、元気よく尾をふって待っていた。あんなものを相手にしながら、幸いにも怪我はしなかったようだ。ほっとしたハガルはたっぷり褒めながら頭を撫でてやり、それから少女の方に向き直った。
 怯えて顔色は悪い。けれど大きな怪我はしていないようだ。こうして間近に見た少女は、逃げるうちについたに違いない顔や衣服の泥や汚れにもかかわらず、とても愛らしかった。
「名前は?」
 ハガルに声をかけられた少女はとまどったように口をわずかに開閉し、それから両手で自分の喉をそっと押さえ、僅かに唸るような声を出した。小さく首を横に振る。
「声がちゃんと出ないのか?」
 怯えた表情のまま、うん、と頷いた。
 相手をこれ以上怖がらせぬようにと、ハガルはできるだけゆっくり穏やかな声で言った。
「俺はハガル。あっちの男はスライ。痛いところは無いか? そう、それなら大丈夫だな。他に誰か……もしかして一人なのか?」
 再び少女は頷き、きゅっと下唇を噛んだ。
「そうか、怖かったな」
 つい手を出しかけて、見知らぬ人間に触れられると怖いかと、ハガルは肩を撫でようとした手を引いた。
「えっと、でもじゃあ、なんて呼んだらいいかな…」
 迷っていると少女はおずおずと左手を彼の前に差し出した。その細い手首には密に織られた布の腕輪が巻いてあり、彼女が示していたのはそこに織り込まれた手の込んだ飾り文字だった。それが名前らしい、のだがしかし。
「…う、飾り文字か……。まいったなぁ…」
 ハガルには飾り文字は手に負えなかった。村で文字の読み書きは習ったもののそれはごく基本的な、日常の生活に間に合う程度でしかない。言ってしまえば、自分や村の人間の名前や、村々の間に立つ道標などの注意書きが読めれば事足りるのだ。それより難しいことは、長老といった得意な人間に頼めばいい。飾り文字など、彼には全く必要がなかった。
 戸惑っているうちに、スライならば知っているかもと思いついた。微動だにせぬままに考えに耽っている男に、おそるおそる声をかける。
「ねえ、スライさん。飾り文字読める?」
 無言のままだったが、男は馬を下りて座り込んでいる二人の元に来た。迫力にあからさまに脅え震えた少女に遠慮することもなく、震える腕の腕輪にちらりと目を走らせる。
「フェイ」
 至極あっさりと、男はそう読んだ。少女を見ると、恐々とした表情ではあったが、頷いてそれが彼女の名前であることを肯定した。
「それじゃあ、フェイ。君はどこから来たのかな? 君の村は、この近く? …遠いのか?」
 少女は最後の問いにだけ頷き、またじわりと大きな目を潤ませた。



「連れて行く?」
「女の子一人、置いてくなんてできないよ」
「行く先が、危険ではないと言えるのか?」
「そ、それはそうかもしれないけど、でも……」
 男の言うことは正論だったが、だからと言ってそれじゃあと置いていくことは、ハガルにはとてもやれないことだった。特にすがるように少女が彼を見つめているとあっては。
 無表情を崩さない男の迫力に押されながらも、彼は必死で言い募った。
「ずっと一緒じゃなくったっていいだろ。どこか、どうせ次の村に行くんだからそこまで連れてって、どれか頑丈そうな建物にしっかり戸締りしてもらって、…こっちの用事が済んだら、人のいる村に連れて行けばいい。一人で森に置いてったら絶対危険だよ、いつまたさっきみたいな幻獣とか獣とかに襲われるかわかんない。少なくとも屋内なら、一人でいてもここよりは安全だと思う」
 ハガルの主張を聞いていた男は、無言のまま彼の目をじっと見つめた。怯みそうになりながら目を逸らさず堪えた彼に、男が発したのはテトラを連れてゆくと言った時と同じ、ただ一言。
「責任を持てるか」
「持つ!」
 断言すると、勝手にしろとばかりに踵を返した。それを了承ととって、彼は少女を安心させるように、にっこりと笑いかけた。
 ハガルが同行させることになった少女とあれこれやり取りしている間に、スライは再び打ち倒した石獣を凝視し、何か思案していた。
「この辺りに、神殿は無いか?」
 そう尋ねた時にも、視線は石獣の方にあった。思わず彼は首を捻った。
「神殿なんか…」
「立派なものじゃなくてかまわん。在るとすれば古い、忘れ去られた、どちらかと言えば廃墟のようなものだろう。塚や、石積み、人の手の入った形跡のある埋められた洞窟、由来がわからぬのに近づくなと言われてきたような場所だ」
 重ねてそれらの条件を並べられるうちに、ふっとそれは記憶の隅を掠めた。大人たちに連れられて初めてディルナ村を訪れ、村の子どもたちと遊んでいた時のこと。近づいたら怒られるからと遠い場所から教えられた、あれだよと。
「…あ、そういうのならある。確か次に行くディルナ村の北側に、《ティタイの石塚》って呼ばれてる場所があった。半分以上崩れて土に埋もれてるようなとこで、…言われてみれば石柱とかあったし、もとは小さな神殿みたいな形だったのかもしれない」
「他にあるか?」
「……俺は聞いたことがない」
「ならばまずディルナ村、夜が明けたら、そこだ」
 打ち合わせは済んだとばかり、スライはあっさり馬上の人となり、彼を促した。
 ここで大分余分な時間を費やしてしまったので、日が落ちる前に次の村に着くためには急がねばならない。少女を何とか自分の乗ってきた馬に乗せ、彼自身は手綱を取って歩こうとしたところで、テトラの姿を見失っていたことに気づいた。
 見れば愛犬は好奇心からだろうか、倒れた石獣の回りをうろうろしている。
「何してんだよ、テトラ」
 呼びながら近づくと元気いっぱいに尾を振り、ディルナ村だ、と命じられて足どり軽くスライの先導に走った。途中、やはり気になるのかちらりと石獣に目を向けながら。
 と、テトラの動きにつられてつい覗き込んだハガルの足先が、うっかり石獣にぶつかり。
「うわっ」
 驚いて勢いよく後退りした彼の前で、もはや命失せた石獣はガラリガラリと音をたてて割れ砕け、やがて砂礫の山をなして静まった。



 《4》

 石獣との遭遇があったものの、ディルナ村には日が完全に落ちる前に到着することができた。
 この村の様子も前の村々と大差なかった。ただ、一番最初に住人がいなくなり無人の状態が長く続いたからだろう、荒んだ印象は一層強い。人の住まぬ家は荒れる、と言われるのは本当だ。かつて友人が住んでいた、ハガル自身も何回か泊めてもらったことのある家も、がらんと、ぬくもりを失っていた。
 フェイが同行しているので、泊まる場所には部屋数の多い村長の家を選んだ。厩もあり、放置されていたせいか状態はさほどよくなかったが、都合のよいことに飼葉の量だけはたっぷりあった。
 そしてまた明日以降、フェイにはここで待ってもらえればいいかと考える。二階に閉じこもっていれば、一人でいても比較的安全に違いない。実のところ、番犬としてテトラを残していくつもりでいる。
 疲れからだろうか。簡単な食事をすませると、すぐに彼女は二階に上がってしまった。ハガルに念を押された通り扉には鍵をかけ、そのまま眠ってしまったようだ。ノックに返事は返らなかった。
 口がきけないためもあったが、彼女の素性について詳しいことはほとんどわからなかった。昼のこともあって動揺も残っているし、会ったばかりの男二人にすぐ打ち解けろというのも無理な話だ。特にスライなどは、愛想がいいとはお世辞にも言い難い。
 ただ問わないまでもやはり、気になることはあった。
 今回の件で連絡係などを務めたせいもあって、もともと森歩きを好むハガルは《黒闇の森》にあるかなりの村に行くことになり、その住人と顔見知りになったのだが、今まで一度も彼女を見かけたことがないのだ。
 それに彼女の身に着けていた衣服もそうだ。ぱっと見には気にならなかったが、袖口や襟の形が見かけたことのないものだった。少なくとも、この近くで同じような意匠の服を身に着けた女性を見たことはない。手首に巻いた布の腕輪にしても、あんなふうに名前を飾り文字にして織り込むような風習は、この近辺で耳にしたことがない。
 自分の知識不足と言われればそれまでなのだが、ハガルのような男ならば知らず、狩りに出たこともなさそうな少女が一人、彼でさえ行ったことのない遠い村から歩いてきた、などということは考えがたかった。
 何か秘密があるのだろうか。或いは彼らが信頼に足るとわかれば、もう少し事情を話してくれるのかもしれない。
 前に調べに来た際にも見てはあったがスライにも言われたので、今回も念のために村中の家々を一軒残らず確認してきた。生きているものも死んでいるものも、いなかった。誰かが帰って来た様子もない。そして荒らされた気配のないどの家にも、一本の薪も残っていないのだ。
 すでに承知だったので今夜の分の薪は、ここに来る途中で予め拾い集めてきた。
「スライさんは、ここでも、外で寝るの?」
 言葉にはしなかったが、男の行動はそれを裏付けた。玄関のすぐ前に起こした火の傍、壁に凭れ毛布を敷いて座り込む。剣は膝の上、一動作で抜ける位置。
 疲れないのだろうかとハガルは気になって仕方がないのだが、今回に限らず、スライにとってはこれが常のようだった。一人辺境を歩くのは過酷なことであるに違いない。
 物語では詳しく語られない、子どもの憧れが知らぬ現実。石獣をあっさり倒してしまったことには確かに圧倒されたが、むしろ夜毎のこの姿の方に尊敬の念を抱いた。
 少し迷いつつ、二階に上がるのは止めた。玄関近くの床の上で、かき集めた毛布に包まって横になる。床は堅かったが、多分眠れぬほどではない。何よりここならばテトラがすぐに目に入るし、扉のすぐ外にはスライがいる。
 薪が小さく爆ぜる音を子守唄に、彼は静かに目を閉じた。どれほど不安であっても、今は眠るしかやれることは無い。
 後は明日のことだ、と。



 かなり小さい頃のことだったので、《石塚》の場所を思い出すのに少々手間取ってしまった。何度か入り口の選択に迷い、それでもとうとう見覚えのある目印を見出す。
 道は無い。行く理由のある場所ではなく、そもそも近づくことは禁じられていた。もっとも誰もその詳しい理由を教えてはくれなかったのだが。
 ただ、禁じられれば却って気になるものだ。大人に散々脅されながらもほとんどの子どもたちは、一度くらいは度胸試しも兼ねて《石塚》まで行ってみるらしい。ハガルは余所の村の人間だったから、遠くから見せてもらっただけで終ったのだけれど、行ったことのあるという友人は、別に何も怖いものはなかったと笑っていた。
 村からは歩いてほぼ半日。馬は使えない。起伏が激しいばかりでなく、道として使われてない人の通らぬそこは下草だけでなく低木までもが思うさま繁茂して、さらに足を妨げる。
 しかし足を踏み入れてすぐ、彼は奇妙なことに気づいた。思ったよりも歩きやすいのだ。まるでつい最近、何人かの人間が連れ立って歩いたかのように、下草が一度ならず踏みならされた形跡があった。
「スライさん、………なんか、ちょっとおかしいかも」
 ついふり返って、後ろを歩いている男が確かにいることを確かめようとした。すると男は少し手前で足を止め、じっと周囲を観ていた。
 わけ知らず不安になり、彼もまた足を止めた。あわせたように風も止んだ。
 静かだった。
 彼らの周囲をひたすらに静寂がとりまいていた。
「………スライ、さん?」
 ぶるりと身震いして声をかけると、男はまっすぐにハガルに視線を向けた。大きな表情の動きはなかったが、そこにはなにかしら確信したような色があった。
「おまえは、気づいたか?」
「え?」
 ゆっくりと再び歩き出した男が告げる。
「音が無い。獣も、鳥も、ほとんどの虫も、この一帯から姿を消している」
 愕然とした。確かにその通りだった。それが以前からなのか、ここ最近のことなのかはわからない。子どもの頃はここまでは来なかったのだから。あの友人は、何か言っていただろうか。
 思い出せなかった。けれど、ここに何かがあることは間違いないようである。
 この道が最近使われたらしいこととも、何か関係はあるのだろうか。
 足が竦む思いがしたが、何とか前に進める。
 ちらりとふり返ればそこに、漆黒。
 一人で行くのではない。何か普通ではない事態がこの先にあるのだとしても、こうして《スレイヤー》がいるならばきっと。昨日目にした技量を思い出せば、恐怖心も次第に引いてゆく。
 それでも。
 今ここにテトラがいたならばどれほど心強いだろうか。そう思わずにはいられなかった。



 唐突に森が切れた。
 目的の場所の直前だった。そこからくっきりと線を引いたように森は旺盛な侵食の手を控え、その先には下草もほとんど生えていない。のっぺりとただ砂利だけ。
 そこにあるのは濃い灰色の石を積み重ねて築かれた、今は《ティタイの石塚》と呼ばれるものだった。石の円柱で周囲を囲まれた、馬小屋程度の大きさの小規模な建物が、下半分をわざと地下に埋めた状態になっている。おそらく初めから深く掘った穴の底にそれを建て、土ではなくたくさんの石や砂でもってぎっしりとそこを埋め戻したものらしい。
 どれほど昔のものなのか。この塚の由来を記した物は何ひとつ残っていない。ただ近づくな開けるなと、禁忌の場所であることだけが辛うじて伝えられていた。
 確かに草木がまるで生えぬということだけで、何か不吉な印象を与える場所だ。それを敢えて破るものはなかったのだろう。
 今までは。
「………誰だ、こんな………」
 いったい何を思いついたものか。埋もれていた時には辛うじて扉と知れていただろう壁面が、すっかり砂利を取り除けられて、開いていた。どれほどの労力を費やしたものか、穴の傍らに砂礫の山が、証のように堆く積み上げられている。
「石………、もしかして、あの石獣ってここから………」
 ハガルはそれに思い当たる。だがここが石獣のいた場所だとしても、村人の消失の理由には当てはまりそうにない。石に等しい身体を持った相手に、よもや火で対応することはないだろう。また別の何かがあるのだ。
 スライは彼を置いてさっさと穴に下りていた。後に続こうとしてその前に、持って来るように命じられた小形のランタンに火を入れた。
 中は思ったよりは狭くなかった。もちろん広くはないのだが、大人一人歩くのに無理のない程度の高さと幅はあった。
 入り口から真っ直ぐな通路を進む。入ってすぐに左右に一つずつ小部屋があり、どちらも扉は開いていた。通路はすぐ壁に突き当たり、そこから地下に階段の口があった。
 ここもそもそも大きく重い一枚板で蓋されていたらしい。こじ開けられて所々が欠けた石板が、置き去りにされてあった。
 男はためらいなくその階段を下りてゆく。まるで恐怖心というものを持ち合わせていないようだ。正直、ついていくのは気が進まなかったが、一人で残るのも恐ろしく、ハガルはかなり怯えながら階段に足をかけた。
 嫌な匂いがした。
 錆びた鉄のような臭い。どこか生臭さを感じさせる臭い。…狩りの獲物をさばいた時の、臭い。
 無駄なほどに深く深く下ったその先の扉をくぐると、小さな石室になっていた。掘り出されたままなんら手を加えていないのだろう、ざらざらした表面を晒した大きな石を積んで壁に囲んだ部屋だ。その床と、角を挟んだ壁が。
 黒く。
 どす黒い液体を撒き散らしたかのように。
 染まっていた。

 嫌な、嫌な、嫌な、臭い。

 ざっと血の気が失せた。
 何のためかは知らない、誰かがわざわざここまで下りてきて、そして何かに殺されたのだ。殺されぬまでも傷つけられただろう。壁が床が、その血で染まるほどに。
「ああ、なるほど。…そういうことだったか」
 ふいに男が呟いた。これで全て腑に落ちた、と。
「…い、いったい、なんのことだよ!?」
 訳のわからぬままに捨て置かれていたハガルが苛々と怒鳴る。と、そこにいたのかと気の無い視線で語り、そして。
 微笑して、一言。
 初めて表にした、感情と繋がった凍えるような表情で、彼に教えた。
「食屍鬼だ」



《後編へ》





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