ひとたび屠られしものは


後 編




《5》

 狭く冷たい暗闇に頼りなく灯火はゆれた。
 どす黒く本来の色を塗りつぶされた石壁。
 すでに乾いた血の臭い。
 漆黒の男が形ばかり彼にふり向く。
 凍えるような微笑を、薄い唇にのせて。

「食屍鬼だ」

 その後どうしたのかを、実はよく覚えていない。



 ハガルが我に返ったのは、ディルナ村を目前にする頃だった。
 陽は、まだ落ちきっていなかった。《ティタイの石塚》でさほど時間を費やしたわけではないということだろう。行きとは逆に彼の前を歩いているスライは、手がかりを得て浮かれるという雰囲気もない。
 横風を受けて、黒一色のマントが翻った。
 唐突に残像が目の裏を過ぎる。
 全身を包み込む悪寒。足元がおぼつかなく震えた。

 あれは現実だったのだろうか。
 こうして慣れた足どりのままに森を歩いていると《石塚》も、そこで目にした男の笑みもひどく遠い。
 おとぎ話の中でしかお目にかかれないはずの《スレイヤー》がこうして目の前にいて、見たこともない幻獣をあっけなく倒してしまう。流行病か盗賊か、そんな理由を想定していた村の喪失事件は、食屍鬼という耳慣れぬ名を原因として説明されることになる。こんなのは、どれもこれも日常から激しく隔たっていて、普通にあることではない。
 と、思うと同時にハガルの口から問いがこぼれた。
「でもなんで…、それが食屍鬼のせいって、わかったんだ………?」
「まずは、《ティタイの石塚》」
 呟きに答えが返るとは思っていなかった。びくんと身をひきつらせてハガルが顔を上げると、スライは身を捻るように振り返り、表情の見えぬ目を彼に向けていた。
「あの構造それ自体が、食屍鬼を封ずるものだと示している。加えて内壁に説明書き、幸い歳月に耐えて残った」
 先刻の記憶がまるで幻であったかのような色の無い眼差しを目にして、かえってほっとする。そんな自分自身にハガルは、こんな時ではあったが少しばかりのおかしさを覚えた。
「次に、村の状態。食屍鬼は光を厭い、火を嫌う。食性と合わせて考えれば、過剰な数の篝火と、死骸の無い多数の血痕、その理由は知れた」
「食、性」
 名が示すそれに、首の後ろが不快にざわついた。死体も骨の欠片もなくただ血の跡だけが残っていた理由が、それかと。
 獣でも幻獣でも、この森に肉食のものは少なくない。人が襲われることはさすがに滅多には起こらないが、ハガルもそんな場面に全く出会ったことがないわけではない。人のものでなければ、何度も。
 残骸、としか言えないそれすらも残さぬ、貪欲さ。そんなものがこの同じ森の中にいて、五つもの村の住人をすべて。
「……でも食屍鬼って、なに? どんなの? 幻獣、なのか?」
「…知らない、か」
 息を飲んで彼は頷いた。
「幻獣ではない」
 どう説明するかを考えてだろうか、スライは完全に足を止めた。間をおいてハガルも立ち止まり、続きを待つ。
「あれは、そうだな、生命を食むもの、とでも言うべきか。そもそもは、人の手が生み成したもの」
「えっ、人が作ったって、……なんで、そんなものをっ!?」
「…昔の話だ。人が死に、突然の死を近しい者たちが悲しむ。よくあることだ」
 昔語りめいた語り出しだった。唐突に始まったそれは漆黒の男の姿にはまったく似合わなかったが、スライは頓着することなく淡々と続けた。
「おまえでもそうだろう。死ぬな、生き返れ。大切な人間なら誰もがそう願う。その願いは叶わぬし、天地も知れぬほどに悲しんだところで、やがて日常に薄れ、いつかは死者が還らぬことを受け入れる。よくあることだ」
 よくあること。
 くり返される言葉は、まるで否応無しに人間に課せられた運命のようだ。だが確かにありふれたことだろう。そこに唐突に訪れるか、徐々にやってくるかの違いはあっても、死は誰にも避けがたいもの。それを悲しみ惜しむのも、諦め受け入れるのも、よくあること。
「昔の話だ、どれほど昔のことであったかも知れぬほど昔の。あるところで人が死んだ。突然の死を、その恋人は心から悲しんだ。生き返れ、還って来い、強く願った。よくあることだ。ただ……その恋人は、才能ある魔法使いだった」
 風が、周囲の枝葉をゆらした。男の声に耳を傾けながら無意識に腕をさする。空気がいきなり冷えてきたようだ。
「命に関わる魔法は禁忌だ、死者は生き返らぬ。冥府を統べる死の神は、手にした魂を手放しはしない、決して。それを犯したものは報いを受ける。相応の報いを………魔法使いが、知らぬはずは無かったのだが」
 想像する。神の決め事すらも無視してしまう、強い想いを。
 己の手の内に、もしかしたら叶えられるかもしれぬ力を握っているとしたら、誘惑に勝つことができるだろうか。禁忌であるとわかっていても、どうしても、と。
「恋人の遺体に、魔法使いは組みあげた蘇生の術をかけた。複雑で困難極まりない術に呪文の詠唱それだけで二日二晩を要し、使われた力ある宝石は一切がただの石礫になったという。詠唱を終え、力尽きて床に倒れ伏した魔法使いの前で、恋人はその身を起こした、だが…」
 耳を塞いでしまいたかった。次に口にされる言葉が、決して良い結果ではないとすでにわかっているから。
 けれど。男はやはりよどみなく結末を告げた。
「それはもはや、人間ではなかった」
 改めて教えられるまでもない。恋人を想うあまりに禁忌を犯した人の手が、そうして食屍鬼を生み成した。神の決め事に、結局のところ力及ばず。
 いや及ばなかっただけではない、と男の声は語り続ける。かつて引き起こされたことを。
「禁忌を犯した代償は、魔法使いにとって何よりむごい結果だったかもしれぬ。才能に、あまりに恵まれていたがために、代価もまた大きかった」
「…いったい………」
「甦った身体に、魂が在ったのだ。二度と人に戻り得ぬまでに歪み穢れ、ひたすら命を貪るモノへと変じたあげくではあったが、それでも術が求めたそのままに。だから、後になって食屍鬼とは名づけられたが、死体を食うことはない。生きよと命ぜられて生み成されたそれが求めるのは人の命、つまり襲われ食われるのは生きた人間だけだ」
「……………え…?」
 あまりにも淡々と語られた内容に、理解は、一瞬遅れた。
「…それでも恋人に食まれたのだから、或いは幸せだったか、その魔法使いだけは」
 遠い昔の、それは悲劇。
 いや、悲劇の始まり。
 死んだ恋人が起きあがった瞬間、魔法使いはどれほどに歓喜しただろう。失われたはずの最愛の人を取り戻すことができたと、きっと力なく倒れた身体に無理を強いてでも、戻ってきた恋人を抱きしめたのに違いない。
 恋人が、愛した人の魂が、自分のために人ならざるものに変貌してしまったのだと、悟るまでは。
 己の身体を食むまでは。
 さらにその後に生じる事態を、死にゆく魔法使いは理解し得ただろうか。どちらにせよ、もはやなすすべは何ひとつ無かっただろうけれど。
「底に大穴の開いた器を満たそうと、水を注ぐようなものだ。足りぬ命を補おうとしても、加えた分だけこぼれてゆく。だから常に餓えて、人の命を求め続ける。恋人であった男を食い尽くした後、食屍鬼は外に出た。たくさんの生きた人間が、そこにはいたからな」
「な、んでっ、こんな辺境に、なんで今ごろそんなものが出るんだよ……っ!?」
 そんなものは遠い昔の物語のはずだ。悲しいとか惨いとか、すべてが過去のことであって、今ここで犠牲者を出すことであるはずがない。
 ハガルにはわからない。なぜ今、この森に、そんな過去の悲劇から生まれたものが出現しなければならないのか。なぜ彼が、彼の親しい人々が、そんな災いに見舞われなければならないのか。なぜ……!
「それは……」
 冷ややかともとれる口調を崩すことなく何か答えを返そうとした男が、ふっと口を噤んだ。つられるように空を見上げたハガルははっと目を見張った。聞こえてきたのは、荒々しく威嚇する犬の唸り声。
 聞き覚えのあるそれを耳にした途端、駆け出した。



《6》

 雲の這う低い空の端に暗い赤を滲ませながら、夜闇がうっすらと世界に幕を下ろしていた。
 脅えきった調子で踏み鳴らされる蹄の音とけたたましい嘶きに、獰猛な吠え声が交じり響く。
 森を抜けて村の領域に入ると一息に視界が開け、今まさに飛び掛かろうと身を低く構えたテトラの姿が目に入った。
 ぶわんっと、風が抜けるように黒い姿が脇を駆け抜ける。全速力で走っているはずのハガルよりも明らかに速く、軽々とその長身を駆って。
「…ち、くしょう…っ!!」
 あっという間にはるかに先んじている男の背中を睨みつけて、彼もまた懸命に村長の家を目指した。そこでは繋がれぬままにされていた黒馬がいささかも動じたところなく、怯えた少女をかばうようにその前に立ち、更にその前でテトラが勇敢にも襲撃者たちを威嚇していたのだ。
 襲撃者は三人いて、それぞれの動きはばらばらだったが目標が同じだった。少女だ。
 何故、外に出たのかと思わず舌打ちがもれた。
 自分が狙われているとわかるからだろう、フェイは見るからに怯えきってがくがくと震えていた。それでも黒馬とテトラの援護を得て、必死に何かをしようと両手を動かしていた。深まる薄暮に邪魔されながら目をこらせば、その手元には数本の薪とカンテラが置かれているのがわかる。焚き火を作ろうとしていたのだ。
「フェイッ!!」
 新たに近づく足音を聞きつけて肩をゆらしたフェイに怒鳴るように呼びかけると、ぱっと頭を上げ、心からの安堵を見せた。泣きじゃくった跡で頬はぐしゃぐしゃに濡れていたけれど、その輝くばかりの表情はハガルの保護欲を刺激した。たとえそれが、確実に頼りになるスライを目にしたためであったにしても。
 その男はすでにテトラの傍らにいた。やはり鞘に入れたままの剣を右手に握り、そして進路上にいる襲撃者の一人に向けて一閃させた。
 まるで藁人形を薙ぎ払うかのように。
 滑稽なほどばったりと倒れた襲撃者を、男はなおも容赦なく足で踏んで動きを抑え。
 止める声さえ間に合わぬ、一撃。
 振り下ろされた瞬間、悲鳴ひとつあげることもなく襲撃者の頭が飛び、目撃してしまったらしい少女の甲高い悲鳴がほとばしった。
 一瞬、自分の口から出たものかと勘違いするほど、ハガルもまたその光景に衝撃を受けた。だが同時に、倒された襲撃者の異様さを悟って息を飲む。薙ぎ飛ばされた首から、まったく血が吹き出してこない!
「…っ、こいつら!?」
 はっと気づくと、襲撃者の一人は狙いを彼に変えていた。間近に迫るその姿に慌てて、腰につけていた短剣を抜こうとしたが、その時。
「下がれ」
「え…」
 狙いすましたように、襲ってきたものと彼との間に男が大剣を振るった。ふらついた身体を勢いにのせたままの剣を振り戻して突き倒す。空の左手でハガルを促した。
「アレの仲間になりたくなければ、下がって、弓を使え」
「…はいっ」
 理由は後。言われた通りに剣を短弓に代え、少女とテトラのいる所まで下がった。
 彼の動きを見計らったかのように黒馬が前方、男のいる位置に足を進める。その動きを追った目に、嫌な光景が映し出された。
 この短時間のうちに襲撃者が数倍に増えていた。刻々と濃くなる闇の森からうぞうぞと、虫が湧き出るがごとくに。掛け声ひとつあげることなく。とうに十人を越えている。
「テトラ、よくやった。フェイ、ケガは無いか?」
 高揚したままテトラが一声吠え、ひたむきにすがる視線を彼に向けてフェイは頷いた。用心深く矢を番えたまま周囲を伺い、夜闇の暗さに舌打ちする。明かりが欲しい。
「火は、つけられそうか?」
 はっと我に返った表情をした少女は、カンテラに残された火を移す作業に戻った。ハガルがすぐ隣で控えていることが功を奏したのだろうか、さっき遠目で見たときにはがたがた震えて思った具合にならなかったらしい手が、やはりぎこちないながらも手早く、油を浸した布切れに火を移した。
 ほどなく燃え上がった炎を、これほど頼もしく思ったことはないかもしれない。
 手のひらひとつ分の火が、枯れ草と細枝の山を呑みこむ。焦りすぎて消してしまわぬように急いで、少女の手が次々に乾いた薪を足してゆく。
 赤々と燃え上がった焚火が火花を撒き散らし、夜闇に紛れ近づく襲撃者たちの姿を曝け出した。と同時にテトラが吠える。
「うわっ…!」
 叫んだかと思うや否や。しっかりと狙い定めることなど頭にものぼらず、いつの間にか近寄っていた襲撃者に向けて反射的に矢を放った。唐突に生まれ大きく燃え上がった炎のためか、テトラの威嚇のせいでか不恰好にひるんだそれは、ハガルの攻撃をまったく避けることなく胸に受けてよろめく。だがしかし。
「来るな寄るなぁっ!!」
 全身に鳥肌。
 胸のど真ん中に矢が突き刺さっているのに、どうして完璧に無視することができるのか。まったく痛みを感じてもいないであろうその動き。
 闇雲にでも続けて矢を番え、放つことができたのは幸運だった。次の矢は相手の額を射抜き、勢いのまま身体はどっと倒れて動かなくなった。
 初めてだった、人を狙って射たのは。しばしひくひくと痙攣する身体を凝視するうちに実感を得て、指先が小刻みに震えた。弓を掴んでいる手に力が入りすぎてほんの少しも開かない。ひりひりと乾いた喉を意識しながら大きく、頭を振る。
 振り払う。
 はっと気がつけば、少ない薪のほとんどが焚火に投げ込まれてしまっていた。どうしようと少女に見上げられて、こわばった顔を無理に動かして燃やすものを探し、そう、薪でなくてもいいのだと気づいた。
「…家の中の物だ、椅子でもなんでもいい、燃える物ならなんでも!」
 声を出すうちに勢いづいてはっきりした彼の指示に、震えながらも少女は建物の中に駆け込んだ。ハガルは再び矢を番え、入り口と焚火をかばうように立った。



 その間に眼前では、信じられぬような光景がくり広げられていた。
 立っている襲撃者の数は二十人を越えていたが、既に同数以上が地に倒れていた。男の剣は鞘に入ったまま、石獣を瞬く間に倒してしまったその力は、襲撃者一人一人に一撃以上の攻撃を必要としない。一振りでまた頭が落ち、次の動作で別の身体が倒れる。
 無造作でありながらつい目を奪われる滑らかな動き、深くなってゆく夜闇よりも、一際黒い疾風のよう。
 そしてまた黒馬も、男を背に乗せるのではなく傍らにあって、恐ろしいほどに的確に戦いにまじっていた。ただの乗馬の動きではなかった。巨躯を生かし、後足で立ち上がった勢いのままに襲撃者を蹄にかけて蹴散らし、ためらいもせず踏み潰していく。
 普通、馬というのは臆病で、よほど訓練しなければ、こんな場合には錯乱状態で暴れていてもおかしくない。実際ハガルが乗ってきた村の馬は、繋いだ綱を引きちぎらんばかりの勢いで暴れ、泡を吹きながらひっきりなしに怯え嘶き続けているというのに。
「すごい……」
 まったく別の生き物を見るようで、呟く他になかった。
 周囲に近づくものに警戒の目を配りながら、少女の持ってきた木の椅子や衣服や、とにかく燃やせる物を次々に火にくべていく。焚火はたちまち大きく轟々と燃え盛って強引に周囲の闇を押し返し、そのせいだろうか、襲撃者の動きが更に鈍った。炎に、光に脅えているのは明らかだ。
『光を厭い、火を嫌う』
 森の中から続々と現れたこの襲撃者たちの外見に、あたりまえの人間の姿と変わっているところなんてほとんど無い、だが。
 焚火の炎に慄き退いているこれは。
 気配なくこれらが出てきたのは、陽が落ちた後ではなかったか。
 声ひとつ発せず、悲鳴もあげず、胸を射られても痛みを感じず動き続け、頭を叩き落とされた身体は血を流さない。
 そして、その目。
 いっそう激しく燃え上がった火炎に照らし出された、その目のなんて虚ろなことか。
 虚ろでありながら、底なしの貪欲な執着に鈍くゆれて。
「こいつらのせいなのか………!」
 夜が始まったばかりであることなど考えもしなかった。嫌悪感に煽られるままとにかく火に物を投げ込み、今焚火を大きくすることだけに努めた。
 だからはたりと、他の音が途絶えたことにも気づかなかった。
「手を貸せ」
 男の声の先に目を向けた。
 立っているのは男と黒馬だけだった。地面を覆うように伏し倒れている数多の死骸の中に、呼吸を乱した様子さえ見せずすらりと。
「全部、倒したの?」
「火に脅えて、いくらかは逃げた。それは後でいい。まずこれを燃やす」
 当たり前の口調で言って、夜に包まれた村を検分する目で見回した。
「燃やす、って全部!?」
「どれか、家ごと燃やすのがいいだろう。今夜の焚火代わりにもなる。……ああ、あれにするか」
「ちょっ…、スライさん、家ごとって…」
 村長宅の前の焚火から比較的太い薪を何本か拾い上げて、めぼしをつけた小さな家の近くに別に焚火を作った。
「埋めるより手間が無い。後になって、動き出されても面倒だ」
 こうして頭を飛ばされた身体が動き出す可能性がある、ということか。信じがたい、いや信じたくない気色悪さ。ハガルは何度目になるのかわからぬめまいを覚えた。甦る死者なんてまさに、おとぎ話の世界だ。
 ただ、死体が転がるままになっているのも、血に濡れてないのがいささかの救いにせよ、気持ち悪いのには違いなかった。なにしろ、ほとんどが首がない身体だ。夜、焚火の明かりでちらちら目に入るなんて、ごめんだ。
 スライの指示のまま、厩から剥ぎ取った戸板に死体を乗せ、順々に黒馬に引いてもらって運んだ。頭の方は男が運んでいた。造作なく、当たり前の荷物のような扱いに、感心するよりもぞっとする。食屍鬼のものであっても、人の頭と同じものを運ぶなんて考えたくなかった。
 さすがにかなりの時間がかかった。フェイは力仕事には向かないし、焚火を任せていたこともある。ハガルの連れてきた馬は、まだ何か気配を感じるのかまったく落ち着く様子を見せず、黒馬の助けがなければ更に手間がかかっただろう。
 それでもようやく死体をまとめ、その家にあるだけの燃える物を死体の周囲に積んだ。男は台所から油も持ち出してきており、一滴残らず死体にかけた。
 見ていて気持ちのいい作業ではない。ハガルは早々に外に出た。淀んだ室内に比べて、夜の冷えた空気がほっとするほど気持ちよかった。
 死体を燃やす火を準備しようと、小分けにした焚火に向かおうとした足が止まった。ちらりと、多少離れた場所に、見えてしまったからだ。
 頭。
 正直に言えば、触りたくない。けれど、たったこれ一つのためにスライに頼むのは、気が引けた。だから嫌々ながらに、ハガルはそれを取りに行った。
 焚火に背中を向けると、それほどの距離ではないのに向かう先の闇が恐ろしく暗い場所に見えた。ぽつりとそれだけで転がっている人の頭部。顔さえついていなければ、狩りの獲物の死体だと自分に暗示もかけられただろうかと、とりとめもなく考える。
 ふいにテトラが荒々しく吠えながら駆け寄って来た。
 慌てて見回せば、すぐそこにいつのまにか忍び寄り、彼に襲い掛かろうとしていた人影があったのだ。
 迂闊だった。火があれば安心という気持ちがあり、作業に邪魔だからと弓を手から離していたのだ。狼狽のせいで短剣を抜くのも間に合わない。
 今にも襲い掛かろうとした相手になすすべもなくいた彼を救ったのは、テトラだった。愛犬は駆け寄った勢いのまま襲撃者に体当たりして退け、彼をかばってなおも近づこうとする相手を威嚇し、噛みつきかかった。
 スライが気づいてこちらに来るまでもてばいいのだ、テトラに無理はさせたくなかった。相手は特にこれといった武器を持ってはいなかったが、何があるかわからない。人間ではないということが、ようやく短剣を握り締めた彼を怯ませる。
 だがそんな気持ちはお構いなしに、テトラはくり返し飛びかかった。自分の主に危害を加えようとしたその一事が、テトラにとってなにより重要なのだ。
 よく訓練された猟犬の当然の狙いとして、とうとう仰向けに倒れた相手の首を狙い、そのまま咬み破ろうとした、その時。
「え、わ、テトラッ!」
 何個もの石が投げつけられたのだ、次々とテトラに向けて。そのひとつに鼻先を打たれて身をよじったテトラの下から、襲撃者が逃れて森に逃げ込む。まだ飛んでくる石をものともせず、逃した獲物を求めてテトラもまた、森に飛び込んで行ってしまった。
 ハガルの制止も届かず。
 呆然としたままふり返ったそこには。
 息を乱して
 まだ石をひとつ握りしめたままの。
 フェイ。



《7》

「…………なんで」
 他に言葉の無いハガルに、少女はやはり黙りこくったままで、しかし彼を睨むように見つめる目は、自分の行動を後悔している様子を欠片も見せていなかった。
 テトラを、狙ったのだ。
「…なんで、テトラに石なんか投げたんだよ!!」
 苛立ちがつのる。女の子相手であることも忘れて思わずつかみかかろうとした、だが。
「戻れ。火が遠い」
「スライさんっ」
 瞬時に矛先が男に向かう。無視してひとつ残っていた頭をひょいと拾い上げ、スライは二人を視線で促した。
「火を入れた。説明なら、あちらでしてやる。戻れ」
 強くも大きくもないのに、有無を言わせぬ口調だった。テトラの消えた森の闇をしばし睨み、大きな舌打ちを残してハガルは踵を返した。



 村長の家に戻ると、玄関前では焚火が轟々と唸るほどの炎をあげていた。薪材の補給用としてだろうか、さっき死体を運ぶのに使った厩の戸板が、火の移らぬ位置に放り置かれている。
 ハガルは、家の中に入った少女を無視し、外壁にもたれ立ったままスライを待った。男は燃え出した建物にごく無造作に頭を投げ入れ、歩調を変えずに戻ってきた。
 間をおいてしまったからだろうか。苛立ちは勢いを失って、脱力感だけが残っている。今日一日、慣れぬ出来事が続いた。テトラも、今はいない。
 無性に、疲れていた。
 そんなハガルを思いやったのか、ただいつも通りなのか、スライは周囲を見渡せる位置を選んで焚火の近くに座り、何も言わずに夕食をとりだした。これまでの旅程でも思ったのだが、空腹だとかおいしいとか、感じさせない食事風景だった。
 事が起こりすぎて、彼自身は何か食べたいという気分ではなかった。それでも落ち着き払った男の姿を眺めているうちに喉の渇きを思い出し、水筒の水を少しずつ飲んだ。
「川のこちら側に、他に村はあるか?」
 風向きを考慮して選ばれたらしい建物が、目の前の焚火とは比べ物にならぬ轟音をたてて燃えてゆく。肉と脂の焼けるどことなく不快な臭いが、いくらか漂ってくる。それによって建物の中で死体が燃えていることを漠然と感じ取り、呆然と見つめていた彼は、男の声に幾度か瞬きした。
「見てきた五つだけ。山越えしないと、近くには、もう無い」
「なるほど」
「なんで?」
「食屍鬼は、流れ水を渡れぬ。案外始末をつけやすい状況になったか」
「…あんな浅い川を、渡れない、のか?」
「おまえたちの村は運が良かった」
 言葉にならぬままの苛立ちが、腹の底に重く渦巻いた。幸運の一言で済ませていい事だろうか、これは。だが確かに、ハガルの村は無事に残っていて、こちら側の村は五つとも全滅した。まさか、川を渡り逃げればよかったなんて、いったい誰に思いつくことが出来ただろう。
 川があったから。
 そんな単純な、幸運。



「他に、何を知りたい」
 聞きたいことはたくさんあるような気がした。
「…食屍鬼って、一体きりじゃなかったのか?」
 森の中で教えられた話では、一人の人間が食屍鬼となったことしか語られていなかった。
 だがそれでは、さっき現われたのが一体残らず食屍鬼だったのならば、あれほどたくさんの食屍鬼は、いったいどこから生みだされてきたのか。
 本当は、少しの予感があった。
 食屍鬼に対して身を守ろうと短剣を取った彼に、男は『アレの仲間になりたくなければ』という言い方をしていた。それに今、燃えている死体、あの頭の中になんとなく見覚えのあるものがいくつか混じっていたこと。見間違いならいい、そう目を逸らしたのだけれど。
 男の言葉は彼の推測を肯定した。
「血と傷を媒介に、術は移る。食屍鬼に襲われて食われぬまま、死なず傷を負わされたものは、遠からず同じものになる」
「術は解けないのか?」
「よほどの力がなければな。それに、解呪が救いとは限らぬ」
「そんな、どうしてっ!?」
「わからぬか?」
 男の、静かな声がハガルの激昂に水をさした。
「………どうして」
「人を食った記憶、餓えの求めるまま喜びながら生きた人間の肉を貪った感覚、そんなものを残してまともでいられるか」
 言葉が、出ない。
「どれほどの罪悪感を抱くものか。それでもまだおまえのせいではないと慰めることはできるだろう。だが当事者が、人に戻った後に忘れられない記憶のままに、半ば狂気に落ちて人を襲い食ってしまったら?」
「そんな…」
「食屍鬼は、動く死体だ。頭を落とし、燃やせ。それが最善だ」
「もしかしたら、助けられるかもしれないのにかよ…」
 何も出来ぬと言われたことがくやしくて、そんな言い方になる。
 勢いが多少衰えた焚火に薪を足し、男は唇の端をかすかに歪めた。笑みのように。
「何故、いつまでも食屍鬼の出現が絶えぬのだと思う?」
 唐突な質問に、首を横に振る。食屍鬼のことさえ、今の事件で初めて知ったのに、そんなことまでどうしてわかるというのか。
「人の形をしているからだ。だから、今のおまえのように考える者が出る」
 なお盛んに燃えている、炎の中の建物に目を向けた。
「全てをああしてひとまとめに燃やそうとする、すると常に誰かが思うのだ、『もしかしたら助けられるかもしれない』、『まだわかるのではないか』、或いは『この人を殺すことなんてできない』……人間らしい感情か、確かにな」
 今度こそ微笑だった。石に刻んだような、嘲笑。
「だがそれが、被害を広げる」
 両手をこれ見よがしに左右に広げた。笑みは、名残りも無い。いつもの無表情が淡々と語り続けた。
「食屍鬼の相手は、よそ者に任せるのが一番だ。近しい者が相手をしては情がからみ、往々にして処置を誤る。おまえの村は運が良い。村長が、外に助力を求めた」
 見知った姿をした者が、すでに人ではないだなんて、いったい誰がすぐに信じられるだろうか。
 結局、五つの村は運が悪かったということなのか。街が遠かったから、自衛意識が高かったから、いや助け手を雇うにはそもそも村が貧しかったから、村中総出でこの事態に立ち向かい、全滅した。周囲の村に事情を伝えることさえできなかった。
 そしてその一部は、森の中に潜んでいるのだ。
 人ならざるものとなって



「でも、じゃあ、それじゃそもそもどうして食屍鬼なんてものが《ティタイの石塚》なんかにいたんだよ。わざわざあんな風に残されてなければ、どうやったってこんなことにならなかったんだろっ!?」
「聞けばいい、当事者に」
 あっさりと男が言う。ハガルは激しく戸惑い、首を傾げた。
「当事者……って、どこに」
「聞いているのだろう。石を投げてまで逃がしたあの食屍鬼は、おまえの何だ?」
 どんっ、とスライの拳が背にした壁を叩いた。音につられてそちらを見ると、玄関の戸がゆっくりと開くところだった。
 そこには下唇を噛み、きつく暗い眼差しをして立つ少女の姿があった。怯え、震えてひたすら彼らのみを頼りにしていると思わせた表情は、どこにもなかった。
 戸の端を爪をたてるように強く握り締め、確かに彼らの話を聞いていたと教えるかのように、少女は口を開いた。
「……兄さんよ」
 初めからちゃんと話せたのかとか、それなら何で今まで黙ってたのかとか、そんな疑問は後回しだった。
「なんで!?」
「兄さんなのよ、たった一人の家族だったのっ。食屍鬼になったって言われたって、兄さんだってことが変わるわけじゃないもの、助けたかったのよ。そしたら魔法使いが、もしかしたら助けられるかもしれないって、自分では力が足りないけど、今は無理でも誰か別の魔法使いなら、力のある人なら、兄さんにかかった術を、解くことができるかもしれないからって言ったから、だから私っ…」
 深く深く掘られた石造りの地下室に、食屍鬼と化した兄を閉じ込めた。
 出入り口を塞ぐよう上に石造の建物を築き、周囲一帯を石だけで埋め尽くした。土を掘って外に出たりせぬように。
「魔法使いが、私を眠らせてくれた、入口脇の部屋に。入り口が開けられた時には目覚めて、兄を救う手立てがあるのか調べられるように」
「石獣は?」
「…あれは、兄が地下から出てきて外に出ようとしたら、目覚めてその邪魔をするようにって、魔法使いが一緒にもうひとつの小部屋に。周囲に石があれば何百年でも生きられるし、石と同じ皮膚だったら食屍鬼に傷つけられることもないから……」
「…なにか仕掛けを外したか」
 男の低い声に、いかにも後ろ暗いところがあるかのように少女が肩を跳ね上げた。
「仕掛けって…」
「石獣の守りにもかかわらず、食屍鬼が無傷で外に出ている。何故だ?」
「そんなまさか……」
「だって!」
 少女が叫ぶ。
「だって、兄さんを傷つけたくなかったのよ!!」
 食屍鬼が不埒で不幸な侵入者のお陰で外に逃れた時、本来ならば目覚めるはずであった石獣も少女も眠ったままだったのだ。解呪の手立てが見つからぬ限り、決して外に出ぬようにと準備されたものであったというのに。
 愕然と、ハガルは少女を凝視した。これはいったいどういうわけか。経緯を信じるならばこの少女もまた、その目で食屍鬼による被害を見てきたはずなのだ。事情を知らぬ者たちの中に置かれた食屍鬼が、どれほどの犠牲者を出し、また食屍鬼を増やすのかを知らなかったはずはない。
 それなのに、彼女はいったい何を言っているのだ。
 ハガルの知人や友人たちを犠牲にしたのは、彼女がそうまでして守りたいと言う兄が原因なのだと、わかっていないのか。
 だが問いも責めも口にするには至らなかった。
 唐突に、馬の嘶きが響き渡った。さっきから落ち着きがなかったのだが、今またひどく怯え、蹄が地面だけでなく近くの壁や何かも蹴り騒ぎ、その場から何とか逃げ出そうと暴れている様子が聞きとれた。
「また……」
 弓を取り上げてそう言いかけた、その時だった。
 ダンダンダンダン、ダンダンダンダン、ズダンダンドガドガンッ!
 裏手の壁が激しい勢いで連打された。いくつもの拳や足で攻撃されているかのように。
「…火を避けてきたな」
 男はゆっくりと立ち上がるとまったく平静な口調で、言い放った。
「ここにしか、生きた人間はおらぬから、当然だが」
 言葉の最後は、壁が破れる音でかき消された。



《8》

 即座に焚火を背にし、矢を番えた。
 本数が限られているので無駄には使えないが、頭部に当てることさえできれば、どうやら一撃で動きを止めることが可能であると。さっきの襲撃で証明済みだ。どうやら術の要は頭部に在るらしい。
 玄関からは、裏手の外壁まで部屋ひとつを隔てている。強引に入り込もうとしている食屍鬼が姿を現すまでには、まだ余裕があった。戸口でフェイが立ち尽くしていることに、そのためか気づいた。
 スライの動きの邪魔にならぬよう、彼はフェイの手を強引に引いて外に引っ張り出した。狼狽している彼女に、火のついた枝を一本握らせる。
「そこから動くなよ!」
 焚火が消えない限り、食屍鬼が彼女に近づくことはないだろう。ハガルは意識を屋内に向けなおした。
 スライの長身が、入り口をくぐった。室内ではあの長剣を振るうのは難しいのではないかと、少し心配になる。だが男の背中に、そういった不安を感じさせるものはほんの僅かも感じられない。おそらくはハガルの想像できぬほどに積んできたであろう経験を、信じて見守るしかない。いつでも援護できるように、彼自身は弓を構えて待った。
 だが。
 顔が歪む。弓を構えたまま、ハガルはひたすら否定するように首を振った。壁を突き破って現れた食屍鬼たち、その半分以上が知人の顔だった。親しく言葉を交わしてきた友人たちだった。
「ゼルベじいさん、フィナ、やめろよケリスッ、俺だっ」
 思わず戸口から呼びかけていた。無駄だと言われたことなど、すっかりと忘れて。
「死体だ」
 剣を手に、男は言下に切って捨てた。なんの感慨も含ませることなく。
「言ったはずだ。死者は還らない。あれはすでに人ではないものだ」
「けど!」
「形を残しただけの、ただ虚しく命を食むもの。おまえの知り人だというならばなおのこと考えろ、歪んだ魂を宿してあのままにおくことが正しいのかどうか」
 屋内の狭さなど、意味はなかった。男の剣はためらいなく、ハガルの親しくしていた人々を斬り伏せてゆく。彼がそれを見ていることになど、一切頓着せずに。
 彼には何も出来なかった。矢を射て援護することも、逆に友人であった人々をかばうことも。親しい人の姿をした食屍鬼は次々に室内に押し入り、倒れてゆく。敵う相手であるかどうかの判断もできないのだ。ただ餓えに促されるままに命持つものに群がり寄り、食らおうとするだけ。
 違うのだ。もう、人間ではない。物も考えず餓えて食らうだけのこれは、人間ではない。
 そして救う手段を持たないのならば、かばったところで無意味なのだ。自分にやれるのは、スライの指示に従うことだけ。
 男の剣さばきには問題なかったが、室内に死体が増えるにつれて足場が悪くなった。既に死んでいるとはいえ、知人の身体を踏まれるのは不快極まりなかった。ハガルは戸口近くから届く範囲の死体をひとつずつ、男の動きを邪魔せぬように外に引っ張り出す。
 自分の無力が、ただひたすら悲しい。
 作業に没頭していた彼がふと頭を上げた瞬間、そこに姿を現したのは。
「テトラッ!」
 部屋の奥から全速力で、食屍鬼たちを踏みつけて跳びあがり、いつものように彼の元に…。
 ダンッ、と男の腕で床に叩きつけられた。
 頭の中がまっ白になった。我を忘れて室内に飛び込み、倒れた身体を抱き上げようとしたところで、テトラを踏み押さえた足が邪魔をした。ぎっと怒りの目で睨みつけたに違いない、けれど男は静かに首を横に振り、拒んだ。
「触れるな」
「そんな、なんでテトラをっ!!」
「よい猟犬だったのが裏目に出たな」
 押さえつけられたテトラの腹部に、傷があった。大人の手指が抉ったような傷痕。
 食屍鬼がつけた、傷。
 治せない、魂の傷。
「おまえの犬だ、おまえが決めろ。俺が斬るか、おまえが切るかだ」


 テトラは、ハガルが最初から自分で育てた犬で。
 兄弟のように、友人のようにずっと一緒で。
 たとえばどんな場所でも、テトラとならば平気だと。
 世界で一番、信じていて。
 大切で、大切で、大切で………。


「ぅあああああああああああああああっ!!」
 泣き叫びながら、ハガルは短剣を振りかざした。テトラの黒い目が真っ直ぐに自分を見あげる。怯みそうになる手、その瞳が鈍く濁っている事実を見据えて、くり返し心に叫んだ。
 ずぶり、首に刃が埋まる。さらに力を入れて、最後まで完全に切り落とした。
 猟の獲物に対してならば何回もやった。けれどまさか、こんなことになるなんて。
「テトラッ、テトラ、テトラ、テトラ、テトラァ……ッ!!!」
 叫んだ。何度も何度も何度も呼んだ。もう応えることのできない愛犬に向かって。返事がないことが信じられなくて、くり返し叫んだ。
 戻らない。もう、彼の大事なテトラは、兄弟のように一緒に育ったテトラは、返事をしない。
 彼の手で、死んでしまった。



 泣きじゃくりながら抱き上げたテトラの身体を、彼は焚火のすぐ近くに運びそっと置いた。よく手入れされた毛並みはきれいで、やはり死んでしまったことがなんだか信じられない。胴体から離れた頭部を、身体の続きに並べた。今はもう目を閉じて、二度と開くことはない。
 状況を無視し、目の前が見えぬくらい泣き続けていると、フェイが隣に屈みこんできた。ハガルの肩を軽く叩き。
「泣き止んでよ、ねえ。犬なんて、代わりにまた別のを飼えばいいじゃない」
「テトラの代わりなんていない!!」
 弾かれたように立ち上がり、ハガルは絶叫した。
「犬なんてってなんだよ、それは!? 人だろうが犬だろうが、命に代えなんてあるかよ! テトラはテトラだけだ、俺の家族だったんだ。あんたっ、あんたが引き起こしたことじゃないか、それをどうしてそんなふうに言えるんだっ!」
 目の前がよく見えないまま、ハガルはフェイに掴みかかった。
 そもそもはフェイがあの場面で石を投げたから、逃げた相手を追ってテトラはこんなことになったのだ。
 そもそもはフェイが仕掛けを外したりしたから、食屍鬼が外に出ることになったのだ。
 どうしてあそこで連れて行くなんて言ってしまったんだろう。あんなことを言わなければ、テトラがこんな風に死ぬことはなかったのに。
「あんたが、あんたが兄だからって食屍鬼を外に出すようなことをしたから…!」
「だって、だってたった一人の兄さんなのよ、助けたいって思って何が悪いのよ!」
「その結果が、これだよ。満足か、五つの村の住人と引き換えで!!」
「だ、って、…だってだってだって………っ」
 ずらりと焚火の周囲に並んだ死体を示されて、彼女はわめいた。ただわめくだけ、だった。解決法も知らず、かばう以外の何の手立てもせず。その結果について、彼女は一言の反省も後悔も謝罪もしない。それが必要だと思っていないかのように。
 無力は彼も一緒だ。だからだろうか、彼女への怒りが酷い虚しさに変わってしまうのは。
 掴んでいた手から力が抜ける。フェイは慌てて彼の側を離れ、男のいる家に駆け寄った。スライの邪魔をしなければいいけれど、と心配になって後を追った目の前で、彼女はふいに大きく叫ぶと中に飛び込んだ。
「だめ、兄さんっ!」
 続く鈍い音と、苦鳴。
 大きな物が倒れる音。
 しばらくして、男がゆっくりと姿を見せた。疲れた様子もなく。
「……どう、なったんですか?」
「死んだ。兄も、妹も」
 入れ替わるように入り口に立つと薄闇の向こう、床を埋めた死体の一番上に、背中側から胸を貫かれた少女の身体が、若い男の身体の上に仰向けに転がっていた。
 長い長い年月をかけた末の、ようやくの死だった。



 自分たち自身が囮であったとハガルが気づいたのは、夜が明けて気持ちが少し落ち着いた頃だった。
 結局、あの後に二度、食屍鬼の襲撃があった。しかしその数は最初の集団よりもずっと少なく、どの場合も連携して動くことはまったくなかったため、スライの敵ではなかった。
 川を越えられぬ食屍鬼たちは、最後に犠牲になったミルザ村近辺に多く留まっていたはずで、生きた人間の存在を感じとってこの村まで移動したのだろう、と男は説明した。移動に要する時間を考えれば、今夜で全部ここに着くはずだと。
 男の言葉を信じるならば、おそらくは食屍鬼は全滅したと考えてよかった。もしそれを疑うならば村長に説明すればいい。食屍鬼は餓えて命の気配のする川の対岸を伺い、夜の間だけ川岸をうろうろするかもしれない。それなら川を隔てて矢で射倒すことも可能だろう。
 ハガルは一晩かけて男が倒した死体を、また別に建物を選んで運び込んだ。これで全部だとスライが断言するのを受け、夜明けと同時に火をつけた。
 炎は、死体を包んでいつまでもいつまでも燃え続けるような気がした。



《終章》

 死体を燃やした火が消えるのを待って、二人はルフト村に戻った。
 村への報告のほとんどは、ハガルの口からされた。事情はすべて彼が心得ているからと、スライが無口を通したからだ。ただ面倒なだけなのだろうと、こっそりと彼はため息をついた。必要な時には充分以上に饒舌に語っていたのだから。それでもかまわなかった。この件で、ハガルに出来ることはあまりに少なかった。
 結局、男はささやかな報酬を受け取ると、翌朝早々にさっさと村を発った。



 村の出口で、ハガルだけが男を見送った。
「あんた、………そもそもは何を探してここまで来たんだ?」
 それは最初から最後まで気になっていた。この男ほどの技量ならば、こんな小さな村の報酬ごときを目的に動くとはとても思えない。ついでがあった、という発言の意味を、だから聞けるものなら聞きたかった。
 これほどの男が探しているものとは、いったい何なのだろうかと。
 男はちらりと視線を流し、彼を見た。
 そして何の気まぐれを起こしたか、口の端に冷たく静かな笑みを刻んで、教えた。
「死に方さ」
 何を言われたのか咄嗟にはわからず、やがてはっと目を見開いたハガルを、すでに忘れ去ったように男は馬の背にあった。
 問おうとして、だが何を問えばよいのかも知れず、徐々に遠ざかっていく黒い背中を睨むように見送りながら、彼は長く深く息を吐いた。

 あれは違う世界に生きているもの。

 ゆっくりと頭を振り、一切を忘れようと決めた。
 時折は思い出すだろう、あまりにたくさんの犠牲者、夜の闇に燃えた炎。大切なものを失うことになった、強烈なこの一連の出来事を、無かったことにすることは絶対に不可能だ。
 けれど、終わったのだ。常ならぬ出来事は収まるべきところに収まり、あとは日常が続くのみ。平穏で平凡な日常をひどく退屈でつまらないと思っていた数日前の自分を、彼はつい笑いたくなった。
 再び帰ってきたこの日常こそ、なによりも得がたいもの。
 これこそひとたび屠られ、地に伏したすべてのものたちが、心から欲していたに違いないものなのだから。





《了》





《前編》





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